ED3シキが王を辞めたらの話





 よく晴れた日だった。
 窓から見える空は青く澄み渡り、柔らかな日差しが部屋の中にまで差し込んでいる。まだ春先とあって外の空気はひんやりしているが、部屋の中、特に日の当たる場所は、気持ちのよい暖かさになっている。ベランダで寒さに身を震わせながら洗濯物を取り込んだアキラは、急いで部屋の中に駆け込むと、暖かな日差しの落ちているベッドの上に衣類を投げ出し、自分もそこに腰を下ろした。そして、取り込んだ衣類をたたみ始める。
 一度は<城>の奥深くで使用人に傅かれもしたが、これでもトシマ以前は一人暮らしをしていた身だ。極めて最低限の家事くらいは、できる。とはいえ、元々が不器用な性質なので、やや崩れたたたみ方になっていた。だが、アキラにしろこの部屋の同居人にしろ、あまりそういったことを気にしない方なので、今までそれが問題になったことはない。もしかしたら、同居人は衣類が少し皺になっていることにも、気付いていないのかもしれないと思える節もあるくらいだ。
 ふとアキラは可笑しさを感じた。

 ほんの数ヶ月前まで、同居人と自分はニホンで最も力のある麻薬組織の首領とその愛妾だった。同居人――シキは<王>と呼ばれ、まさに王族のような生活をしていた。アキラも彼と共に<城>に住み、多くの使用人に傅かれて日々を送っていた。今のボロアパートの生活と比べれば、天地の差だ。けれど、今にして思えば、あの頃は幸せでも何でもなかった。
 シキは、nとは違う生き方をしようとnicolを積極的に利用して<ヴィスキオ>を拡大していったが、結局のところ、自分が何を望むのかが分かっていなかった。アキラもまた、狂ったシキと共にいるために正気を捨てたようなものであったのに、<王>であるシキは多忙で、共にいられない寂しさを埋めるように他の男を誘惑していた。恵まれていたはずなのに、あの頃は何もかもが歪んでいた。
 それを打ち破ろうとしたのは、アキラだった。<王>であることが、<ヴィスキオ>が、自分とシキとを引き離す。何も持たなかった自分たちの周りに、余計なものが多くなりすぎた。ソレが分かったから、アキラはシキに選択を迫ったのだ――<王>を辞めるか、自分を殺すか、どちらかを選べと。
 結果、シキは<王>を辞めた。
 もちろん、シキはすんなりと<王>を辞める――生き方を変える決断をしたわけではなかった。それに、シキが決断した後、2人で<城>を出る際も、簡単にとはいかなかった。シキを殺して次の<王>になろうとする者、恨みがあって2人を討ち取ろうとする者などに生命を狙われ、ニホン国内に留まることはできず、国外へ逃れなければならなかった。2人が逃げた後のニホンは――実は景気まで<ヴィスキオ>のラインの輸出に頼るところが大きかったため――大変な混乱を来たしており、幾つもの勢力が<ヴィスキオ>の後の覇権を握ろうと争っているらしい。
 今、2人はある国の片隅の小さなアパートに部屋を借り、仮の住まいとしている。どこかトシマへ監禁された部屋を思わせる部屋だ。シキは裏の仕事を請け負って、この部屋から仕事にいく。だから、アキラは一人でいる時間が長い。それでも、以前<城>にいたころのような不満は、感じることがない。なぜなら、離れているときが長くとも、今シキの心にあるのはアキラのことだけだからだ。以前のように、nや<ヴィスキオ>の組織などが、アキラとシキの関係に入り込む余地がないからだ。
 それにしても、2人でいるというだけでここまで満足できるなら、かっての贅沢で空虚な生活は、傅いてくれた使用人たちの労力は、一体何だったと言うのか。無意味に盛大な浪費ではないか。アキラが可笑しく感じたのは、そのことだった。


 ベッドの上に差す暖かな日差しが心地よく、アキラはいつしか洗濯物をたたむ手を止めて横になり、眠ってしまっていたようだった。目が覚めたときには、もう日が傾き始めていた。今はまだ明るいが、じきに日が暮れるだろう。
 アキラは残りの洗濯物をたたみ終えてしまうと、夕飯の用意をするためにベッドから立ち上がった。
 <城>で暮らしていた頃は平気で食事を抜いたものだが、今の生活をするようになってから、アキラはきちんと食事を作って食べるようになった。それは、シキが不在の今日のような場合でも変わらない。なぜなら、食事を抜いて痩せるようなことがあれば、また大きな家に住んでアキラの世話をさせる使用人を雇う、とシキに脅されたからだ。裏の仕事でのシキの稼ぎならば十分に実現可能だが、そんな生活では<城>にいるのと変わりがない。アキラは今のボロアパートでの暮らしが何より気に入っていたから、シキの言いつけは(たとえ彼が不在であっても)守ることにしていた。
 さて今日は何にしようか、と考えながら、アキラは台所の食器棚の引き出しに仕舞ってあるメモを取り出した。メモには料理の作り方が書かれている。トシマ以前の一人暮らしの頃はソリドばかりで、結局碌な料理を覚えていなかったアキラのために、シキが幾つか教えてくれたものを書き留めておいたのだ。意外というべきか、シキはあれで案外料理ができる方だった。聞き出したところによると、軍では下級の兵が交代で食事の支度をすることになっていて、シキも軍にいたころにやらされた経験があるのだという。こんなに無闇に偉そうなシキでも下っ端の頃はあったのだな、と話を聞いたときアキラは妙なところで感心したものだった。
 メモを見ながら冷蔵庫を物色していると、不意にざわりと肌が粟立つような感覚が生まれた。
 ざわざわと、身の内を流れる血が騒ぎ出しているのが分かる。

 「――シキだ」

 無意識の内に笑みを浮かべて呟くと、アキラはバタンと乱暴に冷蔵庫を閉めた。そして、台所から玄関へと走っていく。ちょうどアキラが駆けつけたのは、部屋の扉が開きかけているそのときだった。
 「おかえり」と声を掛ければ、
 「今帰った。大人しくしていたか、アキラ」とシキが言う。
 その言葉に、アキラは顔をしかめた。
 「あんた以外の男と遊んでないかってことなら、大人しくしてた。というか、前みたいな遊びはしないって言っただろ、信用してないのか」
 「そう怒るな。大人しくしていろ、と聞いたのは癖のようなものだ。<城>でのお前の振る舞いがああでは、癖になっても仕方がなかろう?」
 「さり気なく嫌味だな。もうしないって言った。そんな嫌味を言ってると、あんたの分の飯、作らないからな」
 「今から作るのか?」シキは言葉を切って少し考えていたが、やがて口を開いた。「――ならば、俺が作ってやろう。お前の機嫌を損ねた侘びだ」
 侘び――。意外な言葉に、思わずアキラは目を丸くする。まさか、シキの口からそんな言葉が出てくる日がくるとは。けれど、驚きながらも、少し嬉しく思っている自分がいることも確かだった。
 アキラは笑いながら、けれども、首を横に振った。
 「駄目だ。俺が作る。作りたいんだ。あんたに教えてもらった料理、どれだけできるようになったか、試してみたい」と、手にしていたレシピのメモを見せる。
 すると、シキは唇の端を吊り上げて笑みを作った。
 「いいだろう。ただし、不味ければ罰を与える」
 「じゃぁ、美味かったら?」
 「そのときは褒美をやる」
 「それって、どっちも同じじゃないか。まぁいいや、絶対あんたに美味いって言わせてやるからな」
 そう言ってアキラは、挑発的な笑みを浮かべた。





2009/01/08

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