始まりの話3








 その頃。リンとケイスケはヘドロのような怨念の塊と対峙していた。アキラを飲み込んだそいつは、今も不気味にうねうねと動き続け得いる。
「――あいつ、アキラを食べちゃったの?」
 民間人であるケイスケは、怪異がどういう性質の存在なのか、どういう能力があるのか分かっていなかった。そのせいだろう、リンにしてみればファンタジーのように思える質問をしてくる。「物理的に食うのはあり得ないよ」リンはきっぱりと答えた。
 怪異はこの世とは異なる摂理に生きる存在である。物理的なものを食べて生きているわけではない。おとぎ話に人食い鬼の物語が広く語られるせいか勘違いされがちだが、怪異が食らうのは人の生気や精神エネルギーなのだ。もしもアキラを――彼の気を食らったとしたら、怪異は力を得て膨れ上がっているはず。
 しかし、目の前の怪異は先ほどと何も変わった様子はなかった。ただただ、凶々しい気配を振りまくばかりである。
 ――だとしたら、アキラはどうなったのか? 怪異に呑み込まれて、“どこへ行った”のか。
 そう思ったときだった。リンたちの目の前で怪異がぐにゃぐにゃとひときわ大きく動いた。黒いヘドロのような本体の中から、何かが浮かび上がってきたのだ。すぅっと表面に浮かんだそれは、人間の頭部のようだった。首から下は黒いヘドロの中に沈んでいる。陰になっていたその頭部がすっと移動して、ライトの光の当たる場所に出た。
 途端、ケイスケがあっと反応した。
「あいつ……」
「ケイスケ、知ってるの?」
「俺をいじめてた奴だよ……。ほら、この校舎で行方不明になったって言った……」
 そのとき、頭部がぽっかりと口を開けた。「おおぉぉぉぉぉ……」とまるで断末魔のような苦鳴を発する。リンは顔をしかめてその声に耐えた。見れば、傍らのケイスケは不慣れな経験だけに、ひどく動揺していることが明らかだった。顔を真っ青にして、嘔吐感を堪えるように口元を押さえている。
「ケイスケ、しっかりして! あいつは人の負の感情を引き出して、自分の中に取り込んでしまう。気を強く持たなきゃだめだ!」
 しかし、リンの喝はあまり意味がなかった。ケイスケは見る間に虚ろな瞳になっていき、やがて顔を上げたときにはひどく憎々しげな表情をしていた。彼はリンが止める間もなく、歩き出した。ためらう様子もなく、結界の外へ出てしまう。
「俺に害をなす奴……。死んでしまえばいいんだ……殺してやる……」
 ぶつぶつ呟きながら、ケイスケは怪異の表面に出ている頭部へと近づいていく。「やめろ、ケイスケ!」リンは結界を張るのも止めて、ケイスケの肩をつかんだ。けれど、すぐにしょう気混じりの空気にむせてしまう。
 と、ケイスケが振り返った。リンを見た彼は、相変わらず憎悪の目をしていた。
「うるさい……! 邪魔をするなら、お前も殺してやる……」
 一般人とは思えない殺気を発して、ケイスケはリンに向き直った。リンはどうしていいのか分からなかった。普段は兄と怪異を退治している。それでも予定外の事態は起こるが、たいていは兄が対処してくれるのだ。こんな不測の事態ばかり頻発したことはない。リンは操られた一般人に殺気を向けられるような状況に、陥ったことがなかった。兄がいないのも初めてだ。
 リンの腕ならば、ケイスケを排除することもできるだろう。だが、一般人に暴力を振るうわけにはいかない。そうはいっても、このままではリンの方が危険になる。
 ――どうすればいい……?
 ケイスケと対峙するリンの背中を、冷たい汗が流れていった。


***


 一方、アキラはシキに刀を向けられていた。
「おい、こんなことしてる場合じゃない……」
 諦めずに説得しようとするが、シキは聞く耳を持たなかった。あっと思った瞬間、銀色の光が閃く。とっさにアキラは背後に飛びのいた。その瞬間、アキラが退いたばかりの場所をシキの刀が薙払う。威嚇とは思えない、命中していたら致命傷になったかもしれない、迷いのない太刀筋だった。
「な、何するんだ……!」
「必ずしとめる」
 そう宣言したシキは、次から次へと刃を繰り出してくる。アキラは決死の思いで、その攻撃を避けた。しかし、いくら怪異との戦いで戦闘のセンスが多少は養われているとはいっても、限界がある。アキラは兵士のように戦闘訓練を受けた人間ではなかった。今のような対人の戦闘がいつまでも保つとは思えない。
「nが執着する貴様の本質を見せてみろ」
「本質って……あんた正気か!? 俺は人間だ。あんたの刀が当たったら、死んじまう! そうしたら、あんただって人殺しになるんだぞ!?」
「それがどうした」
 事もなげに言って、シキは顔の横で刀を構えた。その瞳には、狂気に似た光が宿っている。シキの興奮の高まりを表すかのように、その身体から漏れだした力が紫色の火花と化してあちこちで小さくパチパチと言っていた。その光景にアキラはふと違和感を覚えた。感覚には常にシキの清浄な気の流れが感じられるのだが、紫の火花が現れた頃からまったく別種の気がシキの身にまとわりつきだしたのだ。
 しかし、その原因について考える暇はなかった。シキが刃をぴたりとアキラに向け、突きの体勢を取ったのだ。
 ――シキは次の一撃で決めるつもりみたいだ。気をつけないと……。
 そこでアキラは気づいた
 そう思ったとき、アキラは不意に気づいた。もはや自分の後ろにあるのは、一メートルほど先の壁ばかり。これではシキの攻撃から逃げきれない。
 反撃するか? だが、そうすれば人殺しになってしまうかもしれない。そうでなくたっって、目の前のシキを傷つけてしまうだろう。果たして――自分にそんな価値があるのか? 渡良垣家のはみだし者として化け物扱いされ、忌み嫌われてきた。そんな自分の生命は、生身の生きた他の人間を傷つけてまで長らえるべきものなのか……?
 ――俺にそんな価値はない……。
 虚無感に捕らわれたアキラは、全身から力を抜いた。もはや攻撃を受けても、逃げる気にはなれない。
 と、そのときだった。シキはおもむろに構えていた刀を下ろしたのだ。抜き身の刃は、携えていた鞘にしまう。いったいどういうことか、とアキラは目を丸くした。目に映るシキは、ひどくつまらなさそうな顔をしていた。
「あんた、俺を攻撃するんじゃ……?」
「やめた。生きることを諦める貴様が、nの執着する存在のはずはない。nは強者だ。あの男がお前のような弱者に興味を持つとは思えん……。期待はずれだ」
 アキラの前でシキは踵を返した。背中を向けて歩き去ろうとする。ぴんと伸びた美しい背中がお前は無用の者だと語っているかのようで――不意にアキラは悔しくなった。
 化け物だとか、はみ出し者だとか。今まで散々、一族の大人たちに忌避されてきた。そのことは鬱陶しくはあるが、気にはならなかった。自分を受け入れない者たち――自分たちの間で勝手に常識を決め、そこから外れる者を蔑む奴ら。そんな卑怯な者たちに媚びを売ってまで好かれたいとは思わない。
 けれど、けれど。
 アキラは拳を握りしめた。
 どうしてだろう。なぜか、シキに、価値のないものだと見捨てられるのには耐えられなかった。シキの美しい瞳、凛とした背中――あんな風にぴんと張って澄んだ気配を持つ人間は滅多にいない。彼はおそらくどこまでも高潔で、公正だ。媚びを売ったって、認めてはくれないだろう。きっと、シキの目に留まるためには、姑息な手段ではなく全身全霊で自分という人間を示さなければならない。そうして認めてもらえるなら――それは、もしかしたら、自分にとって価値のあることなのかもしれない。
 わけもなく、アキラは誰かに――シキに己を認めさせたいという欲求に駆られた。生まれて初めてのことだった。
「待てよ」
 低く呟く。
 シキが足を止め、振り返りかける。その背中を目指して、アキラは突進した。拳を振りかざし、振り向いたシキの顔にたたき込もうとする。シキはとっさに反応して、身をよじった。拳はシキの頬をわずかにかすめただけで、逸らされてしまう。
 アキラは体勢を立て直そうとした。その刹那、シキの反撃の蹴りが襲いかかる。避ける暇もなかった。腹にまともに蹴りを食らったアキラは、痛みによろめき――後退するところを踏みとどまって、シキに飛びかかった。
 二人で廊下の床に転がりながら、殴り合う。身体の上に乗り上げられ、左頬を張られたアキラは身動きできないままに必死に頭を動かした。
「このっ!」
 気合いと共に、目の前にあるシキの頭に頭突きを繰り出す。ゴンッ。と鈍い音が頭蓋の内側まで響くような衝撃があった。頭突きにひるんだのか、身体の上からシキが退くのが分かったが、アキラはそれどころではない。頭が痛くて額を押さえて耐える。
 そうしていると、ぽつりとシキの声がした。
「俺は子どもの喧嘩がしたいわけではない……。まったく、これだから渡良垣は野蛮だというんだ……」
「っててて……。何言うんだよ。先に喧嘩売ってきたあんたが悪いんだろうが……」
「俺はただ試しただけだ」涼しい声でシキが言った。あれだけの乱闘の後なのに、と驚いたアキラが見ると、彼は床に座ったまま涼しい顔をしていた。「お前の真の力が見たかった」
「こんな子どもの喧嘩じゃなく?」
「あぁ……。だが、馬鹿な喧嘩をしたら、どうでもよくなった。さて、俺はリンたちを探しに行くが、お前はどうする?」
「行く」
「いい返事だ」
 シキはふっと笑みを浮かべた。先ほどの尊大な態度が信じられないような、暖かみのある笑みだった。その表情を目にした瞬間、アキラはなぜか頬が熱くなるのを感じた。
 ――あれ? 俺……なんでこんな……。
 わけが分からず、アキラは内心、首を傾げるしかなかった。

8.

 暗い廊下をアキラとシキは進んでいく。
「……それにしても、どうやってリンたちを見つけるんだ? リンたちがいるのは別次元だろう? 次元なんて怪異たちはいくらでも操作できるし、俺たち人間にはそうそう見つけられないはず……」アキラは尋ねた。
「普通は、な。だが、俺とリンは血を分けた兄弟だ。血の共鳴を見失わないように進んでいけば、たどり着ける……理論上は、という話だが」シキが答える。
「理論上かよ」
「あぁ。実際に試すような状況がなかったからな」
「……それもそうか」
 アキラは納得した。そもそも、普通に怪異を祓いに行ったところで、異なる次元に落とし込まれたことなどほとんどない。さすがにそれほどの力を持つ怪異との遭遇は珍しいのだ。シキの言い分も納得できる。
 ただし。
「あんたは血が共鳴するからいいとして、俺はどうしたらいいんだ? もし、あんたとはぐれたら……」
「迷子になるな」
「分かってるよ! 分かってるけど、今回、不測の事態が多いだろう? また何かあってあんたとはぐれたら、俺はリンたちのところへたどり着けなくなる」
 すると、シキは足を止め、ため息を吐いた。
「たしかに、お前はどんくさそうだからな。用心しておくに越したことはないか」
「どんくさいって! あんた、失礼だぞ!」
「分かった分かった。そう吠えるな。……対策は考えてある」
 そう言うなり、シキは取り出した小刀で親指の皮膚を切り裂いた。懐中電灯の光の中、指先に赤く血がにじんでいるのが見える。シキは驚くアキラに、小刀の柄を向けて差し出した。それで同じように親指の皮膚を裂け、と言う。
「なんでいきなり……?」
「いいから言うことを聞け。皮膚を裂いたら、手を出すんだ」
 言われるままに左手を差し出せば、シキはアキラの手を取って、互いの親指の傷口をぴたりと重ねた。
「これは……?」
「かなり略式だが、義兄弟の契りだ。これでお前と俺の間には繋がりがあることになる。僅かなりともお前の体内に入った俺の血で、はぐれても互いの居所が分かるはずだ」
「義、兄弟……? げっ、俺、あんたと兄弟になるのか? ヤだな……」
「失礼な奴だな」
「だってさぁ、あんたみたいな優秀な兄貴って、なんとなくコンプレックスになりそう……」
「悪かったな、優秀で。……義兄弟というのはあくまで他人より多少は繋がりがあるということだ。何もなければ引き合わない。異なる次元に迷いこんだら、互いを見つけられんのだ。俺が血を与えたこと、感謝してもらいたいくらいだぞ」
「分かってるって。感謝してる。あんたはすごいよ。術式が正確で綺麗だし……。この学校全体に張ってあるのだって、あんたがやったんだろ?」
「発動させず仕舞いだがな」
「それでも、術式を見ればあんたの腕くらい分かる」
 じゃれ合いのような会話を続けながら、アキラとシキは階段を降りていく。シキがリンと引き合うと言う方向から察するに、次元の歪みは最初に怪異と遭遇した玄関付近にあるのではないかと思われた。
 一階まであと少しだ。きっと、そこまでたどり着いたなら、きっと戦いが待っているだろう。その前に一つだけ、シキに聞いてみたいことがあった。
「……なぁ、あんたはどうしてnとかいう奴にこだわるんだ? なんかあいつのことを話すあんた、常になく熱くなってる気がして」
「……お前のような赤の他人にも分かるか」
「赤の他人じゃないだろ、もう」
 アキラは親指の傷口を見せた。それを目にしたシキは、意表を突かれたように目を見張った。それから、ふと苦笑する。ちょっとびっくりするような、優しい笑みだった。
「そうだな。……nは異国の神のなれのはてだ。この国に移ってきたはいいが、そういう力ある存在はどうしても場を乱す。一昨年、俺はあいつを祓おうとしたが失敗した。そのときに、奴の力をまともに受けて……その一部が体内に残ってしまったんだ」
 シキは皮肉めいた笑みを浮かべ、片手を掲げた。と、そこにぱちぱちと紅い稲妻のようなもの生じる。その力だけ、シキを取り巻く本来の清流のような力の流れとは違うようだった。といっても、どちらが清浄でどちらが不浄ということではない。いずれの力も同じように清らかだが、微妙に異なっているのだ。ちょうど、北と南とでは海の水の色が違うように。
 けれど。
「その……違う力が残ってるっていうのは、よくないことなのか?」
「純粋なるものこそ貴く清らかで強い。俺の中に残った力は不浄ではないが、それだけだ。この身に残る奴の力は俺の竜神としての純粋な力を汚し、不完全なものとして弱め続けている」
 アキラはシキの言葉に首を傾げた。
「そうかな。俺はあんたが十分に強いように思うけど。……変な慰め方だけどさ、純粋なものって多分、環境の変化に弱いんだよ。自然界で突然変異が出る利点は、環境が変化したときに種全体が滅びないことだとか何とか……今回の生物のテスト範囲なんだ。だから、とにかく別に純粋じゃないから弱いってわけじゃないんじゃないか?」
「……俺を慰めているつもりか?」仏頂面でそう返したシキは、しかし、次の瞬間には噴き出していた。「俺もたいがいだという自覚はあるが、お前も不器用だな」
「うるさい。ほっとけよ!」
 そう喚いたとき、シキの手が伸びてきた。殴られる、と反射的に身を竦めるが、痛みは訪れない。代わりに温かな掌の感触がくしゃりと髪をかき混ぜた。頭を撫でられたのだと気付いたのは、シキの掌が去った後のことだ。
「……いちおう、礼を言っておく」シキは呟いた。
 そのときだ。
 階段の前方に見える踊り場で、ぐにゃりと景色が歪んだ。そこに現れたのは、紫の瞳の男――nだ。アキラとシキははっと息を呑んだ。
「貴様は……!」
 シキは刀を抜き放った。だが、こんなところでやり合っても、神のなれのはてだという存在に勝てるとは思えない。というか、勝てるとしたらそれはもはや人間ではないだろう。
「待て、シキ! n、あんたもだ! こんな学校でやり合ってもらっちゃ、困る!」
「止めるな、アキラ」シキは鋭く言った。
「そうだ、アキラ。この身の程知らずの人の子が俺に挑むと言うのなら、返り討ちいしてやらなければならない」
 お前はここにいては危険だ、と呟いて、nは右手をひと振りした。途端、目の前の景色がぐにゃりと歪む。異なる次元に移動する兆しだ。
「待て、シキ! 目的を忘れるな! リンを助けるんだろ……!」
 必死にアキラは叫んだ。そうする間にも辺りは闇に包まれて、気が付いたときには、一人で階段に立っていた。シキ、リン、ケイスケ、と順に名前を呼んでみるが、誰も答えない。再び闇の中で一人になってしまったらしい。
「……いや、そうじゃない。俺はシキと繋がってる。シキの血を貰ったってことは、あいつの弟であるリンとも繋がってるってことかもしれない。だったら……」
 アキラは左手を掲げた。親指に開いた傷口がぴりぴりと痛む。アキラはその痛みに意識を集中させていると、くっと何かに引っ張られるような感触があった。何に引かれているのかは分からない。けれど、何かが傷口に――その痛みに反応しているようだ。
 アキラはその感覚を辿るように、慎重に歩き始めた。おそらく、この感覚の先にはシキかリンのどちらかがいる……そう信じて。





 リンは怪異に支配されたケイスケを前に、困惑していた。この空間はあまりにも怨念の影響が強い。ともすれば自分だって押し負けそうなのを必死に踏ん張っているのに、この上ケイスケを相手にする余裕はなかった。だが、戦わないという選択もまずい。あまり長い間、ケイスケを怨念の影響下に置けば、精神にどんな傷害が残るか。それに、身体だって衰弱してしまう。
 脳裏にケイスケの笑顔がよぎった。やや弱気なところがあるものの、彼は出会ったばかりのリンをごく普通の友人のように扱ってくれた。これは、リンの学校でもありえないことだ。リンの通う学校は名門校であり、周囲の大人も生徒たちもリンが名門の竜神家に連なる家の出だと知っている。自然、リンへの接し方はどこか距離があった。そのため、自分は常に竜神家の者だと自覚せざるを得なかった。
 リンは術者としては霊力も技術力も秀でている。だが、歴史ある竜神家では、リン程度の術者は珍しくもない。可もなく不可もなく、というところである。竜神家の中では目立たない存在だ。対して、兄のシキは天才と言われている。そんな兄が幼い頃からのリンの誇りであり、憧れだった。いつからか、リンはシキのようになりたいと願って、怪異を払う役目に身を投じるようになっていったのだ。
 ――兄貴もいないのに、俺がこんな状況で闘えるわけがない……。
 こんな状況なのだ。たとえ自分がケイスケを見捨てたところで、誰も自分を責めはするまい。おそらく、兄でさえも。リンはケイスケを無視しようとした。
 だが。
 ――それでいいの? 俺はほんとにそれでいいの?
 自分の能力の限界を決めつけて、安全な場所に留まろうとする。それはシキやリンが嫌う竜神家の長老たちの形式ばったあり方そのものだ。
 兄のシキは竜神家にあまねく存在する旧い形式の中では優れた術者になれないとして、そこから抜け出そうとしている。そのために、一昨年にはひとりきりで危険な怪異を払そうとして――その結果、呪詛の一部を身に宿すことになったほどだ。それでも、彼は自分の力を高めようという努力を止めない。
 だが、リンはシキのようには強くない。ひとりで自分のスタイルを追求していけるような意思の強さも持たないのだ。それならいっそ、他の親族に倣っていればいいのだが――。
 ――嫌だ。ケイスケは友達なんだ。俺はケイスケを見捨てたくない……!
 決心したリンは、印を解いてケイスケに相対した。怪異の怨念が身に押し寄せて、吐き気がこみ上げる。この空間はあまりにも不浄だ。胸が苦しい。倒れそうになるのを踏ん張って、リンはケイスケに向き直った。
「ケイスケ……。いま、助けるから……」
 リンは清めの術を使い始める。
 そのときだった。それまでゆらゆらと震えているだけだった怪異がずるずると動き出した。今度はリンの方へ、黒い触手の腕を伸ばしてくる。だが、リンは襲いかかってくるケイスケをかわしながら術を組み立てるのに精一杯で、とても怪異本体の相手をすることができない。
 黒い触手がもうすぐ身体に触れる――その刹那、銀色の光が視界に閃いた。
「リンに手を出すなっ!!」
 鋭い叫びと共に、短刀を手にしたアキラがリンの前に立つ。彼は刃を一閃させて、触手を切り落とした。
「ア、アキラ……無事だったんだ!?」安堵したリンは思わず叫んだ。
「あぁ。さっき、お前の兄貴にも会ってきた」
「えっ!?」
「話は後だ。この怪異は俺が相手するから、リンはケイスケを」
 アキラはリンの背中を守るように立った。
 リンはケイスケと向き合いながらも、アキラに守られる背中を頼もしく感じた。そういえば、背中を預けたのはシキ以外ではアキラが初めてだ。お前は仲間なのだと言われているようで、少しうれしくなる。
「よし。あまり怨念にさらされているわけでもないし、さっさと決着をつけよう」
 心強い気持ちで、リンはケイスケに意識を向けた。


***


 シキはnと対峙していた。これまで遭遇したときにはまるで仮面のようだったnの整った顔には、今は激情の気配が見え隠れしている。何より顕著なのは、彼の紫の瞳だった。そこにはひどく凶暴で、威圧的な光が宿っている。
 ――これまでは虚無そのものだったnが、感情を見せた……? なぜだ……?
 いつもなら問答無用で斬りかかるのだが、今日はnの様子が妙に気になってシキは眉をひそめた。そこへ、nが言葉を発する。
「アキラと関わるな」
「何?」
「アキラは俺の対なる存在となるべき者……。貴様の宿命はアキラとは繋がっていない」
 nの言葉にシキはぼんやりした反発を覚えた。まるでアキラを自らのもののように言うの態度も気に入らないが、それ以上に宿敵であるnの眼中に自分がいないという点がひどく不快だった。
「ハッ。なぜあいつと話すのに貴様の許可が要る? 貴様はあいつの保護者か?」
「対なる存在だと言っている」
「あいつが、貴様の仲間の魂を受け継いでいるからか? ハッ、貴様、いつまで仲間に執着するつもりだ? あいつはもう生まれ変わって、お前の仲間だった記憶もないというのに」
 シキが嘲ると、nの瞳が鋭く光った。どうやら図星を突いたらしい。激昂したnがシキへと襲い掛かる。その手にはいつしか銀の短剣が握られていた。いっそ舞うような優雅さで、nは迷わずシキの咽喉元を削ごうとした。シキは刀でそれを捌きながら後退した。
 押されてはいるものの、アキラの話題はnを動揺させている。精神的には己の方が有利に立っているのだ。これはチャンスだ。シキはnの攻撃の隙を突いて、刀を繰り出した。
「っ……!」
 長い刀の切っ先が、nの鼻先を掠める。いくら神のなれの果てだといっても、シキの刀は清められた御神刀である。触れれば無事ですむわけがない。nは舌打ちをしながら、シキから間合いを取った。
 距離を置いて、互いににらみ合う。
 そうしながらも、シキはnの動揺が不快で仕方なかった。さして強くもないアキラがnの動揺の種となる。なのに、己はあの虚無のような男の感情を揺らすことができない――つまり、それほど脅威だとは思われていないということだ。そのことがシキには悔しかった。
 シキの生まれた竜神の一族は、太古からこの国の神事に関わってきた。その中で一族の掟や形式が生まれ、がんじがらめになってしまっている。現代では当主もその側近も、術者としてはさほど優れた者がひどく少ない。それでも、世間に対しては自分たちがいかに神秘的な存在かを示そうと、もったいぶった態度を取る。
 そんな過去の威光ばかり抱え込んだ竜神の家が、シキは嫌いだった。だからこそ、竜神の呪縛から逃れるために強くなった。それだけでは足らず、海外でも積極的に自分で仕事を請け負ったりしてきた。力を示そうと必死だったのだ。
 だが、一昨年、シキは怪異を祓う依頼を受けて、nと出遭った。闘いのはてにnはシキをねじ伏せ、言ったものだ。
「自らのちっぽけな力にこだわる愚かな人の子よ。お前は強く、純粋だ。多くのものを持っているのに、満足せずに力を求める。傲慢なお前に、しいたげられる者の苦しみを与えてやろう」
 そのとき、nはシキの頭に触れた。その瞬間、呪詛の欠片がシキの魂に入り込んでしまった。今でも呪いは解けず、シキの身に宿っている。術を使おうとすると、時折、外へ漏れ出すようになった。
 これは、シキにとって大変な痛手だった。竜神家は力の純粋さを何よりとする。シキは呪詛に侵されてしまった。力を使えばそれが一目瞭然となる。これでは、一族の中で優れた術者として認められない。だからこそ、シキはnを倒して呪詛を解きたかった。
 けれど。
『あんたはすごいよ』
 不意にアキラの顔が頭に浮かんだ。家とは関係なく、ありのままのシキ自身に向けて発せられたあの言葉。称賛の眼差し。シキは心が温かくなるのを感じた。ふと、最初に因習にがんじがらめの竜神家から飛びだそうと考えたときのことを思いだす。 かつて、俺は過去の有職故実を懸命に守らなくとも、優れた術者でいられることを証明したかったのだ。そうだ。己は呪詛を受けていることを恥じる必要はない。呪詛を受けようが己は己だ。この身に宿る呪詛の力さえも糧として、強くあればいい――。
 シキは顔を上げた。その表情からは、これまでnを追い続けていた間の不安が消えていた。


10.

 nと闘いながら、シキはいつになく冷静でいられる己を感じていた。こんなことはnの力の片鱗を身に宿して不純な存在となってから、初めてのことだ。
 そんなシキに、素手では分が悪いと思ったのか、nは短刀を取り出した。金の柄に異国風の精緻な細工のされたそれから、とてつもない霊力が溢れだしている。おそらくnがまだ神として祀られていた頃、この世に身を留めるための媒体――ご神体とされていた短刀だろう。
 nはシキとの闘いの疲れを感じさせない軽やかさで、刃を振るった。
 ただの斬撃ではない――そうと悟ったシキは、刃に己の霊力を集めてnの攻撃を受け止めた。ガキン。鈍い音を立てて、実体を持つ刃と刃がぶつかり合う。短刀からnの霊力が迸った。刀の刃に集めた己の霊力だけではnの霊力を相殺し切れない。まるで電撃のようなそれがシキに襲いかかる。
 その刹那。
 シキは己の中にあるもう一つの力を感じた。以前、nと闘ったとき、己に投げかけられ、今も己の中に残っている彼の力の片鱗。かつては純粋な竜神一族であった己を、不純の存在にした異物。己の中に残されたそれを、シキはこれまで使ったことはなかった。――使おうとも考えたことはなかった。
 だが、それも己の一部なのだ。もはや己は純粋なる竜神一族ではないのだろうが――それがどうした。ただ己を見失わなければ、それでいい。
 ――俺の中のあの男の力……使ってみせる。
 そう決心した途端、脳裏に真っ暗闇の中で輝く紫の炎が浮かんだ。それに手を伸ばし、掴み取るイメージ。その直後、刀を握る現実の右手――イメージの中で炎を掴んだ手――に熱さと痛みを覚えた。まるで掌が焼け付くかのようだ。が、シキは歯を食いしばってそれに耐える。熱と痛みが限界まで達したかと思ったとき、不意に現実の右手から炎が上がった。イメージの中で掴み取った紫色の炎だった。
「何……!?」
 nが驚いたように、シキの右手を見る。
 当のシキも目を見開いて事のなりゆきを見守るしかない。
 シキの右手から現れた炎は、幾度か揺らめくうちに色を変えた。深い深い紅の色に。そうして勢いよく刃の上を走って、刀全体を包み込む。シキはすかさず、nの短刀を受け止める刃に力を込めた。渾身の力でnの刃を振り払う。その瞬間、刀を這う紅の炎が飛び出し、nを攻撃した。
 nの衣服や髪に移った炎が、彼の身を包む。しかし、さすがに神のなれの果てというべきか、nは動揺した様子はなかった。
「……異なる力を己がものとしたか。だが、これでお前も異形、そして異端とされるだろう。迫害され、蔑まれ、疎外されることとなる」
「それがどうした? 己が何であるかは、己が知っていればいい。俺は他人に認められたいがために、己を高めるわけではない。蔑むならば蔑めばいいさ……たとえ血を分けた一族であろうとな」
「どこまでそう余裕でいられるかな? 恐れがないのは、お前がこれまですべてを持っていたからだ。それゆえに持たないものの心が理解できないのだ。……疎外される身になればいずれ分かるだろう、俺がなぜ対の存在に固執するのかを」
 ゆらゆらとnの身を包む炎が大きく揺れ、その姿が見えなくなる。じきに炎は跡形もなく消え去ったが、その場にnの痕跡は残されていなかった。
 ――また、去ったのか。
 勝負をはぐらかされたことにシキは小さく舌打ちした。が、今はnにばかり関わってはいられない。リンやアキラが怪異と対峙しているはずなのだ。とにかく、そこへ向かわなければ――。シキは刀を鞘に納めて、己の血の共鳴を頼りに歩き出した。


***


 アキラは怪異と対峙していた。黒いヘドロのような怪異の本体は、緊迫した場に不釣り合いなほど静かに揺らいでいる。時折、その身体の表面に浮き出た誰とも分からない顔が、かすかな呻きを漏らしてはまた沈んでいった。
 普段なら、こんな風に怪異をじっくり見つめることなく、すぐに祓ってしまっていただろう。だが、nという男に自分の魂はかつて神のなれの果て――怪異のようなものだったと聞かされたせいか、問答無用で敵視する気は起きなくなっていた。それでも、怪異を相手に情に流されれば、自分の生命ばかりか、この場の仲間たちすら危険にさらす可能性もある。
 ――憐憫に流されるんじゃない。
 アキラは自分に言い聞かせて、短刀を抜いた。と、そのときだ。怪異が黒いヘドロのような身体の一部を突出させた。まるで触手のように動くその先端が、勢いよく迫ってくる。アキラは流れるように怪異の触手の先端を切り裂いた。
 ……オオォォォォォ。
 怪異が雄叫びのような、うめき声のような音を発する。アキラはそこにはっきりと、憎悪と苦痛と悲哀を聞き取った。これまでは、怪異の声音の感情など理解できなかったというのに。
 そのせいで、次の攻撃を繰り出そうとした手が止まった。あっと思うが、時はすでに遅い。憤怒の気配をまとった怪異が、黒い触手でアキラを弾きとばしていた。吹っ飛んだアキラは、廊下の壁にぶつかる。
「ぐっ……!」
 苦痛の呻きを漏らしたアキラは、それでも堪えて怪異を見据えた。絶好のチャンスだというのに、そいつはアキラにとどめを刺すこともなくゆらゆらと揺れるばかりだ。束の間、怪異を取り巻いた憤怒の気配も消えていて、以前の複雑に混じりあった憎悪や悲哀を感じる。
 その様子にアキラは違和感を覚えた。怪異の行動が奇妙だ。アキラの攻撃に怒りを覚えて反撃したのだとしても、感情の切り替えが早すぎる。だとしたら? だとしたら。
 ――もしかして、怪異は単に俺の感情を反射しただけなのか……?
 アキラはまじまじと相手をみつめた。思いつきが正しいならば、憎悪や怒りを向けなければ相手はこちらを攻撃して来ないはずである。といっても、あの黒いへどろのような外見で恐れや嫌悪を抱かないことは難しい。
 恐れ、忌み、嫌わずにはいられない存在なのだ。まるで――まるで、一族の中の自分のように。

『……父親もなく生まれた子らしい』
『化け物め』
『なんと忌まわしい』
 一族の者たちの冷たい目が、脳裏にフラッシュバックする。けれど。

 くしゃりと頭を撫でたシキの手の温かさ。
 アキラをアキラ自身として対等に扱おうとする態度。
 シキは当たり前のように、自分を人間として見てくれた……。

 そうだ、とアキラは思った。誰かにお前は化け物ではないと受け入れてもらうことは、こんなにも嬉しいことだ。蔑まれないことは、憎まれないことは、こんなにも幸せなことなのだ。
 だったら、自分も同じことをしてやろうとアキラは決めた。目の前の黒いヘドロのような怪異に、憎しみや嫌悪以外の感情を向けるのだ、と。自分の立てた仮説が間違っていれば、自分の生命は危険にさらされるだろう。もしかすると、怪異に呑まれてヘドロに囚われた魂の一つにされてしまうのかもしてない。だけど、それでも自分は――自分だけは、あの怪異を嫌悪してはならないのだと思った。
 だって、蔑まれ、嫌悪される痛みなら分かるのだから。もし、ここで嫌悪から怪異を狩るならば、自分は自分を蔑んだ一族の人間と同じになってしまう。
 ――だから、俺は。
 アキラは手にしていた短刀を鞘に戻した。その短刀を足下に置く。それから、アキラは怪異に向かってゆっくりと手を差し伸べた。
 怪異は黒い身体を戸惑うように揺らした。それから、おずおずと黒い触手を伸ばしてくる。
「アキラっ!?」
 遠くリンの悲鳴が聞こえる。そのとき、触手がアキラの手に触れた。
 アキラは視界が黒い闇に覆われるのを感じた。身体が生温い水分に取り巻かれるかのようだ。温泉――いや、海――ちがう、これはまるで羊水に包まれているかのよう。怪異の中は、意外にも心地よかった。アキラは胎児のように身を丸めたまま、黒い羊水の海の深みへと潜っていく。
 幾つものの自分のものでない記憶が、泡のように周囲を通りすぎていく。どの記憶も嫌悪や軽蔑や憎悪に彩られていた。きっと、怪異の中に取り込まれた無数の魂――それらの記憶の一部なのだろう。
 アキラは魂たちの記憶の泡も通り過ぎて、更に深みへと沈んでいく。怪異を成すものの核心へと――。


11.

 リンはケイスケと対峙する傍ら、アキラが怪異に呑まれていくのを見ていた。まるで自ら望んだかのように怪異に向かって手を伸ばしたアキラは、すぐにヘドロのような黒い固まりに包まれてしまった。
 まさかアキラまで怪異に食われてしまうなんて。リンはひどい焦りを覚えた。このまま怪異が暴走して、リンやケイスケをも取り込んでしまってもおかしくない。思わず身構えるが、怪異は静かに黒い躰を揺らめかせるばかりだ。
 と、不意に奇妙なことが起きた。怪異の内側から、清浄な霊力がこぼれ始めたのだ。それと同時に、リンに襲いかかろうとしていたケイスケも力を失って、がくっとその場にくずおれる。
「ケイスケっ!」
 とっさにリンはケイスケに駆け寄った。小柄な身体には少し厳しいが、懸命に彼を抱き起こす。名を呼びながら頬を叩くと、ケイスケは小さく唸って目を開けた。その表情からは憑き物が落ちたように狂気が消えている。
「よかった、ケイスケ……」リンはほっと息を吐いた。
「リン……。俺、いったい何をして……? ――そうだ、アキラは? アキラは無事なの?」
「アキラは……」
 口ごもるリンを不審に思ったのか、ケイスケは顔をしかめながら身体を起こした。
「何なの? アキラはどうしたの?」
「アキラは、怪異に飲み込まれたんだ……!」
「えっ!? それって、アキラが危険ってこと!?」
「危険なのかどうなのか、俺にも分からない」
 リンは頭を振ってから、相変わらず清浄な霊力を僅かずつこぼす怪異に目を向けた。何もかもが予想外の出来事ばかりで、どう対処していいのか分からない。怪異が姿を保ったまま、清浄な気を発するなんてことは普通ならあり得ないのだ。
 もしかして、アキラは単に怪異に取り込まれたわけではないのかもしれない。内部から浄化しようとしているのかも。だが、そんな浄化方法は前代未聞である。アキラを助けよう――或いは支援しようにも、下手に手出しすれば怪異の内部にいる彼さえも傷つけてしまう危険性があった。
 ――俺は見ていることしかできないのか……? アキラは危険にさらされているかもしれないのに。
 リンは唇を噛んだ。そのときだ。カツカツカツと刻むように硬質な足音が響いてくる。その音にリンは聞き覚えがあった。共に怪異を倒して歩く兄の足音だ。
 足音の聞こえる廊下を振り返って、リンははっと息を呑んだ。こちらへ向かって来る兄のシキは、一見すると今日この学校の中で別れたときと何も変わらないように見える。だが、肌に感じる気配が違っていた。彼の清冽な気の中に、異なる力が混ざっている。それが以前、戦った異国の神のなれの果てから受けた力だということはリンも知っていた。ずっと嫌悪していたその力を、シキは受け入れたようだった。異なる性質の力が、何の矛盾もなくシキの本来の力の中にとけ込んでいるのが感じられる。
「兄貴……いったい何があったの?」
「説明は後だ。アキラはどうなった?」
 シキに問われて、リンは静かに揺らめく怪異に目を向ける。その視線を辿るようにして、シキは怪異を見据えた。
「あれ、か。アキラの気配が漏れてきているな」
「怪異に取り込まれたんだ。アキラは、今、あの中にいる」
「取り込まれたのではない。あいつは……祓おうとしているのだろう。アキラの気配はあの中ではっきり存在している。少しも弱っていない」
「どうして分かるんですか? リンだってアキラがどうなってるのか、分からないのに」ケイスケが不思議そうに尋ねた。
「お前のような一般人には理解しにくいかもしれんが……。俺はアキラに血を与えた。それ故に、単なる知り合い以上の縁が俺たちの間にできている。それで感じ取れるんだ」
 シキがケイスケに答えるのを、リンは意外に思いながら聞いていた。シキは竜神一族の血をアイデンティティとしてしがみつくような、一族の末端の連中とは違う。それでも、太古から連なる己の一族をそれなりに敬っているのだ。
 血を与えるということは、自分のみならず竜神一族との繋がりをも与えることを意味する。そう簡単に赤の他人にそれを許すようなシキではない。ましてや、アキラは過去に竜神一族と対立したこともある渡良垣家の人間である。
 ――それでも許せるくらいに、アキラが特別ってことか。
 一瞬、考え込んだリンには気づかず、シキは前へ出た。しっかりした足取りで怪異へと向かっていく。
「兄貴! 何をする気……!?」
「アキラを支援する。いくらあいつでも、長時間、怪異の怨念の中にいれば取り込まれる危険があるからな」
 そう言いながら、シキは右手を持ち上げた。リンは彼が刀を抜くのだろうと思った。だが、その予想は裏切られる。シキは素手のまま、怪異の黒いヘドロのような本体に触れたのだ。いつもなら問答無用で怪異を切り刻むシキの常からすれば、あり得ない行動だった。そのまま、目を閉じてゆっくりと自分の腕を怪異の本体に沈める。
「アキラ……。そこにいるか、アキラ……?」
 静かに、祈るようにシキは呟いた。


***


 どれほど暗い闇の中を潜っていっただろうか。やがて下降が止まって、アキラは顔を上げた。ここが怪異の“底”なのだろうか? 耳を澄ませれば、密やかなさざめきが潮騒のように遠く近く聞こえてくる。よくよく聞いてみれば、さざめきは怪異に取り込まれた人々の嘆きの声だった。
 痛い。苦しい。悲しい。誰か――どうか助けて。
 さざめきの中をゆったりと、静かに怪異の根幹を成す気が巡っている。アキラは手を伸ばしてそれに触れた。刹那、脳裏にどこか小さな路地に置かれた社が現れる。どうやらその社に宿る存在が、戦争やその他の原因で生命を落とした人々の迷える魂を慰めようと拾い集めたらしい。しかし、迷える魂は増え続けて魂の浄化が間に合わず、こうして怪異になってしまったらしい。
 ――俺が手伝うよ。
 アキラは怪異の根幹を巡る力にそう伝えて、自らの霊力を送り込んだ。本来、アキラは支援タイプの能力者ではない。相手を傷つけないように、慎重に力を与えていく。すぐに相手はアキラの力を得て、本来の自身の清浄な力を強めた。
 ほっとしたアキラが手を引こうとしたときだ。不意に闇の中から現れた腕がアキラを掴んだ。振り返れば、そこにnが立っている。
 nがこの場にいること自体は、不思議ではなかった。彼がこの怪異に力を与えていたのだとしたら、何らかの繋がりができているはずだ。その繋がりを辿って怪異の内部へ降りてくることは可能だろう。
 だが――。
「お前はシキと闘ってたんじゃないのか……」
 アキラは不審に眉をひそめた。そこで、すぐに気づく。目の前のnの姿はどこか現実味を欠いているのだ。どうやらnは、怪異との繋がりを使って自分の意識だけをこの場に送り込んだらしい。
 nはアキラの問いには答えなかった。ただ、アキラの身体を抱きしめる。まるで子どもがすがりつくような必死な力だった。
「――アキラ……アキラ……アキラ」
 祈るように呟くnの声に、アキラは自分とは別の名前が重なって聞こえた。おそらく、nの対なる相手だったという神の名なのだろう。アキラはnを哀れに思った。だが、だからといって絆されてやるわけにはいかない。今のアキラは人間だ。力の多くを失ったとはいえ、元は神であったnとは違う。もはや異なる理の中で生きているのだ。
「n……。悪いけど離してくれ。俺、そろそろ戻らないと――」
 そう言いかけたとき、ふと頭の中で声が響いた。

 ――ホントウニ? 俺ハ人ノ世界ニ受ケ入レラレテイルノカ?

 このままnといた方が、自分にとって幸せなのかもしれない――。だめだ、と思うのに頭の中で誰かの声が囁く。ほら、対なる存在であるnと生きていくべきだ。忘れたわけではないだろう? 共に歩んだ遙か昔の幸せな時を――。
 アキラは脳裏に自分の知らない記憶が浮かぶのを感じた。その中でアキラは銀の狼の姿をして、金の狼に化身したnと風のように草原を駆けていた。
 ――戻リタイダロウ?
 何かが脳裏で囁く。強ばっていた身体から、ゆっくりと力が抜けた。
「俺……。俺は……やっぱり……nと――」
 と、そのときだ。力強い声がアキラを呼んだ。

『――アキラ』

 シキの声だ。アキラははっと我に返った。どうやらnの思念に同調させられかけていたらしい。アキラはnを突き放した。
『アキラ』
 名を呼ぶシキの声に励まされて、アキラは突き飛ばされて呆然としているnの瞳を見据えた。
「俺は行けないよ。たとえ受け入れられなくても、俺は人として生きるんだ」
 途端、nは絶望した表情になった。「お前も俺を一人にするのか……」うめくように呟いたかと思えば、その身体がさらさらと崩れて闇の中へ消えていく。あっという間にnの思念はその場からいなくなった。
 ほぅっとアキラは息を吐いた。安堵のため息である。同時に、目から涙があふれ、一筋頬を伝い落ちた。アキラ自身が悲しいわけではない。これはきっと――。
 ――俺の中に眠るnの対の存在が、悲しんでいるのか……。
 そんな思いを振り切るように、アキラは拳で涙を拭った。怪異の中に暖かく降り注ぐシキの霊力に意識を研ぎすませる。
 ――帰ろう……現し世へ……。
 アキラはシキの霊力を辿って、浮上し始めた。


 目を開けたとき、アキラはシキに抱きしめられていた。その温もりに思わず微笑したところで、意識がはっきりしてきたアキラは思わず身を強ばらせた。この体勢は――近すぎる。
「あ、あの……シキ……?」
「目が覚めたか、アキラ。お前がどうも怪異に同調しすぎていたようでな、こうして気を与えていたところだ。お前には血の繋がりの縁を与えていたのが幸いだった」
 平然と言ったシキは、アキラから身を離した。その態度に、アキラは自分だけが妙に意識をしているようで、恥ずかしくなる。
 ――俺たちは男同士だろっ。近いからって何なんだよ!
 アキラは内心、自分につっこんだ。と、そこへリンとケイスケがやってきた。
「兄貴、魂鎮めの術、終わったよ」リンが元気に言った。
「こちらも、怪異の中から吐き出された人たちの確認、終わりました。皆、弱っていますが怪我はないようです」ケイスケも穏やかな笑顔で言う。
「リン、ケイスケ……よかった、無事で……」
 二人の元気な姿に、アキラは思わず笑みを浮かべた。その刹那。ものすごい勢いで駆けてきた二人が、がばっとアキラに抱きつく。
「よかった、アキラ! ちゃんと目が覚めてよかった!」
「ごめん、アキラ。俺が依頼したから、危険な目に遭わせちゃって……」
 ぎゅうぎゅう抱きついてくる二人に、アキラは戸惑った。今まで渡良垣家の中で異端の存在だったため、こんな風に親しく接してくれる人間はほとんどいなかった。そのせいか、学校でもアキラは同年代のクラスメイトとも距離を置きがちで、親友もいなかったのだ。
 抱きつかれるのは気恥ずかしいけれど、今、不思議と暖かな気分だった。アキラはおずおずと二人の背に手を回して抱きしめ返した。


***


 ――ひと月後。
 アキラはリンと駅前のハンバーガーショップで待ち合わせをしていた。時刻は夜の八時。一人で席に座って少しぼんやりしていると、目の前の席にリンがやって来た。制服姿だが、どこかでひと仕事してきた帰りらしい鋭い気配をまとっている。
「ごめん、お待たせ」謝るリンに、
「いいよ」とアキラは手を振ってみせた。「忙しそうだな、リン。その後、どうだ?」
「忙しいよ。今までの仕事は続けなきゃならない。それはいいんだけど、兄貴がうちの家の後継者候補下ろされちゃったから、俺にしわ寄せが来て儀式とか大変なんだよね」
「シキが? あんなに優秀なのに?」
「んー。いろいろあるんだよ、竜神一族もさ」
 リンが語ったところによると、シキはあの学校の怪異の一件以来、異なる種類の力を身に取り込んだ。結果、竜神一族としては不純な存在となってしまったために、後継者候補から外されたのだという。
 心配になったアキラは、思わず身を乗り出した。
「それって、シキはがっかりしてないのか?」
「あー……。むしろ、清々してるっぽい」そこで、リンは思い出したように息を飲んだ。その表情が次第に怒りに変化していく。「っていうか、聞いてよアキラ! 兄貴ったら、後継者外されたのをいいことに、メンドい儀式とか全部、俺に押しつけるんだよ!? 自分は怪異祓い専門のハンターになっちゃって、ずるいったら!」
「――誰がズルいんだ?」
 不意に低く艶のある声が響いた。見れば、テーブルのそばにシキが立っている。育ちの良さそうな彼は、ハンバーガーショップにおそろしく不似合いだった。
「し、シキ……。あんた、いつから」
「リンが今日、ここでお前と待ち合わせると言っていたのを思い出してな。少し挨拶しておこうかと」
「挨拶だって?」
「あぁ。お前の従兄の渡良垣蒼葉が、いずれ術者の派遣会社を作ると言っているそうじゃないか。俺はフリーのハンターになったからな。いずれ世話になることもあるだろう」
 シキはどこか愉しげだった。リンの言う通り、後継者を外されたことへの屈託は見えない。むしろ、自由になったことを喜んでいるかのようだ。出会ったときのどこか堅いシキよりは、こちらの方がずっといい――。
「俺も蒼葉の派遣会社に参加する。いつか、あんたと一緒に闘ってみたいから」
「……そのときが楽しみだ」
 笑みを浮かべたシキは、踵を返して去っていった。




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