チョコレートの話






 その日、シキは書店に行くため朝から街へ出ていた。普段、仕事ではあまり人ごみに出る機会はないし、日々の食事の用意は近所のスーパーで事足りる。繁華街を歩くのは、久しぶりのことだ。
 アキラは今日は寝坊したので、一緒に来てはいない。大抵アキラの寝坊はシキに一因があることが多いが、今日は(珍しいことに)シキのせいではなかった。アキラは昨夜調子に乗ってテレビ放送されたホラー映画を見て、なかなか寝付けなかったのだ。
 平日ということもあって、繁華街はさほど混み合ってはいなかった。シキは書店で目的の本を買い、駅に近道しようと地下街へ降りた。地下街も商店が多く立ち並び、店のショウウィンドウは季節のディスプレイを凝らしている。まだ二月だというのに、服飾店などはもう春の装いを展示していた。
 早いものだ、などと感心しながら、シキは地下街を歩いていく。そのうち、視界の隅にやけに賑やかな一角が入ってきた。その一角だけは、平日の空いた店々の中にあってやけに人が多い。不思議に思って見れば、そこはバレンタインのチョコレート売り場ののようだった。幾つかの菓子店やチョコレート専門店がブースを出し、様々なチョコレートを売っている。
 そういえば、子どもの頃母親たちはこの時期になると父と祖父のチョコレートを買いにこうした売り場を訪れたものだ。母親たちは幼いシキと弟も連れて行ったため、ひどく退屈した覚えがある。シキ自身も女性からチョコレートを渡されたことはあったが、その当時興味がなかったせいか、ろくに記憶になかった。
 過去を思い返すうちに、いつしかシキはチョコレート売り場の前で足を止めていた。我に返ったシキはまた歩き出そうとしたが、そこでふとあることを思い付く。
 バレンタインなど、下らない行事だ。昔も今もその認識は変わらない。けれど……普段は甘いものを食べる機会のないアキラに買ってやるのは、悪くないかもしれない。自分と違ってアキラは案外甘いものがいけるクチなのだ。以前クリスマスケーキに喜んだアキラの笑顔を思い出し、シキはチョコレート売り場へ入って行った。


***


 その日の夜。夕食後、シキはダイニングで買ってきた本を読んでいた。アキラは皿洗いの当番なので、今はキッチンで洗い物をしている。
 やがて皿洗いは終わったようだった。水音と食器のぶつかるカチャカチャという音が止み、アキラがキッチンから出て来る。そして、一休みというようにテーブルのシキの向かい側の席についた。
「今日、街はどうだった? 人が多かったんじゃないか?」
「いや、平日だったせいか、そうでもなかったな。――そうだ、お前に土産がある?」
「土産?」
 シキは席を立ち、ダイニングにある戸棚からチョコレートを取り出した。街からの帰りにスーパーで買い込んだ食材を整理したとき、一緒にしまいこんで今の今まで忘れていたのだ。
 黒と茶を基調にしたシックなデザインの箱をテーブルの上に置くと、アキラは目を丸くした。
「何なんだ、これ?」
「チョコレートだ。バレンタインシーズンだからな、街で売り出していた」
「あんた、きっと売場ですごく浮いただろ? それなのに……ありがとう。――俺もあんたにチョコ買っておけば良かったな。きっとあんたはそういうの嫌いだろうと思って、結局買わなかったんだ」
 アキラは笑った。自分の臆病さに苦笑しているような、そんな笑い方だった。
「気にするな」シキは思わず言った。「確かに俺はそういう行事には興味がない。ただ……そう、お前は甘いものも食べる方だからな、たまにはいだろうと思ってな」
「あぁ、ちょうど食べたかったんだ。ありがとう」
 どんな風にシキの言葉を受け取ったのかは分からないが、アキラはぱっと明るい笑顔を浮かべた。そのことに、シキはわけもなくほっとする。
 すぐにアキラはうきうきとした様子でチョコレートの箱を開けた。箱の中には四角形の板状のチョコレートが入っている。いくら一般的なバレンタインの意味――愛を告白するものとしての意味はなくとも、男が男相手に渡すものだ。あまり可愛らしいチョコレートにするのも妙だと思い、シキは一番シンプルなものを買ったのだった。
 アキラは、まるで貴重品にでも触れるような手つきでチョコレートを一枚摘み、口に運んだ。
「……あ、美味い」
「そうか。よかった」
「あぁ、すごく美味い。あんまり甘過ぎないから、あんたでも食べられると思う。味見するか?」
「なら、一枚だけ貰おうか」
 するとアキラはチョコレートをもう一枚摘み、シキへ差し出した。
 手渡されるのかとシキは手を出し掛けたが、アキラの手はどうもシキの顔の方へ近づいている。食べさせるつもりだと気づき、シキは口を開けた。そこへアキラはそっとチョコレートを差し入れてくる。
 やがて、チョコレートが舌の上に落ちて溶けだした。ビターチョコレートのほろ苦い甘さが、舌に広がっていく。
「な、結構美味いだろ」
 アキラはそう言って笑いながら、手を引っ込めようとする。シキはふと見えたアキラの指先が溶けたチョコレートで汚れていることに気づいた。そこで、何となくアキラの手を掴んで自分の口元へ引き寄せる。
 舌を出してぺろりとアキラの指先を拭えば、アキラは少し狼狽えるような表情をした。その驚き方が面白く思えて、シキはもっと反応を引き出そうとアキラの人差し指を口に含む。何度か舌で指の形をなぞり、指全体を軽く吸って愛撫するように悪戯する。
「っ……何やってるんだよ、シキ……」
 やがて、アキラは上擦った声で抗議した。そこでシキは唇を離し、くつくつと咽喉奥で笑う。
「感じたか?」
「感じてない」
 しかし、そう言うアキラの頬は幾らか紅潮し、目にも僅かに潤んでいる。
「そうか……ならば、今、感じさせる」
 明らかなアキラの見栄が可笑しくて、シキは笑いながら両手でアキラの頬を包み込み、顔を近づけた。唇を重ね、誘うように薄く開いたアキラの唇の合間から舌を挿し入れる。 もうアキラも抗議をする様子はなかった。






2010/02/13
バレンタインおまけ
02/13メモのシチュエーションを文にしてみました。

チョコレート(ED3)


 バレンタインのせいか、今日のおやつはチョコレートだった。可愛いハートのチョコレートが、皿の上に盛られている。
 アキラは皿を持って、珍しく城にいて、これまた珍しく部屋で本を読んでいるシキの元へ歩いていった。二人掛けのソファに座るシキの隣に腰を下ろすと、シキは怪訝そうな顔でアキラを見た。
「何だ、その皿は」
「今日のおやつだ。だけど、俺一人じゃこんなに無理だから、一緒に食べよう」
「俺は甘いものは好かん」
「俺だってたくさん食べられるわけじゃない。いいだろ、たまには一緒におやつを食べたって。あんたが城にいるのは滅多にないんだから」
 すると、シキは渋い顔でアキラと皿の上のチョコレートを見比べたが、やがて一粒摘まんで口に放り込んだ。そして、「甘い……」と顔をしかめる。
「そんな不味そうな顔するなよ、俺はこれから食べるのに」アキラはシキをにらんだ。
「しかし、壮絶に甘いぞ、これは。……ほら、お前も食べてみろ」
 シキはもう一つチョコレートを摘まむと、ぽんとアキラの口に放り込む。舌に広がったチョコレートの味は確かにかなり甘かったが、アキラの感覚ではかなり上等のものだった。不味いと言うには惜しい味だ。けれど。
「まぁ、あんたには、ちょっと甘いかな……メイドにコーヒーを貰って来てやるよ」
 まだ渋い顔のシキに笑いかけて、アキラはソファから立ち上がった。




チョコレート(ED2)


 アキラが執務室に戻ると、シキは顔を上げてアキラの持っている小箱を見咎めた。
「何だ、その箱は」
「購買のおばさんからもらいました。最近発売された新作チョコレートだそうです。今日はバレンタインだからお菓子をあげよう、と言われて」
「そういえばそうだったな」
「後で総帥もいかがですか?」
 気軽な調子でアキラは言った。今はニホン国総帥たるシキに一箱二百円のチョコレートを食べさせるのもどうかと思うが、シキは位が上がっても衣・食・住で贅沢をすることはない。衣服や住居だけは、最低限の国家元首としての体裁を保つ範囲のランクのものだが。
「あぁ、もらおう。……と、言いたいところだが、この後は会議が入っているな。小腹も空いていることだし、アキラ、今ひとつくれ」
「分かりました」
 アキラは箱を開け、チョコレートを一粒取り出す。シキに渡そうとすると、シキは手ではなく顔を差し出してきた。食べさせろ、ということなのだろう。けれども、国家元首相手に口にぽんとチョコレートを放り込んでやるのは、失礼にあたるにちがいない。かといって、チョコレートの粒が小さいので、食べさせるにはアキラが少しシキの口に指を挿し入れなければならない。
 どうすればいいのか……と迷っていると、シキは顔の前まできたアキラの指をチョコレートごとぱくりとくわえてしまった。熱いシキの舌が指を撫で、チョコレートを奪っていく。
「……総帥……っ」アキラは動揺した声を上げた。
 やがてシキはアキラの指を解放すると、「驚いたか?」とすまし顔で言った。




2010/02/14


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