理想のお嫁さん 八月の半ばのある日。洗濯物を干し終えたアキラはソファにどさりと身を投げ出した。夏の午後の気だるい陽気に誘われるように、ふわぁとあくびがこみあげる。眠りと目覚めの狭間にいる感覚。何とのどかなことだろう、とアキラはぼんやり考える。 トシマでイグラに参加していたのは、すでに七年も前のこと。成り行きでシキと脱出して以来、アキラは彼と生きてきた。正確には、裏の世界の仕事を請け負うシキに無理矢理くっついていたのだが。 七年間は、まるで夢のように速く過ぎ去った。トシマで宿敵を失ったシキが覇気を失い、静かな狂気の淵に沈んで動かなくなったこともある。ヴィスキオの〈王〉であったシキや非ニコル体質のアキラの生命を狙って、刺客が襲ってきたことも。裏の仕事で知った秘密のせいで暗殺されかけたこともあった。幾度もの危険を乗り越えて、シキとアキラはともに裏の世界で一定の地位を築きつつあた。もっとも、アキラにとっては裏の世界での評価など、どうでもいいことではあったが。 それでも、長く裏の世界にいたために、仕事には慣れた。仕事を請けるペースも分かってきた。シキもアキラと二人で仕事をすることが馴染んでいったらしく、まとまった仕事を請けた後にはしばらく休みを取るようになった。 今回は、貸し別荘を借りての少し長めの休暇の予定である。時期が時期なので、バカンスと言えるかもしれない。そう思うと、アキラは何だか面映ゆい気分になるので、あまり考えないようにしているのだが。こうしてのんびり洗濯をして、まどろんでいると裏の世界のことがひどく遠く思えてくる。 別荘の中はしんと静まり返っていた。外の林から響く蝉時雨が屋敷の静かな空間を満たすばかり。アキラの意識は傾いて、ゆっくりと眠りの淵に落ちていく。 その中で、アキラは懐かしい夢を見ていた。これは――そう過去の記憶。ニコルの実験体としての記憶を消され、孤児院で暮らしていた幼い頃の思い出だ。 「――オレ、大きくなったらユリアちゃんとケッコンするんだ」 ある日のこと、友だちのひとりがそう言った。“ユリアちゃん”というのは、孤児院でもいちばん可愛らしい女の子だった。まだ五つか六つの子どもが、結婚の話をするのは気が早すぎる。しかし、その友人は真剣だった。 傍で話を聞いていた先生も、彼の言葉を否定することはなかった。 「ユリアちゃんもそうしたいって気持ちは確かめた? そう……。なら、きっと二人で幸せになれるわね」そう微笑する。 ひとりの少年の告白をきっかけに、その場にいた少年たちは口々に“自分の理想のお嫁さん”について話し出した。 かわいい女の子がいい。いやいや、優しいのが一番だ。中にはマセた子がいて、スタイルがいい女の子が好き、なんて言い出す。先生と結婚したいと言う子もいて、彼女は苦笑していた。 仲良しのケイスケ引っ込み思案の性格のせいか答えず、アキラが何か言わないかと様子を見ているようだ。 しかし、どちらかというと奥手なアキラには、未来のお嫁さんのことなど想像もできなかったのだ。一般的な夫婦というのは、男女だ(第三時大戦後しばらくして、同性同士でも婚姻に等しい扱いを受けることができる制度が生まれた。アキラが孤児院にいた当時はまだ法整備されていない)。将来は自分も妻をもらうのだろう、と漠然と考えはするのだが……。 「アキラ君はどんな女の子にお嫁さんになってほしいの?」 先生が黙ってしまったアキラを促すように尋ねた。アキラはいよいよ困ってしまった。 しかし、何も言わないわけにいかず――とっさに思い浮かんだ言葉を口にする。 「食堂のおばちゃん」 「おばちゃんが……?」先生は首を傾げる。 「食堂のおばちゃんみたいに、オムライスを作るのが上手くて……先生みたいに、ご飯のとき一緒に食べてくれる子がいい」 「つまり、アキラ君はお料理の上手な子がいいのね」 先生はにっこり笑った。 実は少し違う。料理が上手いというだけでなく、一緒に食べるということも大事なのだ。けれど、アキラは自分の返答が何だか皆とズレている自覚があったので、黙っておくことにした……。 ――そういえば、そんなこともあったっけな……。 目覚めたアキラはソファに寝ころんだまま、ぼんやりとそう思った。当時の自分は夢にも考えなかっただろう――まさか大人になったとき、夫婦同然の関係になっている相手が男だなんて。 それはそれで構わない。というか、なるべくしてそうなったのであって、今更、後悔もない。ないのだが。 「……まぁ……人生って意外性の連続だしなー」 ぼんやり呟いたときだった。 「いきなり何を言っている? 寝ぼけているのか?」 不意に買い出しに出たはずの相方の声が聞こえて、アキラは飛び起きた。マーケットの紙袋と数冊の本を抱えたシキが怪訝そうな顔で立っている。 「お……おかえり。いつ帰ってきたんだ」 「さっきだ。ちょうどお前が独り言を言ったときに。それにしても、どうした? 自分の人生を見つめ直す気にでもなったのか?」 「そんなんじゃない。昔の夢を見て、ちょっといろいろ考えただけだ」 「昔の夢?」 シキは不思議そうにアキラを見つめた。 こういうとき、トシマを出た頃の彼ならば『話せ』と目で命じたものだ。そういえばいつからか、シキはあまり命令をしなくなった。が、アキラは基本的にシキに甘いので、ついつい彼の意を汲もうとしてしまう。自覚はあるのだが、そうしたくなるのだから仕方ない。 アキラは罰が悪い思いで視線をそらしながらも、口を開いた。 「……子どもの頃の夢だよ。理想のお嫁さんはどんな人かって聞かれたときの」 「ほぅ……」シキは片方の眉を上げた。興味を引かれたらしい。「で、お前は何と答えたんだ?」 「……オムライスを作るのが上手くて、一緒に飯食ってくれる人」 それを聞いた途端、シキはちょっとだけ渋い顔をした。 「――お前はどれだけオムライスが好きなんだ。今日はオムライスは作らんぞ。昨夜、作ったばかりだからな」 「分かってるよっ」 そう……実は、すでに昨夜、シキがオムライスを作ってくれていたのだ。 料理や家事は二人で分担することにしている。が、よくよく考えてみたら、オムライスを作るのは、圧倒的にシキが多い。ちなみに、アキラが作る場合は、シキの好みを考えて和食にすることが多かった。 だが、幼い自分の理想の本当の意味は、そういうことではない。そうではなくて、ずっと一緒にいてくれる人がほしかったのだろうと思う。四六時中べったりという意味ではなくて、離れても絶対、アキラのところへ帰ってきてくれる人。アキラの帰る場所になってくれる人が。――それが、一緒にご飯を食べてくれる人という意味なのだ。 なんだかんだで、シキの傍にはもう七年もいる。それほどの間、一緒にいてくれたのは親友のケイスケの他には彼だけ。狂気の淵から戻ってきた彼は、もはやアキラにどこかへ行けとは言わなかった。アキラが傍にいることを受け入れてくれているようだ。 それだけで、アキラには十分だった。 「――よくよく考えたら、あんたって俺の理想の嫁の条件にぴったりだよな」 今更ながら気づいた事実に感心して、アキラはしみじみと言った。その言葉にシキは呆れた顔をして――しかし、白い頬をわかりにくくほんの少しだけ朱に染めて――指先でアキラの額を弾いた。 「当たり前だろう。俺を誰だと思っている。お前の所有者だぞ」 「はいはい。あんたは俺の大事なパートナーだよ」 アキラはにっこり笑いかけてやった。 所有者だなんて、シキがわざと高圧的な言い方をするのはただの照れ隠しだ。昔はそれを真に受けて怒っていたものだった。しかし、今ならそんなシキの不器用な態度も理解できる。シキに対しては惚れた弱みがあるけれど、七年も共にいれば多少は強くなりもする。 アキラの笑顔に、シキは何か言いたそうな顔をした。が、ふぃと視線を逸らして、踵を返す。どうやら台所へ向かうらしい。 「シキ? どうしたんだ?」 「……今日の夕飯は俺が作ってやる」 「え? でも、今日は俺の番じゃ……」 「俺の負けだ。作ってやる」 「いや、負けって……俺たち、いつ、何の勝負をしたんだよ」 「惚れた弱みというやつだ」 「いやいや。それなら、俺だって負けっぱなしだし……」アキラは苦笑して、シキの背中を追った。「――だったらさ、負けた者同士、一緒に晩飯を作ろうぜ」 2014/08/17 |