始まりの話2 4 ――翌日の夜。九時四十五分。 シキは夜の学校の屋上に立っていた。今頃、校内ではリンが渡良垣家のアキラという少年と依頼主と三人で、怪異の発生に備えて待機しているはずだ。しかし、そちらは陽動にすぎない。リンとの打ち合わせで、彼らが怪異を引きつける隙にシキがさっさと払ってしまうことになっていた。 屋上で、シキは静かに学校全体の気配を探った。目を瞑り、右手で目蓋の上から顔を撫で下ろす。手を下げて目を開けると、黒いはずの瞳は赤く輝いている。シキはその目で敷地内の気の流れを見つめた。 グラウンドに、蜘蛛の巣のように細く張り巡らされた金の地脈の流れが浮かび上がる。地の力の溜まるスポット――龍穴があるわけでもないのに、地脈の流れは一定の方向に集中していた。奇妙だ。いったい、地脈はどこに集中しているのか……。 シキが地脈の流れをつぶさに目で追おうとした、そのときだ。不意に背後に不可思議な気配を感じた。感じ取るだけでも虚ろな気分に呑まれてしまいそうなその気に、覚えがある。 とっさにシキはコートの内側から呪符を取り出した。扇のように広げたそれを、振り向き様に背後の虚ろな気配へと投げる。呪符はまるで手裏剣のように鋭く風を切って、相手へと向かった。……そのはずだった、けれど。 バシィッ。稲妻が爆ぜたような音が響く。背後へ向き直ったシキの目が捉えたのは、焼け焦げてボロボロになった呪符が風に吹き飛ばされていくところだった。 しかし、シキは慌てなかった。即座に携えていた刀を抜き放ち、大きく横薙ぎに振るう。その一閃も手応えはなかったが、刀を静止したとき軽い衝撃のようなものが掌に伝わってきた。 シキは顔をしかめて、刀の先へ目を向けた。刀の先端には、紫の炎が立ち上っている。初め、掌大の大きさだった炎はぼぅっと勢いを増して、人間ほどの規模になった。 「……貴様、俺を愚弄する気か」シキは炎に向かって言った。 『愚弄などしていない。お前が弱いだけだ……人の子よ』 静かな声音。炎の中に、紫の瞳をした男の姿が現れる。異国風の衣装をまとったその男は、いうまでもなく人間ではなかった。シキが男について知ることといえば、どうやら異国の古い神らしいということ。多くの神がそうであるように、男も神としての真名は明かさずに“n”と名乗っているのだと聞いたことがあった。 「この学校の怪異が急に力を増したことには、やはり貴様が絡んでいるのか?」 『さて、な。人の子よ、まだ私を追い続けるのか? 人の身では神に敵わないと知りながら』 「黙れ。俺は貴様を倒す。そして、この呪いを解く」 シキの言葉に男はにやりと笑った。 『せいぜい己が運命に逆らって足掻くがいい……。儚き人の子が足掻く姿は、悠久の時を生きる神にとっては最大の娯楽。せいぜい楽しませてもらおうか』 言うが早いか、nが炎と共に姿を消す。シキは小さく舌打ちして、刀を鞘にしまった。静かに息を吐いて、精神を落ち着けようとする。宿敵――nが姿を見せたからには、何らかの形で学校の怪異はnに繋がっているのだろう。目的を果たすため焦ってはならない、と己に言い聞かせた。 *** シキの元を去ったnは、暗闇の中にいた。現実世界とは僅かに次元のずれたその場所に、人間は決して立ち入ることができない。たとえ優秀な術者のシキであっても。 その闇に、nは静かに身を委ねた。学校の片隅に少しだけ開いておいた次元の窓から入ってくる物音や気配に耳を澄ませながら、瞑想する。 そうしながらも考えるのは、昔、親しかった存在のことだ。人間ならば、nとその存在の間柄を“友”と呼んだだろうか。 nたちが人間に忘れさられ、神と怪異の中間のような存在になりつつあ頃、“友”は人の子らに興味を持った。儚い生命の人の子――だが、それは人の子らの信仰によって神としての力を得、忘れ去られると共に弱くなる自分たちと同じことなのではないか。神と人には何も違いはないのでは。そう考えた“友”は人の子らの間に分け入って、旅に出てしまった。その“友”を探して、nは極東の異国の地まで流れて来たのだ。nの目的は、何よりも友を見つけだすことだった。 その“友”に似た気配が、ふと意識に引っかかる。はっとして、nは目を開けた。 ――やはり、この付近に“友”の断片があるのかもいしれない。 nは唇の両端をつり上げた。面白くなってきたものだ……。 *** 同時刻、校舎内。 アキラはリンとケイスケと共に、ケイスケの教室にいた。先日、彼が閉じこめられたという状況を再現していたのだ。ロッカーに入って見せるケイスケの説明を聞きながらも、リンは油断なく気配に気を配っていた。教室のところどころに、目立たぬほどの小さな呪符を貼りつけもしている。 その様子をアキラは興味深く眺めた。と、リンがアキラを見て不思議そうな顔をする。 「どうしたの、アキラ? この程度の儀式、誰でも知ってるようなものだと思うけど」 「へぇ、そうなんだ」 「え? アキラ知らなかったの? 渡良垣家っていうのは、よっぽど特殊な術式を使うんだね」 驚いたようなリンの言葉に、アキラは曖昧な笑みを返しておく。 リンは同業者だと言ったが、アキラは普通とは違う。少なくとも、これまでに仕事上で遭遇したどの悪霊祓い師たちの技も、アキラと似通ったものはなかった。たいていの祓い師たちが呪符や儀式を必要とするのに対して、アキラは己の気そのもので怪異を祓う。言ってしまえば力ずくのようなものだ。今までそれで問題は起きなかったため、アキラは儀式や呪符を真剣に学んだことはなかった。おそらく、学ぼうとしても渡良垣の本家の人間が咎めただろう。渡良垣の技を見たいと言ったリンには申し訳ないが、アキラは技については何も知らない。リンの申し出を受けたのはそのためでもあった。アキラと組んでもリンが得るものは何もない――アキラに損はないのだ。 そうこうしているうちに、十時が近づいてきた。 「そろそろ、一階に降りようか」 準備を終わらせたらしいリンが言った。アキラとケイスケも同意して、三人で階下へと降りていく。教室では平然とした様子だったケイスケは、階段を下りるにつれて次第に口数が少なくなっていった。怪異の専門家が二人も同行しているとはいえ、先日の恐怖を思い出して緊張してきたらしい。 「大丈夫か?」 アキラが肘でつつくと、ケイスケは弱々しい笑みを浮かべた。 「だ、大丈夫……」 とても大丈夫そうには思えない。校舎の外に出てた方がいいのではないか、とアキラは言いかけた。だが、腕時計を確認すれば、九時五十五分になっている。今から外へ出る暇はないだろうと思い直し、アキラは提案をやめた。 やがて、一階にたどり着くと、三人は下足場へと向かった。林立する靴箱の間を抜けて、扉の前に立つ。先日のように閉ざされたガラス扉の向こうで、時計の針が午後十時を示した。その瞬間だ。 ぐにゃりと空間が歪むのをアキラは感じた。目の前の景色こそ変化していないが、今、校舎内は普通と異なる次元に変質してしまっている。次元まで歪めるとなると、怪異は予想していたよりもかなり強力だ。作戦を練り直す必要があるかもしれない。 ――どうする? アキラはリンを振り返った。意外にも落ち着いてみえる。リンはアキラの目の前で、バッグの中から布に包まれた何かを取り出した。はらりと布を払えば、中から神事に使う鈴が現れる。リンは鈴を高く掲げて振った。 シャン、シャン、シャン……。 舞うような動作と共に、リンは鈴を鳴らした。その優美な姿に、ケイスケも恐怖を忘れて見入っている。 そのとき、足下に青い光が現れた。結界の力の流れを示す輝きだ。だが、学校を包み込むほど大がかりな結界をリン一人で張れるとは思えない。 ――誰か協力者がいるのか……? そう思いながら、アキラは優雅に舞うリンの姿を見つめた。 5 ――リンの術が発動する。 そう思ったときだった。不意に壁や床に浮かび上がった光の線が薄れ始めた。夏の湿気のせいだけとは思えない、ねっとりした空気があたりに立ちこめる。 リンは弾かれたように顔を上げた。 「なんで……! 俺と兄貴の術が破れるはずがないのに……!」 「リン、心を乱すな。 “来る”ぞ!」 アキラは空気の変化を感じ取って、鋭く叫んだ。その言葉の最後に、ずるりと粘着質な音が被さる。 ずるり、ずるり。べちゃっ、べちゃっ。 「あいつだ! 俺が前のとき会ったのは、あいつだよ」ケイスケが怯えた声で叫んだ。 そうする間にも、音はずるずると次第に近づきつつある。相手の正体はいまだ見極めきれていない。 アキラの経験上、こういった場合は無理をしないのが得策だった。結界を張って時間稼ぎをするか、撤退して立て直すか。しかし、今回の場合は逃げようにも次元が歪められてしまっていて、不可能だ。となると、時間稼ぎしかない。 どうする? とアキラはリンを振り返った。アキラは基本的に戦闘型で、結界を張るのがあまり上手くない。これまで結界が必要な場面では、それを得意とする蓉司に頼りきりだった。それでも下手は下手なりに結界を作ることもできるのだが、そうするとリンの術の痕跡を消して復元不可能にしてしまう可能性が高い。だが、もしかすると、術を仕掛けたリンならば再び術が使える状態のまま、結界を張ることができるのではないか――。リンに判断を仰いだのは、そのためだった。 しかし、リンは術が破れたのがよほどショックだったのか、混乱していた。アキラの質問もわけが分からないようで、「あ……。えぇと……その……」と意味のない言葉を吐き出ばかり。自信満々に見えたとはいえ、彼はまだアキラより幾つか年若いだろう。経験不足でとっさの事態に対応できないのは、仕方ないことなのかもしれなかった。 ――俺が引っ張らなきゃ。 意を決したアキラは、リンに言った。 「なぁ、リンは結界を張れるか? 俺はそおういうの得意じゃないから、リンが張ってくれると助かるんだけど」 「あ……。うん……」 素直に頷いたリンは、手早くバッグの中から鈴を取り出す。ほとんど無意識に身に付いている術なのか、パニックになっていた少し前の彼とは裏腹に、見る間に立派な結界を作り上げた。 その間にもずるずるという音は近づいてきて――やがて、廊下の角から巨大なナメクジのような黒いシルエットが這い出てきたのが見えた。 「……あれがこの学校の敷地に巣くう怨念の塊らしいな」アキラは呟いた。 「そうみたいだね。だけど……あいつだけでここまで強力になれたとは思えない。別の何かがまだいるのかも……」リンが答える。 「えぇっ……! あいつだけじゃないの!?」 ケイスケは怯えた顔になった。 そうする間にも黒いナメクジ状の怨念は、アキラたちへと近づいてきた。三人を取り込むつもりなのか、不意に結界の手前で止まって大きく伸び上がる。その身体の中央にぱっくりと口が開いた。 ――ぎゃあああああぁぁぁぁぁ。 怨念が開いた口から鳴き声のような音を発する。それはまるで千人、一万人の人間が同時に断末魔を発しているかのような奇妙な音だった。 「くっ……。これ、怨念が取り込んだ人たちの悲鳴みたいだ……!」 怨念の鳴き声によって、結界がびりびりと震えて破れそうになる。リンは自らの霊力で必死にそれをくい止めながら、呟いた。早く鳴き声が止まなければ彼の気力も尽きてしまうだろう。 しかし、怨念が鳴き止む様子はない。 仕方ない、とアキラは腹を括った。本来ならば、もう少し敵の性質を見極めてから術を使うべきである。だが、今のままではその前に結界が破れてしまうことは間違いない。そううなれば、一般人であるケイスケを第一に守ることになるため、とてもではないが攻撃している暇はないはずだ。 ならば、今のうちに多少の無理をしてでも攻勢に出ておくべきだった。 「俺が奴の力を削いでみよう」 アキラはリンに言った。 「力を削ぐって、どうやって!? 外に出れば、あいつの発する呪詛の影響を受けてしまうっていうのに」 「俺だって、だてに悪霊払いの仕事を請けてきたわけじゃないんだ。……そっちの術を見せてもらうばかりじゃ、不公平だからな。今度は渡良垣の術を見せてやるよ」 「術って……。あんな奴に対抗するのは、無理じゃ――」 心配そうなリンとケイスケにニッと笑って見せてから、アキラは前方のナメクジのような怨念を見据えた。精神を集中し、低い声で呟く。 「天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の……」 言葉を紡ぐにつれてとなえるごとにアキラの体内の気が高まって、外へとあふれ出す。 「……狼だ……」 意識の片隅でアキラはリンが呟く声を聞いた。渡良垣家は“大神(おおかみ)”の末裔とされるだけに、霊力の強い者の気は凝ると山犬や狼の形に見えるという。おそらく、リンは高まって溢れだしたアキラの気の塊に狼を幻視したのだろう。アキラが彼の気に金の龍を視たのと同じように。 ――はみだし者の俺も、そういう意味ではいちおう渡良垣家の流れを汲んでいるってことだな……。 アキラは内心、自嘲しながら結界の外へ足を踏み出した。途端、視界が薄く黒い靄のようなもので遮られる。やはり予想どおりだった。リンの結界から一歩出た先の空間は歪められ、瘴気の立ちこめる異次元になってしまっていた。もしも一般人が不用意に迷い込んだなら、この歪んだ次元に閉じこめられて出られなくなるに違いない。 ――そして、この瘴気で発狂するだろうな……。 薄く自分を包む気の膜の内側から、アキラは冷静に周囲を眺めた。と、そのときだ。黒いナメクジのような怨念の側面が変形して、ぬっと細長いものが生えてきた。よくよく見れば怨念と同じくどろりとした液体のようなものでできたそれは、人間の腕によく似た形をしている。その腕――否、触手は唐突に、驚くほどの素早さでアキラへ向かって伸びてきた。 「アキラ……!」 ケイスケが叫ぶ。 しかし、アキラは慌てなかった。腰につるして準備していた短刀を抜き、自分の掌の皮膚を切り裂く。そのまま、血に濡れた刃で向かってくる触手を薙ぎ払った。途端、ギャアァァァっと怨念の本体が絶叫して震える。ダメージを与えたことは確かなようだ。 「……よかった。効いた」アキラはほっと呟いた。 「な、何……? さっきのは……」 結界の中でリンが目を丸くする。そんなリンを振り返って、アキラはにっと笑ってみせた。 「俺の血は特別なんだ。どんなケガレも払う……“清めの血”」 「嘘だろ!? ただの人間の血に、そんな効果があるはずが……」 リンが眉をひそめる。しかし、暢気に会話している暇はなかった。すぐに触手を切り取られた衝撃から立ち直ったらしい怨念が、動き出す。今度は身体ごと伸び上がった怨念の塊が、アキラの真上に降り注いだ。 今度は血で清めた刃で薙ぐこともできない質量が、一気に襲ってくる。アキラは為すすべもなく、怨念の塊の中に飲み込まれた。 6 シキは一人、静まり返った校舎の中を歩いていた。nの姿を見失ってしばらく後、シキはリンとの打ち合わせの通り屋上で待機していた。リンが校舎内に仕掛けた術を発動させる際に、シキが同調して術を使うことで、この地の怪異を鎮める。その予定だったのだ。 だが。午後十時になって、リンが術を発動させる気配を感じた直後、周囲の空気が何か異様なものに変化した。意識を凝らしても、リンたちの気配が感じられない。そればかりか、異様に活気づいていた地脈の気の流れも沈静化してしまっている。怪異の存在すら感覚に触れては来なかった。 ――いったい、何が起こっている? 若いとはいえ、幾度となく怪異と対峙してきたシキにしてみても、前代未聞の事態だった。怪異がなりをひそめるのはあり得ることだ。しかし、物理的存在であるリンたちが消えてしまうはずはない。リンクたちを突然、覆い隠すには次元を歪めてそこに彼らを呑み込むくらいしか方法がないのだ。とはいえ、物理的存在を呑み込むほど大きく次元を歪められる力は、並みの怪異ではあり得なかった。 となると、nか。古の神のなれの果てであるnほどの力があれば、おそらく可能だろう。だが、リンたちを別次元に隔離してヤツにいったい何の得があるというのか。考えてみても、理由は分からなかった。後手に回ってしまった今、とにかくリンたちを連れ戻す糸口を探し出さねばならない。そして、それはおそらく校舎内にあるはずだった。 しかし、どれだけ校舎内を探し回っても、次元のほころびは見えてこない。どこまでも静かで平穏だ。nはほとんど完璧に次元の歪みを閉じてしまったのかもしれなかった。 ――これが神と呼ばれたことのある者の力か。 敗北感を噛みしめて、シキは拳を握りしめた。 *** その頃。アキラは真っ暗闇の中で目覚めた。 ヘドロのような怨念の塊に呑みこまれて、気を失って――気が付いたら、この暗闇だ。持っていたはずの懐中電灯はどこかへ行ってしまったようだ。ここはあの世かと疑いもしたが、頬を抓れば痛みがあるし、手足も動く。どうやら死んだわけではないらしい。アキラはゆっくりと身を起こした。辺りを恐る恐る手で探ってみるが、何にもぶつからない。周囲はがらんとした空間のようだ。 「リン! ケイスケ!!」 アキラは声を上げて呼んでみた。けれど、返事はない。どこかに声が反響しているのが聞こえるだけだ。 「どこなんだ、ここは……? 校舎の廊下にいたはずなのに、こんな広い空間があの場所にあるとは思えないけど……」 アキラは頭を振って立ち上がった。とにかく、どちらへでもいいから歩いてみようとする。と、そのときだった。不意に視界の前方に明かりが見えた。明かりに近づいていくと、そこに見知らぬ男がいた。茶褐色の髪に紫の瞳。人とは思えないような濁りのない気配。男はゆっくりと顔を上げて――アキラを見つめた。 「お前を待っていた……」 「……お前は何者だ?」 「俺はn……。もちろん、これは仮の名だ」 男の言葉に、アキラは内心驚いた。あまねくモノには“言霊”の力が及んでいる。古代の人々などは、己の真の名を知られれば魂を握られたも同然だとして、家族以外には仮の名を名乗っていた。この仮の名もまた、真名ほどではないにせよ本人の性質の一端を示す。仮の名を自ら明かすということは、ひとまず敵意はないと示したも同然だ。アキラは男が仮の名を明かしたことで、少しほっとして肩の力を抜いた。 「お前、何者なんだ? ここは学校の怪異の中じゃないのか? どうしてお前がこんなところに……」 「俺は古い神のなれの果てだ。祈りを失いながらも、こうして存在を永らえている」 「古い神……」 「俺はお前を待っていた」 「俺を……?」 「そうだ。お前は俺の仲間の魂を持っている……。かつてお前の母親が、正気を失った俺の仲間を身に宿し……肉体を与えてヒトと成した。それがお前……」 「そんなこと、あるはずがない」 アキラはnの言うことを鼻で笑おうとした。が、失敗する。nの言葉が真実ならば、優秀な巫女であったという母が渡良垣から疎外され、自分が化け物扱いされている理由に説明が付く。しかし、もしそうだとしたら、真実、自分は化け物ではないか――。 「嘘だ、嘘だ、嘘だ……!」 「嘘ではない。真実を見せてやろう……」 nはゆっくりした動作で、右手をアキラへ向けてかざした。その掌に紫色の光が出現し、次第に大きくなっていく。光が強まるにつれて、アキラは自分の身体が輝きだしたことに気づいた。腕を、足を、青い光が包んでいく……。身体の中で何かが大きく高まっているのを感じて、アキラは思わず自分の身を抱いた。まるで、抜け出そうとする何かを引き留めるかのように。 けれど。 不意に何かがすっと抜けるような感覚がして、アキラははっと気づいた。見れば、すぐ目の前に青い光でできた狼のような動物が佇んでいる。 ――お前は……。だとしたら、俺は……。 反射的に強い恐怖を覚えて、アキラは身を翻した。無我夢中でその場から駆け出す。「待つんだ!」と慌てたように叫ぶnの声が、あっという間に遠ざかった。気づけばアキラは、人間では不可能なほどの早さでがらんどうの暗闇の中を走っていた。 走って、走って、走って。 やがて、視界の先に白い光が見えてきた。それが何なのか分からないままに、アキラは光へと駆けていく。迷いのない動作で、アキラは光の中へ飛び込んだ。 その直後。 「うわっ……!」 何かにぶつかるような感触に、アキラは思わず声を上げた。その何かはどうやら人らしかった。ぶつかった相手を下敷きにして、地面に倒れ込む。 まずい、とアキラは思った。だが、突然、明るい場所に出たために目が眩んで視界が利かない。ともかく相手の上からどこうともがいていると、乱暴に押し退けられて地面にぶつかった。 「痛たたた……」 「それはこっちの台詞だ」 立ち上がったらしい相手が、頭上から冷ややかな声を降らせてくる。アキラははっとして顔を上げた。まだぼんやりとした視界が次第に焦点を結ぶ。目の前にいたのは、白い秀麗な面の男だった。アキラよりは五つほど年上だろうか。切れ長の瞳には凛とした強い意思の光が宿っていて――ひどく美しかった。まるで自分が磁石になったかのように、勝手に視線が引き寄せられる。 「――お前は渡良垣の一族のアキラだな」 不意に相手に言われて、アキラは我に返った。彼がなぜ自分のことを知っているのか、と不審に思う。 「どうしてそれを?」 「俺はシキ。リンの実の兄だ。今日はあいつの術に呼応して術を使い、怪異を払う手筈だった」 「だけど、予想外の出来事が起こった、と?」 「そうだ。あの男……nが介入したせいで、怪異の力が強まっている。そのせいで、リンたちは歪んだ次元に呑まれてしまった。お前もリンと一緒に呑まれたはずだ。……先ほどまで、この校舎には人の気配はなかった。なぜ出て来られた?」 男――シキに尋ねられて、アキラは首を横に振った。 「分からない。俺は怪異の本体らしき怨念に呑み込まれて……気がついたら真っ暗闇の空間の中にいたんだ。そこでnってヤツに遭って――」 「n……。奴は神のなれの果てだ。次元の歪みの中で奴と遭遇したということは、奴自身が招いたということ。貴様が奴の目的か……!」 そう言うなり、シキは手にしていた日本刀を抜きはなった。切っ先をぴたりとアキラへ向ける。これにはアキラも驚いてしまった。シキが日本刀を携えているのには気づいていたが、祓魔用だと思いこんでいたのだ。それが、まさか自分に向けられるとは。 驚ききったアキラは、動くことができなかった。何度も怪異と戦ってきたし、その中で短刀を使ってきた。だが、実際の人間を短刀で殺傷しようなどとは考えたこともない。それに正当防衛であっても、清められた短刀で他人を殺傷すれば、刃はケガレを帯びて使いものにならなくなるだろう。シキの刀とてそれは同じだ。 「ま、待てよ……!」アキラはじりじり後ずさりながら、シキの説得に取りかかった。「nとあんたがどういう関係か知らないが、俺はnと何の関わりもない! それどころか、いきなり変なことを言われて迷惑してるんだぞ!」 「変なこと?」 刀を構えたまま、シキは眉をひそめた。どうやら多少の気は引けたらしい。ここぞとばかりにアキラは迷惑そうな顔をしてみせた。 「俺は元はといえば、神のなれの果てだったんだって。母親がその魂を身に宿して肉体を与え、ヒトとしてこの世に送り出したって……。――それじゃ、俺は化け物ってことになるじゃないか」 アキラはそれでシキが同情して刀を引いてくれることを期待した。が、その考えは甘かった。次の瞬間、シキの瞳は文字通り赤く爛々と輝いて、鋭くアキラを射抜いたのだ。さらに、シキの身体の周囲にパチパチと赤い稲妻が弾け、彼の腕を伝って刀にまで絡みつく。 「やはり、そうか……」シキは狂気すら帯びた声で呟いた。「やはり、この場にnの目当てがいるという俺の考えは正しかった。貴様が奴の目当てに違いない……」 ――これは……説得、失敗したかも……。 ぴたりと鼻先に突きつけられた切っ先を見つめながら、アキラは内心で舌打ちをした。 4.2013/08/25 5.2013/09/08 (文中のアキラの呪文→和歌出典:『万葉集』317、山部赤人) 6.2013/09/16 |