一振の刀1






 適齢期も後半の遅い婚約だった。
 女学校の友人らは、大半がすでに夫を得ている。その後、特例として学ばせてもらった大学校の同窓の男性らも、半数ほどが婚儀を行ったと聞いた。
 それでも数年前までは、私は志に燃えていた。大学校まで行かせてもらった数少ない女なのだから、家に入るよりは世の役に立ちたい、と。しかし、それは難しかった。男女同権が歌われるようになって、まだ間もない。特に男性と同じ職場には受け入れ口が少ない。望んだところで、私が学問を生かせる場は与えられなかった。
 ならば、と女工になろうとしたのだが、そちらは両親と兄に禁じられてしまった。両親は私に夫をと探して回り、やがて一人の男性を見つけ出した。齢は四十、警視庁の警部だという。そちらは奥方に先立たれ、再婚ということだった。
 私に否やはない。嫌悪を抱くほど相手のことを知らないのだから。何より、嫁いだ方が両親も兄も気楽だろうと分かるので、異議はなかった。
 見合いの末に婚約したものの、相手はつれなかった。愛情で結ばれた相手ではなかったが、ろくに婚儀の段取りの話し合いにも応じてくれない。
 最初こそ我慢していたが、あるとき大学校時代の同窓の一人がそっと教えてくれた。私の婚約者は連日、遊郭に入りびたっているようだ、と。それを聞いたとき、私はたちまち怒りの頂点に達した。
 愛していたからではない。
 両親は私の結婚のために、少なからず持参金を用意していた。決して婿を金で買うわけではないが、こちらの気持ちを踏みにじるような行為は許せるものではない。
 怒りのままに、私は遊郭へ乗り込んだ。果たして、婚約者は夕方の座敷で美しい芸者を相手に酒を飲んでいるところだった。踏み込んでいった私の姿を見ても、心動かされた風もない。婚約者は悪びれたところのない態度で、
「あぁ、お前か」と呟いた。
「あぁ、ではありません。婚儀の相談もせずにこのような場所で遊びほうけて、恥ずかしくはないのですか」
「どうせ気の進まぬ婚儀だ。上司の命ゆえ婚約を受け入れたが、相手がお前のような不美人ではな」
「磐城さま」婚約者よりも芸者の方が、かえって気をつかったらしい。彼をたしなめるように名を呼ぶ。「お相手に面と向かって、そのようなことを言うてはなりませぬ」
「いいのさ、小百合。俺の婚約者の朔夜はな、女だてらに大学校出の学士さまさ。だが、見てみろ、この色気のなさを。地味な顔に紅白粉も使わず、しなを作って見せるでもない。まったく味気のないおなごよ」
「……それなら、婚約を受け入れねばよかったのです」
 私は言った。暴言を吐かれているのに、意外にも涙は出なかった。怒りはいつしか冷えきっていて、いっそ寒気を感じるほどになっている。
「上司の命だと言ったろう。そうでなければ、こんな味気ない女を妻にして、毎日顔を合わせねばならぬとは。傾城の麗しい顏を拝まねば、やっておれん」
「――ならば、私たちの結婚はなしにいたしましょう。私から両親に説明いたします。分かってくれるはずです」
「おいおい、いいのか?俺を逃せばお前は嫁(い)かず後家やも知れぬのに」
 婚約者はあくまで余裕だった。私がかろうじて怒りを抑えられたのは、この卑劣な男を斬って罪人になるのではつまらないと思ったせいだった。私はもはや話すこともなく、踵を返してその場を立ち去った。
 こうして、わずか三か月にして、私は婚約破棄を経験することとなった。



 数日後、私の元に一通の通知が届けられた。開けてみれば、政府の内務省と記されている。内務省が私にどんな用なのか、明日、迎えが来るということだった。
 この通知に家は上へ下への大騒ぎとなった。母はお上に目をつけられるようなことをしたのかと心配し、逆に父はきっと宮家の親王のどなたかが娘を見初めたにちがいないと舞い上がる始末。いちばん冷静なのは兄で、飄々と明日のための準備を取り仕切った。
 結果的に言えば、父の期待も母の心配も的はずれであった。
 翌日、内務省からの迎えで役所に行った私たち一家を迎えたのは、内務卿その人だった。小柄で穏やかそうな方であったけれど、維新の折には刀を取って戦った志士の一人であったらしい。人は見かけによらぬものである。けれど、ともかくも今は紳士然とした内務卿は、私たちを呼んだ経緯を丁寧に語られた。
「とある極秘の任務が持ち上がった。この任務にあたるには、ある特殊な条件があるのだが、朔夜どのは見事にこの条件を満たしておられる。どうか政府のために力をお貸しいただきたい」
「どのような任務ですか?」
 父が尋ねる。しかし、内務卿は首を横に振った。
「この場では話すことができぬ。これはあくまで極秘の任務。承諾をいただければ、朔夜どのにのみ話そう」
「……まさか、生命を落とすような任務なのでは?」兄が言った。
「危険がないとは言わぬ。しかし、戦場に身を置くほどの危険ではない。負傷する可能性は少ないだろう」
「どのくらいの期間の任務ですか?」
 私は尋ねた。こういう場では、普通、女は黙っているものである。父は苦い顔で私を見た。
 内務卿は、逆に面白そうな目をして、私を眺める。
「期間は無期限だ。家族との連絡も、基本的には取れない」
「そんな! それでは娘と死に別れるようなものです!」
 我慢ならない、というように母が叫ぶ。
 しかし、私はそうは思わなかった。せっかく学問をさせてもらったのに、ただ家庭に入るより、学問を生かせる仕事がしたい。皆がそうしているからという理由だけで夫と子どものために生きるのではなく、自分の生命の使い途を自分で決めたかった。
 たとえ、それが家族と離れることを意味したとしても。
 父が断ろうという表情で口を開きかける。それを見て、私は声を張り上げた。
「そのお役目、お受けいたします!」
 両親と兄はギョッとした顔になる。内務卿はやはり面白そうな目で私を見ていた。いくら親であろうとも、成人の娘が公の場で発言したことは曲げられない。内務卿は私にもう一度、意思を確認した上で、正式に私を極秘の役目に任命すると言った。それから、両親と兄は邸に戻され、私のみがその場に残される。
 次いで内務卿が部屋に招き入れたのは、洋装の男だった。年齢は三〇代半ばといったところだろうか。役人らしい真面目そうな顔をしている。ただ、奇妙なのはその服装だった。
 ――洋装? ……いや、少し違うかもしれない。
 少なくとも、私が知る洋装とは一風変わった衣服を身に着けていた。
 現れた男は名を斎木と名乗った。
「僕はこの時代の人間ではありません。およそ三百年後の未来の出身です」
「は、はぁ……」
 思わず私は気のない返事をした。未来から来たなど、いきなり言われても信じられるはずがない。しかも、三百年といえば、先の幕府が存続した年数。その間、将軍は十五度も代替わりした。海の向こうでは、七つの海を制した葡萄牙(ポルトガル)や西班牙(スペイン)の栄華が衰え、大英帝国が覇権を握りだす。それほどの歳月が私と目の前の斎木の間には横たわっているのだという。
「ショックを受けるのも、無理はありません。ですが、後できっと分かっていただけるはずです。話を進めてもよろしいですか?」
「その前に、あなたが未来人だというなら、どうやってここへいらしたのです?」
「未来には、時を渡るための装置が発明されているのです」私の問いに答えたのは、意外にも内務卿だった。「そして、刀や銃を初めとする多くの道具と同じく、時を渡る装置をも悪用する人間が現れた。そこで、時の政府は斎木さんを派遣なさったのです」
「悪用とは、どうやって?」
「歴史を変えるのです。僕らは彼らのことを、歴史修正主義者と呼んでいます」
 斎木の言葉に私は首を傾げた。歴史というのは、すでに定まってしまっているはずだ。変えようとして、本当に変わるものだろうか?
 しかし、内務卿は事態を深刻と考えているようだった。
「維新を知らぬあなたには、想像できぬかもしれない。だが、たとえば坂本龍馬が暗殺されなかったら、鳥羽伏見の戦いの結果が変わっていたら、どうだっただろう?倒幕が成らなければ、どうなっていたと思うかね?」
「それは……」
「旧幕藩体制が続けば、この日本国の近代化は遅れ、今ごろは清国のように西洋の植民地にされていただろう。歴史修正主義者という輩が行おうとしているのは、そういうことだ」
「まぁまぁ、内務卿。朔夜さんが戸惑っています。ここは私にお任せください」
 斎木はそう言って、懐中から何かを取りだした。その手を私に向かって開いてみせる。彼の掌にあったのは、青味を帯びた透明な玉だった。大きさはビー玉よりひとまわり大きいくらいだろうか。
 まるで受け取れというように、軽く手を揺らすので、私はこわごわ手を差しだした。斎木が手を傾けて、私の掌に玉を落とす。驚いたことに、それは私の手の中ですっと溶けてしまった。次の瞬間。脳裏に無数の知識の嵐が吹き荒れだした。

 二十世紀。第二次世界大戦。高度経済成長。湾岸戦争。
 戦車。銃。二十一世紀。紛争。コンピュータ。
 携帯電話。インターネット。
 地球温暖化。少子高齢化。宇宙進出。量子論。
 二十二世紀。軌道エレベーター。常温核融合。
 アンドロイド。タイムマシン。

 ――歴史修正主義者。

 「っ……!」
 気がついたときには、私はあの部屋で内務卿と斎木と向かい合って座っていた。だが、心はつい一瞬前まで見ていたこの先、三百年間の出来事からまだ離れることができないでいる。私はこの場に座っている自分が、まるで自分でないかのように感じた。
「大丈夫かね? 朔夜君」内務卿が尋ねる。
「えぇ、大事ありません」私は答えた。
「よかった。朔夜さんは無事に未来の記憶を受け入れることができたようですね。これで私の話も少し理解しやすくなったかと思います」
 斎木は嬉しそうに言った。
 その顔を、朔夜はぼんやり見つめた。
 自分がつい先ほど得た記憶が、この先、三百年間のものだとにわかには信じられない。いっそ、実は自分が狂気に陥ってしまったのだと言われた方が、よほど納得できるくらいだ。しかし、記憶の中にはタイムマシンの原理や未来の社会についての詳細な内容もあり、ただの妄想だとは思えなかった。
 そもそも、タイムマシンやアンドロイドなどをテーマにしたSF小説が日本に入って来るのは、第二次世界大戦後のことである。たとえ妄想であったにしても、明治の人間である私が考えつけるはずはない。私の中に入ってきたのは、やはり未来の知識なのだ。
 その知識によれば、二十三世紀の政府は歴史改変主義者たちと戦うために、各時代の為政者と密かに通じて、その時代での便宜を図ってもらうことがあるらしい。今の場合は、明治政府がそうだ。かつてはその役目は幕府のものであったし、それ以前は帝の家系に引き継がれていたという。何度、政体が変わっても未来からの助言を受け入れることで、この国は存続してきたのだった。
 ただ、私には疑問が一つあった。
「斎木さんに伺いたいのですが。なぜ、私をお役目に選ばれたのですか? 未来にも適任者はいるでしょうに」
「その理由は簡単です。歴史修正主義者たちが手出ししてくるのは、だいたい日本の国としての形が整うまでの間――すなわち、明治維新までの時代なのです。それに関わるには、私たちは過去とかけ離れすぎている」
 たしかにそうだ、と私は思った。与えられた未来の知識の中にあった生活――男女問わず高等教育を受け、豊かに暮らし、若者が自由に恋愛をするライフスタイルは、家と主君を重んじた過去の時代とは違いすぎる。私ですら、未来人の生活の知識は得ても、理解できない部分があるくらいだ。
「つまり、明治に生きる私ならば、過去の時代の雰囲気をある程度、理解できるということですね」
「そうです。いろいろ検討したのですが、やはり維新後の明治中期に生きるあなたならば、未来の私たちのことも過去の時代のことも理解できる。むしろ、あなたが我々と過去の時代を仲介できるギリギリのラインだと考えました」
「承知しました。ところで、未来の知識を持ってしまった私は、お役目を終えたどうなるんですか? この時代の人間としては知ってはならないことを知っていることになりますが」
「内務卿も説明しましたが、お役目は無期限です。あなたがやめたいと言い出したとき、あるいは歴史修正主義者たちが滅びたとき、私たちはあなたの記憶を消してしかるべき時代で暮らしていけるようにします」
 横文字の混じり始めた私たちの会話に、内務卿は目を白黒させていた。さすがに未来の知識なしでは、理解できなくなってきたらしい。
「――申し訳ございません、内務卿。私のような若輩者が出すぎた真似をして、話をしてしまって」
 私が謝罪の言葉を口にするのへ、彼は苦笑してみせた。
「いや、構わんよ。我々、時の政府は未来人に協力する決まりになっている。しかし、未来を知ることも、彼らに時代を左右するような問いかけをすることも禁じられているのだ。役目に就く君自身が、確認せねばならぬ事柄は多い。……しかし、今日のところは時間を取りすぎた。お父上やお母上も心配しておられることだろう」
 内務卿がそう発言したことで、その日はお開きとなった。私には一週間が与えられ、その間に役目に就く支度をせよということだった。

***

 それからの一週間は、慌ただしかった。両親も兄も、私を死地へ送り出すかのような悲壮さで、支度を整えてくれた。私はといえば、どんな任務に就くのか理解しているけれど、それを家族に打ち明けることは禁じられている。そのせいで、悲しげな家族の顔を見ながら、もどかしい日々を送ることになった。
 家を出る日の朝。私は両親と兄に別れの挨拶をした。互いに二度と会えないと分かっている別離である。私は少し泣いてしまった。が、今は実業家とはいえ元は武家の流れを汲む両親は、気丈な様子で挨拶を受けていた。
 やがて、内務卿からの迎えがやってきた。私を送り出すとき、小走りに寄ってきた母は何かを私に押しつけた。
「あなたがお嫁に行くときに、渡そうと思っていたのですけれど。きっとあなたを守ってくれるでしょう」
 それだけを早口に告げると、母は私から離れていった。私が何か言葉を返すよりも先に、迎えの役人が私を急かす。後ろ髪を引かれる思いながらも、私は馬車へと乗り込んだ。
 馬車の中で袱紗を開いてみると、中には桐の箱と懐剣が包まれていた。箱の中身は母が嫁ぐときに持ってきたという掌大の鏡だった。懐剣は、代々、母の家の女に受け継がれてきたもので、銘を『十六夜(いざよい)』。こちらも母の嫁入り道具だったと聞かされている。
 ――きっと母は、私が普通に嫁いで幸せになることを願っていてくれたのだろう。
 私は自分がお役目を選んだことを、後悔はしていなかった。ただ、母の願いに添えなかったことだけは悲しくて、馬車の中でまた少し泣いた。


 馬車がたどり着いたのは、立派な神社だった。私は手荷物を持ち、案内されるままに神社の内殿へ入っていく。そこには内務卿と斎木が待っていた。
「朔夜君。しっかりお役目を果たすのだよ」
 内務卿の言葉に、私は頷いた。
「――さぁ、こちらです。朔夜さん、廊下を進んだ先にあるお部屋に入ってください。ここからは、あなたひとりでしか行くことはできません」
「でも……私はまだ具体的なお仕事を聞いていません。マニュアルもいただいておりませんし」私は少し不安になって言った。
「大丈夫です。お部屋に入れば、どうすればいいのか分かります。案内もありますし、あなたのアシスタントも出てくるでしょう」
 さぁ、と斎木に促される。
 私は心を決めて、一歩踏み出した。前方には真っ直ぐに廊下が伸びていて、その先には木の扉が見えていた。あれが斎木の言う部屋というわけだ。
 いったい、この先どうなるのだろう。
 胸がドキドキと脈打って、緊張で口の中が乾く。それでも、私は努めて平静な態度で廊下を進んだ。振り返って、内務卿と斎木がいるのか確かめたい誘惑に駆られたが、何とか押さえ込むことに成功する。廊下はあっという間に終わってしまって、私は木の扉の前にいた。
 その扉に手を掛けて、開く。
 扉の中は真っ暗だった。恐ろしい。けれど、ここへ入らなくては。家を出て来たのだ。もはや逃げ帰る場所もない。自分を奮い立たせて、私は部屋の中へ入った。
 ――バタン。
 背後で扉が閉じる。辺りが完全な闇に包まれた――かと思いきや、足下にポッと白い明かりが点った。見れば、それは蝋燭でもガス灯でもLEDライトでもなく、小さな白い狐だった。狐自身の白い毛並みが、発光しているのである。
 驚く私の前で、狐はペコリとお辞儀した。
『お初にお目にかかります、審神者(さにわ)。こんのすけと申します。私はただの狐ではありません。あなたにお会いした斎木の式神です』
「式神……?」
『えぇ。我が主・斎木はあんな姿形ですが、いちおう、陰陽師ですので』
「二十三世紀の、陰陽師……ですか……」
『おっと。驚かれることではありません。あなた様とて、家系を辿れば神職に連なるお方。秘めたる霊力は明治期ならば五本の指に入るほど。それ故、あなた様が審神者に選ばれたのでございます。お役目に馴染めば、あなた様も式神などたやすく使うことができましょう』
「そうですか……。ところで、お役目というのは、まず何から始めれば……?」
 私は尋ねた。
 と、白狐はフワフワした尾でポンと床を叩いた。途端、私と白狐の周囲がスポットライトを浴びたかのように、丸く闇から切り取られる。見れば、白狐の後ろには長持が一つ置かれていた。
 狐がもう一度、ポンと床を尾で叩く。それと同時に長持の蓋が勝手に宙に浮かんで、スッと闇の中へ消えていった。おそるおそる近づいて、長持の中をのぞき込んでみる。そこには五振の刀が置かれていた。
「これは……」
『歴史に名を残す名刀です。歴史修正主義者らは、歴史を変えようとしている。そこで、あなた様には刀から付喪神を喚んでいただきます。その付喪神たちに、時を渡って歴史修正主義者らの動きを阻止してもらうのです』
「付喪神が時を渡る……。どうして、付喪神なのですか? わざわざ付喪神を喚ばなくても、人が直接、行けばいいのでは?」
『そういうわけには参りません。歴史修正主義者たちが歴史を変えようとしている時空間は大変、不安定になります。ですから、人が立ち入れば、時空間が崩壊する可能性があります。その点、付喪神は人間ではありませんから、時空間に与える影響が最小限で済むのです』
 そういうものなのだろうか。
 はっきりとは分からないままに、私は曖昧に相づちを打った。狐の方も、こちらの理解を待つよりも実地で説明した方が早いと判断したのか、とにかく刀をひと振、選べと言う。私は少し考えてから、五本の中でも目を引く、赤い鞘の刀を手に取った。
 途端、すっと長持が勝手に後方に引かれ、どこからともなく現れた蓋が閉じられる。まるで誰かの手に運ばれているかのように、長持は闇の中へ消えていった。
『――それでは、その刀に念を込めてください。歴史に残る名刀ですから、魂が宿っています。この空間では、難しく考えずに念を込めれば、刀の方から実体化しようとしますから』
 言われるままに、私は刀を捧げ持って、目を閉じた。意識を刀に集中する。と、不思議なことに脳裏に人の姿がぼんやりと浮かんだ。それが見る見るうちに、はっきりしてくる。
 私はハッとして目を開けた。その直後、捧げ持った刀が光を放つ。光は形を変えて、人の姿を取った。鞘を持っていたはずの私の両手は、いつしか誰かの両手で包み込まれていた。細っそりして、指が長い、形のいい手だと感触で分かった。
 やがて、光が収まったとき、私の目の前には一人の青年が立っていた。年齢は二十になるかならぬか、というところだろう。黒い軍服のような衣装に、赤いストール。艶やかな黒髪を一房だけ伸ばして、束ねている。切れ長の瞳は鮮やかな紅色で――私が選んだ刀の、鞘の色を思わせた。
 彼が付喪神らしい。
「選んでくれてありがとう。俺は加州清光。河原で生まれた子だ。扱いにくいけど、性能はいいんだよ。これでも主さまの前には、新撰組の沖田総司に振るわれていた」
「そうなんですか……」
 あの沖田総司の剣。これは本当に歴史に残る名刀である。私は感心して、彼をまじまじ見た。刀には確かに美があるけれど、それにしたって付喪神がこんなに美しい姿で現れるなんて。
 ぼんやりしている私を心配したのか、彼――清光は自らの手で包み込んだ私の手を、上下に軽く振った。
「主さま、大丈夫? 話、付いて来れてる? 今から大事な話、するよ?」
「え? あ、えぇ……」
「とにかく、俺、綺麗にしているから。主さまのこと、守るから。だから、ずっと、かわいがってね?」
 キュッと軽く力を込めて、清光は私の手を握った。その手をふと見て、そこで私はハッとする。彼の手の爪は赤く彩られていて――何だか艶めかしいのだ。カッと頬に血が上るのを感じて、私はうつむいて顔を隠した。
「主さま?」不安そうな声で清光が呼ぶ。
 私は慌てて、顔を上げた。
「だっ、大事にします! 私は沖田総司みたいにあなたを振るうことはできないけれど……でも、大切にすると約束しますから!」
 私の言葉に清光は、目を丸くして――それからパッと笑顔になった。安堵したような笑顔だった。
『――お二方。それでは話を進めますが、いいですか?』
 こんのすけの声がする。私はギョッとして、辺りを見回した。足下でこんのすけが私たちを見上げている。
「申し訳ありません。続きをお願いします」
 私が言うと、清光は私の手を離した。屈んで足下に置いていた私の手荷物を拾い上げ、傍らに並ぶ。当初の軽そうな態度とは裏腹の恭しい行動に、私は少しときまぎしながら、白狐の話に耳を傾けた。
『先ほどご説明したように、基本的に時を渡るのは付喪神――刀剣男士のみです。審神者は拠点にいて、戦略を指示すると共に、付喪神たちが移動するためのポイントを維持する必要があります。こちらがあなた様の拠点です』
 白狐がポンと尾で床を叩くと、周囲の闇がぱっと晴れた。そこはどこかの邸の中のようだった。縁側の向こうには立派な庭も見えている。私は邸に微かな違和感を覚えた。不快というわけではなのだが、何だか妙な感じがする……。
『――あなた様と付喪神たちはこの邸で生活して装備を整え、出撃していくことになります』
「……待ってください」私は白狐の話を遮った。「この邸、何だか妙ではありませんか?」
『お気づきですか。この邸は時の狭間にあります。どの時代ともわずかに繋がっていながら、どの時代でもない場所。この場に影響を受けて、暮らしていくうちにあなた様も年を取らなくなります。審神者の仕事が無期限なのは、そのためです』
「そんなに長く、戦い続けるのですか?」
『さて、それはあなた次第であります。――それでは、戦いについて説明いたしましょう』
 言うが早いか、白狐は演習として清光を出陣させろと言う。清光は「丸腰なのに」と渋い顔をした。私もいきなりのことで心配だったけれど、演習だと言われれば仕方がない。早速、清光に出陣を命じた。
 結果は、やはりというか、さんざんだった。斎木が操っているという式神に、清光は敗北してしまった。だいたいの説明が終わり、白狐は姿を消している。
 しんと静まり返った邸の座敷で、私はボロボロの清光と向き合って座った。白狐に教えられた通りに、傷ついた彼を手入れしていく。これで合っているのあろうか、とこわごわ清光の身を清めていると、彼は困った顔で私を見た。
「ごめんね、主さま。俺、勝てなかった」
「いいえ、私のための演習だったんですもの。丸腰なのに、清光はよくやってくれましたね。感謝しています」
「そんな、もったいない言葉……。次はがんばるから。もう二度と、ボロボロの姿は見せないから――だから、愛想尽かさないで」
「えぇ、もちろん」
「本当? 俺のこと、これからも愛してくれる?」
 ――愛。
 その単語が、私の胸を掠めて小さな傷を作る。清光のように綺麗にしていれば。素直に愛してくれとねだっていれば、婚約者は私を愛してくれたのだろうか、とふと思う。
 私は異性に愛されず、自らの生きる目的がほしくてここへ来た。そこで求められるのが、愛することだなんて。何と皮肉な運命だろう。親兄弟には慈しまれてきたし、彼らを愛してもいたけれど、それは血の繋がりがあってのこと。自分から赤の他人を愛することが、私にできるのだろうか?
 確信が持てなかった。しかし、ここ愛せるかどうか、自信がないと言ったら、清光はきっと深く傷つく。私のために無茶な戦いをして、ボロボロになった子を悲しませるのは嫌だった。
 ――そう。彼は私のために、何の装備もなく戦ってくれた。傷ついて、痛かっただろうに。
 ざわざわざわ。心の奥底で何かが騒ぐ。
 私の、愛することへの不安や恐れなど、清光の実際の痛みに比べたら小さなものだ、と気づかされる。私は不安そうな自分の心を叱咤して、顔を上げた。傷だらけの彼の手を取る。美しかった赤い爪の、ところどころ色が剥がれているのが痛々しい。
 それでも、清光の手は温かかった。元は血の通わぬ刀だった彼だが、確かに今は実体を持ってここにいる。それこそが奇跡のように思えた。私は傷に響かないよう、柔らかく彼の手を両手で包み込んだ。清光を刀から喚んだときよりも強く、切実に願いながら、私は口を開いた。
「加州清光。私はあなたを愛します。愛しています。ずっと、ずっと、あなたを大切にしますから、どうか傍にいてくださいね」
 それは、誓いであり、真実でもある言葉だった。







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