プレゼントの話 *ED1後、眠ったシキが復活するときの話 長い長い眠りから醒めたのは、ある冬の日の晩だった。 それは、どこといって特別なところのない、いつもと同じ夜であったはずだ。しかし、長い間自己の裡に閉じこもっていたシキの意識は、その晩唐突に現実世界へと立ち戻った。ちょうど重石をつけられ深海に沈められた宝が、ふとした拍子に重石の戒めから逃れて浮上したかのようだった。 目覚めるためのきっかけは、もしかしたら、あったのかもしれない。眠っている間に外部から受けた刺激の中に。或いは、シキが眠りの間に見た夢の中に。けれども、それらの記憶も感覚も――たとえあったのだとしても――目覚めの瞬間に、全て消え去ってしまった。 シキの受けた感覚としては、目覚めは何の前触れもなく訪れたのだった。 目覚めた場所は、さほど広くない部屋で、後にある街の安宿だったと知った。しかし、とにかく目覚めたときには、シキは己がどこにいるのか分からなかった。 長い眠りに衰弱した身体は、動かそうとしても、己の意のままならなかった。シキは起きあがることもできず、頭を少しだけ動かして、視線で周囲の状況を把握していった。 部屋の中は、天井の蛍光灯は消されていて暗い。ただ、ベッドサイドのルームランプだけが点っていて、ベッドの周囲をオレンジ色の光でぼんやりと闇の中に浮かび上がらせている。その灯りの辛うじて届く範囲――シキが寝ている隣のベッドに、若い男の姿が見えた。 男はベッドの上に座り込み、掌に載せた何かをじっと見つめている。何やら物思い耽っている様子で、シキの視線に気づきもしない。 そこで、シキは遠慮なく男を見つめた。 己は動けず無防備なままだというのに、自身でも驚いたことに、シキは傍らの男の存在に危機感や警戒心を抱かなかった。この男は何があっても己を害することはない、という確信が本能に刻まれているのだ。また、万一に男に傷つけられたとしても、甘んじてそれを受けるだろう、とも。 長い眠りに錆び付いたシキの頭には、己が何者かということさえどこか曖昧だ。それなのに、何よりも先に己にとって男が『そういうもの』なのだという理解がある。そのことがあまりに己らしくない気がして、シキは思わず苦笑を漏らした。 「――っぅぅ……」 ずっと声を発さなかった声帯も衰えていて、苦笑はできそこないの嗄れた呻きにしかならなかった。 その呻きを聞きつけて、隣のベッドの男がシキを振り返った。男はシキを見て、視線が合うと信じられないといった様子で大きく目を見張る。男の目は、暗い青――夜に移り変わっていく空の色。 己はこの目を知っている、とシキは思った。しかし、男が誰なのかが思い出せない。もどかしく記憶を探るが、答えは手が届きそうで届かなかった。 そうする間にも、男は自分のベッドを降り、シキへと近づいてくる。そうして床に跪き、シキと間近で目を合わせた。 「シキ……? これは、夢なのか……? 本当に目覚めたのか、シキ……?」 やはり聞き覚えのある、どこか懐かしい声音。 シキはまじまじと男を見つめた。 男はまだ若く、整った顔立ちをしている。それでも厳しい環境で生きてきた者であるらしく、目や顔に、逆境に削られて鋭くなった気配が感じられた。 シーツの上に置かれた男の手は、顔立ちの端正な有様とは裏腹に無骨な形をしている。そんな両手のうち、左手の指先に銀色の鎖が絡められていた。鎖の先を辿れば、男の指の下から、僅かにペンダントトップの形がのぞいている。 男が手にしているのは、どうやらロザリオのようだった。 それを目にした途端、シキの中に浮かび上がってきた記憶があった。このロザリオは、かつてはシキのものであったはずだ。己は眠る直前にそれを与えたのだった。 誰に? ――そうだ、目の前のこの男に。だが、この男は何という名だったか……。 「シキ……。大丈夫か? 俺のことは分かるか? ……俺はアキラだ。忘れてしまったか? あんたは、俺の……そう、『所有者』なのに」 アキラ。その音の連なりに、ぼんやりとした記憶の中から浮かび上がってくるものがあった。 『――貴様、名は何という』己の声が尋ねる。 『……アキラ』男の声が応じる。 次の瞬間、記憶の奔流がシキを襲った。己が何者であったのか。何を望み、どう生きてきたか。なぜ眠りにつくことになったのか。ぼんやりしていた意識が、急速に晴れていく。 同時にシキは、目の前の男――アキラのことも、はっきりと思い出した。己はトシマでアキラを見つけ、無理矢理己のものにしたのだ。今思えば、あのとき己はアキラに心惹かれていた。けれども、それを認めるられるほどの心の余裕がなかった。 どうしようもなく、アキラに惹かれて、己だけのものにしたかった。どうすればアキラの心が己のものになるのかと苛立っていたくせに、愛して優しく触れることは己には似つかわしくない行為だからできなかった。反面、己の心をかき乱すアキラが憎らしく、鬱陶しくて、傷つけて壊して粉々にしてしまいたいと思っていた。 当時のアキラへの激情と混乱も、己のものとしてシキの中へ戻ってきた。シキはそれを受け入れたが、最早、そうした感情に呑まれることはなかった。アキラへの激情の嵐は、過ぎ去ったのだと分かった。 「……キ……ラ……」 シキは掠れた声で、アキラの名を呼んだ。そうすることで、まだちゃんと声が出せない代わりに、お前のことを思い出したと告げたつもりだった。 理解したらしく、アキラはシキが目覚めてから初めての微笑を浮かべた。 「よかった、シキ。俺を覚えていてくれたんだな。もう忘れたかと思ったよ。――……あんたが眠っている間に、三年経ったんだ。三年。……もう、目覚めないかと、思った……」 言葉の終わりで、アキラの声は震えて詰まった。微笑は泣き笑いに変わっている。 宥めの言葉を発することも、頭を撫でてやることもできないシキは、黙ったままアキラの言葉を反芻した。 眠ったままで、三年。かつてシキが無理矢理に所有しようとしたにも関わらず、アキラは意識のない己の傍に居続けたのだ。もはや己にアキラを拘束しておく力はなかったのにも関わらず。なぜなのか、と尋ねようにも声が出せず、シキは理由を想像した。それは、三年前の己が自ら生を終わらせることなく、醜態をさらしながらも生き続けること――眠りを選んだのと同じ理由のような気がした。 シキは改めて、アキラを見つめた。アキラはもはや泣き笑いの表情ではなく、顔を歪めて本格的に涙を流し始めている。その様子に、シキは胸の奥から温かな感情が湧き上がってくるのを感じた。 アキラを愛おしいと思った。そっと触れて、大事にして、守りたいとも。 それでも、やはり何も言葉にすることはできず、ただもう一度アキラの名を呼んだ。それが少しでもアキラの慰めになればいい、と思って。 しかし、アキラはシキの声を聞いて、いっそう盛んに涙をこぼした。 「シキ……。シキ……。どれほどあんたに『会い』たかったか……。もう、どこへも行かないでくれ。ずっと、傍にいてくれ。どうか、ずっと……!」 声が出ないとはいえ、アキラの切実な懇願を放っておくことはできそうもなかった。シキは気力を振り絞り、言葉を紡ぐ。 「――……そば、……に、いる……。ずっと……だ……」 ほんの数語。この程度の無理は、これまで強さを得るためにしてきた無茶に比べれば、どうという程のことはなかった。 *** 二年後のクリスマス・イブ。 シキとアキラは、旅の途上にあった。二人は今や裏の世界ではちょっと知れた存在になっており、仕事の依頼がたびたび舞い込んでくる。その中からこれというものを選んで請け負って、生計を立てている。今は、その依頼のうちの一件を果たして、とある街の片隅に借りたアパートへ戻ろうかというところだった。 とはいえ、アパートのある街までは、まだ遙か遠い。帰りの交通手段として、二人は裏ルートでレンタカーを手配していた。が、車で走り通したとしても――戦争で破壊された高速道路が完全には復興されていないこともあって――丸二日はかかる距離だ。 その距離さえも楽しむように、二人はのんびりと山道に車を走らせる。 その日がクリスマス・イブだと最初に気づいたのは、アキラだった。車のラジオを聞いていたアキラは、時報を聞いた瞬間に「あっ」と声を上げたのだ。 「どうした、アキラ」ハンドルを握り、前方を見たまま、シキは尋ねる。 「そういえば、今日は十二月二十四日だ」 「お前はクリスチャンだったのか?」 「もちろん違う。けど……」 「けど?」 「うぅ……分かった、言うよ。覚えてるか? 一昨年の今日、あんたは目覚めたんだ。ちょうどクリスマス・イブに。……あのときだけ、俺は神様はいると思った」 アキラは、フロントガラスの向こうの夜道を見つめながら、そっと打ち明ける。シキはミラーを一瞥して、そこに映るアキラの表情を見て取った。 思い詰めた表情をしている。シキの眠りに関する話となると、決まってアキラはそういう顔をする。いまだに、シキの眠りの三年間はアキラにとって重い記憶なのだ。 「神などいないさ」シキは自分とアキラに言い聞かせるように呟いた。「目覚めたのは俺で、それまで俺を守ったのはアキラ、お前だ」 すると、アキラはシキの方へ顔を向けて、微笑してみせた。 「だけど、信じたくもなるな。イブには、嬉しいプレゼントばかりもらってるから」 「プレゼント?」 「五年前には、コレをもらった」とアキラは己の胸元にある小ぶりのロザリオに触れた。「二年前には、あんたを。――ずっと欲しかったんだ。三年間……いや、多分、トシマにいたころから、欲しかったんだと思う。あんたが目覚めたとき、俺は一生分のプレゼントをもらってしまった気がしたよ」 「随分と、無欲なことだ」 シキは苦笑した。同時に、己の目覚めだけ満足してしまうアキラがいじらしくて、胸が苦しくなる。 もっといろんなものを与えてやりたい。できることなら、今すぐにでもアキラを甘やかして贅沢をさせてやりたい。しかし、今は帰路の途中で、ここは山道の半ばで、どうすることもできない――。 もどかしく思ったとき、ふと思いついたことがあった。まだアキラに与えていないもの――すぐに与えられるものが、ただ一つだけある。 「アキラ。今、俺が渡せるものといえば、これくらいしかないが……」 「え? どうしたんだ、シキ……」 「お前を愛している。この先もずっと」 「……!」 アキラははっと目を見開く。その驚きの表情が、やがてじわじわと笑みに変わっていく。どういう意図でシキがその言葉を告げたのか、理解したらしかった。 「ありがとう、シキ。あんたはいつも、俺を驚かせる。二年前、あんたが目覚めたとき、これ以上のプレゼントはないって思ったのに……」 それから、アキラはお返しのつもりか、シキに告げた。 『――俺も、愛してる』 たった一言。けれど、その一言で、シキは「これ以上ないプレゼントだ」と言ったアキラの心情を理解した。 2010/12/24 |