バレンタインの話 *TV版終了後からこの話までの経緯については、『前提』ページを参照のこと。 「ただいま」 アキラは声を掛けながら、安宿の一室へと入った。窓際のスプリングの壊れ掛けたソファに座っているシキは、振り向きもしない。ぼんやりと、窓の外の景色を眺めている。 返事がないことに構わず、アキラは部屋へ入りシキの側へ歩いていく。シキはアキラが近づいても、威嚇することはなかった。 シキは内戦が始まった後もトシマに留まり、『自らの血液』で生産したラインをばら撒き続けていた。しかし、日興連とCFCがヴィスキオの王の存在を問題視して、本格的に介入を始めたため、再びトシマに戻っていたアキラと共に旧祖を出る決断をした。 いくらニコル完全適合者といえども、生身の人間がたった一人で日興連とCFCの全力の攻撃を受けて無事でいられるはずがないからだ。脱出を渋ったシキをそう言って説得したのは、アキラだった。 トシマを脱出してからというもの、シキはどこか気が抜けたようになってしまった。宿敵のnを失い、トシマという戦場を失ったせいかもしれない。二人は食べていくため、裏の仕事を請け負いながら放浪を続けていたが、その間シキはぼんやりしていることが多かった。トシマで出会った頃の、近づくだけで切れそうな鋭さは、もはや失われていた。 それがいいことなのか、悪いことなのか、アキラには分からない。何をするでもなく、アキラはただシキのそばにいつづけた。帰れる場所も、受け入れてくれるだろう仲間もあるにも関わらず、そこへ戻る気にはならなかった。どうしてか、シキの行く末を見守りたい気がするのだ。それは、今ではシキが自分の対――ニコルの保菌者であるからなのかもしれなかった。 「ただいま、シキ。食糧を買ってきた。晩飯には早いけど、晩飯に何食べるか、取りあえず好きなのを選んでくれ。えり好みができるのなんて、買い出ししたその日くらいだからな」 アキラは手にしていたビニール袋を逆さまにして、ソファの空いたスペースに中身を出した。ソリドや水のペットボトルが、後から後から転がり出てくる。じきにこの塒を移動することを計算に入れて、少し多めに買い出しておいたのだ。 シキは窓から視線を移し、さほど興味もなさそうな様子でアキラの買ってきた品物を眺めた。 ガサガサと音を立てて、最後にビニール袋から落ちてきたのは、ソリドでもペットボトルでもなかった。赤とピンクの可愛らしいパッケージで、リボンが掛かった小さな箱。それを見たとき、シキがわずかに目を見張るのが見えた。ここ数日の中で、一番はっきりとしたシキの反応だった。 「……何だ、それは?」 「あぁ……。チョコレート。バレンタインが近いからかな、店で山積みにしてあったんだ。たまにはいいかな、と思って、安いのを一個買ってみた」 ソリドを手で脇にのけると、アキラはチョコレートの小箱を取り上げて包装を解いた。箱の中には、赤やピンクの銀紙で包まれた、小さなハート型のチョコが詰まっている。箱を逆さにして、すべてソファの空きスペースにぶちまけた。 ぼんやりと見ているシキの前で、アキラはチョコを一粒つまみ上げ、銀紙を剥いて口に放り込む。久しぶりに味わうチョコレートの甘さと微かな苦さが、口の中に広がる。 「――子どもだな」シキは嘲笑した。 「いいじゃないか」アキラは言い返した。「いつもいつもソリドじゃ、いい加減、飽きるだろ」 「それは口実だろう。言い訳などしなくとも、お前が子どもの味覚だということくらい分かっている。いつもソリドのオムライス味を食べたがるのだから、気づいて当たり前だ」 そう言いながら、シキは手を伸ばしてハート型のチョコの一粒に触れた。指先でつついたり弾いたり、まるで珍しいものでも見つけたかのような態度だ。といっても、いくら何でもシキがチョコレートを食べたことはない、ということはないだろうが――。 「……シキ。あんたは、バレンタインチョコをもらったこと、あるか?」チョコを弄ぶシキを見ながら、気づけばアキラは尋ねていた。 「……――ないことはないが。もう、ずっと昔の話だ。ニコルの保菌者になった俺にとっては、常人であった頃の出来事はすべて四十年も五十年も昔のことのように思える。さほどの年齢でもないのだがな」 「そういうものなのか」 アキラは相づちを一つ打ち、シキの指先からチョコを取り上げた。くるくると銀紙を剥がし、シキの口元へ持っていく。 どういうつもりだ、とシキが目で尋ねた。 「俺からあんたへ。バレンタインチョコだ」 そう言うと、シキは目を伏せて、大人しく口を開ける。アキラはシキの口の中へ、チョコの粒を落とした。 「どうだ? たまに食べたら、意外と美味いだろ?」 「甘い」シキはちょっと顔をしかめた。が、ふと柔らかな表情になる。「……だが、まぁ、確かにたまになら悪くないな」 ほとんど笑みとも言えない、微かなシキの笑み。その表情を見ているうちに、ふと温かな何かが湧き上がってくるのをアキラは感じた。その温かさは、かつてケイスケやBl@sterの仲間と過ごしたときに――たとえば、他愛ない話題で笑いあう瞬間に――感じたものと、少し似ているようだ。 「なぁ、シキ……。そろそろ、どこかに身を落ち着けて、暮らしてみないか?」 アキラは穏やかな声で言ってみた。それは、トシマを出てからずっと考え続けていたことだった。今までシキに言わなかったのは、アキラ自身が迷っていたからだ。本当にシキが身を落ち着けて暮らすことなど、できるのか。また、そうなったとして、アキラ自身は側にいるべきなのか、いない方がいいのか。しかし、今このとき、アキラは確信することができた。きっと、シキは普通に暮らすことができる――自分が側にいれば、きっとできる、と。 けれども、当のシキは戸惑った様子で首を傾げた。 「……お前は、俺が普通に暮らせると思うのか?」 「思う。あんたの宿敵のnはもういないし、あんたはニコルを手に入れた。これ以上、上を目指し続ける必要はないだろ? ――だったら、普通の暮らしをしてみるのも、いいじゃないか」 「……その『普通の暮らし』とやらに、お前はいるのか?」 「それは……あんたが、一緒にいてもいいと言ってくれるなら」 アキラには、控えめな態度でそう答えた。 本当はシキが自分を必要とするだろう、という確信があったのだが、表には出さなかった。プライドの高いシキのこと、『一緒にいてやる』のだという態度を取れば、意地になってアキラを追い払おうとするに違いない。ここしばらくの付き合いの中で、アキラもそのくらいのシキの性格は読めるようになっている。 返事を聞いたシキは、アキラの言葉の真偽を確かめるようにじっとアキラを見つめる。それから、再びソファに散らばった色鮮やかなチョコに視線を落とした。 「……それも、悪くないかもしれないな」 呟いたシキは、急に手を伸ばして目の前に立っていたアキラの手を引く。何の心構えもしていなかったアキラは、呆気なくシキの腕の中に倒れこんでしまった。「何するんだ」と抗議の声を上げるが、構わずにシキはアキラの首筋に顔を押し付けてくる。 濡れた舌が首筋の薄い皮膚の上を這う感覚に、アキラは息を呑んだ。 実は今まで一緒にいて、シキに抱かれたことがないわけではない。行為はいつも、シキがしがみつくようにアキラに触れることから始まる。それはセックスの最中にしては、どこか子どもじみた仕草だ。おそらく、シキは無意識の内にアキラに触れることで不安を紛らわそうとしているのだろう。そうと分かるからこそ、アキラは拒まない。 どうしてだか、拒めない。 (まったく、どうしてなんだろうな……) 明らかに意図を持って皮膚の上を這い始めたシキの指先に、アキラは熱っぽい息に紛らわせてそっとため息をついた。それから、両腕を持ち上げて自分からシキを抱き締める。シキを安心させるように、強く。 2011/02/06 |