もうやめたいと思う話
しんと冷えた冬の夜のこと、アキラは一人足早に夜道を歩いていた。裏の仕事を請けて人一人斬った帰りだった。 シキが自らの意思で動かなくなって、これが二度目の冬になる。アキラは心を失った彼の身体を守りながら、各地を渡り歩く生活をしていた。 なぜ抜け殻となったシキの傍を離れなかったのか、その理由はあっても、はっきりと言葉にすることはできないでいる。ただ、まだ生命のあるシキが朽ち果てて死んでいくことは、我慢ならなかった。もしそのままシキを放置するなら、ケイスケを失ったときと同じ後悔をすることになる。そう感じたから、並大抵のことではないと予感しながらも、シキの傍にいることを選んだのだ。 もっとも、それも甘い覚悟に過ぎなかったと知るのに、そう時間は要らなかった。 自ら動くことの無いシキの世話。たびたびシキを狙い来る賞金稼ぎや刺客やらとの闘い。普通に定住して働くこともできない日々に、ささやかに食事のソリドや水のペットボトルを買うだけの蓄えも底をつきだす始末。 最初のうちはシキと二人生き延びることに無我夢中で、何をどうして日々を乗り切ったものか覚えていない。シキの世話にしろ裏の世界で生きていくことにしろ想像した以上の困難で、もともと世間に疎く不器用なアキラの苦労はなお更だった。よくも生き抜けたものだ、と我ながら思ってしまう。 それでも、苦労を苦労と自覚するようになったのは、むしろ抜け殻のシキを守りながらの生活にある程度慣れてからだった。 今ではアキラもシキの世話の仕方を覚え、時が経つにつれて減ってきた追っ手を上手くかわせるようにもなった。蓄え少なくなれば裏の仕事で稼げるような剣の腕になり、そうするための伝手も得た。裏の世界で無名のアキラが請けることのできる仕事といえば、報酬の低い、けちな小物の始末が殆どだが、選り好みしなければシキとしばらく生きていけるほどの金は手に入る。そうして、何とか生きていけるようになって周囲を見渡す余裕ができてくると、改めて自分の立ち位置の不確かさが分かった。 シキを放ってはおけない。 けれど、いつシキは目覚めるのか。目覚めたからといって、自分を傍に置くのか。 そして、いつ終わるとも知れない今の生活の中を続けていく気力が、どれだけ保つか。 蓄えが底をつきかけて、今日アキラが受けたのは、いつもと同じ小物の始末だった。 何でもある犯罪組織の末端にいたその標的の男は、あるとき組織の金を持ち逃げして姿を眩ませてしまったのだという。組織はそのおとこの居所を探し出し、闇の仕事を斡旋する口入屋に男の始末を依頼した。その依頼が、アキラに回ってきたのだ。 本当に遣り切れない仕事だった。 男が持ち出したのは、ほんの端た金だ。金額は忘れたが、聞いたアキラがそう思ったのだから、さほど高額の持ち出しでなかったことは間違いない。男は既にその金を使ってしまっていて、取り戻すことはできなかった。たとえ男を殺したところで金が戻らないのには変わりないが、金を持ち逃げされた組織は面子があるからとこだわった。 アキラが男の隠れ家に行ったとき、男はアキラが刺客だと知って命乞いをした。本当なのか情けに訴えようとしたのか、妻子が待っているのだと言った。けれど、アキラもまた金を稼いで、自分とシキの生命を繋いでいかなければならない。だから、「助けてくれ」と泣く男を斬った。 後に残ったのは、泥のような疲労感だった。 抜け殻のシキを守りながらの生活が辛いと感じるのは、こんなときだ。 アキラは時折雪の混じる風の中を進みながら、いっそ泣きたいような気持ちで考える。――いつまでシキは目覚めない?――いつまでこの生活を続ければいい?――いっそ、全て投げ出してしまえたら、楽になるのだろうか。 とはいえ、抜け殻のシキを放り出してひとり生きることは、アキラには考えられなかった。そんなことをしては、一生自分を憎みながら生きていくことになるだろう。アキラにとって、シキの身体を守ることを放棄するときは、シキの生命を奪って自分も死ぬときだと考えていた。 けれど、そう考えはしても、いつもアキラは考えを実行に移すことはできなかった。 なぜなら、ふとしたとき目蓋の裏に、いつか見たシキの凛とした背中が蘇るからだ。まだ、シキは生きて呼吸をしている。ましてやアキラは意思があり、考え行動することもできる、その気力がある。それなのに、死に逃げるのか。そんなことをして、かってのシキの凛とした背中に恥じずにいられるのか――そんな思いが込み上げる瞬間があるからだ。 宿泊している安宿に着く頃には、頬も手足もすっかり冷え切って、感覚がなくなっていた。宿の建物は古く、冷え込むと建物そのものが冷えてフロアの暖房も効き難くなっている。だから室内にいても少し肌寒いほどだったが、今の冷え切った身体には、そんな室温さえ南国の暖かさだ。 暖かさで、感覚が戻ってくる。 氷のようになった手足の先が熱を持ち、痺れたように感じる鼻から鼻水が出そうになる。ともすれば垂れてきそうになる鼻水を啜りながら、アキラは息をつきもせずに、自分の部屋へと向かう。 仕事の間部屋に置いてきたシキのことが、ひたすら気がかりだった。 裏の仕事を請けるとき、まさか連れて行くことはできないから、アキラはシキを宿や廃屋などその日の塒に置いていくことにしている。このところ追っ手は減ったし、簡単に嗅ぎ付けられる心配のない場所を選んではいるが、何ごとにも絶対はない。だから、そうしてもシキを一人にするとき、アキラはもし戻ってシキの身に何か起きていれば死ぬ覚悟をしているのだった。 部屋に戻ると、アキラは逸る手つきで鍵を開け、室内に入った。灯りを点けてみるが、室内に変わった様子はない。更にベッドに歩み寄るが、シキは出かけるときと同じ姿勢で、静かにベッドに横たわっていた。 ただ一つ、変化しているのは紅い瞳。閉じられていたはずの目蓋が開き、シキの双眸はぼんやりと宙を見つめている。 「――ただいま、シキ」 声を掛けても、もちろんシキは反応しない。視線ひとつ揺らがない。 それでも、そんな反応にアキラは「何も変わっていない」とほっと息を吐き、疲労の重さに崩れるようにベッドの脇に座り込んだ。つい先程全てを投げ出すことを考えていた癖に、シキの顔を見ると――今の生活がまだ続けられるのだと分かると――無条件で安堵してしまう。心はここになくとも、せめて生きていてくれてよかったと思う。 アキラはベッドの脇で脱力しながら、全てを投げ出したいと考えた自分を責めた。一度はシキを守り生きていく覚悟を決めた癖に、辛くなると決心が揺らいでばかりいる自分が不甲斐なかった。 「……あんたは強かったよな、シキ」 ぽつりとそんな呟きが零れ落ちる。 そうだ。シキはいつも揺るぎなかった。nを追うと決めたら一心に追い続けた。疲れ果て、抜け殻になってしまうほどに、懸命に。 それに比べたら、自分は迷って揺らいでばかりだ、とアキラは思った。昔はそうでもなかったが、それは周囲と深く関わらず一人でいたためだ。そんな風だから、心が揺らぐような出来事に出遭うこともなく、狭い世界で生きていた。最近になって、そうだったのだと悟った。 シキの強さは、自分の心を揺るがした存在と出遭い、その存在にぶつかっていったことだ。アキラが世間と深く関わらず閉じた世界で生きていた数年間、シキはnと――自身の心を揺るがした恐怖と向き合い続けたのだろう。そして、nを失って目的を見失い、抜け殻になる自身をシキはアキラの前に晒すことを選んだ。無防備な身体をアキラに預けて見せた、その潔さ。 決して真似できない、追いつけない、と思う。 「――眠ってしまっても、あんたは強いよな」 ベッドに頭を凭れさせてシキの静かな呼吸音に耳を澄ましながら、アキラは呟いた。 自分はトシマで、シキの強さや潔さのようなものに、憧れを抱いたのだろう。 そして、抜け殻になってさえ、シキの中にはその片鱗が残っている。 いつまでも手が届かない相手――きっと、だから、離れずにいる。 2009/01/18 |