君にただいまを言う

*シキアキ年齢逆転(アキラが五才年長)
*直接的な場面の描写はありませんが、アキラが生きるためにシキ以外に抱かれたという記述があります。







 俺が君と出会ったのは、十七のとき。君はまだ十二。
 十七歳の俺は何の目的もなくただ漠然と生きている。いつ死んでもいいと思っていて――けれど死ぬべき差し迫った理由もないから、死んだような心のままで生きている。


 俺は孤児として生まれ育った。
 その頃のニホンはいわゆる軍事国家で、高級軍人を含む特権階級が政治と経済を支配していた。国民の義務は兵役に就くこと。もちろん例外もあったが、俺のような孤児は少し大きくなるとすぐに軍人の養成所に入れられるのが常だった。
 ニホンは第三次大戦に参戦していた。最初は勝っていたようだ。だが、俺が養成所に入った頃には敗戦の色合いが濃かった。養成所では軍人になる者に思想教育も行っていたけれど、教室の片隅や寮の裏側では現体制を打破しなければという革命思想が囁(ささや)かれていた。
 とはいっても、俺は革命には無関心だった。もっと言えば、授業で行われる軍国思想さえどうでもよかった。何のために生きるのか分からないまま漠然と生きている――それが俺だった。
 だから、軍国体制を崩す発端となったあのクーデターに加わったのは、成り行きにすぎない。どうしてそんなことになったのかも忘れてしまった。当時の養成所の同期に引っ張って行かれただとか、きっと、そんなつまらない理由だったのだろうと思う。
 覚えているのは、冬の寒い日に銃を持ち、走ったことだ。
 養成所を出た軍人見習いたちは、幾手かに分かれて権力者の屋敷を襲撃した。そんな中、俺が振り分けられた班が向かったのは、身分の高い軍人の屋敷だった。車両は調達できず、養成所から近かったので徒歩で向かった。その軍人の屋敷はニホンの伝統的な純和風の造りで、独特の風格があった。
 革命勢力と言ったって暴徒と変わりない俺たちに囲まれても、その屋敷は凛然としていた。決して侵すことのできない空気が、確かにそこにあったように思う。それでも、俺たち革命勢力は凛然とした空気を破って、土足で屋敷に侵入した。
 屋敷を破壊し、家人に暴力を振るい――家の主である軍人の居所を聞き出そうとした。といっても、その軍人が別の班が襲撃しているであろう政府官邸に詰めていることは、皆が承知していたのだが。
 やがて、屋敷が燃え始めた。そのときになって、誰かが標的である軍人の妻子がいないと気づき、声を上げた。そこで、皆は屋敷の外へ出て、逃げたらしい妻子を探し始めた。俺も命じられるままに、捜索に加わった。
 屋敷のすぐ裏手には、林があった。すでに夜になっていて、林の中は真っ暗だ。俺は仲間たちと離れて、林へと分け入っていった。仲間であるはずの革命勢力の皆から離れたくなったのだ。もともと、自分の信念で参加したわけでもない。流されるままに付いてきてしまったが、丸腰の家人にまで暴力を振るう仲間らのやり方に、正直、嫌気が差していた。
 林の中を進んでいくと、不意に殺気を感じた。振り返れば、黒い小柄な影が俺に向かって突っ込んできている。俺はとっさに地面を蹴って飛びのいた。直後、数秒前まで立っていた場所を、銀色の光が薙(な)ぎ払う。
 俺はナイフを構えて相手に向き直った。相手もこちらの武器を警戒しているのか、仕掛けてこない。互いに間合いを測っていると、雲が晴れて木々の合間から月の光が射し込んできた。月光に照らされた相手は――まだほんの少年だった。年齢は十二歳くらいだろうか。一人前に構えた日本刀が少し重たげに見える。
「お前は……」
「貴様らが捜している軍人の息子だ。俺を連れていけ。殺しても構わない。だから、この先へは行くな」少年は凛とした声音で言った。
「この先に何があるんだ……?」
「何もない。だが、ここを通すわけには行かない」
 明らかに何かある。そう考えた俺は身振りで少年の攻撃を誘った。狙いに乗って振り下ろされた刃をかわし、脇をすり抜ける。彼の太刀さばきは十を過ぎたばかりとは思えないほど巧みだった。けれど、俺だってこれでも養成所では特殊部隊のコースにいたのである。決してかわせないわけでもない。
 そこまでして先にあるものを見たがったのは、少年に意地悪をしようとしたためではなかった。ただの好奇心。それだけだ。しかし、少年を振り切って少し先にある山茶花の木の傍までたどり着いた俺は、自分の気まぐれを後悔した。
 山茶花の木陰にいたのは、少年の母らしき女性だったのだ。
 地面に散った山茶花の紅の花びらに埋もれるようにして、彼女は地面に横たわっていた。黒っぽい着物を身に着けていると見えたが、近づいてみるとつんと濃い血の臭いが鼻についた。着物は黒っぽいのではなく、彼女の血に染まってそう見えたのだろう。
「これは……」
 俺は思わず絶句した。そのときだ。殺気を隠しもせずに、少年が背後から斬りかかってくるのが分かる。しかし、感情が昂っていて自分では制御できないのだろう。彼の剣筋はひどく乱れていて、今度は先ほどよりもかわすことが難しくなかった。俺は少し身を引いて刃を避けながら、少年の腕を掴んだ。ぐぃと腕を引っ張って地面に押し倒し、少年の上に馬乗りになる。
「くっ……! 放せ! 俺に触れるな!!」
 少年は暴れながらわめいた。
 俺は短く舌打ちした。こんなに騒いでいては皆に見つかってしまう――そう考えた時点で、たぶん養成所の同期らを含む革命勢力を仲間と見なしていなかったのだろう。俺はナイフを少年の咽喉もとに突きつけ、「静かに」と命じた。彼は目に疑問を浮かべながらも、俺の態度から何かを察知したのか、口を噤んで暴れるのを止めた。
「……そう、それでいい。静かにするなら、殺しはしない」
「生命など惜しくはない」
 少年は震えながら――それでも、強い覚悟を秘めた眼差しを俺に向けた。
「山茶花の下にいる女性(ひと)は、お前の母親か? 彼女はどうして……」
「母はもともと心臓が弱かった。貴様らの襲撃を受けて、逃げる途中に発作が起きた。……母はこのままでは足手まといになるからと、俺の目の前で咽喉を突いて自害した。止める間もなく」
「…………」
 俺はとっさに何も言うことができなかった。目の前で家族を失うということは、きっと途方もないくらいに辛いことなのだろう。孤児の俺には分からないが――気丈な少年が顔を歪ませながらも涙を堪えているくらいなのだから、想像することはできる。
「俺を殺せ。罪もない女や丸腰の人間を襲う貴様らに捕まって、名誉を汚されて生きるよりは……母のようにこの場で死んだ方がましだ」
 子どもとは思えない少年の言葉。それを聞いた俺は脳天を殴られたような衝撃を受けた。
 何の目的もなく死んだように生きてきて、流されるままに『革命』に参加した。けれど、『革命』の勢力が唱える政治がどうとか平等がどうとかいった思想は、一度だって俺の死んだような心を揺さぶりはしなかったのだ。『革命』の思想よりも――目の前の少年の強い意思を秘めた瞳の方が、よほど鮮烈に感じられる。
 だから、俺は。
「……殺さない」
「え?」俺の言葉に少年は目を丸くした。
「俺はお前を殺さない。逃がしてやるよ」
「――何を……」
「革命なんか、俺はどうでもいいんだ。革命思想もよく分からないし」
「貴様……革命勢力の一人なんだろう? どうでもいいってそんな……」
「だって、どうでもいいんだから仕方ない。それに、皆が言うように素晴らし革命だったら、子ども一人の生命くらい奪わなくたって、実現できるだろう。だから、問題ない」
 そう言ったときだった。少し離れたところに、数人の気配を感じた。おそらく、他の仲間たちがこの林に入って来たのだろう。このままでは、少年が発見されてしまう。俺は少年の手を掴んで、立ち上がった。彼は俺を振り払おうとしたが、俺はその手を強く握って離さなかった。放っておいたら、少年が“誇りを守るために”などと言って自害してしまいそうだったからだ。
「行こう。このまま林を抜ける。俺がお前を守るから」
「……母をこのままにしては……」少年は小さな声で言った。
「葬ってやりたいが、時間がないんだ。……お前の母さんも、お前が死ぬことを望んではいないだろ」
「っ……」少年は悔しそうに俯いた。「“お前”じゃない……」
「え?」
「俺の名はシキだ」
 それは少年――シキなりの、俺と逃げることへの承諾の合図のようだった。俺は思わずちょっと笑ってから、「ありがとう」と礼を言った。
「礼を言われることじゃない。貴様に気を許したわけでもない。――俺は逃げ延びて、いつか母の死の原因を……この革命に関わった者たちを殺してやる。貴様も含めて。そのために、生きるんだ」
「それでいいよ、シキ。お前の最初の標的の名を教えてやる。俺はアキラだ。シキ、お前が殺す者の名前だ」
「アキラ……貴様を、必ず殺す」
 シキは殺気をたたえた目で俺を射抜いた。その視線を受け止めながら、俺はぼんやりと考える。いつ死んでもいいと思っていたけれど、そう簡単に生命を捨てることができなくなったな、と。何せ俺の生命は売約済なのだ。シキが殺しに来るまで、生きていてやらなくてはならない。そう考えると、何の目的もなかった人生が少しだけ楽しく思えてきた。




 俺が君と出会ってから、すでに二年が経っている。俺たちは革命勢力――『革命』に成功して新生ニホン政府となった――から身を隠しながら、何とか生きる日々。出会いが出会いだったにもかかわらず、君は俺から離れない。そのことを、俺は少し嬉しく思う。
 いつからか、君に殺されるという約束のために生きている俺がいる。

 未成年が二人で生きていくのは、とても難しい。二人とも追われる身であれば、なおのこと。雇ってくれる場所はないし、かといって、児童保護施設で保護を受けるわけにもいかない。それでも、第三次大戦が終わって社会が混乱しているから、まだ何とか裏の世界に潜り込んでやっていける。 
 まっとうなアルバイトがあるならば、それに越したことはない。だが、そんな上手い話は滅多とないので、たいていは後ろ暗いことをして金銭を得なければならない。俺とシキは、食べていくためなら、だいたい何でもした。裕福そうで、偉そうな大人を選んでの盗みや脅し。誰かから依頼を受けての殺人。シキが少女の格好をして、美人局(つつもたせ)なんて真似までした。幸いにというのだろうか、俺もシキも戦闘術の基本は習得していたから、多少ヤバい状況になってもそれなりに切り抜けることができた。
 俺たちはいつも一緒だった。
 ただ一つだけ。最後の最後まで手を出さなかった仕事がある。売春だ。俺は、自分はともかく、決してシキにそんな真似をさせたくはなかった。というのも、俺にとってシキは生きる目的であり、一種の聖域だったからだ。たとえ、シキの方は俺を憎んでいるにせよ。
 それでも、俺もシキも生きるためには何でもしなければならないのだと、既に知っている。だから、困窮したときにシキが身体を売ると言いださないように、俺は売春だけは自分も決してしなかった。初めからそういう選択肢などないのだと思わせておけば、シキも言いださないだろうと考えていたのだ。
 けれど、一緒に過ごして二年が過ぎ、三年目に入ろうかという冬の日。いよいよ金に困るときが来た。シキが病にかかったのだ。俺たちは二人とも比較的丈夫な性質ではあったけれど、それでも生活環境は常に劣悪だ。廃墟で寝たり野宿したりが大半の暮らしで、宿に泊まれるのは一年のうちでも数えるほど。金が手に入らなければ、食うや食わずの日が続く。いかに丈夫といっても、ふとした拍子に病になって当然だった。
 病になったシキを暖かな宿で眠らせてやりたい。そう思うけれど、そんなときに限って収入のあてはない。シキを一人で廃墟に残して街に出た俺は、夕方になる頃に腹を決めた。
 身体を売って金を作る。
 今まで他人に身を任せたことはなかったが、自分がそうした『商品』として価値のあることは薄々気づいていた。だからこその決断だった。夜の街角に立ち、声を掛けられるのを待つ。金を持っていそうな男が引っ掛かるのに、さほどの時間は掛からなかった。
 見知らぬ男に身を任せるのは愉しい行為ではなかった。けれど、別に情が必要なわけでもない。感情を出さないままにさっさと行為を終えた俺は、金を受け取ってシキの待つ廃墟へと急いだ。客の男は金を弾んでくれたので、俺は少し得をした気分だった。身を売ったことの惨めさよりも、これでシキを闇医者に診せて、宿に寝かせてやれるということが頭を占めていた。
 けれど、そんな俺の気分はシキの元に戻った途端に吹っ飛んだ。
 それまでうずくまって、ぐったりしていたシキが、近づいた途端、顔を上げて睨みつけてきたのだ。その面(おもて)には、出会った直後を思わせるほどの激しい拒絶が浮かんでいる。俺はひどく驚いて――熱のせいでシキが錯乱してしまったのかと疑った。
 だが、そうじゃなかった。
「――どこへ行っていた?」シキは厳しい口調で問い詰めた。
「どこって……金を稼ぎに行ってたんだよ。お前を医者に診せなきゃならないし、宿を取って暖かなところで寝かせてやりたいし……」
「不要だ」
 低く切り捨てられる。我が身を犠牲にしたにもかかわらずあっさり切り捨てられて、俺は強い苛立ちを覚えた。
「何だって? 俺がどれだけ苦労して……」
「要らない。……その金どうやって手に入れた?」
「どうって……いつも通りさ。裕福そうな奴とすれ違ったときに、財布をスって……」
「嘘だ」
「そんなこと、嘘ついてどうするんだよ?」
 内心でうろたえながらも、俺は必死に取り繕おうとした。けれど。
「――においがする。他の男の香水のにおいが」
「っ……」
「なぜなんだ……? なぜ、俺のためにそこまでする? ……俺はいつか貴様を殺すつもりなのに!?」
「お前こそ、俺を殺すつもりなら生きなきゃいけないだろうっ!? だったら、今こそ俺を利用すればいいじゃないか! どうして金なんかいらないって言うんだ!?」
 俺は開き直って、怒鳴った。そうして、シキからの反論に身構える。きっとシキはこちらの肺腑を切り裂くような鋭い言葉を投げつけるだろう――そう思ったのに。がくりと俯いたシキは、黙ったままでいた。
 そこで、俺は急にシキが病人だったことを思い出す。もしかして、声を出すこともできないほど体調が悪化したのではないか。心配になって、俺はシキに駆け寄った。
「シキ……気分が悪いのか!?」
「っ……来るな……!」シキは手を上げて俺を遠ざけるように振った。けれど、その動きは弱々しい。「来るな……。触れるな……」
「……シキ……」
 俺はシキの拒絶を聞かずに、慎重に距離を詰めた。傍らに跪き、俺を拒むために振り上げられた手をそっと掴む。それに気づいて顔を上げた彼は――涙を流していた。それも、幼子のようにぼろぼろと。俺は思わず息を呑む。どうしてシキは泣いているのだろう? 母親が死んだあの晩でさえ、俺の前では涙を見せなかったのに。理由は分からなかったが、じくりと胸が痛んだ。
 拒絶され、殴られてもいい。
 そう思いながら、俺は涙を流すシキを抱き寄せた。この頃は身長が伸びてきたとはいえ、五つ下の少年の身体はまだ簡単に腕の中に収まる。シキは俺に抱き寄せられて、暴れることはなかった。彼の身体はまだ熱があるようだから、単に抵抗する気力がないだけなのかもしれないが。
「シキ……。すまない。もう二度としない。……だけど、今回だけは許してくれ。俺はシキに死んでほしくないんだ……」
「なぜだ……。なぜ、なぜ……お前は俺を、救おうとする……。なぜ……」
 なぜ、とシキは涙を流しながら繰り返す。俺は彼の背中をさすりながら、しばらくの間それを聞いていた。


 なぜ自分を救おうとするのか、と君は尋ねる。それなら、俺だって君に問いたい。どうして俺を殺さないのか。なぜ傍にいてくれるのか。――けれど、尋ねてしまったら、君と過ごす幸福な時間が消えてしまいそうで、俺は何も聞けないでいる。




 俺が君と出会ってから、四年が過ぎている。俺たちはすっかり裏の世界に馴染んでいて、二人で殺しなどの依頼を受けて食いつないでいる。殺しの依頼などは報酬がいいので、以前より生活は楽になった。その中で、俺たちの関係はすっかり変わってしまった。その些細な変化の一つが、『お前』と呼んでいた君のことを、いつしか『あんた』か、もしくは名で呼ぶようになったことだ。君もまた、俺のことを『貴様』ではなく『お前』か『アキラ』と呼ぶようになった。
 それだけではない。
 かつて君は俺を殺すと誓ったのに、なぜだか今でも傍にいてくれる。俺はそれが嬉しくて、それでもいつか君が去っていくのではないかと不安だった。だから、あるときふとした拍子に衝動的に君と身体を繋げてしまったことを、実は好都合だと思っている。
 もっとも、君がどう考えているのかは分からない。後悔しているのか、俺に絆(ほだ)されているのか、それとも殺したい相手である俺を屈服させる手段の一つだと見なしているのか。聞いてみたくなるときがあるけれど、そうすれば君が離れていってしまう気がして、できないでいる。


 まるでしがみつかれているかのようだ。
 シキの熱を受け止めながら、俺は頭の片隅でそう思う。いつになく熱を帯びた目でシキは俺を見て、口づけを降らせてきた。互いに限界が近い。何となくそのことが感じられる。
「シキ、シキ……シキ…………」
 好きだ、と告げることはできない。そうすれば、彼は俺から離れていく。だからその代わりにただ名を呼んで、彼の背をかき抱いた。
 出会った頃にはほんの子どもだったシキは、十八になった今では俺よりも背が高く、身体は細身ながらもしなやかな筋肉が付いている。そのたくましさと、それでもどこか少年の特徴を残す頼りなさとに、胸がざわざわとかき乱される。そんな感覚の中で、唐突に絶頂が訪れた。
 一瞬、意識が真っ白になる。シキの背に爪を立てて身を強ばらせると、こちらの絶頂に引きずられたのか、シキも俺を抱く腕に力を込めて熱を吐き出した。体内を濡らす熱の感覚に、俺はほうっとため息を吐く。
 やがて、弛緩した体内からシキが出ていった。彼はすぐにベッドから立ち上がり、シャワールームへ歩いていく。恋人同士の甘やかな接触も、気遣いもひとつもない。それもそのはずだ。
 おそらく、シキは俺とのこの行為を、憎い相手へ屈辱を与えるためのものだと考えている。彼は四年前、出会ったとき以来、俺を許してはいないから。
 俺はベッドに伏したまま、ぼんやりしていた。と、ふとシャワールームに入る直前、シキが視線を投げたのを感じた。シキはいつもそうだ。俺を抱いた後に気遣うことはしないが、それでもこちらの様子に注意を向けている。
 たぶん、シキは俺を気遣いたくて、けれどそうできないでいるのだろう。なぜなら、俺は家を襲撃した革命勢力の一員だった男で――シキの憎むべき敵だから。それでも、たぶん、シキは単純に俺を憎んでいるわけではない。行為のときに俺を求めるシキの眼差し、普段の態度、それらを見ていればよく分かる。
 きっと、シキは迷っているのだ。俺に対してどんな風に接すればいいのか。ただ憎むことも、憎しみを捨てることもできず、戸惑っている。五つ年齢が上だからだろうか、シキのその心情が俺にはよく分かった。
 だけど、そもそもシキが迷うのは俺のせいだ。俺がずっと、自分がそうしたくて何も告げずにシキの傍にい続けたから。シキは俺を憎むことも、許すこともできなくなってしまっている。
「……俺はシキを苦しめたいわけじゃなかったんだけどな」
 俺は小さく呟いた。
 そうだ。俺は出会った頃から、シキを生きる目的としてきた。今では彼だけが、自分にとってそれほどの価値がある。だが、大切だからこそ、シキを苦しめたくはないのだ。
 ――ここが潮時か。
 自分にとって、シキがどんな存在かを告げる。おそらくこちらの心情を打ち明ければ、シキは呆れて去ってしまうだろう。それは辛い。だが――俺にとっては自分の辛さよりも、シキを迷わせ苦しませることの方が嫌だった。
 俺は心を決めて、シキがシャワールームから出てくるのを待った。やがて、湯の湿気をまとって出てきたシキが隣のベッドに腰を下ろす。そのときを見計らって、俺は自分のベッドから立ち上がった。彼のベッドに乗り上げて、するりとシキに身を寄せる。
「何だ……?」シキがきょっとした顔で尋ねた。
「……あんたに言うべきことがある。俺はあんたに抱かれることを屈辱だとは思っていない。あんたがどう思っていようが、セックスは復讐にはならないんだ。――俺は、あんたに惹かれてるから傍にいる。愛してるんだ。出会ったときから、あんたは俺の生きる理由になった」
「何……?」
 シキは目を丸くした。が、やがてうつむいて、拒絶するように俺の身体を押し退ける。
「シキ……」
「嫌だ。何も聞きたくない」
 きっぱりと拒絶すると、自分のベッドに横になった。もう話をしない、とでもいうように俺に背を向ける。
 予想していたことだった。
 俺はそっとため息を吐き、自分もベッドに横になった。ずっとすべてを曖昧にしたままでシキといられたらいいと思ったけれど――そんな都合のいいことができるはずないと頭の片隅ですでに理解していた。落胆は少しあったが、仕方ない。
 翌日、俺が目を覚ますと、隣のベッドはもぬけの殻だった。シキの愛用の刀もなくなっている。そうか出ていったのか、と俺は悟って――予想していたことながら少しだけ泣いた。


 二日後。次の街に発つ予定にしていたその日の朝に、君は俺の元へ戻ってくる。もう会えないだろうと考えていた俺は、とっさに言葉も出ない。それでもやっと、俺は「なぜ?」と尋ねる。
 君は問いには答えず、突然、俺に抱きつく。
「……お前が好きだ。だから抱いたのだと思う。たぶん、あれは……本当は屈服させるためじゃなかった」
「うん」頷いて、俺は君の背を撫でる。
「答えを出すのに覚悟が必要だった。だから、時間がかかった」君はどこか必死な声音で言う。
「うん……。それでも、あんたは答えを出してくれただろう? ありがとう」
 そう言う俺を、君はいっそう強く抱きしめる。その腕の強さに――俺は君の想いの深さ以上に、別れの気配を感じ取ってしまう。
「……アキラ。お前が好きだ。だから、俺は強くなってお前に追いつきたい。追いつくために、俺は――一度離れて、修行に出たい」
「……いいよ」俺は君の背を撫でながら、そう答える。
 もしかしたら、俺の元を去った君はもう戻らないかもしれない。君は約束を破る男ではないけれど――不測の事態によって約束を守れないことはあるものだ。たとえば、突然の死によってだとか。
 それでも、俺は君を手放す覚悟をする。それが君にとって、一番いい選択だと思うからだ。
『好きだ』と告げたら君が去ってしまう――結局、俺の勘は的中していたのだ、と寂しさと悲しみで満ちた頭の片隅で考えている。




 現在。
 俺は二十七歳に、君は二十二歳になっている。修行と称して海外で傭兵をやっていた君は、約束通り三年で俺の元へ戻ってきた。艶やかな黒髪に白皙の美貌。別れたときにはまだ残っていたあどけなさはすっかり抜けて、今の君は俺にはただただ眩しいばかり。そのことが誇らしいような、寂しいような。
 おまけに、すっかり腕を上げた君は、今では裏の世界で名を知られるまでになっている。以前は君のことを知っているのは俺だけだったのに。君の腕を求める者、君の生命を奪おうとする者が多くなって――俺はほんの少しだけ面白くない。


 豪奢なオフィスの壁際にうずくまった男が俺を見上げている。男は俺より少し年上で、三十になるかならないかといったところだろうか。まだ若いのにこうして広々としたオフィスを構えることができるのは、男が十年前の革命の功労者だからだ。
 俺は男に見覚えがあった。シキの実家を襲撃した夜、共に行動したリーダー格の男だ。
 今、男は仕立てのいいスーツも構わずに、床に這いつくばって震えていた。
「た……頼む……。生命だけは助けてくれ……」
「さぁ、どうしようかな?」
 俺はわざとらしく首を傾げた。けれど、心は決めている。
 男はシキの存在を知り、しかもその出自がかつての特権階級の子弟の生き残りだと悟って、暗殺依頼を出していた。シキは『刺客に狙われるのも一興だ』と笑って男を放置していたが、俺はそれでは収まらない。単身、闇に紛れて男のオフィスのあるビルに忍び込んだ。――もちろん、殺すつもりだった。
「お前は誰の差し金だ? お前を雇った人間の倍の金を出す。だから、どうか殺さないでくれ……」男は懇願した。
「問題は金じゃないんだ」
 俺は男に向けた銃の引き金にかけた指にゆっくりと力を込める。相手に引き金を引こうとしていることが分かるように。
「……金じゃないのか……? だったら何だ!? 望みのものなら、何でも……」
「――金と権力とですべてが解決すると思ってるのか? だとしたら、お前はお前自身が十年前の革命で倒した特権階級と何も違わないな。……革命のご大層な理念はどこへ行ったんだ? お前は――お前らはたったの十年で魂まで腐っちまったのか?」
「何……? お前、まさか革命に参加していたのか……。なぜ革命の同志が殺し屋になんかに身を堕とすことに? ……そうだ! お前が望むなら、それ相応の地位と名誉を――」
 俺は男に皆まで言わせなかった。立て続けに三度引き金を引き、男に鉛の銃弾を撃ち込む。サイレンサー付きの銃は銃声を上げない。男が「ぐっ」と吐き出したうめき声だけが、部屋にこだまする。
 やがて辺りが静かになったとき、俺はぽつりと呟いた。
「あいにく、地位や金は俺の生きる目的にはならないんだ」
 男が息絶えたのを確認して、オフィスを出る。俺は誰にも気取られないように、しんと冷たい冬の夜の中に紛れて影と化した。


 夜明け前、俺は隠れ家のアパートに帰る。そこでようやく俺は影から人に戻る。血の臭いをシャワーで素早く洗い流して、君の眠るベッドにもぐりこむ。気配に敏い君は目覚めていて、侵入してきた俺を抱きしめて少し不満そうに尋ねる。
「……どこへ行っていた?」
「ちょっと散歩」俺は囁く。
「物騒な散歩だな。まだ血の臭いが残ってるぞ。まったく、お前は油断も隙もない」君は俺を抱く腕に力を込める。
 俺は少し笑ってから、囁いた。
「心配するな。俺が帰ってくるのは、あんたの傍だけだ」
 そう。
 君にただいまを言う――それだけを目的として生きていける。君の傍にいて触れ合い、言葉を交わす。そのことだけで、どんな辛いことがあっても乗り越えていける。君は俺のすべてで、俺はそのことをとても幸せに感じているのだと伝えたら、今、君はどんな顔をするだろうか?
 ふと興味が湧いて、俺は好奇心を満たすために口を開く。
 君と出会って十年目の夜は、そんな風に更(ふ)けていく。







2013/04/06

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