煙草の話
*ED1後、眠ったシキが復活した後の話





 夜もかなり更けた頃、アキラはシキと共にとある街の小さな安宿にいた。普段なら、アキラたちは夜間に行動する。休息は昼の明るいうちにどこかの廃墟に身を潜めて取り、夜になると移動したり、請け負った裏の仕事に取りかかる。街中にいるというのに、まるで野生の獣のような暮らしをしている。しかし、今日は裏の仕事を済ませて小金が入ったため、珍しく宿を取るということになった。
 フロントで鍵を受け取り、部屋に入るなりシキは早速シャワーを浴びに行ってしまった。それで、アキラは手持ち無沙汰でぼんやりしながら、シャワーが空くのを待っている。普段は廃墟や、下手をすると路上で眠ることになるので、まともな寝床は久しぶりだ。アキラはベッドを見た瞬間から、そこに倒れ込んで眠ってしまいたくて仕方がない。けれど、汗を流してからでなければ、心地よい眠りは訪れないことは分かっている。
 ベッドの誘惑から気を紛らわすため、アキラは持ち物の整理を始めた。いつも持っている小さなバッグの中には、幾らかの現金と必要最低限の身の回りのものが入っているだけだ。アキラもシキも物への執着が薄い性質であるから、旅をするのにはそれで十分だった。けれど、今日はその中に見慣れないものが入っていた。
 真新しい煙草の箱だ。
 アキラもシキも、煙草は吸わない。アキラは吸ったことがないし、吸いたいとも思わなかった。シキは――もしかしたら吸うのかもしれない。けれど、その場面を一度も目撃したことはなかった。アキラは首を傾げ、そこでようやく思い出した。
 この煙草の箱は、今回の仕事で得た報酬のおまけのようなものだ。二人の働きぶりがめざましかったことを喜んだ依頼人が、別れ際に「おまけだ」と言って、この煙草の箱を投げて寄越したのだ。そのとき、アキラは箱をよく見ていなかった。パッケージの印象から、それが危険物でないことを確認しただけで、バッグに放り込んでいた。
 しかし、よく考えれば、この煙草の箱はまさに報酬の「おまけ」だ。内戦が終わって間もないこのご時世、煙草などの嗜好品は値上がりしている。銘柄にもよるが、換金すればソリドが五本から十本は買える額になるだろう。子どもの小遣い程度の額だが、それでも値打ちのあるものであることに違いはない。アキラは今更、情報屋の言葉に納得する思いだった。
 バスルームからは、さぁさぁという水音が続いている。まだシキは出て来ないようだ。煙草の箱を見ながら、アキラは好奇心がうずくのを感じた。
 一体コレは、吸ったらどんな感じがするのだろう。
 煙草を吸えれば格好いいのに、などという憧れはない。ただ、アルコール同様、勧められたときに軽く嗜めることができればいい、と思うことはある。裏の世界で生き残るには、他人に付け入る隙を与えないのがまず第一だ。しかし、荒くれ者の多い裏の世界では、煙草や酒が駄目となるとそれだけで侮られることもある。そういうことを、アキラは既に何度か経験していた。もちろん、アキラを侮って絡んできた輩には、身の程を思い知らせた上でお帰り願ったが。そんな理由から、アキラは内心で少しばかり自分にハクをつけたいと考えていた。
 耳を澄ませれば、バスルームからはまだ水の落ちる音が聞こえてくる。シキが出てくるには、まだ間がありそうだ。
 今が好機とばかりに、アキラはベッドサイドのテーブルから備え付けのマッチを手に取った。別にシキは保護者でも何でもないのだが、妙に後ろめたいことをしているような気がする。それでも、アキラはマッチに火を点け、くわえた煙草に火を移した。マッチの燃え滓は軽く振って火を消し、テーブルの上の灰皿に捨てた。
 そこで、アキラはおもむろに煙草の煙を深く吸い込もうとした。途端、バスルームの扉が開き、中からシキが出てくる。驚いたアキラは、うっかり心構えもなしに煙を吸い込み、むせてしまう。慌てて灰皿の端に煙草を仮置きし、激しくせき込んだ。
「……っ……げほっ……ごほっ……」
「お前は何をしている」
 頭上から呆れたような声が降ってくる。
 何とか咳を抑えながら顔を上げれば、いつの間にか側に来ていたシキが、冷たい目でこちらを見下ろしていた。シキは裸で、腰にバスタオルを巻いただけの格好だった。しかも、きちんと身体を拭いていないのか、髪や身体を水滴が滴っている。うっかりその様に見惚れそうになったところで、アキラははっと我に返った。
 こみ上げて繰る恥ずかしさを誤魔化すように、口を開く。
「あんたこそ、身体も拭かないで何やってんだよ。しかも裸で」
「着替えを持って入るのを忘れた」
「そうか。だけど、ちゃんと身体くらい拭けよ。いくらあんたでも、風邪を引くぞ。全く、子どもじゃないんだから」
「子どもなのはお前の方だろう。俺が目を離した隙に、火遊びか?」
 シキが灰皿へ目を向ける。まるで、アキラの喫煙を咎めているような仕草だった。そのことに、アキラは微かに反発心を覚えた。
「別に俺が煙草を吸ったって、何も悪いことはないはずだ。それこそ、俺は子どもじゃないんだから」
「子どもじゃない、か……そう言っているうちは、まだ子どもだというがな」
 そう言って、シキは苦笑した。トシマの頃とは全く違う、嘲笑ではない笑み。シキのその表情に毒気を抜かれて、アキラはどう反応していいのか分からなくなる。
 しかし、シキはそんなアキラの態度を意に介しなかった。身を屈めて灰皿から煙草を取り上げ、吸い口をアキラへ向けて差し出す。吸えということなのだろう。シキの仕草があまりに自然だったもので、アキラは餌付けされる雛のように吸い口をくわえてしまった。
「息を吸え……ゆっくりと、な」
 言われるままに、アキラは紫煙を吸い込む。やがて頃合いを見計らったかのように、煙草を持ったままのシキの指先が離れた。アキラは唇を開き、ゆっくりと煙を吐き出す。今度は形ばかりは上手く行ったが、あまり嬉しい気にはなれなかった。
 煙草の味が、何となく想像していたようには、美味く感じられなかったのだ。
「……何か、いまいちな味だな」
「お前の子どもの味覚では、そう思いもするだろうな」
 馬鹿にしたように鼻で嗤って、シキは手にしていた煙草を今度は自分でくわえた。その意外な行動に、アキラは目を丸くする。
「あんた……何してるんだ」
「一度火を点けたのに、吸いもせず捨てるのはもったいないだろう」
「そうだけど。そうじゃなくて……あんたが煙草を吸うなんて、初めて見たから。吸えたのか」
「まぁな」
 シキは頷いて、アキラの横に腰を下ろした。それで、アキラは妙に落ち着かない気分になった。おそらく、煙草を吸うシキという図が見慣れないせいだろう。
 やがて煙草を手に持ち、シキは煙を吐き出した。
「――煙草は、軍にた頃に覚えた。酒と女も。軍に入った新兵は、大抵そういう遊びを教わることになる。決して軍規が緩いわけではないが、軍とはそういうところだった」
「だけど、あんたが煙草を吸うところ、俺は見たことがない。……女は、俺の知らないところで、よろしくやってたのかもしれないけど」
「そう拗ねるな」
「拗ねてない。何で俺が拗ねなくちゃならないんだ」
「心配しなくとも、今はお前だけだ。煙草と女は、煩わしくてやめた。女は、敵である可能性を思えば、おいそれと寝るわけにもいかん。煙草は、癖になれば臭いが身体に染み着いて、闘いのとき相手に気取られる原因となる。そういう気遣いが、面倒だ」
 あんた、どれだけ闘うことしか考えてないんだ。アキラは思わずツッコミそうになった。しかし、実際のところそれがシキという男だった。また、裏の世界も、少しでも気を抜けば、それが生命取りになるという場所だ。シキの言ったことは、決して無駄な気遣いというわけでもない。
 何から何まで冗談のような世界で、冗談のような生き方を真面目にしている男なのだ、シキは。
 そう思うと何だか可笑しくなってきて、アキラは思わず吹き出してしまった。最初はそれでも笑いを堪えていたのだが、すぐに我慢できなくなる。最後には、げらげらと笑いながら身体を倒してシキにもたれかかり、それでもなお笑い続けた。
「何が可笑しい」シキは嫌そうな顔をした。
「だって……あんた――真面目すぎるんだよ……」
 もっとも、その生真面目なところこそ、傲慢すぎるほどの自信に溢れたシキの可愛げではあるのだが。さすがに、アキラも本人にそれを言う勇気はなかった。
 シキも、自分で警戒心過剰という自覚はあるのだろう。むっとした顔をしていたが、反論はしなかった。唐突に、シキはアキラを押し退けて煙草を灰皿に押しつけて消し、ベッドから立ち上がった。この話はこれで終わり、ということだろう。
「いいから汗を流して来い。夜更かしして寝過ごしたら、お前を置いていく」
「分かってる」
 アキラはまだ笑いながらも、素直にベッドから立ち上がった。


***


 シャワーを浴びて戻ると、既に部屋の明かりは消えていた。シキはラフな服装に着替え、ベッドの中だった。ここはベッドが二台あるツインの部屋だ。アキラは空いているベッドに入ろうとして、ふと気づいた。
 そういえば、空いているベッドは先ほど自分とシキが腰を下ろしたベッドだ。シキが濡れた身体のまま座ったものだから、手を置くとまだシーツが少し湿っていた。
 くそっ。いい方を取られた。
 アキラは思わず眠るシキをにらんだ。そのとき、掛け布団の下からシキの手が伸びてきて、腕を掴まれる。ベッドへ引っ張られて、アキラは危うくシキの上に倒れそうになりながら、何とかシーツの上に手を突いた。ぎょっとして見れば、シキはまだ眠っていなかったのか、目を開けてこちらを見ていた。
「何するんだ。危ないだろ」
「いいから来い」シキは囁いた。
 何がいいからなのか、よく分からない。それでも、アキラは取りあえずシキの隣にもぐり込んだ。シキは僅かに身体をずらして場所を空けた。そこにアキラが入っていくと、背に腕を回して抱き寄せる。そして、シキはアキラの髪に顔を埋め、すんと一度鼻を鳴らした。まるで、犬がにおいを確かめるような仕草だった。
 一体何なのか、とアキラは一瞬身を強ばらせた。が、シキはそれ以上何を言うでもなく、するでもなかった。耳をすましていると、すぐにシキの呼吸は寝息に変わった。
 本当に何がしたかったんだ。アキラはそう思って脱力した。これでは、一人で緊張したのが馬鹿みたいだ。あぁ、本当に馬鹿みたいだ。
 投げやりにそう思いながら、アキラは自分も眠ろうと目を閉じた。すると、ふわりと馴染みのない匂いが嗅覚に触れた。先ほどの煙草の匂いだ。その向こうに、慣れたシキの匂いも感じた。途端、鼓動が一度跳ねる。気がつけば、アキラは自然と笑みを浮かべていた。
 煙草を吸うシキの姿も、軍属時代の話も、今日初めて知ったシキの一面だ。ごく些細なことではあるが、新たな一面を知ることができるのは、とても幸福なことだった。
 シキが正常な意識を失っていた数年間、アキラは『変わらないこと』だけを願い続けてきた。明日もシキの鼓動が続いていますように。痩せていく身体の衰えが、少しでも緩やかでありますように。シキが目覚めるという願いは、その希望が潰えたときが恐ろしくて、持つことができなかった。翌日も、抜け殻のようなシキでもいいから、側にいられるようにとだけ願いながら日々を生き続けた。
 だから、シキが目覚めた今でも、こうしてシキの意識が戻ったというのは夢ではないのかと思うことがある。シキが自分で動いて、言葉を交わせて、しかも新たな一面を見せてくれるなど、途方もない幸せだった。いつからだか、そう思うようになってしまった。
 自分は、どこか壊れておかしくなってしまったのだ、とアキラは思った。これほどまでに他人なしではいられなくなるなんて、昔の自分からは考えられない。けれど、それで構わなかった。たとえば、シキがnにこだわり続けたように、自分がシキなしではいられないように、人には皆どこかおかしな部分があるのだろう。シキの意識がなくなった数年前から、そう思うことにしていた。
 今はただ、幸せだと自分が分かっていればいい。
 アキラはシキの胸元に顔を寄せ、目を閉じた。そうして衣服の布地越しにシキの鼓動を聞いているうちに、いつしか眠りに落ちていった。


***


 久しぶりのベッドは寝心地が良すぎて、アキラは昼過ぎまで目を覚まさなかった。目を覚ますと、シキは既に起きて刀の手入れをしていた。眠りすぎだとシキは言ったが、しかし、本当に置いていく気はなかったようだった。
 日が暮れると、二人は安宿を後にして放浪の生活に戻った。
 アキラが開封した煙草の箱は、最早換金するわけにもいかず、しばらく手荷物の中に入っていた。アキラは結局吸うようになはらなかったが、シキは時々煙草を取り出して吸うことがあった。そうして少しずつ煙草が消費され、箱が空になると、シキはすっぱりと煙草を止めてしまった。






2009/08/22

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