彼の中のもう一人の彼
初めにあったのは、情欲ではなかった。もちろん、支配欲でもない。ただ、どうしようもなく惹かれて、離れがたくて――それだけだった。 それだけ、だったのに。 日興連とCFCが滅び、無政府状態と化したニホン。その国土を事実上、支配する麻薬組織〈ヴィスキオ〉は、その本拠地をトシマに置いていた。トシマに佇む彼らの〈城〉は、かつてのそれとは比べものにならない。新たに強い〈王〉を得て、強大になった組織に相応しい大きさと堅牢さを持つ建物に作り替えられている。その〈城〉の奥深く――ごく限られた側近しか立ち入れない〈王〉の私的スペースに、その部屋はあった。 側近たちから密かに『鳥籠』と呼ばれる一室は、〈王〉の唯一の愛妾のものだ。執務がない日は、〈王〉はたいていその愛妾のもとで過ごしている。〈城〉に仕える人々は、そんな王の私的な時間を邪魔しないよう『鳥籠』の一室には極力、近づかないようにするのが常だった。 『鳥籠』と呼ばれる部屋の中、高い天井に悲鳴とも嬌声ともつかない声が響きわたる。 「いっ……やだっ……。ああぁっ……!」 豪奢な寝台の上で、痩せた青年――アキラが背をそらせて声を上げていた。見開かれた碧眼から、はらはらと涙の滴が散る。その様が何とも言えず、艶めかしい。 青年の上に覆い被さった男――シキは、そんな彼の様子に心動かされた風も見せずに、黙々と行為を続けていた。いつものことだ。シキは頭の片隅の醒めた部分で考えた。己とアキラの間には、どんな心の絆も存在しない。ただ執着し、衝動のままに身体を繋げるだけだ。 ずっと、そうだった。 《――本当に?》 ちりりと微かな頭痛が起こる。シキは顔をしかめた。宿敵プルミエの血を口にして、ニコルの完全適合者となったときに、己は何か人として必要なものを切り捨てた。それを抉りとった傷跡が痛むような、奇妙な感覚だった。 「くぅ……。あぁ……も……ムリ……!」 アキラがさらに嬌声を上げ、シキはそちらに意識を向けた。アキラの両手の細い指が、縋るものを求めてシーツを引っかいている。それに手を差し伸べもせず、シキは攻めを強めた。まるで思考を放棄するかのように。 *** 誰も知らぬ闇の奥深くで、小さな呟きが生まれる。 《――違う。違う。違う》 《こんなことを、望んだわけではなかった》 《俺が、アレに手を伸ばしたのは――》 初めにあったのは、情欲ではなかった。もちろん、支配欲でもない。ただ、どうしようもなく惹かれて、離れがたくて――それだけだった。それだけだったのに、なぜ、こんなことになってしまったのか。 呟きの中に、微かに苦い感情が入り混じる。 《他に、選べる道はなかったのか――》 *** アキラが目覚めたとき、同じベッドにはシキがいた。今日はオフのようで、普段の黒ずくめの衣装ではなく、白のシャツにジーンズというラフな格好をしている。南の庭に面した窓を眺めている彼は、いつになく物思いをするような表情だった。 いったい、どうしたのだろう? シキの様子が気に掛かって、アキラはベッドの上で起きあがった。素肌の上に掛けられたシーツが滑り落ちるのも構わず、シキを見つめる。 「シキ……?」 そう言った声は、掠れていた。昨夜、声を上げすぎたせいだろう。それでもシキは呼びかけが聞こえたらしく、振り返ってアキラを見た。その眼差しに、違和感を覚える。なぜかと考えて、すぐに気がついた。紅い瞳から、凶々しいほどの狂気が消えている。アキラは思わず息を呑んだ。 「アキラ……。目覚めたのか……」 そう呟いて、シキはベッドを立った。傍らにあるテーブルの前へ行き、水差しからコップに水を注ぐ。そのコップを持って、彼は再び戻ってきた。 「飲むか?」 コップを差し出されて、アキラは瞬きをした。やはり、シキがおかしい。普段の彼ならば、こんな風にアキラに優しくしたりはしないだろう。 「……あんた、誰」アキラは尋ねた。 「俺の名はシキだ。まさか、忘れたのか?」 「違う。あんたはシキじゃない。少なくとも、俺の知るシキとは別人だ。……誰なんだ?」 アキラの言葉に、シキは目を軽く見張った。考え込むように視線を伏せて、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。 「俺は『シキ』だ。それは確かなことだ。だが……どう言えばいいのだろうな。――ニコルウィルスの摂取によって、俺は人間である己の一部を封印した。おそらく、その一部が……俺なのだろう」 「シキの……人間である部分。あんたが……?」 「あぁ」 頷きながら、シキはコップの水を自ら口に含んだ。アキラの頬に手を添えて、唇を重ねてくる。冷たい水がシキの唇を通じてそっと口内に流れてきた。アキラは咽喉を鳴らして、その水を飲み干した。 やがて、シキの唇が離れる。鼻先が触れ合うほど間近の距離で、彼はアキラの目をのぞき込んだ。 「俺はずっと眠っていた。だが、昨夜、不意に目覚めて、『俺』のお前に対する仕打ちを知った」 「それで?」 「放ってはおけないと思った。あんな風にお前を痛めつけていては……いつの日か、お前を失ってしまう、と。――だが、もう心配ない。お前は苦しまなくていい」 「それは、つまり――あんたがニコルウィルスに狂ったシキに、取って替わるってことか?」 アキラは真っ直ぐにシキの目を見返した。意識的に視線に力を込めて意思を示してみせる。すると、シキは意外だったのか、軽く目を見張った。 「――アキラ……?」 「駄目だ。そんなこと、許さない。シキを戻せよ……俺のシキを。あの男は――狂気に染まった哀れなあの男は、俺のものだ」 「お前は……」 シキは驚いたような――そして、どこか傷ついたような顔で、アキラから身を引いた。そんな彼の反応に、アキラは今更ながら申し訳なさを覚えた。自分の愛するシキとは別人格とはいえ、目の前の彼もまたシキには違いない。心の底から邪険にすることは、できそうになかった。 アキラは言葉の厳しさを和らげようと微笑してみせた。 「言い過ぎた。すまない。あんた、俺を心配してくれたのに……。でも、分かってくれ。俺が心から愛おしいと思うのは……あの、狂ったシキなんだ。誰よりも強い力を手に入れた癖に、何の力もない俺に執着し続けるあいつなんだ。だから……すまない」 「そうか……」シキは微かな笑みを浮かべた。普段の狂気に染まったシキの美しくも凶々しい微笑とは違う、儚げな表情だ。「お前が謝ることはない。むしろ……俺が礼を言うべきだろうな。狂った俺を愛してくれるお前に」 感謝する、と囁いてシキは触れるだけの口づけをアキラにした。そのまま、気を失ったようでアキラに寄りかかってくる。 シキの長身を受け止めながら、アキラは柔らかな笑みを浮かべていた。普段、狂ったシキの前では見せることのない、優しい目をして。 「――どういたしまして」 そっと呟いたアキラの言葉を聞いた者はなかった。 *** シキが目覚めたとき、アキラは既に起きていた。シキの頭を膝に乗せ、時折、髪をそっと手で梳いている。彼は目覚めたシキに気づかなかったらしく、小さく鼻歌を唄っていた。どこか聞き覚えのあるメロディは、思い返せば昔、彼がイグラに参加していた頃に流行していた曲のようだった。 懐かしい。 不意に浮かんだ感想を、下らないと頭の片隅に追いやって、シキは上体を起こした。そこでやっとシキの目覚めに気づいたらしいアキラが、ぱっと笑みを浮かべる。 「おはよう、シキ」 「あぁ……。随分と機嫌がいいようだな、アキラ?」 「そりゃあ、あんたが一緒に眠ってくれたから」 お前の機嫌はそれだけで良くなるのか。まったく、わけが分からない。そう思いながら、シキは己の身体を見下ろして気づく。 昨夜は仕事を終えて、黒のインナーとパンツでここへ来た。そのままアキラを抱いたのだが、なぜか今は白のシャツに着替えてこざっぱりとしている。いつ着替えたのか、まったく記憶になかった。 しかし、アキラに眠ったシキを着替えさせるほどの力はないはずだ。とすると、寝ぼけたまま己自身で着替えたことになるが……いくら疲れていたとしても、己に限ってそんなことがあり得るだろうか。シキは内心、首を傾げた。 そんなシキに気づかず、アキラは嬉しそうにまとわりついてくる。 「シキ! 今日はオフなんだろう? ずっと、傍にいてくれるよな……?」 「あ、あぁ……。――存分に甘えさせてやろう」 何か妙だと感じながらも、シキはアキラにそう言った。その上、アキラに顔を寄せ、唇を重ねる。普段、シキはアキラにキスをしない。必要ないと考えているからだ。にもかかわらず、このときのシキ自身、意識しないほど自然な動作で唇を合わせていた。 ――どうも、妙なのは己自身ではないだろうか。 シキはそう思ったが、口づけを終えたときのアキラの表情を見て、疑念は吹っ飛んでしまった。彼は微笑んでいたのだ。トシマを脱出して以来――いや、出会ってから初めて見るほどの幸せそうな顔で。 2012/08/18 |