・シキの眠りとは何だったのか?
――殺人を研究する上でまず理解したいのは、平均的な人間には、同類たる人間を殺すことへの抵抗感が存在するということだ。 (デーヴ・グロスマン『戦場における「人殺し」の心理学』より) ED1でシキはなぜ眠ってしまったのか? このことが、ずっと疑問でした。 デーヴ・グロスマン著『戦争における「人殺し」の心理学』によると、人間は基本的には殺人に強い抵抗感を抱いているそうです。乱暴に一部要約すると、この抵抗感のため、戦争の最中においてさえ、自らの生命が危険になる状況の中でさえ、銃を発砲しない兵士の割合も多いのだとか(ただし、元から気質で人殺しに抵抗感のない人間も存在するということですが)。 この抵抗感は、敵との距離が近いほど大きくなるそうです。 咎狗世界では、第三次世界大戦はどうやら白兵戦も戦争の中で結構ウェイトを占めていた模様です(戦闘兵器としてnが生み出されたくらいなので)。となると、戦争によって受ける心の傷も大きかったはず。 シキは、ゲーム本編の中では、どちらかというと殺人を好む傾向がある人間として描かれていました。ただ、リンを殺した後と思われる場面(部屋にスティレットを持ち帰ったあたり)で様子がおかしく、完全な殺人狂とは思えない箇所が見られます。……というか、そもそも本当に殺人狂であれば、アキラの生命を救ったり、アキラに惹かれたりはしなさそうですよね。 どちらかというと、シキの殺人狂めいた行動は、シキの気質の表れではなく、シキの理想に近づこうとした結果ではないかという気がします。シキは彼自身の言うところの『強者』でした。ですかが、それ以上に『強者』に憧れを抱いていた――アキラと同じように――人だったのではないかと思います。 では、シキの理想像とは?それこそが、nだったのではないかと思います。シキの過去の回想で、nがためらわずに大量殺人をしたことが語られています(あ。そういえば、このときシキは恐怖を感じたというところからも、シキにも殺人への抵抗感があったことが分かりますよね)。強さを求めるシキにとって、ためらいなく殺人をする(=自分には不可能ことをしてみせる)nは羨望の対象であったのではないでしょうか。羨望の対象を超えることで、自分の理想を実現することができる。だから、シキのnへの態度は好敵手に対するような雰囲気があったのだと思います。 ところで、なぜシキはそこまで強さを欲しがったのか。この点に関しては妄想するしかないのですが(というか、この文全体がただの妄想なわけですが)。 第三次世界大戦は、多分、白兵戦のウェイトが大きい戦争でした。ということは、一人の強者がいれば、(戦局全体は無理でも)一つの戦場の劣勢くらいは跳ね返せたはず。nが生み出されたのも、それが理由っぽいですよね。 第三次世界大戦は、ニホンのあちこちが破壊された描写があることから、ニホンの国土も戦場になったようです。しかも、敗戦している。おそらく、シキが戦場にいた頃もあまり勝っていないことを感じていたのではないでしょうか。で、強くなれば――人殺しに迷いがなくなれば、もっと戦力になれるのに、と若いシキは感じていたのじゃないかと思うのです。シキの生まれ育ちや性格から考えるに、彼は単に「カッコいいから」強さを求めるとは考えにくいのです。 しかし、いずれにせよシキはnへの執着から、大きな歪みを抱えるようになります。自ら力を求めて人を殺し続けます。このことが、シキが生来の殺人狂でないとしたら、彼の心の中でどう処理されていったのか。 もう一度、参考文献に戻って。『戦争における「人殺し」の心理学』では、戦場では心理的なスタミナ(=勇気、或いは戦う気力)には上限があるという説が紹介されています。戦う気力は、戦争につきものの罪悪感や恐怖、疲労によって、少しずつ消費されていくものだというのです。 シキの眠りについても、この説明が当てはまるのではないかと思いました。シキ自身も知らないうちに、少しずつ削り取られていった戦う気力。それがすべて消費し尽くされてしまったのは、やはり実弟であるリンを殺したことと、nの死が原因なのだろうと思います。 シキはわりと自分の弱さ――人間らしさ――に関しては心を偽ってしまう人なので、眠りの原因を認めるかどうかはわからないのですが(シキ本人は、ただ超えるべき強者がいなくなって気が緩んだためと思っていそうな)、個人的にはシキにとってはnの死よりもリンの殺害の方が眠りの理由としては大きいのではないかと思います。 アキラと出会い、心惹かれるようになったシキ。エンディングで、(偶然の成り行きではありますが)アキラはシキの傍にいようとする雰囲気になります。もしそのままの流れでアキラと生きることができたなら? これはシキにとって、子どもの頃以来の人間らしい幸せになったはず。 けれど、シキはエンディングで「どこへでも好きなところへ行け」とアキラを突き放そうとし、またその後は眠ることでアキラから離れてしまいます。シキがアキラから離れる選択をしたのは、ずっと戦ってきた自分自身が人間らしい幸せを手に入れようとしていることに無意識に罪悪感を感じたからではないかなーと思うのです。修羅の道に生きてきて、ついには実弟のリンの生命を(もちろん、他に多くの生命もですが)奪ってしまった己が、当たり前の幸せを手に入れていいのか。シキ自身はあくまで自分を強者だと考えているのでそういう葛藤を意識することはないでしょうが、無意識には苦しんでいて、結局、アキラの手を取れなかったのではないかと思います。 シキがアキラと生きる決心をしなければ、眠りに向かっていくシキからなおも離れようとしないアキラが苦労することになる(とはシキも分かっていたはず)。でも、アキラの手を取ってアキラと共に生きることというのは、シキの心が望んでいることで、シキの幸せにつながってしまう。だからシキはED1ではすんなりアキラと生きる道を選べなかったのでは。 *** 強い碧の眼差しが、真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。すべてがぼんやりと霞ゆく世界の中で、強い意思を宿した碧だけが、世界の色のすべてだと思えた。 廃墟の壁に寄り掛かったシキは、己を見下ろすアキラの目をぼんやりと見返した。アキラは挑むように視線を絡め、口を開いた。「嫌だ」と一音一音区切るように、はっきりと声を発する。 「……わがままを言うな」 シキは力なく言った。もはや己には、アキラの意思の強さに対抗するだけの気力は残されていない。今度の言い合いもまた、己の負けに終わるような気がした。アキラの頑固さを苦々しく思わないが、どうすることもできない。 もう何度、同じ言い合いをしただろうか。 シキはアキラに、己から離れろと言った。もうじき己は正気を失うだろうと分かっていたからだ。おそらく、その後は植物人間のように自分の意思では動けなくなる。そうなる前に自ら生命を絶つことも考えたが、やはり自害は逃避にすぎないと結論した。己のような修羅の道を歩いてきた者は、綺麗に、苦しみもなく死ぬことは許されない。とりわけ、今の己のように『敗北』した後の死の場合は。より強いものに踏みにじられ、死んでいくべきなのだろうと思った。 そう。戦えなくなったことは、シキにとって『敗北』以外の何物でもなかった。 アキラとて、分かっているはずだ。シキがもはや以前の『強い』シキではないことを。シキはずっとアキラを力で支配してきた。トシマを出てからもアキラはシキの支配の名残から傍にいるのだろうと思っていた。いずれは離れていくだろう、とも。なのに、奇妙なことに、彼はシキが衰えていくのに気付きながら、いまだに傍にいる。 なぜなのか。その理由を考えようとすると、いつもシキの胸はかすかに痛みを訴える。もっとも、その思考も痛みも、すぐに虚ろな無気力感に飲み込まれてしまうのだが。それでも今日、このときは、違った。もはやアキラとの時間が残り少ないことは、明白だったからだ。今を逃してはもう考える機会もないかもしれない、とシキは痛みの理由をしばらくの間、追求してみた。 しかし、やはり答えは見つからなかった。 シキは途方に暮れ、とにかくアキラを追い払わなければならないと思った。そのためならば、どんな方法を使おうとも構わない、という気になって、 「アキラ……。俺のもとから、去ってくれ」 と頼んでみた。 その瞬間、アキラははっと息を呑んで目を見張った。どこか泣き出しそうな表情。なぜアキラがそんな顔をするのだろうか? とシキは頭の片隅で疑問に思った。 と、不意にアキラが屈みこみ、シキの頭を抱き寄せた。壊れ物を抱くような慎重な抱擁だった。アキラの目の碧が見えなくなったことを、シキはかすかに不満に思う。けれども、触れ合ったアキラの身体は衣服越しにも暖かく――すぐに不満は溶け去った。暖かなアキラの腕の中、ここは安全だと本能が勝手に判断をして、身体から力が抜けそうになる。そんな己を叱咤して、シキは身を強張らせたままでいた。 そんなシキをどう思ったのか。アキラは胸に抱いたシキの頭に頬を寄て言った。 「決めたんだ。俺はあんたの傍にいるって。……だから、頼む。去れなんて……言わないでくれ……」 アキラの声は泣いているようだった。 シキは無性に、アキラに手を伸ばして抱きしめてやりたいと思った。けれど、意識は少しずつ暗闇へと沈み始めていた。もはや身体を動かす気力すらない。 おそらく、とシキは思った。アキラはその言葉通り己の傍に居続けるだろう。そのために、苦しむことになるだろう。シキは少なくとも今では、アキラの苦しみなど望んではいなかった。 それでも、アキラの願いを叶えること――己がアキラと共に生きることは、できそうにもなかった。己の一部もまた、それを望んでいるからだ。アキラと共に生きれば、いつか己はそれを幸福だと感じるだろう。他人の存在を幸福とする――そんなごく当たり前の人間である己を、シキは想像することができなかった。当たり前の人間になってしまうことが、どこか恐ろしかった。 (死が逃避であるならば、正気を失うこともまた、逃避にすぎないか……) だが、再び目覚めることができたなら。死のような眠りから、蘇ることができたなら。己は、新しく生きなおすことができるのではないだろうか。それが許されるのではないだろうか。 シキはそっと眠りに身を委ね、思考は闇の中へ解けていった。 2011/09/17 |