三倍返しの話 *公式のホワイトデー壁紙のシキから妄想しました。 三月十四日。この日はドラマ『咎狗の血』の撮影があり、俺はトシマの街の通りにいた。 今日撮影する場面は、親友ケイスケを非ニコルの血のために失った俺――つまり『アキラ』が、雨の中でシキと遭遇するシーン。監督の声が掛かり、カメラが回り始めて俺とシキは演技を始める。 苛立たしげに突っかかってくるシキに、俺は最初抵抗してみせるが、すぐに打ちのめされてしまう。追い打ちのように、アスファルトに倒れた俺の頭部にシキの足が下ろされる。俺は屈辱を噛みしめる目で、シキを見上げた。 と、頭に降りてくるシキの靴底が視界に入る。 (あれ……?) 今、何か見えたような……? 疑問に思うものの、今は撮影中だ。シキに靴を見せろなんて言うことはできない。もとよりシキはプロ意識の高い完璧主義の役者だからだ。それに、カメラの前で演技をし通すというのは、プロの役者として当然のことだ。 俺は演技を続けた。「死んでもいい」と投げやりな言葉を吐くと、怒りに目を燃やしたシキが足をどけ、俺を引きずり起こす。 頭から足がどいた瞬間、また靴底が見えた。『三倍返し』と書かれている。 ……三倍返し? 何だ、それ。 その日の撮影は無事終わり、俺は夕方頃マンションに帰った。マンションはなかなかグレードの高いところで、正直今でも玄関を入るときは場違いではないかと緊張する。 というのも、俺は居候の身だからだ。 このマンションには元はシキが一人暮らししていた。俺は役者を目指して上京し、食べていけなくて行き倒れたところでシキに拾われた。最初はただで居候させてもらっていたが、このところは仕事が増えて稼げるようになってきたので、家賃を半分出している。そろそろ同居人に格上げしてもいいかもしれない。 シキはまだ仕事があるが、今日はそう遅くはならないだろう。部屋に入ると俺はさっさと二人分の夕食を用意することに決め、居間のテレビをつけてから台所へと向かった。 冷蔵庫を開けて中身を確認しながら、ふと考える。それにしても、あの靴底の『三倍返し』はいったい何だったのだろう? そのときだ。テレビの音声がふと耳に入ってくる。 「三月十四日、ホワイトデーの今日は……」 ホワイトデー。その単語に思い当たるものがあった。確か、バレンタインデーにチョコレートをもらったら、ホワイトデーは三倍返しするのが礼儀だという通説がある。そのことだろうか。 しかし、なぜ靴底が三倍返しなのか暴力的にも程がある。俺はバレンタインデーにシキに何かを贈った覚えはない。 「あ……」 ふと俺は思い出した。バレンタインデーの日、あの日も撮影があった。シキはその前日まで舞台のために京都にいて、しばらく会っていなかった。そして、楽屋で顔を合わせたとき、あの男は他の出演者の前で言ったのだ。 『俺にチョコレートはないのか』と。 あるはずもなかった。俺は男だし、恋人同士でもないからだ。これまでの家賃を免除するかわりに定期的にシキと寝る約束をしてそれを果たしているといっても、それは決して恋人の関係とはいわない。この上バレンタインチョコを渡せだなんて、それは俺に期待しすぎだ。 そういう恋愛ごっこは女としろ、馬鹿、と無性に腹が立ち、俺は衝動的にシキに向けて拳を繰り出した。あっさり受け止められてしまったが。 つまり、殴りかかったことへの三倍返しが、あの踏みつけなのだろうか。 心当たりはそれくらいだ。『三倍返し』の原因が正しいなら、シキはなぜ俺のチョコレートにそこまで執着するのだろう。シキは甘いものなんて食べない。また、バレンタインチョコの数を自慢にするようなタイプでもないのに。 ……まさか俺に告白されたかったのか? そんなこと、期待されても困る。 俺は困惑しながらも、とにかく野菜炒めを作り始めた。けれども、作業が単純なせいかすぐに思考はシキのことへ戻ってしまう。 シキは、役者として尊敬できる男だ。いつか俺もあんな風になりたいと思う。だけど、恋人として好きというわけじやない。 シキは、案外世話焼きだ。シキという役者のクールなイメージから外れるその部分も、俺は好ましく思う。だけど、恋人として好きというわけじゃない。 シキは、たとえ情のない関係とはいえ、丁寧に扱ってくれる。決してドラマ『シキ』のようにひどく扱ったりしない。だけど……。 駄目だ、シキのことばかりじゃないか。俺は激しく頭を振った。 「俺一人だけ悩んでるなんて、馬鹿みたいだ」 呟いたところで、ふと思い付く。そうだ、一人で悩むのも癪ならば、当事者もう一名をを巻き込んでやればいいのだ。 やがてシキが帰ってきて、二人での夕食を終えると、俺はおもむろに尋ねた。 「あのさ、今日、あんたの靴底に『三倍返し』って書いてあっただろ。あれ、何だよ?ホワイトデーのつもりか?」 「ほぅ、よく分かったな」シキは目を細める。 「あんたな、自分でも分かりにくいと思うことを、俺に分からせようとするなよ……あれは、バレンタインデーに俺が殴りかかったからか?」 「分かりにくいと言う割には、よく分かってるじゃないか」 ……やはりそうか。 ならば、と俺は新たな武器を取り出した。さっきコンビニに走って買って来たチョコレート、それも一番甘そうなホワイトチョコだ。 その箱をテーブルに置くと、シキは不審そうな目で俺を見た。 「バレンタインデーのやり直しを申し入れる!」俺は高らかに宣言した。 「やり直し? いったいどうする気だ」 「このチョコレート、急いで買って来たから安物だけど、あんたに」 「俺にか……」 シキはちょっと怯んだ顔をした。やけに甘そうなチョコレートだと思ったせいだろう。 だが、ここでシキに引かせてはならない。演技とはいえ頭を踏みつけられた仕返し、及び俺の脳内を占拠した罰に何としてもこのチョコレートを食べさせてやる。そう思いながら俺は、追い打ちを掛けるべく口を開く。 「まさか、食べないなんて言わないよな? これは、いわゆる本命チョコなんだから」 「本命の意味は、分かっているだろうな?」シキは疑わしそうに尋ねる。 「もちろんだ! つまり、俺はあんたのことが、」 言葉の途中で急に羞恥が襲ってくる。どうしてだ。この状況、俺の方が攻勢にあるはずなのに。あと三文字で言うと決めていた台詞は、全て終わるのに。 もしも、残りの言葉を言ってみて、シキに馬鹿にされたら。拒絶されたら、どうすればいいのだろう。羞恥と同時に不安が込み上げてくる。 けれど、俺は役者だから、決まった『台詞』は言い切らなければならない。 「あんたが、好きだ……」 そう言った声音は、弱々しく自信がなさげだった。零点の演技。シキに想いを告げるときに演じようと決めた役を――別にシキに心を奪われきっているわけではない、振られても気にしない自分を、俺は演じることができなかった。 今シキの前に座っているのは、何の演技もない俺自身だった。シキが好きで、役者としての尊敬さえ、好きだという気持ちから上手く切り離せなくなってしまった、みっともない俺自身。まるで素裸で世界と対峙しているかのように、覚束ない気分だった。 俺はシキを見ていることができなくて、俯いていた。シキも何も言わない。そのまま数秒の時が流れ、俺はどうやってこの場を逃げ出そうかと考え始めた。そのときだった。がさがさと箱を開け、チョコレートを包む銀紙を破る音がする。顔を上げれば、粒状のホワイトチョコを一つ摘まむシキと目が合った。 どうする気だ? そう思う間にも、シキは口の中にチョコを放り込み――思い切り顔をしかめる。 「甘い、な」 シキは苦しげな声で呟いた。毒を飲んだときの演技みたいだ。それでも、立て続けに更に三粒、チョコレートを口に放り込むと、いきなり席を立った。 吐きに行くのか、と思ったがそうではなかった。シキはいきなりテーブルの向かいから俺の顔に手を伸ばし、身を乗り出して唇を重ねてきたのだ。あっと言う間に舌が入ってきて、おまけに溶けかけたチョコレートを俺の口内に押し込んでいく。まるで甘さを押し付けるかのように、シキの唇はすぐに離れていった。 「うっ……甘……」今度は俺が呻く番だ。「どういうつもりだよ、これは。嫌がらせか」 「ホワイトデーは三倍返しと言うだろう? 生憎、急なことでろくなものが用意できなかったのでな」 「本当にろくでもないな。あんた、こんなことで俺の告白への答えを誤魔化すつもりじゃないだろうな? 俺は中途半端は嫌なんだ、ちゃんと答えてもらうぞ」 俺は偉そうな態度で言ってみた。というのも、何となくシキの気持ちが確信できたからだ。また、たとえ確信が外れていたって、今なら受け入れられるだろう。だって、シキは俺のために苦手な甘いものを食べてくれたのだ――その気持ちだけでも、もう十分だ。 シキは俺の要求に困惑した顔をして、やがて口を開いた。 「『――お前は俺のものだ』」 「俺は俺のものだ……って、これじゃ台詞練習してるのと一緒だろ。ちゃんとあんたの言葉で言えよ。俺はちゃんと言ったのに、卑怯だぞ」 すると、シキは卑怯と言われたことに腹を立てたらしいムッとした顔で――それでも、彼自身の言葉で答えをくれた。 2010/03/17 |