始まりの話

*ハンターパロのシキアキのなれそめ話です。




1.

 ――七月三十日。
 ケイスケは夜の学校をひとりで歩いていた。といっても、肝試しや好奇心で校舎に忍び込んだわけではない。閉じこめられたのだ。
「……早く……早く帰らないと……!」
 焦りながら、ケイスケは自分の教室のある四階から階下へと降りていく。外から差し込む月光で腕時計を確認すれば、九時四十五分だった。
 ――十時まであと少ししかない……!
 ケイスケは震え上がった。頭の中で、この学校の生徒たちの間で語られる怪談話が再生される。

『夜の十時に校舎にいるとね、大変なことが起きるんだって』
『何? お化けでも出るの?』
『そうらしいよ。前の戦争でこの辺に大規模な空襲があってさ』
『あぁ、知ってるよ、それ。夜の十時だったんだろ? で、爆弾の威力が強すぎて、地下にあったちゃちなシェルターがやられて、避難してた人間が全滅だったって……』
『そうそう。それでね――』

『――それでね、十時に校舎にいると、死者に霊界に引っ張られるんだって』

 あんなのは作り話だ。ケイスケはそう信じようとしたが、できなかった。怖くて怖くて仕方がない。
 携帯電話を家に置いて来るんじゃなかった――そう思いかけて、頭を振った。携帯電話を持っていたからといって、どうにもならなかっただろう。どうせあいつらに取り上げられるだけだ。だって、あいつらは財布まで奪い去っていったのだから。
 ケイスケは今日、夏休みで人気のない校舎に自分を呼びだしたクラスメイトたちの顔を思い浮かべた。自分をいじめる奴ら。金銭を奪った彼らは、面白がってケイスケを教室のロッカーに閉じこめたまま、去っていった。
 怪談の真相を確かめてみろよ、なんて言って。
 奴らはこの悪戯で自分が生命を落としたら、どうする気だろう? ケイスケは暗い気持ちで考えた。おそらく、答えはどうもしない。奴らはケイスケを校舎に放置したことにも知らぬふりをして、何事もなかったかのように卒業していくのだろう。
 ――いっそ、幽霊に殺されてやろうか。それでもいじめっ子たちの心には何の感慨も与えられないだろうが……自分はいじめから楽になれる。
 ちらりとそんな考えが頭をかすめる。
 だが、恐ろしいものはやはり恐ろしかった。死を思いながらもケイスケの足は止まらない。出口へ向かって階段を駆け降りていく。ドクンドクンドクン。急激な運動によって鼓動が速まる。呼吸が乱れる。
 ――いま、何時?
 気になるのだが、時計を見ている暇もない。ようやく一回にたどり着いたケイスケは、疲労でよろめきながらも玄関へ向かった。立ち並ぶ生徒用靴箱の林を抜けて、玄関のガラス戸の取っ手に触れる。もちろん、この時間、玄関は施錠されているはずだ。真っ暗闇の中、ケイスケは手探りで鍵を探した。
 ふと見れば、ガラス戸の向こうの中庭に、街灯に入り交じって長い支柱の足を持つ時計が立っている。校庭の生徒たちに時刻を示すためのものだった。
 時計の針は九時五十八分を指している。
 ――時間がない。
 ケイスケは焦りながら、ようやくのことで鍵を探り当ててツマミを捻った。カチリと錠が開いた音が上がる。
「よしっ……!」勢いこんで、ケイスケはガラス戸を押した。
 しかし。
 ガンッ。掌に抵抗を感じるだけで、戸は開かない。見れば外側に南京錠が取り付けられているようだ。昼間のうちは補習の生徒のために校舎が開放されているから入れたが、夜は防犯のためにこうして外側からも施錠するらしい。
 そうする間にも、ケイスケの目の前で時計の針が十時を示す。途端、暑いはずなのに、急に空気が冷えたように感じた。まるで巨大な冷蔵庫の扉が開いたかのようだ。
「な、何が……」
 ケイスケは思わず振り返った。自分が駆けてきた廊下は闇に包まれて、何も見えない。だが、何かの気配を感じるような気がする。ケイスケは思わず息を潜めた。じわりと嫌な汗がこめかみを伝っていく。
 ズルリ。
 不意に何か粘着質な音が聞こえた気がした。ズルリ、ズルリ、ピチャリ。謎の音はゆっくりとケイスケに近づいてきているようだ。
「――い……嫌だ……! 誰かああぁぁぁぁぁ!!」
 恐怖がせり上がってきて、ケイスケは絶叫した。いっそガラス戸を破壊して逃げようと、ケイスケは戸に向き直る。
 と、そのときだ。
 中庭に立つ時計の支柱の根本に、細っそりした少年があった。ジーンズにTシャツのラフな格好で、肩掛け鞄を掛けている。顔立ちは整っていて、意思の強そうな瞳が印象的だ。彼はケイスケと同い年くらいのようだった。
 少年は落ち着いた足取りで、ケイスケに近づいてきた。『ど・け』と少年の唇が動く。ケイスケがガラス戸から距離を取ると、少年は鞄の中から何かを取り出した。三十センチ定規ほどの大きさのそれは、どうやら短刀らしかった。
「え? そんなのどうするの?」
『黙ってろ』
 ケイスケの口の動きを読んだのか、少年が命じる。ケイスケは慌てて口を閉じた。
 その間にも少年は短刀の鞘を払う。抜き身の刃をガラス戸にあてがって、少年は目を閉じた。その唇が何か異国の言葉のようなものを象って素早く動く。
 やがて彼が目を開けたとき、ケイスケの背後の気配は消えていた。ズルズルというあの不気味な音も消えている。
『もう消えた』
 そう言って、少年は短刀を仕舞った。それから今度は針金のようなものを取り出す。彼は針金で南京錠を開き、ガラス戸を開けた。
 ケイスケは慌てて外に出ると、急に力が抜けてしまった。へなへなとアスファルトの上に座り込む。
「あの……助けて、くれたんだよね?」ケイスケは尋ねた。
「まぁ、そうなるな。助けたといっても、追い払っただけで、完全に祓ったわけじゃないけどな」少年が応じる。
「そう……。どうやったのか分からないけど、とにかく、ありがとう。助かったよ」
「……別に。ちょうどこの近くでバイトしてて道具持ってたし、通りかかったついでだから」
「ついでって……君、ついででゴーストバスターズやっちゃうの?」
 思わずケイスケが尋ねると、少年はつまらなさそうに頷いた。
「何というか……そういう一族だから。バイトもお前の言うところの“ゴーストバスターズの真似事”だしさ」
「へぇ。すごいな、君。……俺はケイスケ。君は?」
「――……アキラ」
 少年はぶっきらぼうに答えた。その頬が少し赤くなっていて、怒っているのではなく照れているのだとケイスケは気づいた。


***


 夜の学校の校門前で、小柄な少年――リンは立ち止まった。今まさに校門を越えて忍び込むつもりだったのだが、止めにする。先ほどまで痛いほどに感じていた妖気が、今はすっかり鳴りを潜めていた。
「あー、先に追い祓われちゃったか」
 リンは苦笑して、手にしていた鈴をシャランと馴らした。巫女が神楽に使うような持ち手のついた鈴である。リンは鞄から取り出した布で鈴を丁寧に包んで、仕舞った。
「それにしても、誰なんだろう? あれほどの妖気をいっぺんに消すなんて、よっぽど強い力の持ち主だよね。……そう思わない?」
 小さく首を傾げて、リンは自分の背後に立つ男を振り返った。夏だというのに黒いコートをまとった彼の姿は、今にも闇に溶けていきそうに見える。
「――力の強いものが必ずしも、よいものとは限らん」
「それって自分のことを言ってるの? 兄貴」
「どうだろうな」男は肩をすくめた。それから、興味を失ったかのように踵を返す。「帰るぞ、リン」
「えぇ! 術者に会っていかないの?」
 リンは唇を尖らせて不満を訴えた。だが、兄は取り合わなかった。彼はちらりと夜の学校の校舎を一瞥して、呟く。
「こちらから会いにいかなくとも、また会うこともあるだろう。そうなる運命ならば、な」



2.

 アキラは閑静な住宅街を歩いていた。夜も遅い時間とあって、立ち並ぶ家の多くに灯りが灯っている。テレビの音や子どものはしゃぐ声がときどき漏れて聞こえた。
 やがてアキラは住宅街の奥――比較的古そうな家々の立つ一角にたどり着いた。どことなく懐かしさを感じさせる景観である。三つほど年上の同居人に聞いたところでは、この一帯の住宅街は前の戦争で焼け残ったこの一角を中心にして広がっていったのだとか。しかし、余所で生まれ育ったアキラには、残念ながら昔を懐かしむ同居人の気持ちを理解することはできなかった。
 ――それでも、この辺りの土地が“いい”のは分かる。
 地の奥深くにある温かな地脈の流れに、アキラはそっと感覚の触手を伸ばした。脳裏に穏やかで清らかな小川のイメージが浮かぶ。この辺りの地脈が清浄だからこそ、戦後、人びとが戻って来られたのだということが、アキラには分かった。さらに、この一帯でなら霊力の強い者も憩うことができるのも、地脈が清らかなおかげだ。
 アキラは地脈の流れをたどり、その源泉の上にあたる場所に行き着いた。そこにはとりわけ古く、こじんまりとした町屋風の家が佇んでいた。その玄関を開けて、中へ入る。「ただいま」そう声を掛けて、家に上がった。
 玄関から近い台所をのぞけば、背の低い老女がガス台に向かっている。現在のアキラの“保護者”渡良垣タエだった。どうやら、揚げ物をしているらしい。彼女の傍らには黒髪で色白の儚げな少年――崎山蓉司が手伝いをしている。
 二人より手前のダイニングテーブルでは、薄茶の髪の子どもが皿に山積みの揚げドーナツを頬張っていた。子ども――しさコノエはアキラに目を止めると、ドーナツでいっぱいの口をもごもごと動かした。
「んんんー、んんん!」
「“アキラ、ばあちゃんのドーナツ、今日もうまいぞ!”って言ってるよ」
 蓉司が振り返って、聞き取りにくいコノエの言葉を翻訳する。アキラとしては、あれで理解できる蓉司に納得がいかない。
「こら、あんた達。まずは“おかえり”を言うのが先だろう?」
 タエが振り返って、コノエと蓉司をたしなめる。その言葉で蓉司は素直に「おかえり」と言った。コノエも「んんん」と不明瞭な音を発する。
「コノエも“おかえり”だって」
 だから、なんでそれで分かるんだよ、蓉司。――アキラは内心でツッコミを入れた。が、生来、口下手な性質である。とっさに言葉は出てこず、ただ頷く。
「アキラも“ただいま”は?」タエが言う。
「ただいま」アキラは素直に応じた。
「そう。それでいいよ」
「……蒼葉はどこ?」
 アキラはもう一人の同居人の名を出した。
「蒼葉なら階上にいるよ。そうそう、階上に行ったら蒼葉にも揚げドーナツが揚がったと伝えておくれ」
 タエの言葉に頷いて、アキラは階段を上がっていった。二階の廊下の突き当たり――蒼葉の部屋のドアを叩く。しかし、返事はない。アキラはしばらく待ってから、ドアを開けた。途端、部屋に据えられたディスプレイのブルーライトが視界に広がる。
 ディスプレイの青い光に染まった部屋のデスクの前に、一人の青年が座っていた。頭部全体を覆うようなヘッドセットを装着しているせいで、顔は見えない。
「蒼葉」
 アキラが呼びかけると、青年は右手を挙げた。聞こえている、もう少し待てのサインだ。アキラは呼びかけるのをやめて、ディスプレイを眺めた。
 ディスプレイ上を、数字と文字の羅列がすごい速さで流れていく。PCに疎いアキラにはとうてい理解できない内容だ。しかし、この部屋の主でアキラより三つ年上の蒼葉は、デジタルの分野を得意とする。おそらくディスプレイに表示されている内容も、呼吸をするかのようにたやすく理解しているのに違いなかった。
 やがて、ディスプレイ上の数字と文字の流れが停止した。いくつものウィンドウが一つ一つ閉じていく。やがてウィンドウが消えて、ディスプレイ上の表示がなくなると蒼葉はヘッドセットを外した。途端、長い髪がばさりと背に広がる。彼はリモコンで部屋の明かりを点けてから、アキラに微笑してみせた。
「おかえり、アキラ。首尾は?」
「上々だ」
「だけど、少し帰りが遅かった。何かトラブるでもあったんじゃないのか?」
「ちょっと寄り道しただけ」
「それならいいんだけど」
 蒼葉はほっとしたように微笑した。アキラの“バイト”のことが気になるのだろう。
 アキラの悪霊退治のバイトは、すべて、蒼葉がネット上から依頼人を見つけだしてきたものだ。依頼人からの報酬がアキラのバイト料となる。そうやって悪霊退治にかかわっているのは、アキラだけではなかった。蒼葉自身も、コノエや蓉司も形は違えど怪異に対処する能力を持っている。四人の中で誰が依頼に適するか見極めて、蒼葉は仕事を割り振りしているのだった。
 蒼葉は、いずれもっと本格的に怪異に対処する会社のようなものを作りたいとときどき言う。正直なところ、それは難しいだろうとアキラは思っていた。寺に神社に霊能者――その他にもいろいろと、古くから怪異に対処してきた実績のある集団は存在する。それらを押し退けてぽっと出の“ゴーストバスターズ”がやっていくことが、どうしてできるだろうか。
 今、こうして蒼葉が“バイト”を持って来られるのは、小規模だからだ。いわば超常現象という市場(マーケット)におけるニッチ産業。もしも会社となって大々的に人々から依頼を受けるようになれば、伝統ある他の勢力が黙っていないだろう。
 俺たちは異端だ――悲観でもひがみでもない、純粋な事実だ。
 不意に脳裏に子どもの頃、体験した場面が浮かび上がる。

 広い部屋の中央に座らされた幼いアキラ。その自分を取り囲む大人たち。彼らはアキラを指さして、口々に言う。
『――この子は呪われている』
『この子の母は優れた巫女だったというのに、まさかこんな化け物を産むとは……』
『渡良垣家の恥だ』
 灯りは蝋燭だけであり、周囲を取り囲む大人たちは、まるで黒い影のようだった。守ってくれる者もなく、アキラはただ影たちの中心で座り続ける――。

「どうした? アキラ」
 蒼葉に言われて、アキラは我に返った。何でもないと微笑してみせる。
「ごめん。少し疲れたみたいだ」
「なら、さっさと飯食って寝た方がいいな」
「食欲、あんまりないかも。少し休んだら風呂に入るよ。ばぁちゃんの揚げドーナツ、明日食べるから俺の分残しといて」
「コノエに言っとく」
 くしゃりとアキラの頭を撫でて、蒼葉は部屋を出ていった。アキラもそれに続く。アキラは蒼葉と一緒に階下には降りず、自室に向かった。悪霊払いのための装備を解き、ベッドに身を投げ出す。目を閉じると、今日、通りかかった学校で助けた少年のことが思い出された。
 おそらく、あの少年はいじめか何かを受けていて、学校に閉じこめられたのだろう。彼はまるでヒーローでも見つけたように、助けに現れたアキラを眺めていた。
 だが、実際のところ、アキラはヒーローなどではない。彼と同じだ。
 アキラも蒼葉たちも、この家で暮らす者は皆、日本でも五指に入るという有力な神職の一族――渡良垣家に連なる者だった。皆、わずかながらも血の繋がりがあり、いとこだったり遠い親戚だったりする。中でも蒼葉は渡良垣家の本家にごく近い血筋だ。そんな四人がタエの元で暮らしているのは、それぞれに本家から異端と見なされたためである。
 ちなみに、アキラ自身は渡良垣家の巫女の子だった。大人たちの噂によれば、彼女は異性との交わりなしにアキラを産んだらしい。そうして生まれたアキラは、渡良垣家の本家の子どもよりも強い霊力を持っていた。そのため、異端と忌み嫌われることになったのだ。
 ――それって、単に父親の名を口に出さなかっただけじゃないのか。俺はイエス・キリストじゃないんだぞ。
 ある程度、成長した今では、アキラは内心そうツッコまずにはいられない。けれど、問いただそうにも当の母はアキラが幼い頃に亡くなっている。渡良垣家も一度、当主がこうと決めたら、滅多なことではその決定が変更されることはない。そのため、アキラは今も異端者のままだ。
 ――ここが……ばぁちゃん家が嫌なわけじゃないんだけどな……。
 タエの家は心地よい。蒼葉や他の同年代の親戚の少年たちとの暮らしも楽しいものだ。だが、時折、ふと虚ろな気分になる。
 異端ということは普通ではないということだ。普通ということは、周囲に同じ条件の人間が多くいるということ。何を目指せばいいのか、自分は何なのか、周囲を見ればある程度は理解できる。だが、普通でないということは、自分が誰なのか、どこを目指すのか、自分で決めなければならないということだ。
 アキラは今の生活の先に何があるのか、想像もできなかった。渡良垣の本家から忌まれているのだから、きっと、大々的に悪霊退治をしていくことは許されないだろう。だが、普通の人々のように会社員になって、悪霊を見て見ぬふりをして、働く自分の姿も思い浮かばない。
 ――俺は何なんだろう? どこを目指して歩いているんだろう?
 心細さは、あの学校に閉じこめられていた少年と何ら変わりない。そう思いながら、アキラは目を閉じた。




3.

 ――三日後の夕方。
 アキラは先日、助けた際にメールアドレスを交換したケイスケに呼び出されて、駅前のドーナツショップへ向かった。夏休みのためか、店内は混雑している。ようやくのことで奥のボックス席に座るケイスケの姿を見つけたとき、彼もアキラに気づいたらしかった。おおい、と大きく手を振っている。
 少しだけ気恥ずかしさを覚えながら、アキラはケイスケの元へ歩いていった。
「混んでる店にしちゃってごめんね。俺、この店でバイトしてて割引券あるから、ここがお得かなと思って」開口一番にケイスケが謝る。
「別に、いいけど」
 アキラはぼそぼそ呟いた。本当は人混みだとよくない気に触れることが多いので、なるべく避けるようにしている。だが、一般人のケイスケにそんな話を打ち明けて、気を遣わせるのは心苦しい。何でもない顔をして、アキラはケイスケの向かいに腰を下ろした。
「メールくれただろ。用件は?」
「この前、助けてくれたお礼がしたくて。俺がおごるから、好きなドーナツ頼んでよ」
「割引券で?」
「そう。割引券で」
 ケイスケが胸を張って言うので、アキラは少し笑ってしまった。それでも、「遠慮なく」と幾つか好みのドーナツとカフェオレを頼むことにする。注文をしに席を立ったケイスケは、やがて、自分とアキラの分のドーナツと飲み物を持って戻ってきた。
「悪いな。……で、話の続きは?」アキラは尋ねた。
「え? ……どうして用件がお礼だけじゃないって分かるの」ケイスケは目を丸くする。
「顔に書いてある。――っていうのは嘘だけど。この前の怪異はただ追い払っただけだ。完全に浄化したわけじゃない。つまり、時と条件が重なれば、お前みたいにあいつに取り込まれかける人間も出てくるかもしれないということだ」
「時と条件が重なれば……」
 暗い表情をして、ケイスケは呟いた。その姿に、アキラは引っかかりを覚える。
「何か……起こったのか?」
「そうなんだ……」
 ケイスケの話によれば、アキラが彼を助けた翌日、いじめっ子らに呼び出されたのだという。聞けば、彼らのうちの一人が姿を消してしまったのだという。
 いじめっ子たちはいじめや恐喝を行っているが、一般的にイメージされる『不良』とはまったく違う。成績も教師たちからのイメージも悪くない。いじめをすることの外はいたって真面目な生徒である。そんないじめっ子たちのうちの一人は補習を受講していた。補習といっても、成績が悪くて受けるそれとは違う。上位の大学を狙うための、いわば特別授業である。補習のために朝早く――おそらくは誰より早く――登校したその生徒は、しかし、一限目の補習授業に現れなかった。仲間たちが探しても、どこにも姿はない。携帯にも連絡がつかない。これはおかしい――。
 不審に思ったいじめっ子たちはケイスケのことを思い出した。失踪した生徒は、誰より早く登校してケイスケを解放し、自分たちのいじめの痕跡を消す役を果たすことにもなっていたのだ。となると、もし、ケイスケが帰っていた場合には、朝、失踪した生徒はケイスケと会っているはず。
「……それで、お前が呼び出されたのか」
 アキラが尋ねると、ケイスケは頷いた。
「俺が行くと、皆、どうなってるんだって詰め寄って来たよ。でも、俺はアキラに助けてもらった。だから、夜中に自分で逃げたんだって言ったら、いじめっ子たちは顔色を変えてたよ。仲間はどこに行ったんだって。それで、俺も心当たりがないか聞かれたんだ」
「で、正直にあの夜に何が出たか教えたのか?」
「……うん。そうしたら、皆、夜中に学校に残ってみようって言い出したんだ。もしかしたら、失踪した子を助けられるかもしれないって」
「危険だ。アレに生命を取られるぞ」思わずアキラは顔をしかめた。
「そうだろうね。……だから、俺は止めたんだ。そういうお化け関係に強い知り合いがいるから、相談するまで待てって。……もちろん、アキラのことだよ」
「分かってる。――というか、お前お人好しだ。自分をいじめた奴らを助けてやろうとするなんて」
「お人好しなんて、買いかぶりだよ。俺はずるい。人の生命がかかってるかもしれないのに、それを取引に使ったんだ。もし、失踪した子が帰ってきたら、俺をいじめるのは止めてくれって」
 悪い奴だろ、とケイスケは悲しげな微笑を浮かべた。
 そんなの悪いことがあるものか。アキラはドーナツを頬張りながら思った。いじめられたくないと思うのは当然のことだ。それでも、ケイスケは同級生の失踪を取引に使ったことを心苦しく思っている。彼は本当に優しい性格なのだろう。
 アキラはしいたげられる立場のケイスケを自分に重ね――放っておけない気分になった。
「分かった」短く告げる。
「え?」意味が分からなかったのか、ケイスケが目を丸くする。
「だから、お前の頼みを――」
 引き受けてやるよ、と言いかけたときだった。

「――その依頼、俺がもらうよ」

 不意に元気な声が割り込んできた。見れば、隣のテーブルに座る少年がこちらへ顔を向けてにっこり微笑する。気まぐれな猫のような雰囲気を持つ、愛らしい容姿の少年だった。
「お前は……?」
 アキラは不審感に目を細めた。冷たい視線に構わず、少年はにこにこと笑みを崩さない。
「俺はリン。あんたとは同業者だよ、アキラ」
「同業者だと?」
「そ。あんたと同じように怪異を退治するの。アキラが学校に憑いてるモノを追い払ったときも、俺、校門あたりにいたんだよ? アキラの霊力すごく強いよね。でも、調べて見たら納得。さすがに渡良垣家に連なる者だね」
「せ、ら、がきけ……??」
 わけが分からないというように、ケイスケが呟く。その横で、アキラはとっさに傍らのバッグに手を伸ばした。
 渡良垣の名を知っているとくれば、リンはエセ霊能者の類ではない。そんな詐欺師風情では、とても渡良垣の存在にはたどり着けないだろう。同じく正式に神道に身を置く者か、あるいはもっと良くないモノか。いずれにせよ味方であるはずはなかった。
 けれど。
「おっと、物騒なのは止めてね」
 素早く手を伸ばしたリンが、アキラの手首を掴む。細身で小柄の外見に似ず、もの凄い力だ。アキラは痛みと悔しさに顔をしかめた。もしかすると、本気でやり合うことになったら、自分はリンに敵わないかもしれない。
 それでも、アキラはリンをにらみ返した。だが、隣でケイスケが怯えていることに気づき、はっとする。一般人を脅かすのは、アキラも嫌だ。とりわけ、同級生から阻害されているものの、それでも性格の歪んではいないケイスケに対してはなおのこと。
 アキラが手の力を抜くと、リンはにっこり微笑した。こいつ……。唇を噛んだアキラは、密かに精神を集中する。リンから発散される強く清浄な気を探ろうとした。
 そうする間にも、リンは話を続ける。
「そうそう。平和的に行こうよ」
「あぁ」
「じゃ、ちょっと失礼して」リンは言うが早いか、アキラたちの返事も待たずに席を移ってきた。「で、本題に入るけど、ケイスケの依頼、俺に任せてほしいんだよね」
「え? あの、それは……」
 リンの提案にケイスケが困惑する。それもそうだろう。心霊現象に対する相談ごとなど、一般人のケイスケにすれば誰に相談するのが適切なのか分かるわけがない。
 元来、口下手な性質のアキラだが、仕方なくケイスケに助け船を出すことにした。
「なぜ、あの学校の怪異を払いたいんだ? 見ての通り依頼人のケイスケは高校生だし、たぶん、報酬ったってドーナツをおごってくれるくらいだぞ?」
「報酬は問題じゃない。アキラだってそうでしょ? あの学校にいたアレは、もう放置しておけないくらい危険なモノになってしまっている。……最初はたいしたモノじゃなかったのかもしれない。けど、学校っていうのは若者の生命力が集う場所だからね。それを吸収してアレは力を強め続けている」
「そうだろうな。だけど、それだけじゃ、あれを払いたい理由にはならないよな……天下の竜神の一族が」
「わぁ、よく俺があの一族の一員だと分かったね、アキラ。さすがにあんたほどの術者なら、俺の気で分かるか」
 出自を見破れたことを驚くでもなく、リンは面白がるような目をしてみせる。そのとき、アキラは彼の背に金の竜の姿を幻視した。リンの身の内に宿る清浄な気が顕現したものだ。
 竜神の一族――太古の竜神の裔だと言われる彼らは、大神(狼)の子孫とされる渡良垣と並んで神道界では有力な家柄である。彼らは渡良垣のように一族を表す名を姓には使っていない。だから、リンの姓は竜神ではないだずだ。だが、とにかくそれぞれの姓を名乗る五家をまとめて、竜神の一族というのだった。
「もう一度聞く。なぜ竜神の一族が出てくる?」アキラは尋ねた。
「なぜって、怪異を払いたいからじゃだめ?」
「おかしいだろ。竜神の一族に正式に依頼すれば、その報酬は最低でも一千万と言うじゃないか」
「いいいい、いっせんまん! 俺、そんなの払えないよ……」ケイスケは怯えた顔をした。
「まさか、大丈夫だよ! あれは、依頼主が金持ちだから取れるところから取ってるだけだもん。だいたい、俺じゃあ、まだそういう金額の依頼には関わらせてもらえないしさー。 だから、これは俺の個人的な修行なの!」
「修行ねぇ……」
 そんな話が信じられるだろうか。アキラは半眼になってリンを見つめた。と、そのときだ。
「うーん。じゃあ、そんなに不安なんだったら、アキラも一緒に依頼を受けるってどう? 渡良垣家の人の技って、見てみたいし。アキラも俺の技、どんどん見てくれていいし! ね? どう?」
「それならいいかな。竜神の一族がどういう風に力を使うのか、見てみたい気がするし」
 アキラが言うと、リンはぴょんと飛び上がった。嬉しそうにアキラとリンの手を掴んで、ぶんぶんと握手する。
「じゃ、決まりね!」
 その明るい声が、まるで子どもが遊ぶ約束をしたかのようだとアキラは思った。押し切られた形での約束のはずなのに、なぜか顔には笑みが浮かんでいた。


***


 ――夜。深夜の神域はしんと静まり返っている。木々に囲まれていることと、流れる気が清浄なこともあって、夏だというのに蒸し暑さはまったく感じない。むしろ、薄着をしていると少し肌寒いくらいだ。
 リンは中庭を抜けて、敷地の奥に佇む神殿へと入っていった。草履を脱いで、板張りの高殿に上がる。そうして、高殿の端に正座した。高殿の中央――ちょうどご神体の前にあたる場所には、端然と正座する兄の姿がある。膝の前には鞘に納められた刀が置かれていた。
 と、そのとき。兄――シキが動いた。膝の前の刀を取り、立ち上がる。刀の鞘を払ったのを合図に、剣舞が始まった。剣を振るいならが、兄が舞う。華麗な舞としか見えぬ仕草は、しかし、実際に悪霊も人をも斬れるほどの威力を持っている。身体から立ち上る気が、赤い稲妻をまとった龍の姿をしていた。
 身内贔屓と言われようが、リンの自慢の兄だ。
 やがて、剣舞を終えたシキは、再び床に正座した。刀も鞘に収まって、膝前に置かれている。
「――リンか」シキが静かに口を開いた。
「うん。今、戻ったよ。ちょっといろいろあって、あの学校の怪異を払うのは渡良垣の子と一緒にする約束をした。ちなみに、兄貴も来るってことは言ってない」
「ふん。渡良垣の者がどれほどの術を使うか、見物だな」
「そうだね。……それにしても、あの学校の怪異が兄貴の受けた呪と関係あるといいんだけど。渡良垣の子に俺たちの技を見られることになるんだもの、目的を果たせないのは困るよね」
 リンの言葉を聞きながら、シキは顔を手で覆った。その指の隙間からのぞいた彼の瞳は、通常の黒ではなくなっていた。燠火のような暗い紅に輝いている。そのとき、リンはシキの背に顕われた龍のまとう赤い稲妻が、ひときわ強く光るのを幻視した。
 完璧な兄につけられた僅かな傷――リンにはその傷さえも憧れの対象なのだけれど。シキは己が完璧でなくなったことをひどく引け目に思っているらしいのだ。
 リンにはシキのこだわりは分からない。けれど、分からないなりにも兄の意思を尊重したいと思っている。
「――協力という形になってはいるが、渡良垣の者には手出しはさせん。あの学校の怪異、我らが先に払うぞ」
 そう宣言する兄に対して、リンは無言で深々と頭を下げた。






1.2013/08/04
2.2013/08/10
3.2013/08/18

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