嘘をつく
トシマを脱出して数ヵ月後。アキラはシキと共に、日興連の避難所を出て各地をさまよっていた。あてもなく、街から街へと流れる旅。どこへ、いつ移動するか、どれだけ滞在するかは、すべてシキを狙ってくる刺客次第だった。刺客の中には、シキに恨みを持つ者、殺すように依頼された者、<ヴィスキオ>の<王>を倒して名を上げようという野心をもつ者などがいて、その腕も様々だった。シキが<ヴィスキオ>の<王>であったという事実は、イグラ開催時は極秘であったはずが、今では裏の世界に密かに情報が広がっているようだ。トシマから生きて脱出した者が、意外に多かったということなのかもしれない。 当のシキは、自分を追って来る刺客に淡々と対処していた。そう、あくまで淡々と。シキは、かってのように闘うことに楽しみを感じることもないようで、彼の中に満ちていた覇気のようなものが日々零れ落ちていくようだった。掬い上げた水が指の隙間から漏れていくように、少しずつ、けれど確実に。 きっと目標としてきたnが、きちんと決着もつけられないうちに死んでしまって、シキの中で何かが燃え尽きてしまったのだろう。アキラは、シキの状態についてそう察していたが、だからといって何ができるわけでもなかった。 というより、できることは全てやりつくした。 覇気を失い、時折追手との闘いの最中にすら自失の状態になるシキを怒鳴り、宥め、すかしてみた。それで引き止められるなら、とトシマで無理やりされた行為を淫乱な女のように自ら強請ってもみた。自分でも奇妙に思うほど、アキラは必死でシキをつなぎ止めようとしたが、どんなことをしても効果もなかった。 シキは、いつか行ってしまうのだろう――自分の手の届かない場所に。 このところ、アキラはそんな予感を抱いては打ち消しながら、シキと共に行動していた。どこにでも行けと言われているのに、もとはといえば暴力でこちらを屈服させようとした男だというのに、なぜか離れることはできなかった。そんな自分が訝しかったが、突き詰めて考えないようにしていた。どうしたって、なぜか自分がシキの傍から離れなれないことは何となく分かっていたし、考え込めば身動きが取れなくなってしまうだろうという予感もあったからだ。 終わりの予感を孕みながら、けれどそこから目を逸らしたまま、二人は放浪を続けていた。 季節は移り変わり、冬が終わって春が訪れようとしている。このところ随分暖かな日も増えたが、それでも夜になればぐっと気温は下がってしまう。夜間の移動を主とするアキラとシキには、まだまだ過ごし難い時期だ。しかし、今日は刺客をかわすので手一杯で、まだ塒を見つけられていない。 今日はこんな寒い中で野宿することになるのか、と内心ため息をつきながら、アキラは先を歩くシキの背を追っていた。今は、郊外にばかりいた最近の自分たちにしては珍しく、繁華な街中へやって来ている。アキラがシキと共に歩いているのは裏通りだが、時折建物の合間に華やかな表通りの光景が見え隠れする。 久しぶりの街が新鮮で、アキラはちらちらとネオンの点った表通りを見ながら、歩いていた。そのとき、ふと目に付いたものがあった。街灯の光を浴びて歩道の脇に立つ街路樹、ひょろりとしたその枝に、白い花が咲いている。 あぁ、綺麗だ。あれは何という花だっただろう。確か、何度となく見たことがある。 思い出せそうで、思い出せないのがもどかしくて、つい足が止まる。 と、そのとき低く響きのいい声が耳に届いた。 「――何をしている」 見れば、先を歩いていたシキが足を止め、こちらを振り返っている。そのことに、アキラは思わず目を丸くした。このところ、シキが自失の状態になっている時間は、次第に長くなってきていた。そんなとき、シキはアキラが傍に行っても離れても、気付きもしない。だから、シキがアキラが立ち止まったことに気付くような類の反応は、ひどく久しぶりだった。 そんなことを思って驚いた自分が嫌で、アキラは驚きの表情を押し隠しながらシキを見た。 「道路のそばのあの街路樹、花が咲いてる」 「それがどうした」 「いや。綺麗だなと思っただけだ。前にも何度か見たことがある気がする」 「ハクモクレンだな。街路樹としても利用される樹だ。春先にああして花を咲かせる」 「あんた、結構詳しいな」 「詳しいわけではない。一般常識の範囲だ」 「あんたの中に常識なんて言葉があったのか」 思わずアキラが言うと、シキは眉をひそめてやや不機嫌そうな面持ちになった。少しふざけすぎたかもしれない、という気もしたが、言ってしまったものは仕方がない。自分の言葉を別の話題に紛らわすように、アキラはいつになく饒舌に言葉を続けた。 「あの花が咲くってことは、もう春なんだよな。トシマを出てから、意外と時間が経ったもんだな」 「そうだな」表情を改めて頷いたシキは、アキラから視線を逸らすようにして花をつけた街路樹を見つめた。「……思ったよりは、長かった。だが、もうじきに終わるだろう」 「シキ?……一体何のことだ……?」 恐る恐る尋ねれば、シキは視線を戻してアキラを見据えた。その双眸が、最近にしては珍しく強い意思の光を湛えている。 「お前も、薄々感づいてはいるはずだ。俺が……いずれ自分の意思で動かなくなる日が来ることを」 あんた何言ってるんだよ、とまるで出来の悪い冗談でも聞いたように、アキラは笑おうとした。けれど、できなかった。冗談にして笑えるほど、アキラには心の余裕も覚悟もなかった。笑いの代わりに出たのは、掠れた声だけだった。 「何、言ってるんだ……あんた……そんなこと、あるわけない……」 「いや、そのときは必ず来る。そうなったら、お前も俺のもとを去って好きなところへ行け。これは絶対だ」 「……なんで、あんたに命令されなきゃならないんだよ。俺は俺の意思に従うって言っただろ」 すると、シキは表情を消してつかつかと歩み寄ると、唐突にアキラの胸倉を掴んで傍の壁に乱暴に押し付けた。突然だったため避けることもできず、無防備に頭が壁にぶつかってごんと鈍い音がする。頭部に感じた痛みを目を閉じて遣り過ごし、アキラが再び目を開けると間近にシキの顔が迫っていた。 「いいか、俺は貴様の主だ。だからこそ言う。俺が自我を失ったときは、どこへでも去れ……必ずだ……!」 「あんたは……!」 負けずに言い返そうとして、アキラは言葉を失った。何をどう言い返せばいいのか、分からなかった。たとえどれだけ言葉を尽くしたところで、シキには届かないという気がする。だから、何も言えないまま、アキラは間近にあるシキの顔を見つめることしかできなかった。 よく見ると、シキはいつもの無表情の癖に、どこか痛みを堪えているような様子があった。 そのことが、無性に痛々しく思える。壁に打ち付けた自分の頭の痛みよりも、余程痛い。 ふと、アキラは自分の視界が歪んでいることに気付いた。頭を強く打った痛みのせいで、涙目になっていたのだろう。きっとそうだ。そうに違いない。そう自分に言い聞かせながら、アキラはシキの顔から視線を逸らして、彼の背後に見えているハクモクレンへ視線を移した。と、その傍にあるネオンが一緒に視界に入ってくる。 (そうか……今日は……) あることに気付いたアキラは、シキへと視線を戻した。目に力を込めて、シキの目を見返しながら口を開く。 「あんたが俺に言わせたいのなら、今だけは言ってやる。――あんたが自分の意思で動かなくなったら、俺は必ずあんたから離れる。そう約束する」 「――それでいい……」 シキは頷くと、アキラから離れる。 解放されたアキラは怒った表情でシキの脇を抜け、先に立って歩き出した。そして数歩進んだところでまだシキがついてこないことに気付き、振り返る。「何してるんだよ。さっさと行こう。こんな寒い中で野宿はしたくないからな。――それと、さっきの約束は、もう二度とは言わないからな!」それだけ言うと、アキラはまた怒りのこもった乱暴な足取りで歩き始めた。 先を進んでいくアキラの背を追おうとして、シキは最後に一度だけアキラが見ていた表通りへと視線を向けた。街灯の光を受けて白い花を咲かせているハクモクレン――その向こうのビルの壁に、電光掲示板が見えている。電光掲示板には、今日の日付と時刻が表示されていた。 ――20××/04/01 23:52 シキはそっと息を吐いて、アキラの後を追った。 2009/03/28 |