雨の日の話




 遠征から戻ったシキは、後の処理を部下に任せて早々に『城』内の別棟へ向かった。立派な『城』の本館がヴィスキオの本部の役目を果たしているのに対して、敷地の片隅にある別棟は建物一棟丸ごとがシキの私的スペースとなっている。シキはそこに自分の愛人――と呼ぶのは他人だけで、当事者にはそのような認識はないのだが――のアキラを住まわせているのだった。
 別棟へ続く中庭の舗道を歩いていくと、玄関先に細身のシルエットが見えた。白いシャツとジーンズを身につけたアキラだ。雨が降っているので、アキラは傘を差して舗道の真ん中に立っていた。
「……お帰り」
 シキが近づくと、アキラは静かに言った。その言葉に、シキは挨拶の代わりに皮肉な笑みを返してやった。
「珍しいな、お前が出迎えとは」
 そう。アキラがこんな風にシキを出迎えることは、非常に珍しかった。シキが遠征で『城』を開ければ、アキラは間男を引き込み、寝所で戯れているの場合が多い。もちろん、シキが帰還しても出迎えなどなく、むしろシキがアキラが間男と行為に耽っている最中に踏み込むのが常だった。アキラは、まるでシキの激怒を期待するかのように、シキが帰還するタイミングで男を引き込むらしいのだ。
 大抵がそのような調子では、たまに出迎えがあったとて、皮肉の一つも言いたくなるというものだ。
 アキラはそんなシキの心情を知ってか知らずか、ふふふと笑った。どこか気だるげな笑みだった。
「珍しいだろ。……梅雨が始まったからな。こうも雨が続くんじゃ、気が滅入って悪戯をする気にもなれなくてさ。たまには、あんたを出迎えてみようと思って」
 アキラはそっとシキに傘を差し掛けた。甘えるように寄り添いながら、「雨は嫌いだ」と呟く。その声を聞きながら、シキはトシマでアキラを拾った日のことを思った。
 あの日も雨が降っていたのだ。アキラのそばには仲間と思しき男が死んでいた。アキラはその傍らで、まるで抜け殻のようになっていて――。“雨が嫌い”とは、おそらくそのときのことを思い出すからなのだろう。
 腕にしがみついてくるアキラは猫のようで、シキは何気なく手を持ち上げてアキラの頭を撫でた。アキラは心地よさそうに目を細めながら、シキを見上げてくる。
「……あんたも、雨、嫌いだろ」
「さて?」
 答えをはぐらかしながら、シキは別棟に向けて歩き出した。
 雨が嫌いだろうというアキラの言葉は、ある意味で正しく、ある意味では間違っている。シキが弟を殺したのは、今日のような雨の日だった。場所はトシマ。アキラとは、既に出会っていた。
 あの日、アキラはシキの様子が違うことに気づいていた風だった。二人会話することなど滅多になかったのに、あの日だけはアキラはシキの中に踏み込もうとするかのように興味を示し、様々なことを尋ねた。シキもまた、いつになく饒舌に問われたことに答えたものだ。
 しかし、シキはもはや当時の己の心情を思い出すことはできない。そのときの記憶ははっきりと残っているのだが、その中から感情だけがすっぽり抜けてしまっている。ニコル完全適合者となった副作用のようなものだ。
 ニコルに適合したとき、シキは、言うなれば記憶を持ったまま生まれ変わった。ニコル適合後のシキとそれまでのシキは別の人間であり、思い出すことはできない。また、感情自体がシキの中から大幅に消え失せてしまっているため、昔の己の感情を想像してみることも不可能だった。
 だから、アキラの気遣いには、全く意味がない。意味がないことには違いないのだが――シキは心の片隅に、アキラの気遣いにほっとしている己がいることに気づいた。それは、過去の己の小さな欠片のようなものかもしれなかった。
 シキはすぐに過去の己の欠片から目を逸らすことにした。それを認めてしまえば、握りつぶして捨て去らねばならない。しかし、“気づかなければ”ずっとそのままでも差し支えはないのだ。
 別棟の玄関までは、あとわずか数歩の距離だ。
「シキ。ベッドへ行こう」
 早くもアキラが誘いかけてくる。そのアキラの腕を、シキはシャツの上から緩く掴んだ。
「却下する。最初に風呂だ、お前も一緒に。長い間、雨の中にいたのだろう? 身体が冷えきっている」
「えー。せっかく出迎えたのに、お預けかよ」
 唇を尖らせながらも、アキラは楽しげに笑っている。さほど残念だとは考えてもいないらしい。『最初に』の一言で、今夜はシキがきちんと自分の私室で過ごすことは、決定事項だと分かったからだろう。
 シキは、戯れに猫のように身をかわして逃げようとするアキラを捕まえ、浴室へ引っ張っていった。

 






2011/05/29

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