Here I am.


■注意■1)刀剣破壊の記述があります(具体的な描写はなし)
2)女審神者が出ています。主として本丸の刀剣男士に慕われています。恋愛要素はありません。
3)刀剣男士が肉体を得ることについてゲームに描かれていない部分を独自に解釈しています。






 炎の熱さの後に、柔らかな熱を感じた。静かに、急速に、温かさが自分の中を満たしていく。
 やがて、意識の中で白い光が弾けた。明瞭になる視界。『彼』は瞼を上げる。目の前には、懐かしい温和な面差しの兄と見知らぬ若い女性がいた。女性は『彼』を見て目を丸くした後、いきなり大粒の涙を流しはじめる。兄は微笑していた。けれど、彼のやんわり細められた金の瞳は、潤んでいる。
 いったい、どういうことだろう? 『彼』は小さく首を傾げて、それでも名乗りを上げる。
「乱藤四郎だよ。……ねぇ、ボクと乱れたいの?」
 女性は涙を流しながら、『彼』――乱藤四郎を抱きしめた。いらっしゃい、と優しい声が告げる。兄の一期一振も、待っていたよと乱の帽子を取って、頭を撫でた。温かい、優しい感触。鋼の身では感じることのなかった、生命の温度だと気づく。乱は目を閉じて、心地よい温もりをより深く感じとろうと感覚を研ぎすませる。
 ……“その”乱藤四郎が刀剣男士として顕現して初めて知ったのは、生きているものの温かさだった。


1.



 乱が顕現した本丸は、若い女審神者が率いていた。現在、本丸の刀剣男士の数は二〇振余り。いわゆる稀少な刀剣男士は、今のところ粟田口の長兄たる一期一振のみらしい。戦績は中の中。さして特別なところのない本丸だという。
「皆の練度はだいたい三〇から六〇くらいだ。最高は僕の六十三。次いで、……五虎退の六十一だね」
 主の初期刀だという歌仙兼定が、本丸を案内しながら説明してくれる。縁側を歩いていると、中庭で乱の兄弟である粟田口の刀や、他の短刀たちがおにごっこをしているのが見えた。皆、乱に気づくと、遊びを中断してこちらへ目を向ける。歓迎する風に手を振る者、恥ずかしげに誰かの後ろに隠れてしまう者、そして……見定めようとするかのように、じっと乱を見つめる者。皆の態度はさまざまだ。
 そこで、ふと気づく。刀剣たち――特に粟田口の兄弟は人間の男の装いをしている。けれど、自分は彼らとは違っていた。短いスカートをはいて、少女のように髪を長くのばしている。本霊の一部であったときには、自分の格好に疑問はなかった。けれど、今になってみると、自分はなぜか少女のような姿なのか。
 乱は首を傾げた。それを見て取った歌仙が「どうかしたかい?」と尋ねる。
「僕の説明で、分からないところがあったかな?」
「ううん、違うんだ。今、庭に兄弟たちがいたでしょ? 兄弟たちの中でボクだけ、どうして女の子みたいな格好なのかなって」
「それが君の戦装束だからだろう?」
「そうだけど。……本霊はなんでこの格好を選んだのかなって」
「君が吉光作の中でも珍しい乱れ刃だからじゃないのかい?」
「うん……。でも、皆みたいな戦装束でも、別にいいのにね。この格好も嫌いじゃないけど、皆と違いすぎるから」
 そう言うと歌仙は少し笑った。室内なので、と帽子を取っている乱の頭を撫でる。
「人の姿は、刀以上に千差万別だ。別に皆と……誰かと同じである必要はないさ」
 その後、しばらくして昼餉の時間になった。この本丸では、皆が大広間に集まって食事をするという。とはいえ、この日は一部隊が遠征に出ていたため、大広間に集まったのは二十振足らずの刀剣たちだった。最後に、仕事をしていたという審神者と近侍の一期一振がやって来て、食事が始まった。昼餉は白米と煮物、それに味噌汁だ。
 いただきます、と声をそろえる皆にならって、乱も手を合わせた。箸を取って、煮物に口を付ける。その途端、乱は首を傾げた。
 何だろう? 皆は美味しいと食べているのに、乱はそう感じないのだ。というか、味がよく分からない。試しに味噌汁も飲んでみたけれど、やっぱり味がしなかった。乱は困惑しながら、箸を置いた。出された食事を残すのが不作法だということは、わきまえている。むしろ、昔の主たちの時代は飢餓が起こることもあったため、食べものを粗末にするのがどれだけひどいことかは、承知の上だ。けれど、がんばってみても、ものを食べたいという欲求自体が湧いてこない。
 ――もしかして、ボク、何かおかしいの?
 そう思ったときだった。少し離れたところで食事をしていた青い髪の短刀が、猫のように静かに傍にやってきた。小夜左文字だ。
「……食べないの?」
「え? あ……その……」
 乱は答えに詰まった。小夜は乱や歌仙と同じく、細川家にいたことのある刀だ。しかも、彼は飢饉の折りに領民を救うため、当時の持ち主によって売りはらわれた過去を持つ。その小夜に食欲がないと告げるのは、何だか気がひけた。
 しかし、小夜は乱が答えるよりも早く、「大丈夫」と静かな声で言った。
「……刀剣男士として、肉の器に馴染むまでは、皆、そうだから」
「そうって?」
「刀は、食べたいとも眠りたいとも感じない。だから、肉体を持ってもしばらくは、僕らも食べることや眠ることが必要だと理解できない……。ここにいる、皆がそうだった。だから、あなたも不安がることはない」
「ありがとう……。でも、ご飯を残すのは――」
「残らない」
 小夜が言ったときだった。
「乱! それ、もう食べないのか!? 食べないなら、俺がもらうぜ!」
 愛染国俊が元気に言う。そこに兄弟である厚藤四郎「俺も食べてやる!」と加わった。そればかりか、他の短刀や脇差も加わって、にぎやかなおかずの奪い合いに発展する。おかず争奪戦になったのを心配したのか、主が慌てて近寄ってきた。が、彼女が制止する前に、じゃんけん勝ち抜きによる分配が決まったようだった。主は輪から少し外れた乱の傍で、食べ盛り男の子は元気ねと笑っていた。
「主はおかず、いらない?」
 乱は思わず尋ねる。だって、短刀や脇差たちは顕現された姿こそ食べ盛りの男子だが、生み出されてすでに何百年も経っているのだ。彼らが食べ盛りなら、この世に生を受けてせいぜい二十年といった主は、もっと育ち盛りだろうに。
 そう心配していると、小夜が首を横に振った。
「……主は、食べすぎちゃだめ。いつも、だいえっとしなきゃって言ってる……」
「だいえっと……?」
「肥満を解消すること。……それに、主はもう、人間としては成長期じゃない。年齢的には、もう裳着(女性の成人の儀式)は終わってる……」
「あ、そっか。そういえば、人間はボクと違って、年を取るんだもんね」
 乱が納得する横で、主がうなだれている。いったいどうしたんだろう? 首を傾げていると、歌仙が「女性は繊細だから、体型と年齢のことは禁句だよ」と注意した。そうか。そういうものなのか。歌仙の言葉に審神者がいっそう悲壮な顔をしているけれど……そういうものなのだろう。
 にぎやかな昼餉が終わって数時間すると、乱は一期一振に厨に呼ばれた。「これを」と渡されたのは、透明な硝子の器に入った薄黄色のものだった。見た目の質感は羊羹やくず餅に似ているようにも思える。
「これって何?」
「八つ時のおやつ。乱の分だよ。ぷりん、というものだ」
「ぷりん??」
「外つ国の菓子でね、主どのがお作りになったんだ。これは主どのの得意な料理でね、主どのが八つ時の当番のときにはよく出てくるよ」
 さぁ、この匙でお食べ、と金属製の細い匙を渡される。乱は匙を持ったものの、困ってしまった。もし、食べてみても味がしなかったらどうしよう。主君が手ずから用意してくださった菓子を、食べないわけにはいかないし……。
 ためらっていると、一期一振が苦笑した。
「たぶん、お前は食べられると思うよ」
「どうして分かるの?」
「この菓子には、主どのの祈りと霊力が込められている。それは、私たちが常に主どのとの縁を通じて、いただいているのと同じものだからね」
 一期一振が言うには、顕現したばかりのものが食べられない刀剣男士がいると、主は手ずからの料理を出すという。霊力と祈りの託すことで、刀剣男士の身体は食べ物を受け付けやすくなるのだとか。今回も、本当なら乱が来たので昼餉は主が作りたがっていたらしい。しかし、あまりにも書類仕事が残っていたので、できなかったのだそうだ。
 では、私は他の皆にもぷりんを出してくるから、と一期一振は厨を出ていく。後には乱ひとりが残された。しばらく、じっとプリンを見つめていた乱は、やがておそるおそるその側面に匙を入れた。少量、すくって口に運ぶ。
「……甘い」
 そう、それは確かに甘かった。これが甘いという感覚なのだと、乱は理解した。それと同時に予感する。自分はきっと、こういう味を好む刀剣なのだろう、と。
 それから顕現してしばらくの間、乱は出陣せずに本丸の内向きの仕事をして過ごした。最初に人間の身体に慣れておかなければ、戦いの身のこなしは不可能だからだ。畑当番や馬当番の傍ら、手合わせ当番の刀剣に戦いの稽古をつけてもらう。
 歌仙が初日に言ったように、刀剣男士たちはいずれも乱と違っていた。身のこなしの速い短刀。必殺の出やすい脇差。攻撃が重く、護りの厚い太刀。攻撃の威力は太刀より少し軽いが、さまざまな状況に器用に対応する打刀。しかも、刀剣男士それぞれの性格によって、戦い方も千差万別だ。乱は皆の中で、自分が必要なのだろうかと少し不安になった。
 だって、短刀の数は多い。特に、乱の生みの親である粟田口吉光は短刀の名手だった。兄弟の多くは短刀だ。短刀の素早さとそれぞれの性格による長所を持つ彼らの中で、今更、自分が必要だろうか? しかも、刀剣は現在、顕現可能なだけで四十振以上。今以上に刀剣数が増えたら、乱れ刃という以外に目立つところのない乱は埋もれてしまうかもしれない。乱は少しだけ、自分をこの世に顕現した審神者を恨めしく思った。
 けれど、それとは別に本丸での日々は楽しかった。馬当番で生き物の生命の温かさに触れたり、畑で草花を観察したり。遮るもののない青い空の下、乱は畑当番の一期一振と加州清光の手伝いをした。
 本丸の季節は、今は秋。燃えるような庭の木々が遠くに見えている。本丸を覆う空は底抜けの青で、吹いていく風は爽やかだった。一期と加州は土を掘り返して、さつまいもを収穫している。乱も始めて土に触れ、彼らの手伝いをした。さつまいもの茎の根本を掘って芋を探していると、草と土のにおいが入り混じって立ち上ってくる。
 不思議なにおい。でも、嫌いじゃない。面白いなと乱は思う。
「あーあ。爪に土が入っちゃう」
 加州が空に手をかざして、ため息を吐いた。普段は爪紅に美しく彩られた彼の手は、確かに泥だらけだ。たぶん爪の中に土が入っているだろうし、もしかすると爪紅がはがれているかもしれない。
 ちょっと拗ねた顔の彼の横で、けれど、兄は苦笑していた。
「そんなことを言いながら、我々の中でいちばん多く収穫しているのは加州どのですが?」
「だって、俺、川の下の子だからこういうの、よく知ってるもん。……それにさ、主、さつまいも好きだし。粟田口の子たちだってそうでしょ」
「芋・栗・南京は女人と童の好むもの、と昔から申しますし。皆で焼き芋というのも乙なものです。しかし、歌仙どのが八つ時に大学芋を作ってくださることを、私は期待しております」
「俺は主のすいーとぽてとに期待だなぁ」
「焼き芋は分かるけど、大学芋? すいーとぽてと? ってどんな食べ物?」
 乱が尋ねると、一期と加州は楽しそうに笑った。たくさん収穫したらぜんぶ作ってもらえるよ、と言われる。そこで、乱は夢中になって畑を掘り返した。






2.




 畑の芋で焼き芋大会をした翌日、乱は堀川国広に呼ばれた。今日の主の近侍は彼なのだ。
 この本丸では、近侍は交代制ということになっているらしい。刀剣男士には性格上、事務仕事が苦手な者もいる。それでも平等に近侍を分担するのが、主の決めた規則なのだとか。
 堀川は乱に、明日から出陣だと告げた。
「乱さんも肉体に馴れた頃でしょうから、今度は戦闘に馴れていきましょう」
「……ボク、ちゃんと敵を倒せるかな」
 乱は思わず呟いた。仲間との手合わせは、すでに何度か行っている。その中で、乱は刀としてではなく、肉体を動かして戦うことの難しさを痛いほど感じていた。
 刀として、短刀として、乱は自分に誇りを持っている。短刀は持ち主に寄り添うものだ。たとえ太刀など大きな刀に威力で劣るとしても、短刀として与えられた役目を大切に思っている。けれど、肉体をまとって戦うからには、主の傍に寄り添うわけにはいかない。敵を倒す――そのことだけに存在意義を求める必要がある。
 太刀や打刀と手合わせすると、短刀はどうしても不利だった。普通の一撃の威力が異なる。装備できる刀装も少ない。他の短刀たちは、意気揚々と部隊に加わって出陣していくけれど。乱はどうして彼らが戦意を保てているのか、不思議だった。
 乱の不安そうな表情を見て、堀川は微笑した。
「大丈夫だよ。一緒に出陣する仲間が、練度の低い君を守るから」
「……守る?」
「そう。刀であった頃、主が僕たちを振るうときはたいてい、一振ずつだったよね。二刀流の剣士もたまにいたけどね。……でも、今は違う。僕らは刀剣男士だ。人の姿で顕現して、自分の手で自分自身を振るう。人の姿だから……仲間と協力することだってできるんだ」
「でも、ボクは守られるために、この本丸に降ろされたわけじゃないんでしょ? 刀剣男士として、歴史修正主義者と戦うためにここに呼ばれたんでしょ?」
 言い募る乱に、堀川は優しく笑って頭を撫でた。
「言い方が悪かったね。……僕ら刀剣男士は、刀種によって性質が異なる。いろんな刀と手合わせをして、君も感じただろう?」
「うん。何となく……」
「たしかに、君たち短刀や僕ら脇差は、護りが薄い。力が弱い。でも、それを補う得意分野がある。刀種に弱いとか強いとかいうことは、ないんだよ。太刀や大太刀には彼らの、僕らには僕らの戦い方がある。互いに補いあって、敵を滅ぼす……それが審神者の率いる刀剣男士だよ」
 そう言う堀川は、穏やかな表情ながらも強い目をしていた。どんな大きな刀だろうと引く気はないという、強い気概を感じる。自分もこうなることができるのだろうか……乱はぼんやりそんなことを考えた。
 堀川と話したその日の午後。始めての出陣は戦国時代の長篠だった。出陣部隊は乱の他、堀川、山姥切国広、薬研藤四郎、同田貫正国、そして隊長である一期一振だ。その上、特上の刀装を渡されている。
 人の身を得て始めて立った戦場で、乱は思わず身体が震えるのを感じた。戦で死んでいったこの時代の人間たちの、恨みと呪詛が乾いた風に濃く混じる。本丸は清浄な空間であるから、乱にとってこれほどの人間の恨みに触れたのは顕現して始めてだった。
 怖い。息苦しい。乱は胸を押さえた。そのときだ。敵を察知したと薬研が叫ぶ。
「敵襲! 二時の方向! 敵は……ありゃあ、雁行陣だな」
「総員、方陣に展開!」一期が指示を出した。それから、振り返って乱に言う。「乱、お前は私の後ろに。今回は皆の戦い方を見ていなさい。特に、同じ短刀である薬研はお前の参考になるだろう」
 一期がそう言った直後、敵がやって来た。遠戦の後、突出した敵短刀が真っ先に山姥切に突っ込んでいく。山姥切は取り乱すことなく相手を切り捨てた。その脇から飛び出した薬研が、敵打刀を一撃で倒す。素早い。一期は敵の短刀ニ体を相手にしていた。一体倒したところへ、戻ってきた薬研がもう一体に刃をたたき込む。
 その頃には、大将らしき敵太刀に堀川が迫っていた。
「てやあぁぁぁ!」
 気合いと共に、敵の大将に斬りつける。しかし、それでは倒しきれない。刀装を失った大将は、まだ軽傷のようだった。大将が大上段に刀を振りあげる。攻撃の後で体勢を戻しきれない堀川は、避けられない。
 ――危ない!
 乱は見ていて叫びそうになった。その刹那。敵大将の懐に飛び込んだ影があった。同田貫だ。鋭い気合いを発しながら、敵大将に鋭い突きを繰り出す。
 パリン。音を立てて敵大将が折れるのが聞こえた。やがて、禍々しい気配が消える。乱は思わずホッと息を吐いた。あれが刀剣男士の部隊の戦い。協力するということ。あんな風に、自分も戦っていけるのだろうか。
 ――ううん。ボクも皆のように戦わなくちゃ。
 それからは、出陣の日々だった。乱は懸命に本体を振るった。敵の攻撃で受ける傷の痛みは大嫌いだ。けれど、戦いそのものを避けるわけにはいかなかった。何といっても、乱は名手で名高い粟田口の短刀なのだ。吉光や歴代持ち主の名に恥じぬ戦いをしなくてはならない。
 しかし、戦えば戦うほどに、自信は挫けそうになった。身体を扱うことは難しく、敵の刃の痛みは恐ろしい。痛みを想像して、つい足が竦んでしまうことだってある。そうならないように、素早さを生かして突出すれば、他の刀剣に庇われることになった。
 ――これがボクの限界なのかな……。
 そう思いながらも、負傷への恐れを押さえつけて、果敢に敵へ向かっていく。その中で、乱はふと気づいた。皆はなぜか、乱を過剰に庇っているようなのだ。粟田口の兄弟たちだけではない。加州や歌仙や……他の刀剣たちも。
 その事実に気づいて、乱は暗い気分になった。やたらに庇われるのは、自分が顕現したてだからだろうか? 女の子みたいな格好をしているから? ――それとも、自分は刀として弱い? 誰かに尋ねてみたいけれど、その勇気はなかった。だって、お前は弱い刀だと言われたら、戦う気力なんてなくなってしまうに違いない。誰にも庇う理由を尋ねられない以上、乱は強さを求めるしかなかった。
 先へ、先へ。短刀としての機動性を生かして、庇う仲間の護りよりも前へ。敵を倒して、経験値を積みあげる。どうすれば自分が納得できるのか、何のために戦っているのかも、もはや分からない。出口のない暗い闇の中を走っているかのようだと思う。
 しばらくして練度の上がった乱は、部隊の仲間と共に博多湾へ出陣した。武家の記憶は短刀にとって、少し難所だ。敵は強いのに、ひとつしか装備できない刀装は遠戦で破壊されてしまうこともある。それでも、十分に練度の上がった乱を、主は武家の記憶に出陣させてもよいと判断したようだった。
 乱は部隊の仲間と共に、始めて博多湾へ降り立った。いつものように、歴史修正主義者の部隊がいそうな場所を索敵して、敵部隊を討ち取っていく。そうして敵と三回目に遭遇したときだった。敵の部隊の投石兵の攻撃が、乱の刀装を完全に溶かしてしまう。
「乱! 俺の後ろへ来い!」
 同田貫が叫ぶ。乱はそれを無視した。身を低くして、敵との間の安全距離を一気に詰めてしまう。
「乱っ!」
 いつもは元気な鯰尾の、悲鳴のような声が聞こえた。それに構わず、敵の大将首を狙う。しかし、敵の反応の方が早い。敵大将の両脇から現れた敵の打刀ニ体が割って入る。まずい。そう思ったけれど、もはや退避の軌道に乗ることは不可能だった。
 敵の打刀が繰り出した刃を、乱は危うい角度で受けた。そのまま、無理に敵大将に迫ろうとする。――だが、届かない。本体の刃が空を切る。その直後、灼熱を身体に感じた。敵の攻撃が、乱を斬りさいたのだ。
「っ……!」
「無茶すんな!」
 叫びながら、同田貫が敵を斬る。その隙に駆けつけた堀川が、乱を抱き上げた。撤退だ! と隊長の歌仙が宣言する。
 本丸へ戻ると、同田貫が乱を叱った。
「なんで勝手に敵に突っ込んだよ!? 無謀と勇敢は違うんだぞ!!」
「同田貫、君の言いたいことは分かるよ。だが、乱には先に手入れが必要だ」
 歌仙が同田貫を宥めて、視線で母屋の方を示す。と、そこには強ばった顔の主が立っていた。乱の重傷の知らせを聞いて、出迎えにきたらしい。手入れ部屋へと主が言う。乱は自力で歩くこともできず、背負っていた堀川が手入れ部屋へ連れていってくれた。
 手入れ部屋の床には、布団が延べられている。その上に寝かされて、乱は静かに息を吐いた。傍らに座った主が乱の本体を手に取る。その手がガクガクと、面白いくらいに震えているのが見えた。主の顔色は青白く、今にも泣き出しそうだ。
 ――この人も、怖いのか。戦が、傷が、痛みが。
 ふとそう感じてから、乱は不思議に思った。そんなに争いが怖いなら、どうして主はここで審神者なんてやっているんだろう? 乱の元持ち主たちの時代には、戦いは基本的に男の役目だった。女子が戦うのは、本拠地となる城まで攻め込まれてもはや逃れようのないときくらい。現代は平和な時代だと聞く。ならば、主だって戦うか戦わないか、選択できるのではないだろうか。選択できるなら、どうして主は震えながらここに座っているんだろう?
 ――あぁ、でも、それを言うならボクもか。
 自分――乱藤四郎の本霊だって、日の本の民と歴史修正主義者との戦いに力を貸すか、貸さないか、選ぶことができた。だって、歴史を改変されて直接の被害を受けるのは、刀剣ではなく人間なのだから。他人ごとといって傍観することだって、できたはず。それでも、本霊も戦に力を貸すと決めた。
 それがなぜだったのか、理由を知っているのに、理解できない。人の子らを守りたいから、なんて。分霊としてこの本丸に降ろされ、肉体を得た乱はもはや本霊とは別物だった。別の経験をして、別の感想を抱くようになった――もはや別の存在。本霊の考えたことは、もはや他人の思考でしかない。
 ――どうして、なんで、こんな苦しい思いをして戦うの?
 自分にとも、本霊にとも、主にともつかぬ問いを意識に浮かべたのを最後に、乱はコトリと眠りに落ちていった。


 目が醒めると、主はいなくなっていた。代わりに、歌仙が主のいた場所に座っている。乱の視線を受け止めた彼は、穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「主を探しているのかい? 彼女は君の手入れの間、ずっとここにいたんだけどね。書類仕事がたまっているから、僕が執務室へ追い返したんだ」
「……主、忙しいんだね。手を取らせて、申し訳ないことをしちゃった」
「そう言うなら、戦をするにしても君はもう少し我が身を大切にするべきだね」
「だって……。届かないんだもの」
「届かない? 何にだい?」
「皆にだよ。もっと強く、足手まといにならないように、庇われないように。そう思って、ボク、一生懸命、戦うんだけど……いつも皆に守られて、庇われて。悔しいよ」
 そう言ったときだった。クゥと小さく腹が鳴る。そういえば、八つ時のおやつを手入れのせいで食べのがしてしまったようだ。腹の虫の音に目を丸くした歌仙は、少し笑って「話の続きは厨でしようか」と言った。
 二人して、厨へ向かう。今日の八つ時は甘酒だったらしい。近侍に当たっている加州が作ったのだと言いながら、歌仙は甘酒を入れた湯呑みを出してくれた。口をつければ、少しの酒としっかりした甘み。思わずほぅっと息がこぼれる。
「おいしい」
「君がそう言ったと知ったら、加州も喜ぶよ」
 歌仙はそう言って乱の頭を撫でた。それから、静かに目を伏せる。
「さっきの話の続きだけれど。……君を庇ってしまうのは、たぶん、僕らが恐怖を捨てきれていないからだ。君には申し訳ないことをしている」
「恐怖を捨てきれていない……? どういうこと?」
「乱藤四郎――君は、この本丸に降りてきた乱藤四郎としては、二振目なんだ」
「二振目……」乱は目を丸くした。「じゃ、最初のボクは? 折れたの?」
「あぁ……。以前、この本丸は敵襲を受けたことがあるんだ。そのとき、多くの刀剣は出陣や遠征で出払っていた。僕も出陣していて、戻ってきたときには手遅れだったよ。最初の乱藤四郎は主の初鍛刀でね。この本丸では僕に次ぐ練度だった。その彼は……主を護って、破壊された」
 あぁ、だからなのか。乱は腑に落ちた気がした。顕現したとき、一期と主が涙目だったのも、歌仙が乱藤四郎という刀について詳しかったのも。兄弟たちが、最初はこちらの様子をうかがっていたのも。皆が無闇に乱を庇うのも。
 ――ボクが二振目だったから……。
 日の本に住まう神々は、無数に己の分霊を生み出すことができる。そうして分霊を各地の社に遣わして、民の暮らしを見守るのだ。乱たちのような付喪神は、神の中でも末席も末席。ほとんど妖に近い存在だ。それでも、尊い神と同じように分霊を生み出すことができる。ここにいる乱も、そうやって本霊から分かれて、降りてきた存在だった。
 刀剣男士たる分霊は、破壊や刀解が為されると、本霊に戻ることになっている。彼らの意識は本霊に吸収され、統合されて、必要となればまた新たな分霊が本霊から作り出されるのだ。だとしたら、一振目の後にこの本丸に来た乱は、本霊に統合された一振目の記憶や心を、いくらかは持っているはずである。けれど、自分の中を探してみても、そんなものは見あたらない。
 ここにあるのは、個としての乱でしかない。
「……前のボクは、折れるとき、怖くなかったのかな?」
「さて……。もののふたる君に敬意を表するならば、前の君は破壊など恐れなかったと言うべきだろうね」
 歌仙は静かに言った。その碧眼に迷いの色が映る。迷い――立派に主に仕える刀剣男士のように見える彼でさえ、迷うことがあるのかと乱は少し不思議に思った。その間にも、歌仙が言葉を続ける。
「――でも、僕は最初の君を知っているから、他でもない乱藤四郎である君に言葉を取りつくろおうとは思わないな。……最初の君も、きっと破壊は怖かっただろう。痛みは嫌だっただろう。それでも……最初の乱藤四郎は、自らを犠牲にして主を護ったんだと思うよ」
「そう……」
 乱は頷いて、目を閉じた。目蓋の裏に、記憶にない『乱藤四郎』の背中が見える。あのボクは――いや、『彼』は、何を感じて何を選んだのか。今の乱には理解できない。分かるのは、掌の中でゆっくりと、甘酒の入った湯呑みが冷めていくことだけだ。






3.



 二日後。乱は再び出陣部隊に加わった。行き先は、前回と同じ博多湾。一度は傷つき撤退した土地だが、すでに何度も戦に挑んだ身。今更、戦場を怖がることはない。
 ない、はずだった。
 自分の不調に気づいたのは、最初の敵との遭遇のとき。いつもなら敵の刃をかいくぐって、前へ出ているところ。しかし、今日はどうにも自分の動きが悪いような気がする。
「どうした、乱?」
 兄弟の骨喰が尋ねるのに対して、乱は何でもないと首を横に振った。今日は不調なのかもしれないが、他人に説明できるほどはっきりとした兆候もない。それに、不調だと告白して、今までのようにやたらと庇われるのは、刀剣として嫌だった。
「大丈夫だよ」
「なら、いいが」
 骨喰は無理に追及することなく、あっさり頷く。そこへ、次の敵が襲ってきた。乱は本体を構えた。遠戦の攻撃を上手く避けて、前へ出る。乱が狙ったのは、敵の大太刀だ。攻撃を受ければ確実に刀装が剥がれるほどの、重い打撃の相手。しかし、大太刀の動きは遅い。相手のペースになる前に、こちらが相手を叩けば勝機はあるはず――。
 乱は思い切って敵大太刀の懐に飛び込もうとした。今回は決して無茶な戦い方ではない。勝算は見えている――はずだった。けれど。
 一瞬、刀を振りあげた敵の姿に、先日の重傷を負ったときの記憶がフラッシュバックする。怒濤のように恐怖が押し寄せて、足が止まった。
 痛み。苦しみ。破壊されるという、恐怖。
「あ、あぁ……」
 ――この身体を持つボクは、ここにいるボクだけだ。
 破壊されれば、分霊の核は本霊に吸収される。楽しい思い出は失われ、おいしいものも食べられなくなる。かわいらしいリボンや綺麗な玉で身を飾ることも。今、ここにいる自分そのものは、今のままで復活することはできない。――ここにいるのが一振目ではなくて、自分なのがその証拠だ。
 怖い、怖い、怖い。
 乱は呆然と立ちすくんだまま、刀を振りおろそうとする敵の大太刀を見ていることしかできない。そのときだった。後ろから、骨喰が矢のように飛び出してきた。乱を斬ろうとする敵大太刀へ、刃を構えて真っ直ぐに突っ込んでいく。鋭い突きが相手の胴体に入った。
 しかし、大太刀だけあって護りは固い。刀装が剥がれただけで、平然と立っている。そればかりか、敵は攻撃の直後で体勢の整わない骨喰に、手を伸ばそうとした。刹那、もう一振、横合いから駆けつけた刀があった。同じ粟田口――叔父にあたる鳴狐だ。彼の刃が、刀装を失った大太刀の無防備な身体を貫く。
 鋭い一撃で敵を沈めた鳴狐は、骨喰へ目を向けた。
「……大丈夫?」
「あぁ。鳴狐の叔父上がとっさに俺の動きに反応してくれて、助かった」
 コクリと頷いた鳴狐は、そこで乱を振り返った。表情の読めない金の瞳が、じっと乱を見つめる。やがて、彼は「今日は帰ろう」と言い出した。今日の部隊長は鳴狐なので、撤退に関しては彼が決定する権限を持つ。乱は慌てて、鳴狐に言った。
「まだ、誰も負傷してないよ!? 皆の刀装だって、まだ無事だし……」
「……撤退は、隊長の決定」
 鳴狐は静かに、しかしきっぱりと言った。戦闘時のよほど危ないとき以外は傍にいるお供の狐は、しかし、今は口を出さない。鳴狐が話すべきときとばかりに口をつぐんでいる。
 乱は鳴狐に食ってかかった。
「どうしてっ!? そりゃあ、ボク、さっきはヘマをしたけどさ! 次は頑張るからっ。挽回するからっ! だからもっと戦わせてよ!」
「ダメ」
「……それは、ボクが二振目だから? 最初のボクが折れたから、ボクが傷つくのが怖いの!?」
 乱は叫んだ。言ってしまってから、ハッとする。たとえそう思っていたとしても、自分はそれを口にすべきではなかったかもしれない。けれど、今更、引っ込みはつかなかった。悪いと思っていない風を装って、拳を握りしめて鳴狐を睨みつける。
 しかし、鳴狐は乱の挑発に乗る様子もない。静かな目で首を横に振った彼は、ただ、こう言っただけだった。
「……今の君の目……もののふの目じゃない。戦う理由、護るべきもの……何も見いだせていない、証拠」


 本丸に戻った翌日。乱は自分が戦えなくなっていることに気づいた。仲間と手合わせしてみても、身体が思うように動かないのだ。といっても、病というわけではない。普通に生活はしていけるのに、戦おうとすると身体が制御を失ってしまう。
 相手の呼吸や出方を読むことができない。自分が前に出ることができない。いったいどうやって、これまで自分は戦ってきたのだろう。鳴狐が言った「もののふの目ではない」というのは、このことか。
 戦えないことに気づいた乱は、主にしばらく出陣部隊には入れないと申告した。戦えないと告白するのは刀として、恥でしかない。しかし、戦えないことを隠して出陣して、仲間たちを危険に陥れるわけにはいかなかった。
 乱の申し出に主は静かに頷いた。その日から、乱は内向きの仕事や戦闘をともなわない遠征を中心に、あてられるようになった。苦しかった。本体は常に共にあったけれど、それを遣うことはない。自分はたしかに乱藤四郎の分霊のはずだが、刀である自分はあまりに遠く思えた。
 ――戦えないボクはいったい、何なんだろう?
 ――どうして、ボクはここに降りてきたんだろう?
 戦えない刀剣男士なんて、切れない刀なんて、存在している意味があるのだろうか。そんな思いが日々、強まってきて、とうとうある日、乱は覚悟を決めた。
 ――ボクを刀解してもらおう。
 存在していて意味のない刀なら、いない方がいいのだ。そう決心した乱は、主の部屋へ行こうとした。本丸の季節は、乱が顕現した頃から秋が過ぎて、冬に変わっていた。雪の積もった庭の片隅に、赤く咲いた椿が美しかった。
 乱が主の部屋に向かっていると、庭にいた五虎退がやって来た。彼の子虎は、珍しく連れていない。どこにいるのかと尋ねたら、寒いから部屋の火鉢の傍にいると答えが返ってきた。
「五虎退はどうして、ひとりで外に出たの?」
「……雪、好きなんです。僕の元の持ち主、謙信公の本拠地の越後は……雪深い土地でしたから……」
「そっか」
「乱は? どこへ行くんですか?」そう尋ねた後に、五虎退は金色の大きな瞳でじっと乱を見つめた。「……何だか、悲しい顔、してる……。何をしようとしてるんですか……?」
 五虎退の金の瞳は、まるで海のように深くて、乱はとっさに嘘がつけなかった。思わず、刀解してもらおうと思ったという事情を話してしまう。それを聞いた途端、五虎退はキッと金の瞳を鋭くした。戦場ですら少し弱気な彼が、しかし、今ははっきりと怒りを露わにしていた。
「刀解なんて……絶対、ダメです! 僕は……僕が、許しません……!!」
「五虎退には、関係ないよ」
「関係……なくはない、です……! 僕は乱の兄弟だし……最初の乱が折れたのは、僕のせいですから……!」
「五虎退の……? だって、最初のボクは主を庇ったって聞いたよ……?」
「主さまは……敵襲があったとき、重傷の僕を手入れしていて……置いて逃げることが、できなかったんです……。主さまは僕のせいで、敵の刀を受けました。その主さまを生かすために……最初の乱は」
 キッと強い光を宿した金色の瞳に、涙の滴が浮かんでくる。五虎退は涙をぬぐうこともせずに、乱を見据えていた。
「主は、刀を庇ったの……? あの人、ボクらが怪我するだけでも、震えるのに……? か弱くてすぐに死ぬ人間なのに……?」
「――戦えないことは、弱いということですか? 恐怖を抱いているということは、弱いということですか? ……ねぇ、乱、僕たちは懐刀です。他の刀種よりも、ずっと近く人間に添う刀です……。だったら、乱にも分かるでしょう?」
「分かるって、何が。……分からないよ、今のボクには。だって、ボクは戦えなくなっちゃった……。刀としての本分を忘れちゃったんだもの……! 戦い方も、刀としての誇りも、もう思い出せないくらいなのに……何を分かれっていうの!?」
 乱の叫びに五虎退は、怯えたように肩を揺らした。けれど、引く気はないようで視線を逸らしはしない。
「――……怖いのも、痛みが嫌なのも、悪いことじゃない。……最初の君が、顕現されから泣いてばかりの僕に、教えてくれました。怖いのは慎重だから。痛みが嫌いなら、大切な人がそれを感じないように守ろうって思える、強さになるって……」
「強さになる……?」
「……最初の乱だって、痛いのは嫌いだったと思います。破壊は嫌だったと思います。それでも、最初の乱は、この本丸を初期から支えて……主さまを守って、折れました。――本丸の皆は知っています。乱藤四郎は、とても優しくて強い刀だって……」
「嘘だ!」
 そんなの嘘。だったら、どうして過剰に庇うのか。どうして主や一期は、顕現した二振目の自分を見て泣いたのか。――皆、最初の乱は帰ってきたと思いたいのではないか。けれど、自分はそうじゃない。五虎退の言う優しくて強い刀でなんて、ありはしない。
 違う、違う、違う!
 乱は両手で顔を覆って、頭をめちゃくちゃに振った。そうすれば、五虎退が目の前から消えるだろうというように。けれど。
 不意に強い力で腕を掴まれて、乱はハッと顔を上げた。強い意思を瞳に宿した五虎退が、「一緒に来てください」と告げる。その顔は一期や骨喰、薬研たちの真剣な表情にも似て――あぁ、泣き虫でも、自分たちの兄弟なのだと思わせた。
 五虎退に引っ張られて、連れて行かれた先は主の執務室だった。気がはやっていたのか、五虎退は声をかけずにふすまを開けてしまう。と、主が着物の肩を落として、背中をさらしているのが目に飛び込んできた。あ、と声を上げかけた乱は、そこであるものに気づいて息を呑んだ。主の背中を斜めに、刀傷が走っている。呪詛混じりの刃の傷らしく、そこだけ皮膚が青黒く変色していて痛々しかった。
 ――これは、きっと、襲撃のときの。
「こら、君たち。女人の部屋へ入るのに、声もかけないのは雅じゃないね。少し外にいなさい」
 膏薬と浄化の呪符、それに包帯を手にした歌仙が、乱たちをとがめる。「ご……ごめんなさいっ……!」五虎退が慌てて謝って、乱の手を引いて外に出た。二人して、縁側に座って、執務室から許しが出るのを待つ。
「……ねぇ、主のあの傷って……」
「襲撃のときの、傷です……。敵の刀の穢れで、肌がただれてしまっているんです。……現世の審神者用のびょういんというところで、解呪と傷痕消しをできるそうですけど……。それは何ヶ月もかかるからって、主さまはここで呪詛の浄化だけしてるんです」
「主は女人なのに……」
「……主さまは、乱が守ってくれたんだから、戦いを投げ出すわけにはいかないと言うんです。だから……ここで、審神者をしているんです。主さまがあの主さまだから、僕は守りたいんです……」
「守りたい……か」
「皆が乱を守るのも、同じ理由です。練度が上がれば、乱はとても強くなる……皆、それが分かっているから、そこまで君を守り育てたいんです」
 そのときだった。ふすまが開いて、歌仙が二人を呼ぶ。主の執務室に入った途端、五虎退は平伏して主に願った。
「お願いです……。次の夜戦、乱を僕らの夜戦部隊に加えてください」
 主がびっくりして目を丸くする。そうだよね、と乱も思った。なぜなら、このところ不調だった乱をいきなり、太刀など強い刀では不利な難局である夜戦に出せと言うのだから。けれど、五虎退も引かない。「お願いです」と繰り返す。
 それを見ていた歌仙は、主に「僕からも頼むよ」と言った。主はしばらく考えていたが――やがて、意を決した表情で頷いた。






4.



 翌日の夜。乱は夜戦に出るため、夜半、正門の前に集まった。夜の京に出陣するのは、乱、五虎退、薬研、小夜、堀川、それに加州だ。隊長は乱が務めることになった。これも、五虎退が主に進言したことだ。
 骨の芯まで寒気が染み込んでくるような、寒い冬の夜のこと。主は着物の上に綿入れを来て、それでも、出陣する部隊を見送りに出てきた。今日の近侍の一期一振が、彼女の傍につき従っている。正門の灯りの下、主は出陣する者それぞれの前で、「気をつけて」とか「どうか無事で」と声を掛けた。寒気の中、主の素手が刀剣たちの頭や肩に触れていく。加護のように。祝福のように。
 隊長である乱は、最後だった。主は乱の前に立って、「どうか武運を」と告げた。戦いを知らない、けれど、あかぎれのある手が乱の頬に触れる。祈りのような間の後に、冷えきったその手は離れた。
 乱は顔を上げた。主は真っ直ぐな目でこちらを見ていた。迷いのない眼差し。彼女が無条件に自分を――刀剣男士を信じているのが分かる。乱は静かに息を呑んだ。
 か弱い人間である主は、男士の負傷に怯えながらも、信じて戦いに送り出すのだ。安全であるはずの本丸で襲撃を受けても、なおもここへ戦いのために戻ってくるのだ。こういう強さ――そう、これは強さだ――を自分は知っていると記憶がささやく。
 乱の元の持ち主たちは、限りある生の中で懸命に生きようとした。そういう姿勢を愛して、短刀である自分は彼らに添ってきたのだ。刀である乱は、持ち主が弱いから守ろうとしたのではなかった。彼らが懸命に生きようとするから、先へ進もうとするから、添いたかったのだ。
 それは、刀剣男士になった今も、変わらない。

 乱藤四郎は、今も昔も、誇り高い守り刀だ。

 正門が開いて、時空の通路が形成される。幕末の京へと繋がる道だ。「行ってきます」と告げて、乱は主に背を向けた。仲間たちと共に、時空の通路を通り抜けていく。出た先は、長く延びる三条大橋の手前だった。乱たちの行く手を塞ぐように、敵部隊が現れる。
 戦闘が始まった。戦い方が分からないと、もはや乱は思わなかった。考えている暇もなかったが。短刀を上回る素早い槍に苦戦しながら、何とか敵を倒そうとする。
 戦う。仲間を、主を守る。敵を倒す。――それだけを意識して進む。
 と。
「乱!」五虎退の声が聞こえた。「乱、周りを見てください……! 君はひとりじゃない……。ここには、僕らがいる。主さまが、本丸で待ってる……!」
 刹那、意識が弾けて視界が開けた。
 三条大橋の上、夜空に月が冴え冴えと輝いている。橋の下には月を映してさらさらと流れていく川。遠くから、この時代の人間たちが騒いだりする声が聞こえている。それを打ち消すように、剣撃の音が混じった。仲間たちが敵と交戦する音だ。
 敵の一体を討ちたおして、乱は更に先に進んだ。前方に見えるのは、薬研。戦場育ちと言うだけに、剛毅で力強い動きで敵に刃を突き立てる。彼から少し離れて、堀川がいた。穏やかな物腰とは裏腹に、確実に相手の急所を狙っていく計算された攻撃。と、乱の後ろから駆けてきた小夜が、前方の敵を一撃で倒す。復讐に使われた由来のある刀だからこそ、ここぞというときまで耐えて、必殺を狙う鋭い刃だ。
 乱は彼らの拓いた道を駆け抜けた。前方には五虎退と加州が突出している。ちょうど敵の一体が五虎退に切りかかるところだった。と、彼の虎たちが敵に飛びかかる。
 虎は五虎退の号の由来として、彼の一部になっていた。本物の子虎ではない。五虎退の一部であるがゆえに、虎は、まるでそれ自体が意思を持つ刃であるかのように、敵を攻撃していく。五虎退は虎の相手している敵には構わず、加州に攻撃しようとした敵を討った。
 その直後、虎を振り払った敵槍が、五虎退に斬りかかる。乱は地を蹴って、五虎退と槍の間に滑り込んだ。戦装束が避けるが、今は構わない。敵槍の穂先を身を捩って避け、刃を繰り出す。
 手応えがあった。
 敵が倒れて、折れた槍に戻る。乱は一瞬だけ、五虎退と視線を交えてから、加州の元へ向かった。彼は敵大将の直前にいた。加勢しなければ、と乱が近づいたとき、横合いから別の太刀が斬りかかってくる。しかし、刀装の兵数は残り少ない。これ以上、自分が負傷したら中傷なので、主との約束で帰還しなければならない――。
 だったら? ――だったら。
「……加州! ボクを庇って!」
「いいよ! 来な!」
 即座に返事する加州の背後に、乱は回り込んだ。その直後、ガキィッ。鋭い音と共に、横から出てきた太刀の攻撃が加州の刀装を溶かしていく。加州は敵太刀が刀装を攻撃しおえた直後を狙って、刀を繰り出した。本人は『扱いにくい』という彼のひどく的確な突き。
「行け、乱!」
 敵に突き立てた刀もそのままに、加州が叫ぶ。乱は彼の後ろから飛び出して、矢のように駆けた。敵の大将が繰り出す刃を、身を捩って避ける。ガリリと最後の刀装が消えて、傷を受けながら、なおも乱は刃を振るった。
「あなたみたいなひと、嫌いだなっ!」
 壊れた敵が、刀に戻って足下に落ちる。荒く肩で息をはきながら、乱は顔を上げた。皆、格好のつかない有様ながらも、折れた者はいない。そのことにホッとする。空を見ると、東の空がわずかに白み始めていた。
「帰るか……」薬研が呟く。
「そうですね」堀川も同意する。
「帰ろう」乱は隊長として、宣言した。
 本丸へ戻ると、慌てて出てきた主が皆に手入れ部屋へ行くように言った。負傷者大量ということで、主は手伝い札という手入れの時間短縮用の札まで使って、皆の傷を直していく。
 やがて、乱の番がやってくる。乱の負傷を、主はあっという間に治してくれた。
「ごめんね、主。隊長なのに、こんなに負傷者を出して」
 乱が謝ると、主は首を横に振った。皆そろって帰ってきてくれて隊長のおかげだ、と誉めてくれる。頭を撫でる彼女の手を心地よく受け入れて、乱は笑った。
 自分はこの温かさを守るために、ここにいる。生命の温かさに添うために。自分はきっと主のために、彼女が守ろうとする現世の人々のために、行けるところまで戦うだろう。人の子を守りたいとか、そんな神さまじみた戦う理由は、少なくとも自分にはそぐわない。自分が愛した元の持ち主たちと、今、大切に思う主――彼らと繋がるものを守りたい。
 守り刀である自分にとっては、それがここにいる理由のすべてだ。






おわり



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