君のための物語






 ――寂しい絵だね。
 子供の頃、自分の描く絵を見てそう言ったのは、幼なじみのケイスケだった。そんなものだろうか、と思ったことを覚えている。絵を“寂しい”と評されたことに対する不満はなかった。寂しいことが悪いことだとは思わなかったから。


 仕事帰り。アキラは駅前のカフェにいた。帰るまえに、ふと立ち寄りたくなったのだ。
 別にコーヒーが好きだとか、紅茶派だとか、そういうことに特にこだわりはない。というよりも、アキラは元々、食べることへの執着が極端に薄いのだ。胃に入れられて、身体を維持できる食べ物ならば、何でもいいというところがある。もちろん行きつけの飲み屋や料理屋などなかったのだが、最近、駅前のカフェにはよく行くようになった。自分でもよく分からないのだが、前を通りかかると何だか入りたくなるのだ。多分、店の雰囲気がいいのだろうと思う。
 実際、カフェの店内はたいてい人が多すぎもせず、少なすぎもせず、ほどよい人の気配に満ちている。店の中ではさわさわと人の話し声が聞こえてくるが、うるさいというほどではない。一人きりで入っても、程良いざわめきのおかげで寂しくはなく、しかし、一人きりを邪魔されることもないという絶妙な雰囲気だった。そこにいると妙に絵が描きたくなって、スケッチブック持参で来ることもあった。
 アキラが描くのは、基本的に廃墟ばかりである。描きたくなる題材が、いつも廃墟だけなのだ。現代的な都市の跡からローマ時代の神殿の遺跡まで、廃墟であれば何でも描く。そういう自分は少し変なのかもしれない、と疑ったこともないことはなかった。けれど、アキラの大学時代の友人にも、何かの紋様みたいな図形ばかり描くユキヒトという男がいるのだから、さほど特異な異常というわけでもないのだろう。今でも親しい仲間だけで飲みに行けば、皆してユキヒトとアキラの絵についてからかってくる。
『お前たちは絵を描くけど、アーティストっていうかもはや職人だよな。紋様職人と廃墟職人』
 ――廃墟職人……廃墟を作る専門家。そう言われると何だか本物の廃墟を量産している破壊神のようなあだ名だと思う。しかし、破壊神まがいのあだ名を付けられようと、やはり描きたいものは廃墟なのだから仕方がない。
 仕事帰りで疲れていたのだが、その日が金曜日で翌日は休みということもあって、興が乗ったアキラは鞄の中に入れていたスケッチブックを取り出した。白い紙の上にさらさらと鉛筆を走らせていく。アキラが描くのには実際に存在しそうな遺跡などの廃墟も多いが、基本的に資料は必要なかった。頭の中に浮かぶ光景を再現するだけで、取りあえずの形はできる。本格的にキャンバスに描くときは、確認のために建築資料なども参考にするのだが。
 そうして絵に没頭してどれほど時間が経っただろうか。
「――失礼。相席しても?」
 低く響きのいい声が降ってきて、アキラははっと顔を上げた。今、目が覚めたかのように、自分以外の世界が戻ってくる。見れば、アキラの傍らに長身の男が立っていた。黒い髪に紅い瞳、冷たいほどに整った容貌。そういえば、この店で何度か見かけたことのある男だった。職場が近くにあるこの店の常連なのかもしれない。きっちりとスーツを着こなした彼は、コーヒーカップを乗せたトレイを手にしている。
 アキラは辺りを見回した。八時頃になって、店内はそこそこ人が増えてきている。そんな中で絵を描いていて、邪魔になってしまったかもしれない。
「あの、席、どうぞ。俺はもう帰るので……」アキラはスケッチブックを閉じようとした。
 けれども。
「待ってくれ。よくここで絵を描いているだろう? 一度、話してみたかったんだ」相手はそう言って、さっさとアキラの向かいの席に座った。
「なんで……」
「興味があった。俺も絵を描くものでな」
「あんたが? ……すみません。あなたが絵を?」
 驚きで思わず、素の話し方が出てしまったのを慌てて訂正する。それほど目の前の男が絵を描くようには見えなかった。何というか、六法全書を手にしているか、美女でも侍らせていそうな――そんな支離滅裂なイメージしか浮かんで来ない。要はミステリアスなのだ。
 男はそれこそミステリアスな表情で、くつくつと笑った。
「あんたで構わない。敬語は不要だ。俺はそちらの上司でも何でもないのだからな。……ところで名は?」
「アキラ……」
「そうか。アキラ、しばらく俺と話すなら、賄賂をやろう」
「賄賂?」
「ほら」
 男は自分のトレイの上に置いてあったドーナツの皿を、アキラのトレイに移した。見れば、最近、アキラが気に入っているキャラメルフレーバーのドーナツだった。とはいっても、男がアキラの好みを知っていたはずはない。おそらく偶然なのだろうが、自分でも意外なことに妙に嬉しくなってしまう。
 アキラは笑って、口を開いた。
「……もう一つ、賄賂を付けてくれたあんたと話す」
「もう一つ?」
「名前。あんたの名前を教えてくれたら」
「そんなものでいいのか」
 男は面白そうに微笑した。冷たそうな秀麗な顔立ちの印象が変わって、何だか妙に自信ありげに見える。だが、そんな表情もなぜか男にはよく似合っていた。
「俺はシキという」
 それがシキとの出会いだった。


「……あのときのあんたは、格好よかったよな」
 こたつに入って寝転がり、テレビを見ながらアキラは呟いた。画面には、レンタルショップで借りてきた『ガンダム』の映像が映し出されている。シキと知り合ったここ二年で知ったことだが、ガンダムにもいろいろシリーズがあって登場するMSもストーリーも異なる。今、映し出されているのは、アキラが最も好きなシリーズだった。ストーリーもさることながら、このシリーズのMSのデザインが好きだ。これまでアキラはシキの力説するガンダムの良さとMSの格好よさが理解できなかったのだが、このシリーズを見て理解することができた。要は好みの問題に違いない。アキラが二年前にひと目でシキに惹かれたように、MSのデザインに惚れることができるかという。以前、そう話したところ、シキはなぜか拗ねてしまったが。
 二年前、アキラに話しかけてきたシキは、近くの法律事務所の職員だった。そこまではいい。ついでに彼は世間で言うところのオタクで、更に言うならば腐男子というカテゴリに属する存在でもあった。
 シキの描く絵というのもアニメなどのキャラクターが中心だ。だが、絵に関して言うならば、彼の描くものは素晴らしいとアキラは思っている。アニメのキャラクターだろうが何だろうが、シキが描くとまるで生きた人間のような存在感と感情を感じさせる絵が出来上がるのだ。アキラの描くがらんとした廃墟の絵と並べてみれば、シキの画力がいかに希有なものかがよく分かる。
 付き合っているうちにシキの趣味に巻き込まれて――いや、シキの趣味に巻き込まれているうちに付き合うことになったのか――今では、アキラも多少はサブカルチャーの世界を知るようになっていた。ばかりか、シキがイベントで漫画や小説の同人誌を発行する際の手伝いまでしている。ついこの間までだって、シキが冬コミに発行する漫画本のアナログ原稿を手伝って、ベタをしていたのだ。
 ――お前は絵を描くから、少し説明しただけで理解してくれて助かる。
 とは、いつもシキが言う言葉だ。それを聞く度にアキラは「あんた俺が絵を描くから付き合おうと思ったんじゃないのか」とツッコミたくなるのだが、そうじゃないことは十分承知している。だから、言ったことはない。
 それよりも困るのは、BL原稿の手伝いだった。特に濡れ場は、何というかいろいろ思い出してしまうので、非常に困る。しかも、ある程度そういう方面の経験があるために、シキの描いたコマにふと「これってこういう風にできたっけ?」などと疑問を持ってしまうのだ。ふとその疑問を漏らしてしまったら、いっそうひどいことになる。シキも自分も妙にハイテンションになっているせいで、普段なら自重するところを「じゃあ、やってみるか」という軽いノリでそういう行為に及んでしまう。色気のないことこの上ない話だった。
「まさかあんたがこういう趣味だったなんて、あのときは思いもしなかった」
 もう一度呟くと、すぐ傍で本に没頭していたシキがようやく顔を上げた。手にしているのは、同人誌だ。先日の冬コミでシキの好きな同人作家が出した新刊らしい。いつもシキが自分の本を委託している叔母のエマが買ってきてくれたという本だという。
 さっきから同人誌に夢中だったシキの気を引くことに成功して、アキラは少し楽しくなって笑った。自分も同人誌は読むし、集中したい気持ちも理解できる。けれど、一緒にいるとたまにシキにちょっかいを掛けて気を引きたくなるのは仕方がない。
「アキラ。随分な言い様だな。……こんなでも、俺に惚れているんだろう?」
「あんた、それ、格好いいけどさ。同人誌持ったまま、自信ありげに言われても説得力ないし」
「同人誌を持っていようがいまいが、同じことだ。オタクなのも含めての俺だからな」
「ま、そうだよな。……あんたの絵、すごいもんな。文章も。あれはあんたから切り離せない才能だ」
「当然だろう」
 おどけたように眉を上げて笑ってから、シキはおもむろにうーんと手を伸ばした。こたつから少し離れた本棚に置かれていた紙袋を取り上げる。彼はアキラの前に紙袋を置いた。
「DVDに飽きたなら、読んでみるか?」
「何?」
「開けてみろ」
 言われるままに紙袋を開けば、中に同人誌が入っていた。同人誌としては、なかなか厚みがある。二百ページくらいはあるだろうか。表紙を見たところで、アキラははっと息を呑んだ。表紙を飾っているのは、アキラが描いた廃墟の絵だったのだ。その片隅に、廃墟に馴染むように一人の少年が描き加えられている。
「これ、あんたの本……?」
「あぁ。今回の冬コミで二次創作の本と一緒に出した、オリジナルの小説だ。秋頃に、お前に廃墟の絵を使わせてほしいと頼んだだろう?」
「そういえば……そんなこともあったな」
 アキラは表紙を開いた。カラーの扉絵があり、そこにもアキラの別の絵が使われている。まるで何かに誘われるように、アキラは小説を読み始めた。廃墟を旅する少年のファンタジーだった。主人公の少年は、廃墟を旅する中で仲間と出会い、愛することを知っていく。そうするうちに、最初は感情に乏しかった彼は泣いたり笑ったりするようになっていくのだ。
 物語を読み終えたとき、アキラは頬を伝う滴に初めて気づいた。いつから泣いていたのだろう。涙はあとからあとから溢れてくる。このままでは本を濡らしてしまう、とアキラはこたつの上に本を避難させて両手で顔を覆った。
 と、頭にぽんとシキの手が置かれるのを感じた。
「お前のための本だ」
「っ……。なんで……あんた、オリジナルは……書いたこと、なかったのに……」
「俺はずっと、己のために絵や小説を書いてきた。同人誌として発行すれば多少の人間が読むが……それでも今まで書いてきたものはすべて、己自身のためだった。だが、一度、己以外の相手のために書いてみたくなった。……そんな風に思った相手は、お前が初めてだ」
「ありがとう……」
 そう呟いたとき、アキラは悟った。そうか、自分は廃墟を描きながら寂しいと感じていたのか、と。寂しさがどういうものか、初めて本当に分かった気がした。
 それでも、自分はこれからも廃墟を描くだろう――それが自分という人間だからだ。けれど、もう寂しくはない。たとえ自分が描くのががらんとした廃墟であっても、シキはそれを受け入れて物語で満たしてくれるだろうから。
 アキラは顔を覆っていた両手を外し、泣き笑いの笑顔をシキに向けた。

「――俺、あんたと会えてよかったよ」







2012/12/31

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