毎朝、髭切が俺の余命を確認するんだけど
※この審神者の設定はじめ太さんよりいただきました。 1. 「おはよう。今日もいい天気だよ」 近侍の髭切がおっとりと言う。俺は寝床の中で唸った。髭切が開けはなったふすまの向こう、中庭から差し込む陽の光が眩しい。俺は塩をかけられたナメクジのように、掛け布団の下へ下へと潜ろうとした。 「さぁ、起きないと」 髭切が布団をのける。それでも俺は諦めきれず、小さく身体を丸めた。「もう、寝汚いなぁ」とわずかに呆れた髭切の声。うるさい、放っておけ。俺が寝汚いのは、俺のせいじゃない。不可抗力だ。強いて言うなら遡行軍のせい。 ううう……眠い。 「起きられないの? 口吸いしてあげようか?」 放っておいたら髭切がとんでもないことを言い出して、さすがの俺も眠気が吹っ飛んだ。ゆらりと身体を起こして、「起きた」と宣言をする。 「うん、おはよう」 にっこりと髭切が微笑する。それから、彼は俺の寝間着の帯に手を掛けた。シュルッと勢いよく解くので、驚いて飛び上がりそうになる。 「な、何するんだよ!?」 「やだなぁ、そんな生娘みたいな反応。どうせ君ひとりじゃ、着物、着られないくせに」 「そりゃそうだけど、いきなり脱がすな! いきなり」 俺は女のような胸も柔らかな肌もない、普通の男だ。だが、刀剣男士に身体を見られるのはあまり好きではない。彼らと比べると貧相で情けなくなるからである。 しかし、髭切にそんなデリカシーは期待できない。彼がニコニコと俺を見つめたままなので、俺は仕方なく背中を向けて寝間着を脱ぎ落とす。それから、最初に枕元に用意していた白衣を羽織った。帯を結ぶところで苦戦していると、髭切が俺の手から帯の両端を奪って、綺麗に結ぶ。それから、袴をつけるのを手伝ってくれた。帯を身体に回すとき、髭切が腰に腕を回してくるのが抱きしめられているようで、ほんの少し気まずさを覚える。 もちろん、髭切の方にそんな意識はないようだった。 「はい、できた」 「ありがとう」 俺が礼を言うと、「どういたしまして」と髭切は微笑んだ。 「朝食が済んだら、今日はえっと……何日だっけ」ふわっと髭切が首を傾げる。 「睦月の二十日だ」俺は答えた。髭切は近侍としては問題ないのだが、細かい事柄を覚えるのが苦手らしいのだ。 「そうそう。二十日だから政府への戦況報告の準備をしないとね。提出までに五日の余裕があるから、落ち着いてやろう」 「ああ」 「君の臨時審神者としての任期は、今日でちょうどあと……」 「あと半年」 「そうだ、半年だ。君がここへ来てから一年半経つなんてね」おっとりとそう言った髭切は、そこでふと思いついたように首を傾げた。「あ、そうだ。それじゃあ、君の余命はええっと、どれくらいだっけ?」 じとり、と俺は髭切をにらんだ。実は俺は事情あって、余命宣告がされている。この本丸に臨時審神者として着任したときに、その話はした。ところが、細かいことを覚えるのが苦手な髭切は、この調子で毎日、俺の余命について尋ねる。ここまで来ると、こいつわざとやっているんじゃないかという気がしてきた。 「――余命はあと半年だ」 「そっか。あと半年か」 おっとりと髭切は頷く。ちゃんと覚えておかないと、なんて呟いているが、たぶん弟の名前やその日の日付と同じく、明日には忘れてしまうのだろう。そして、きっと髭切は明日も尋ねるのだ。 ――君の余命はあとどれくらいだっけ? その口調まで想像できて、俺は何だか腹が立ってきた。何で毎日、俺は残り少ない余命を計算しなきゃならないんだ。そこに触れずに済ませるデリカシーはないのか。 しかし、毎日、余命を確認してくる俺の近侍は、早くも朝食に意識を向けているようだった。「今日は畑で採れたイチゴがあるよ、楽しみだね」なんて言っている。正直、ムカつく。お前のイチゴ、絶対に横取りしてやるからな、と決意を固めて、俺は髭切の後について寝室を出た。 『あなたの余命はあと一年です』 そう医師に告げられたのは、ちょうど二年前のことだ。当時の俺は、自分を健康そのものだと考えていたから、並大抵の驚きではなかった。狐に摘まれているのかと、自分の頬を抓ってみたくらいである。 そもそも、俺が病院を受診したのは、右のわき腹に奇妙な形の痣を発見したからだった。それは痣というより、植物の紋様に似ていた。打撲はしていないし、もちろんタトゥーを入れた記憶もない。何か悪い病気なのでは、と医者に行ったところ、病院は上へ下への大騒ぎとなった。痣に病院の呪術センサーが反応したせいだ。 近頃、病院には呪術センサーなる装置が置かれているのだと、俺はこのとき初めて知った。歴史修正主義者が時の政府への抵抗にオカルト的手法を用いるせいで、呪詛を受けたり、穢れにあてられたりする一般人もいるのだという。確かに、幸いにも俺は遭遇したことがないけれど、歴史修正主義者が街中で呪詛テロを行ったという話は聞く。ともかく、そうした事態に対応するために、病院では呪術センサーなる装置が置かれているらしい。 センサーの反応を見たうちの近医の反応は、『うちではどうすることもできない』だった。結局、紹介状を書いてもらって、政府指定の病院を受診した――ら、余命宣告をされてしまったのである。 「余命って……俺は何の病気なんですか?」俺は思わず尋ねた。 「病気ではありません。あなたは呪詛を受けています」 「俺は審神者じゃないし、歴史修正主義者に狙われるような重要人物の子孫でもありません。もちろん、俺の子孫が今後、歴史上の偉人になるとも思えません」 「問題はあなた自身です。あなたは霊力が非常に強い。審神者として適任ですし、あなたの子孫にもそれが遺伝する可能性がある。……実は、敵はそうした人物に呪詛を仕掛けているようなのです」 「呪詛? どんな?」 「睡眠時間が長く、眠りが深くなります。やがて、深くなりすぎた眠りにより、脳と心臓の機能が停止する――あなたの前にも数名、同じ呪詛を受けた人々が存在するのです」 「その人たちは」 「死亡した方もいらっしゃります。が、生き残るために審神者になった方も存在します」 医師の言葉に俺は瞬きをした。 審神者というのは、突如、現れた歴史修正主義者に対抗すべく時の政府が召集した者たちだ。それくらいは俺も知っている。けれど、どうして審神者になることで呪詛から生き残ることができるのか。わけが分からない。 生き残るには審神者になれ、と言われても俺は納得がいかなかった。どうして俺が審神者になんかならなくてはならないのか。今だって国民は皆、高い戦費用を税金として払っている。なのに、どうして呪詛を受けないといけないのだ。そもそも、政府がちゃんと敵を倒していれば、俺が呪詛を受けることはなかったはずだ。 政府からの勧誘が来たとき、俺はさんざん文句を言ってやった。そうしたら、政府は譲歩の条件を示してきた。 「審神者が暮らす本丸は異空間ですので、歴史修正主義者による呪いの影響を多少は免れることができます。しばらく審神者の仕事をして、それから考えることにしてはどうですか?」 「しばらく、とは? どれくらい余命は伸びますか?」 「本丸にいれば呪詛の影響が緩和されて、余命は二年に延びるでしょう」 生きていたって何をするというほどの目的はないが、かといって死ぬのも嫌だ。しかも死因が呪いとなると、何だか苦しくて不幸っぽい。死を免れる方法があるならば、その方がいいだろう。 余命が一年から二年に延びるといっても、ほんのわずかな期間でしかない。けれど、少しでも長く生きられるならその方がいいだろう。延長した余命一年の間に、呪いを解く方法が見つかるかもしれないし。 余命延長のためということで、俺は短い研修を経て審神者になった。 2. とはいえ、俺は正規の審神者より、研修期間が短かった。余命が区切られていて、呪詛の影響を緩和するためにできるだけ早く本丸に入る必要があるのだ。普通の審神者のように丁寧な研修を受けている暇はない。また、余命が余命なので、普通にいけば審神者として長く働くことはできないだろう。 そうした諸々の事情から、俺が着任したのは、前任が辞任した本丸の中継ぎ審神者としてだった。俺が着任した本丸の名称は〈黒百合〉。以降、俺は〈黒百合〉を審神者名とすることになる。 この〈黒百合〉本丸は、何だかちょっと不気味そうな名称のせいか、いわくのある本丸だった。前任の審神者は精神が繊細であったらしく、歴史修正主義者との戦や、戦道具である刀剣男士に日常的に触れるうちに、ストレスで心を病んでしまった。その結果、審神者は政府に願い出て退職。こうした場合、本丸の刀剣男士たちは、余所の審神者への譲渡か本丸ごとの引継か、あるいは刀解かを選択することができる。通常、刀剣と審神者の関係が良好であった本丸で審神者の辞任があった場合、刀剣男士たちはなるべく本丸の仲間全員で引継ぎされることを希望するという。 ところが、〈黒百合〉本丸の場合は刀解が三振ほど、残りの刀剣は余所の審神者への譲渡を希望した。同じ本丸で過ごした仲間が離ればなれになっても構わない、というのである。かといって、前任の本丸運営がいわゆるブラックであったかと記録を確認しても、そんな事実はない。単純に、皆が皆、人間関係がしっくりこないと思いながら本丸で過ごしていたようだ、というのが俺の結論だった。 俺の役目は、残りの刀剣男士たちの譲渡先が決まるのを待つ間、彼らの腕が鈍らぬように日課をこなす、というものだ。本丸に残る刀剣はさまざまで、粟田口の一部や新撰組刀たち、源氏の重宝兄弟、鶯丸、石切丸、来派の三振といったメンバーだった。刀剣数は三部隊が楽に組めるくらいはいた。 着任した日、俺は大広間に集まった刀剣男士たちに挨拶をし、ついでに自分の余命の話もした。もし、万が一、俺が長くこの本丸にいると思われたら、期待を裏切ってしまうからだ。 刀たちは驚いたらしい。大広間はシンと静まり返って、話しかけてくる者もない。そうだよな。初対面の相手にいきなり余命二年ですなんて申告されても、反応に困るよな。誰も特に話しかけてはこず、その日はこんのすけに仕事の説明や審神者の暮らす離れの案内などをしてもらっているうちに、一日が終わってしまった。 そして、翌朝。俺は朝が弱い。弱いというより、弱くなったというべきか。俺に掛けられた呪詛が、『眠りが深くなって目覚めなくなる』というものらしく、睡眠時間がじわじわと伸びてきているのだ。その影響か、朝もなかなか起きられなくなった。目覚まし二台でも目が覚めないこともあり、現世の生活で最後の方は仕事に遅刻しがちだった。そういう意味では、俺が審神者になったタイミングというのは、現世での生活に対応できるギリギリの時期であったのかもしれない。 その朝、眠っていた俺は誰かに肩を揺さぶられた。うーん、もう少し。そう呻く俺を、サラリと冷たい手の持ち主はなおも起こそうとする。 「ねぇ、起きないとごはんなくなるよ」 「だめ……。ごはん……おいといて……」 「もう、寝汚い審神者だなぁ。前の主はこんな風じゃなかったのに」 「――うぅ……おれのせい、じゃない……。これ、のろい、だから……」 「呪い? ……眠りの呪いって、乱たちが読むおとぎ話みたいだねぇ。あれは何かで呪いが解けていたはずだけど、何だっけ」 何度か読んであげたんだよね。と考えこむような声音。ほどなくして、衣擦れの音が聞こえた。ふと唇に温かく柔らかな感触が触れる。はむ、と柔らかく下唇を食んだそれは、誰かの唇? びっくりして、俺は飛び起きた。そこには白と黒を基調とした洋装の刀剣男士がいた。白い髪に金の目。名前は確か――。 「僕は源氏の重宝、髭切だよ」にっこり笑った彼は、おっとりと言う。「それにしても、目が覚めたねぇ。やっぱり、口吸いをすると呪いが解けるんだ」 「いやいやいや! キスなんかで解けないから! びっくりしただけだから!」 「解けてないの? じゃあ、主の余命はえぇと……?」 「二年」 「主の余命は二年のままなの?」 髭切はおっとりと首を傾げた。それが、俺と彼のきちんとしたファーストコンタクト。気がつけば、その日のうちに刀剣たちの間で、なぜか俺の近侍は髭切ということに決まったらしい。髭切は毎朝、俺を起こしに来て、余命を確認して、数日に一度はキスを仕掛けてくる。そうして、キスしても俺の呪いが解けないのを知って、髭切が腑に落ちない顔をするところまでが日常になってしまった。 3. そうして一年半年が過ぎた。俺は不慣れながらも、審神者としての仕事をこなしている。 刀剣男士たちの譲渡先は、相変わらず見つからない。そもそも、審神者自身が顕現した刀剣を引き受けるのは難しい部分もあるそうだ。そのため、一本丸の刀剣男士ほぼすべての譲渡先を見つけるとなると、なかなか骨らしい。心配する俺をよそに、当の刀剣男士たちはあまり譲渡先が決まらないことにも不安は抱いていないようだった。たまに、彼らはこのまま俺がこの〈黒百合〉本丸の審神者になると思いこんでいるのではないか、と心配になるほどに。 しかし、そんなことはあり得ない。 俺の余命は確実に短くなっていた。脇腹にあった黒い入れ墨のような紋様が、左胸へと伸びているのだ。不思議なことに紋様は、皮膚を浸食しながら影絵のように美しく、高く伸びた百合の形を描いていた。その茎からはあちこち花が咲いているのが見て取れる。 その入れ墨は俺に掛けられた呪詛による産物だと医者から言われていた。紋様が心臓の真上に達するとき、眠りの呪いが俺を捉えて、死に引きずりこむのだ、と。 俺は毎日、伸びていく影絵の百合を見つめつづけた。正直、もう少しで死ぬというのには実感がわかなかった。 そんな日々の中、髭切は相変わらず近侍を務めつづけた。毎日、俺を起こしにきて、たまに呪いよ解けろ、とキスをしてくる。俺は今まで男を恋愛対象にしたことがないから、正直、どれだけ美形だろうと髭切のキスで喜ぶことはできなかった。むしろ、男であるが故に、彼にキスをされても「まぁ、いいか」と流すようになったくらいだ。 ともかく、本丸にいようと、髭切が何か勘違いした知識で解呪のためにキスしてこようと、俺の余命は確実に減っていった。 そんなある日のことだ。夕方、廊下を歩いていた俺は膝丸の後ろ姿を見かけた。あぁ、庭にいるのか。花でも見ているのだろうか――なんて何気なく思ったときだ。庭木の蔭から髭切が現れた。先ほどまで出陣していた髭切は、血と土に汚れた戦装束を着替えて、白っぽい着物をまとっている。 お疲れさま、と声を掛けようとしたところで、俺は思いとどまった。何やら穏やかに会話をしていた髭切と膝丸だが、不意に髭切が弟に抱きついたのだ。たいそう安らいだ表情で、髭切は弟の方に頭をのせて目を閉じている。膝丸は後ろ姿なので顔は見えない。が、兄の抱擁を拒否するでもなく、宥めるようにその背中をトントンと叩いてやっていた。 その光景に、俺は息を呑む。なぜか胸にチリチリと嫌な感触を覚えた。 髭切と膝丸は、兄弟刀だ。これくらい、兄弟として当たり前のスキンシップに違いない。そう、兄弟といえば、粟田口の短刀たちだって、いつもじゃれ合っている。おやつを食べさせあったり、抱きついたり、なんてことも日常茶飯事だ。俺は兄弟がいないからよく分からないけれど、別に彼らは疚しいことをしているわけではない、はず。 そう、何も俺が動揺することはない。もし、万が一、百歩譲って彼らが恋仲だとしても、俺がどうこう言う問題でもない――。 そう思いながらも、俺は胸がモヤモヤとして、二人に声を掛けることなく部屋へ戻った。自分でも、何をこんなに驚いているのか、よく分からない。 その翌日、俺は珍しく髭切が起こしに来る前に起きた。というか、何だか胸がジリジリして、よく眠れなかったのだ。ひとりで着替えようと寝間着を脱ぐと、なぜか右脇腹から胸へと伸びる呪いの痣が、勝手に進行していた。心臓のあたりまでまだ五センチほど距離があったのが、残り二センチほどに縮まっている。 「呪いが……急に進行した……?」 だとしたら、余命もさらに短くなったということなのか――? そのときだ。 「主、入るよ」 ふすまが開く。既に起きている俺を見て、髭切はたいそう驚いたようだった。その視線が俺の胸元を捉えている。 「痣が大きく……。それ、どうしたの、主?」 「何でもない……!」 俺は誤魔化すように、審神者の白衣を取り上げて羽織った。とはいえ、毎朝、髭切に着付けを手伝ってもらっているから、彼を追い出して自分で着替えてしまうことはできない。仕方なく、「早く手伝ってくれ」と髭切を急かす。 しかし、彼は俺の側へ来ると、無遠慮に白衣の前を開いた。心臓近くに新しく咲いた黒い百合を、じっとにらむ。 「何でこんなに痣が進行してるの?」 「知らない。俺に分かるわけないだろ」 「主、心当たりは?」 「ない。歴史修正主義者の考えることなんか、知るか……!」 髭切は難しい顔をしていたが、やがてため息を吐いて俺の着付けをした。それが済んでも、いつものように俺の残りの余命を尋ねたりはしない。朝食に向かう間も、彼はひどく難しい顔で考え込んでいた。 その日は髭切を隊長とする部隊で出陣することが決まっていた。彼は俺を心配する素振りを見せたものの、それでも部隊を率いて出陣していく。刀剣男士の性格はさまざまだが、戦のこととなると彼らはひどく真摯なのだ。戦いに愚痴めいた言葉を漏らすことはあっても、本気で出陣拒否することはない。 髭切が不在の間はいつも、膝丸が俺の近侍を務める。どうしてそうなったのかは分からないのだが、本丸の刀剣たちの間でそう決めごとしたようだ。 ついさっき髭切の部隊が出陣していったので、もうじき膝丸が近侍として執務室に来るだろう。そう思うと、俺は無性に審神者でいるのが億劫になってきた。昨日の膝丸と抱き合う髭切の姿が目に浮かんで、また胸のあたりがジリジリとしだす。 膝丸と顔を合わせるのが少しだけ気重で、俺は執務室から庭へ降りた。逃げたかったわけではない。ほんの少しの気分転換。そのくらいの気持ちだ。 もともと刀剣数の少ないこの本丸は、出陣部隊と遠征部隊の不在でかなり静かだ。俺はどこへ向かうともなく、庭の池の畔へ歩いていく。池の縁に立って水面をのぞきこむと、当然ながら俺の姿が映っていた。普段どおりの自分――余命があと少しとは信じられないくらいだ。 俺は水面で揺らぐ自分を見つめた。地味で平凡な男の姿。歴史修正主義者は、なんでこんな無害そうな男を呪詛しようと思ったのか。刀剣男士たちは、なんで俺みたいなのを主と呼んでくれるのだろうか。髭切は、なんでずっと俺の近侍を務めてくれるんだろうか。 疑問が脳裏で渦巻く。 昨日、抱き合っていた髭切と膝丸の姿が浮かんできて、俺は暗い気分になった。俺みたいな地味だし、霊力が豊富なだけで突出したところのない男は、刀剣男士たちの主としてふさわしくない。彼らが慕うには、もっと美しくて強い存在の方がいいはずだ。 そう。同じ刀剣男士みたいな。 ツキンとはっきり胸が痛んで理解する。なぜだか分からないけれど、俺は……髭切に惹かれているらしい。髭切の間違った知識のせいで、何度もキスされたからだろうか? いや、あれには何も感じていなかったはずだが――。 『おはよう、主』 『君の余命、どれくらいだっけ?』 『口吸いしたのに、呪いが解けてないなんて。おかしいなぁ』 悪気もなく、毎日、余命を確認して、たまにキスして。俺の余命があとわずかだと聞いても、何も気にしなかった髭切の態度に、どれくらい救われただろう。そうして無神経にほぼ毎日、余命を確認する癖に、髭切は近侍として側にいていつも助けてくれていた。 そのせいだろうか。 「……ははは。何を今更、自覚してるんだよ……。俺はもうじき呪いで死ぬし……何より、髭切には大事な弟がいるっていうのに……」 俺は自嘲気味に呟いた。と、そのときだ。池の水面に映った自分の像が風もないのに激しく揺らめいた。直後、池の一部が真っ黒に染まる。 「……何だ……?」 異変を感じて、俺は後退した。それと同時に池の水からザッと上がったものがあった。身長二メートル近い影の巨人だ。バシャバシャと音を立てながら岸へ上がってくる。「う、うぅ……わあああぁぁぁ」 俺は逃げだそうとした。が、それを阻もうと影の化け物が追いかけてくる。腕をつかんだそいつが、俺を引き倒した。ぶわりと風船のように膨れ上がったそいつが、倒れた俺に覆いかぶさってくる。 やがて、俺は影に飲み込まれた。 4. 影の中で、俺は目を開いた。目の前に立っているのは、見慣れた姿。池に映っていたのと同じ――俺? 呆然とする俺の前で、もうひとりの俺が顔を上げてニィとわらう。 「お前は……何だ?」 『俺はお前さ。分かってるだろ?』 「嘘だ。俺がふたりいるはずはない」頭を振った俺は、助けを呼ぼうと声を張り上げた。「誰か、来てくれ! 膝丸……ほかの誰かでも……!」 『誰も助けになんかこないぞ。分かてるだろう? 自分には何の特別なところもないこと。刀剣男士がお前を主と呼んでくれるのは、この本丸を存続させるため。それだけさ』 「違う。俺は余命二年だと最初に刀剣男士には話してある。期待なんかしてるわけない」 『知らないのか? 刀剣男士と婚姻した人間は、老いることがなくなる。あいつらは、その法則を使ってお前をずっと審神者にしておくつもりなのさ。……現に髭切は、何度もお前の気を惹くような真似をしてきただろう?』 「違う! 髭切は……あいつは天然なだけだ。俺だって何も勘違いしちゃいない! あいつには、膝丸が……」 そう反論しかけて、胸がツキンと痛みを訴える。俺は思わず言葉を切った。それを待っていたとばかりに、影の中の俺がたたみかけてくる。 『そう、髭切はすでに膝丸を大事に思っている。お前のことなんかどうでもいいのさ。審神者として、この本丸で飼うためだけに、あいつはお前にすり寄ってきた――』 「違う、違う、違う……! 何でそんなこと言うんだ! お前が俺だと言うなら、お前の言うことなんか百も承知だ。俺のことは放っておいてくれ……!」 『放っておけないさ。俺があまりにかわいそうで』 「かわいそう……?」 『そう。霊力が高いからって、歴史修正主義者に呪詛された。霊力が高いからって、刀剣男士に人間としてのあり方をねじ曲げられ、不老にされようとしている。俺は普通の人間なのに。普通に幸せになりたいだけなのに』 影の中の俺の声が、いつしか自分のものと重なっていく。そうだ、と俺は唱和した。 「そうだ、普通に幸せになりたいだけなんだ。普通に生きて死にたいだけなんだ。……俺は死にたくないし、審神者にだってなりたくない。それなのに、どうして俺がこんな目に……」 『復讐をするだろう? 俺をこんな目に遭わせる奴らに。その方法を教えてやる』 影の俺が手を伸ばす。俺はその手を取ろうと、手をさしのべた。そのときだ。 「主!!」 膝丸の声。同時に、何かが俺の着物の首根っこを捉えて、グィと引っ張るような感覚。バシャッと水音と水しぶきが上がって、俺は水の中から引き上げられたようだった。 ゴホゴホとせき込んで、水を吐き出す。見れば俺は池の縁にいて、側には膝丸がかがんでいた。彼はしきりに俺の背中をさすってくれている。 「ひ……ひざ……まる……?」 「大丈夫か? 妖の気配がしたので、飛んできてみれば、君が池に引きずりこまれるところだったが――。身体に大事はないか?」 「俺……俺は……」 では、影に呑まれてその中で遭遇した『俺』は、敵の見せた幻だったのだろうか。そう思ったときだ。池の水がゆらゆら揺らめいて、ザァっと再び大きく盛り上がる。ヘドロのように黒い水が意思を持ち、揺らめくのを俺は呆然と見つめていた。 しかし、膝丸は違った。立ち上がったかと思うと、本体の鞘を払って名乗りをあげる。 「我こそは源氏の重宝、膝丸なり。我らが主君にして、兄者の想い人たる方を脅かす妖は、俺が成敗してくれる」 え? 兄者の想い人? 俺は正直、出現した妖よりも膝丸の言葉に動揺した。そもそも膝丸の兄って誰だっけ? 髭切? っていうか、ほんとに髭切、俺のこと好きなの? などと混乱しきった頭で考える。 そうする間にも、膝丸はグニャグニャと伸びてくる影の触手のようなものを振り切って、高く跳躍する。「ヤアアアアアァァ!」と気合いの声と共に、彼の刃がヘドロのような影を両断した。 バシャア。 影の化け物はただの水に戻って、崩れ落ちる。池の中に着地した膝丸は、水を蹴るようにバシャバシャ音を立てて戻ってきた。 「大丈夫か、主?」 問われて、俺はコクコクとうなずく。岸に上がった膝丸は、俺の手を取って立たせてくれた。何とか立った俺だが、いろんなことへの衝撃でふらふらして、足下が定まらない。 「あの化け物は……」 「おそらく、アレは主に憑いていた呪詛の一部だろう。呪詛は主の意識を食らって成長しているのではないか、と兄者が言っていた。だから、無意識の時間……つまり睡眠が長くなっていくのだ、と」 「髭切が?」そう口にしてから、俺はハッとした。そういえば、膝丸はさっきすごいことを言ったはずだ。「ひ……ひげ……髭切の想い人って……」 「君のことだが?」今更、何を言うのかとばかりに当然のように、膝丸が答える。 「髭切は膝丸のことが好きなんじゃないのか?」 「そりゃあ、嫌われてはいないと思うぞ。何しろ、俺は兄者の弟だし、俺たちは本当に仲のいい兄弟だからな」 「や、そういう意味じゃなくて……。お前たち、この間、抱き合ってたじゃないか」 「ああ、それは――」 膝丸が言いかけたときだった。正門が開くアラームが鳴り響く。髭切の部隊が帰還したのだ。行こう、と膝丸に手を引かれて、俺は正門に向かった。 部隊は血と泥に汚れて、それでも誇らしげな顔で本丸へ入ってきた。先頭は髭切だ。白と黒を基調とした戦装束を血で染めて歩く髭切の左手には、異様なものが握られていた。 敵の大太刀の頭部だ。 彼は俺を見ると、スっと敵の頭部を掲げてみせた。 「主、とうとう見つけたよ」 「何が……?」 「遡行軍が審神者を呪うときは、穢れた刀一本を呪詛の根本とする。そういう呪法なんだ。……前の主のときは、根本を見つけて倒したけれど、彼の心はすでに壊れてしまっていた。でも、君は間に合った」 「じゃあ、これは……」 「そう、君の呪詛の根本だった刀だ。これで君の呪いは解ける。本来の寿命の長さだけ、君は人間として生きることができるんだ」 俺の前へと歩いて来た髭切は、そこでふと笑みを浮かべた。普段よりもずっと柔らかくて、儚げな笑みを。 「今回の誉は僕だよ。褒美をくれるかい?」 「ああ、もちろん何でも――」 言いかけたときだった。髭切が身を乗り出すようにして、俺の唇に自分のそれを重ねてくる。俺は一瞬、驚いてから――背伸びして自分からさらに唇を押しつけた。両手を彼の背中に回して、引き寄せる。口を開けて、髭切の唇を甘く噛んだ。 ドサリと音がした。キスの合間に横目で見れば、髭切が敵の首級と本体を取り落としたらしい。それでも構わずに彼は俺の肩をつかんで、口内に舌を挿しいれてくる。 「ふ……ぅ……」 甘えたような声が小さくこぼれ落ちた。 そのときだ。ゴホン、ゴホンと咳払いが聞こえる。俺と髭切は我に返ったように離れた。 「あー、兄者も主も、盛り上がったところで悪いが、とりあえず呪詛が消えたか確認するのが第一だろう?」 決まりの悪そうな膝丸の言葉に、俺はハッとした。そうだ、呪詛。手っとり早く確認したくて、俺はガバリと自分で着物の合わせ目を開いた。露わになった胸元から脇腹にかけては、痣が消えてもとの肌色に戻っている。 それを見て目を丸くした髭切は、今度は自分の戦装束のシャツのボタンを外しだしt。 「え? なんで髭切も確認するんだ?」俺は首を傾げた。 「気づいていなかったのか?」と膝丸が呆れた顔をする。「兄者が君に何度か口吸いをしただろう? あれは、進行が早い呪詛の一部を兄者が引き受けるためだ」 「え、嘘」 「本当のことだぞ。おかげで、兄者も眠りが深くてなぁ……。それでも近侍として君を起こしに行かなくてはならないから、毎朝、俺が起こしていたんだ。近頃は兄者だけでは呪詛を受けきれなくて、俺も引き受けていたしな」 どうやら膝丸と髭切が抱き合っていたのは、呪詛を一部、膝丸に渡すためらしい。綺麗に筋肉のついた胸元をさらしながら、髭切は「弟には迷惑掛けっぱなしでねぇ」とあまり気に病んでいない様子で微笑した。 それから数日の間、俺は慌ただしく過ごした。審神者用の病院に行って、呪詛が消えていることを確認してもらったり。政府に報告したり。政府から呪詛がなくなったなら〈黒百合〉本丸を正式に引き継いでほしいと言われたが、その返事は保留にしている。 少し落ち着いたある日の宵、俺は髭切と膝丸と共に縁側で酒を呑んでいた。春でも夏でもない微妙な季節だが、美しく整えられた本丸の庭の景色はいつだって風流だ。 酒を飲みながら、俺は髭切に尋ねた。 「前にちらっと言ってたけど、髭切は俺のことが好きなのか?」 すると、髭切はおっとりと首を傾げた。 「あれ? 僕、言ってなかったかい?」 「いや、この間、膝丸に初めて聞かされたけど」 「俺は兄者がもう言っていると思っていたんだが」と膝丸は眉を下げた。 髭切は俺と膝丸を交互に見た後に、へらっと笑う。 「僕はだいぶ前に好いていると言ったつもりだったんだけど、ど忘れしてたみたいだ」 「おいおい……」俺は額に手を当てた。 「兄者! しっかりしてくれっ!」膝丸は身を乗り出して、髭切の肩をつかんだ。ガクガクと揺さぶる。「おかげで、俺と兄者が恋仲だと、審神者は勘違いしていたんだぞ! 俺たちは兄弟なのに!」 「それは道ならぬ恋だねぇ」髭切はのんびりと言ってから、俺を振り返った。「君、そういう趣向が好きなの?」 「いやいやいや! お前の説明不足から出た誤解を、俺の性癖みたいに言うなよ!」慌てて俺は首を横に振る。それから、ため息をはいた。「ただ……お前が俺を好いているとは思わなかった。理由が分からないしな」 「うーん。ひと目惚れかなぁ」 あっさりと髭切が言う。聞いている俺の方が恥ずかしくなった。しかし、いまいち要領を得ない髭切の言は置いておくとして、膝丸が言うにはちゃんと理由はあるらしい。 髭切は前の審神者が呪詛を受けたとき、その根本を探索する部隊にいたらしい。ところが、髭切が部隊長だったときに見つけた呪詛の根本を、取り逃がしてしまった。結果、前の審神者は解呪が遅れて心を壊してしまったのだという。髭切の部隊にいた者たちは、それぞれに後悔して数振が刀解を願った。また、刀剣男士たちは皆、主を救えなかったことに罪悪感を覚えて、余所の審神者に譲渡されることを選択したのだとか。 そんな中、前任と同じように呪詛を受けた俺が着任した。今度こそ救うのだ、と刀剣たちは意気込んだのだという。中でも、部隊長を務めながらも根本を取り逃がしたことに責任を感じる髭切は、仲間たちに近侍として俺をいちばん近くで守れるように頼み込んだらしい。 「――そうして、君の側にいるうちに、惹かれてしまってね。恋仲になって不老にすることは、簡単だった。君が僕を受け入れてくれる気があるならだけど。何度も君にそれを提案しようとしたか分からない」 髭切は苦笑しながら、俺を見つめた。その視線に愛しげな色を見つけてしまって、俺はなんだかトギマギする。 「提案すれば手っとり早かったのに」俺は言った。 髭切は緩く首を横に振った。 「それではダメだよ。刀剣男士と恋仲になれば、不老になる。でも、それが人間にとって幸せなことなのか、僕らには分からない。君には心のままに選んでほしいと思っていた。人として生きるか、人の理を外れて不老で生きるか」 俺は目を丸くして髭切を見つめた。本当は、この男は俺が自由に選べるように、今まで想いを告げなかったのかもしれない。……と思ったけど、忘れてたって本人が言ってたな。 間もなく酒宴はお開きになった。 部屋に戻って就寝の支度をする。布団に入って、俺は改めて考えた。呪詛が解けた今、現世に戻るべきか。それとも、審神者としてこの本丸に残るか。そして……髭切と恋仲になるか。可能性を上げてみたけれど、俺の心はもう決まりかけている気がする――。 と、そのときだ。 「――主」 髭切の声が廊下から聞こえる。俺は布団の上に起きあがった。月明かりを浴びて、廊下に面する障子にくっきりと髭切のシルエットが浮かび上がっている。 「どうした?」俺は静かに尋ねた。 「妻問いに来たよ。もしも、君が審神者としてこの本丸に残り、僕を愛してくれるならば、この戸を開けておくれ」 「……もしも、本丸を去るつもりなら? あるいは、お前と恋仲になれないと思うなら?」 「僕がどれだけ恋をさえずっても、何も答えず、この戸も開けないでいて」 「鳥でもない、刀が恋をさえずるのか」 俺はクククと喉の奥で笑った。布団から出て、障子の側まで歩いていく。戸を開けることはせず、俺は障子の前に座った。手を伸ばして、障子に触れる。と、向こう側から髭切が俺の手と同じ場所に手を触れさせたのが分かった。 トクリと鼓動が甘く跳ねる。 髭切に応えたくないわけじゃない。何の情もないなら、あの日、出陣から戻った髭切にキスをしたりはしなかった。人の理を外れるのは怖い。けれど、現世に戻って髭切と会えないのもつらい。結論を先延ばしにして恋仲にならないまま審神者でいることを選んだって、いつかは髭切と結ばれたくなるだろう。そんな気がする。 前に踏み出すのにも、後ろに引くのにも、迷いがあった。迷いを抱えたまま、俺はコトリと障子の枠に額を触れさせた。今はただ、戸を隔てて存在する髭切の気配に意識を研ぎすませることしかできない。 「……聞かせてよ、お前がさえずるの」 迷いと共に、俺はそうねだった。 2016/05/22 |