10センチ たった十センチ。 距離にして見れば、たぶんそれくらいのもの。だが、その十センチの近さにアキラは手を伸ばせないでいる。 汗の浮いた皮膚の上を、シキの手が這い回っていた。シキの体温は低い。アキラに触れる手はいっそ冷たいと感じるくらいだ。だが、その手は正確にアキラの熱を煽り、結局アキラはますます暑いと感じるようになる一方だ。額や背中、更にはシキと触れ合った部分にも、じわりと汗が浮かんで、時折流れ落ちていくのを感じた。 正直に言えば、今日はシキと抱き合うつもりはなかった。だが、ふと目が合って、何となくそういう雰囲気になってしまった。それは別に構わない。 妙なところで互いの波長が合ってしまったのか、普段より性急に寝室へ向かい、もつれ合うようにベッドに倒れ込んだ。そこまでもまだいい。 問題は。 (どうして俺もシキも、クーラーを点けようとしなかったんだ……) 後悔したのは、衣服を脱がせ合い、愛撫しあって、後戻りしようのないほどに身体の熱が高まった時点だった。シキの背に腕を回した、その手がずるりと汗に滑った瞬間に、ふと我に返ったのだ。 (これじゃ、熱中症になる……) 行為の最中に妙に冷静に考えてみる。だが、かといって、流れを止めてベッドから十センチほど離れたサイドテーブルの上にあるであるであろうクーラーのリモコンを手に取るほどの分別は起きない。 つまり、自分では冷静なように思えるが、既にシキとの行為に溺れ始めているということなのだろう。そう思ったとき、アキラの体内にあったシキの指が急にぐいと曲がり、弱い部分を刺激した。 「っあ……!」 突然のことに、アキラは声を上げて身体を跳ねさせる。すると、ぐいとシキが上からアキラの肩を押さえ込んだ。 「っ……シ、キ……?」 「セックスの最中に考えごととは、いい度胸だな、アキラ?」 熱を帯びた、けれども冷静な無表情のシキが顔をのぞき込んできた。 かつてトシマでは無表情にアキラを抱くことが多かったシキだが、今では事の最中は――たとえ分かりにくいにせよ――それなりにそれなりの顔を見せる。こうして昔のような無表情をしているということは、シキはおそらく拗ねているのだろう。 シキが拗ねるのも分からなくはない、とアキラは素直に思った。セックスの最中に別のことを考えることがないわけではないが、それでも大抵シキに関連する内容だ。しかし、今回は全くシキとは無関係の考えごとをしていたのだから、責められても仕方ない。 「……ごめん……」 アキラは素直に謝り、シキを引き寄せた。普段、理性があるときには滅多にしない甘えるような仕草で口づけを強請る。だが、シキは誤魔化されてはくれなかった。 「何を考えていた」 「……クーラー……入れた方がいいかなって……」 「俺よりもクーラーの方が重要だというのか」 「そういう問題じゃ、ない……。っていうか、クーラー点けずにセックスして熱中症になったら、馬鹿みたいだろ……」 「なら、今から点けるか?」 シキは言ったが、動こうとはしなかった。シキが手を伸ばしたとしても、リモコンへの距離はやはり十センチほどであるにも関わらず、だ。 ぽたり。シキの髪の中から頬を伝って、汗が滴る。滴はシキの下にいたアキラの腹の辺りに落ちて、アキラの汗と混じり合い、つぅとシーツへ流れていった。あぁ、そうか、シキも暑いんだ、とアキラは気づいて急に可笑しくなった。 「シキ……。あんた、もしかして、リモコンを取る余裕もないのか……?」指摘すると、シキは眉を跳ね上げた。おそらく図星だったのだろう。シキが不本意そうな顔で何か言おうとするのに先回りして、アキラは言った。「俺もだ」 「何?」 「俺も、クーラー点けなきゃいけないと思ったけど、もう少しもあんたから離れたくなくて、手が伸ばせなかった。だから――」 アキラはシキの背に緩やかに腕を回した。やはり汗で滑るが、構わず更にシキに身を寄せる。そうすると、行為を中断されて体内で燻ぶっている熱が、温度を上げたようだった。 きっと、もうすぐ発火する。今なら燃えて、溶けて、シキと一つになってしまえそうな気さえする。もちろん、他人と融合するなんてあり得ないと分かってはいるが。 「シキ……。何でもいいから、とにかく、早く来てくれ」 あんたの熱がほしい、とアキラは囁く。すると、微かに笑った。「お前には、敵わんな」と呟く。 結局、シキもアキラもクーラーのリモコンに手を伸ばすことはなかった。 2011/07/10 |