明日、晴れたら、君と2






1.山姥切国広


 山姥切国広が主や仲間たちと共に新たな本丸に入ったのは、旧本丸を失ってから三日後のことだった。
 旧本丸は、歴史修正主義者らの襲撃を受けて、破壊されてしまった。あのとき敵が送り込んできたのは、戦場で遭遇する穢れを帯びた刀剣の妖ではなかった。まったく異なる戦い方をする異界の化け物だ。仲間になったばかりの石切丸は、人間を生け贄に異界から呼びよせたのだろうと言う。いずれにせよ、あれは難敵だった。主に顕現されてからそれなりに戦場を踏んできた自負のある国広だが、それでもまもな戦いにならなかったのだから。
 もちろん、国広たちが敵に手をこまねいていたわけではない。しかし、敵の撃退に主と客人の力を借りてしまったことが悔しい。
 客――“六条の君”という号を持つ審神者とその近侍の鶴丸国永には、自らの本丸を襲撃で失った過去を持つ。また、政府からの特命で、何度か敵襲に対処したこともあるという。彼らが常ならぬ敵と相対する術を持っていたから助かったのだ。でなければ、主も仲間もそろって、新しい本丸には来られなかっただろう。
 新しい本丸の色のない空を見つめて、国広は密かに右手を握りしめた。もっと、強くなる。そして、主を守る。審神者になったばかりの頃に、主は倒れたことがある。もう二度と彼をあんな目に合わせるつもりはない。
「……なんか、ちょっとこの本丸ってよその家みたいだね」
 薬研と小夜と共に、探検とばかりに庭先を見て回ってきたらしい主が、苦笑する。国広は小さく頷いた。
「確かにな。だが、主がいるかぎり、そこが俺たちの居場所だ」
「主さま」ピョコンと木の陰から現れたこんのすけが、主の前に立った。「鍛刀部屋の祭壇で、祈祷を。そうすれば、主さまの霊力が本丸に行き渡って、よそよそしさは和らぎましょう」
「そっか」
 行ってくる、と主は小さな狐に連れられて、母屋へ入っていく。国広はこんのすけに、「どうぞ、皆さまは外に」と勧められたので、皆と庭先に残った。そこにいれば面白いものが見られる、と言うのである。とはいえ、空は灰色、庭木も造花のように精彩がない。取り立てて心動かされるような景色でもない。
 と、そのときだった。鍛刀部屋の方から、同心円状にゆっくりと主の霊力が伝わってくる。祈祷を始めたのだろう。霊力の輪が広がるにつれて、景色が変化していく。気温が上がり、庭木が鮮やかな緑色に色づいていく。魔法みたいな光景。
 前の本丸では、主は季節を現世に合わせていた。四季は現世と同時にゆっくり巡っていたから、審神者の力で一瞬にして変化する光景は見たことがない。本丸の四季の変化は、初めて見た。
「あ、空」
 ふと小夜が呟く。見上げれば、本丸の空が灰色から鮮やかな青に塗りかわっていくところだった。高く澄んだ青空を見ると、ようやくこの本丸が新たな家なのだという気がしてくる。
 タタタと母屋の方から軽い足音が響いてくる。鍛刀部屋の辺りだ。わずかに嫌な予感を覚えて、国広はそちらに目を向けた。ちょうど鍛刀部屋の扉が開いて、主が飛び出してくるところだった。彼は縁側の柱に手を掛けて、身を乗りだすようにして景色の変化を見守っている。
 国広は主の傍へ歩いていった。
「主、気をつけろ。落ちるぞ」
 しかし、主はそんなことを気にかけている暇はないようだった。目を輝かせて「見た? 見た?」と尋ねてくる。
「あぁ、皆と見ていた」
「すごいよね! 前の本丸のときは、霊力が馴染んでいくところ見損ねたけど、惜しいことしたよ!」
 すごい! と主はもう一度、言った。その瞬間、柱に掛けた彼の手がツルリと滑る。「わっ」と声を上げて、宙に投げ出された主の身体を国広は慌てて受け止めた。あのときと同じように。違うのは――。
「大将っ!?」
「……!」
 慌てて駆けてこようとした小夜と薬研。三日月が「あなや」と目を見開き、鶴丸は「人が空を舞うとは」と大笑いした。庭を見ながら話し込んでいたらしい燭台切と石切丸は、何が起こったのか分からなかったという顔で固まっている。
 やがて、国広が主を縁側に下ろすと、皆が集まってきた。心配する者、面白がる者、驚いている者……。皆に「大丈夫!」と返した主は、国広へ目を向けた。ありがとう、と礼を言う彼の顔は嬉しげだ。
「最初とは大違いだ。よかったな、仲間が増えて」
「うん。国広には、感謝してる。近侍として、皆のこと見ててくれて、助かってるよ」
 主の答えに、国広は小さく首を横に振った。まだまだこの本丸はこれからだ、と言うと、主は笑って頷いた。


***


 半年が経った。
 新しい本丸での日々は、戦の最中ながらもそれなりに穏やかに過ぎていた。ただ、本丸の顔ぶれには変化がない。国広が演練で聞いた話では、刀剣のそろっていない本丸で半年も仲間が増えないのは、変わり種らしい。
 しかし、それも無理のないことだった。
 生来の霊力保持量が少ない主は、偶然、希少な刀剣である三日月宗近を引き継ぎした後、霊力欠乏で寝込んだことがある。本丸の刀剣数は、今の数が主の霊力で維持できる限界なのだ。自然と刀剣あたりの出陣数が増える。国広はそろそろ、練度八十になろうとしていた。
 刀剣が少ないので、国広の主の本丸――〈青空〉本丸はこなせる任務が限られてくる。政府は代わりに、主の得意とする刀装の研究や刀装兵の実戦への応用などの任務を与えてきた。ときには、号持ちと呼ばれる政府の特命審神者たちとの合同任務の場合もあった。
 主は「勉強になる」と喜んでいたが、国広はそうは思えなかった。主はまだ審神者としては駆け出しだ。しかも、霊力保持量が少ない。
 主の性格からして、政府や知り合いから期待されれば、それに応えようとするだろう。そうでなくとも、彼は頑張りすぎるほどに頑張るところがある。主が倒れたところを既に二度、目にしている国広は不安だった。主が頑張りすぎて壊れてしまわないか、と。今はまだゆっくり、審神者として成長していってほしいというのが、国広の願いだった。
 けれど。
 嫌な予感は中(あた)るものだ。
 正月が終わって間もないその日、鍛刀師と彼の近侍の鶴丸国永が本丸を訪れた。鍛刀師は主と親しい。また、この本丸の三日月は過去に鍛刀師の本丸に顕現していて、破壊された同位体の記憶を受けついでいる。そうした事情もあって、鍛刀師たちが遊びに来ることは珍しくなかった。というか、今は恋仲である鍛刀師も彼の近侍もなかなか面倒な性質なので、三日月に相談ごとに来ていることもあるくらいだ。
「嫁いだ娘の里帰りのようなものだよ」
 と、この本丸の石切丸は苦笑していた。確かにそんな感じだ、と国広も思う。
 しかし、今回の訪問は『里帰り』とは異なるようだった。鍛刀師は改まった態度で、主に人払いを頼んだ。彼自身も近侍を別室で待たせての、審神者同士の話し合いである。こんなことは今までになく、国広は少し不安になった。
 国広はどことなく上の空の思いで、雑用などをしながら離れにある執務室の様子を気にしていた。いったいどんな話が行われているのだろう。主にとって、悪い内容でなければよいのだが。
 そう思いながら縁側に出たとき、雪景色の庭の中に紛れてしまいそうな白い姿を見つけた。鍛刀師の近侍の鶴丸国永だ。この〈青空〉本丸にも鶴丸は顕現しているが、同位体であっても間違えることはない。刀剣男士は顕現した審神者の魂を、濃く写すことになるからだ。また、人間が年と共に成長してくように、顕現後の年数によっても変わってくる。国広の仲間の鶴丸は平安の刀剣ながらも、どこか少年らしい快活さを思わせる性格をしていた。彼の気も主の霊力を反映して、ゆったりと空を舞う鳥のような伸びやかさがある。対して、鍛刀師の近侍――国永は、仲間と本丸を失った経験からか、どことなく落ち着きがあった。それに、どこか世の理(ことわり)を捨て去って、どこかへ飛び立ってしまいそうな苛烈さと潔さが感じられる。
 ――それが、彼の主である鍛刀師の霊力を受けた影響なのか……。
 ぼんやりと考えながら、国広は雪の庭を散策しているらしい国永を見ていた。と、視線を察したのか、彼が振り返る。ニィと笑みを浮かべた国永は、雪を踏んで近づいてきた。
「自らの主の傍にいられなくて、退屈か? それとも、あの主どのが心配か? 山姥切国広よ」
「心配など、していない。あんたの主――“六条の君”が、うちの主に害を為したりしないということは、分かっている。主は……“六条の君”を兄のように慕っているしな」
「あぁ。うちのも君のとこの主をずいぶんと気にかけているな。ときどき、俺は少し妬ましく思うこともあるが……君はそうは感じないのか?」
 妬ましい、と口にしながらも、国永の表情は柔らかい。冗談――というか、からかって楽しもうとしているらしい。暇つぶしの玩具にされるのは真っ平だ。国広は首を横に振った。
「嫉妬はしたことがないな」
「その割には、俺やうちの主に対して素っ気ないが」
「それはあんた方がうちの主の前でいちゃついて、教育に悪いからだっ!」
「教育ねぇ……」
「ともかく、主には、人間の友人が必要だ。……俺たち刀剣男士は人の身で顕現しているが、人ではない。俺では主のことを理解できていない部分も、おそらくたくさんあるだろう。お役目のことで無理もしているだろうし。“六条の君”には主の相談相手になってもらって、感謝している」
 国広が言うと、国永は少し困った顔をした。それじゃぁ、今回の話を持ってきたうちの主は君に怒られるかもしれんなぁ、なんて呟く。
 どういうことだ?
 不安になった国広は、思わず執務室へ向かおうとした。そのときだ。縁側ごしに執務室の戸が開いて、主が飛び出してくるのが見えた。嬉しげな表情をしている。彼は縁側ごしにこちらの姿を見つけると、「おーい」と元気に手を振った。
「聞いて、国広! 今、正式に政府から号をもらって、特命を受けて働く気はないかって打診もらっちゃったぁ! 俺を号持ち審神者に、だって! びっくりだよねぇ!」
 のんきな主の言葉に、国広はその場でよろめきそうになった。
 はしゃぐ主に待ったをかけて、国広は執務室へ飛んでいった。まだそこにいた鍛刀師に
「話がある」と言って連れ出す。主と国永が不思議そうにしていたけれど、構ってはいられなかった。




2.審神者


 国広と先輩が出ていってしまって、俺は廊下に取り残された。庭にいた先輩の近侍さんが、雪を踏んで近づいてくる。
「それで、君、号持ち審神者の話を受けるのかい?」
「はい」俺は迷わず頷いた。
「それは……君の国広は、反対するだろうなぁ」
「かもしれません。でも、誰かが俺にできるお役目だと判断したから、話が来たんでしょう? 俺は、その期待に応えたいんです」
「君には君のペースがあるんだ。無理に他人の意図に合わせてやる必要はないんだぞ?」
 号持ち審神者は、別に名誉な役目じゃない。場合によっては敵襲の前面に立ったり、堕落した本丸を目の当たりにしなければならなかったり――キツいこともある仕事だ。何が善で何が悪か、分からなくなることもあるかもしれない。精神を病んで審神者業ごと辞めた者もいるほどだ。それでもいいのか? 
 近侍さんが諭すように尋ねる。それは先ほど、先輩からも聞かされた話だった。それでも、俺は「覚悟をします」と答えた。
「俺は、審神者として、もっと認められたいんです。霊力が少ないとか、刀剣がそろってないと笑われないように、もっと――」
「君のところの刀たちは、他の評価がどうであれ気にしないさ。そんなことのために、無理をする必要はない」
 近侍さんの言葉に、俺は頭を振った。
「それでも、俺は――」





3.山姥切国広


 母屋の空き部屋に鍛刀師を招き入れた国広は、どういうことだと彼に詰めよった。
「主はまだ駆け出しだ。このところ政府からの特別任務は多かったが……本来、まだそこまで手が回るような状況じゃない。なのに、どうして主を号持ち審神者になんて話が来るんだ」
「それは……」鍛刀師は困った顔で視線を泳がせた。しばらくの間の後に、ぽつりと呟く。「話を聞いたとき反対したんだよ、山姥切国広どの」
「だったら、なぜ」
「聞き入れてもらえなかった。号持ち審神者の話を受けるかどうかは、本人に選択権がある。だから、せめて打診をしてほしいと政府に言われたよ」
 鍛刀師の話によれば、政府は現在、歴史修正主義者に対して攻勢に出るために、『サーバー』を増設して審神者を増員しているのだという。新人審神者が多くなれば、その分、さまざまな問題も発生する。その上、号持ち審神者の多くはベテランであり、諸事情により欠員が出ることもあるのだという。
「今回は、急に号持ち審神者に欠員が出たんだ。それで、急遽、君の主に白羽の矢が立ったんだ。彼の刀装づくりの精度は、号持ち審神者の条件である“特殊能力を持つ”という項目を満たしているから」
「……」
 国広は唇を噛む。胸の内がもやもやとしているが、何と言葉に表していいのか分からない。と、そのときだった。
「本当に申し訳ない」と鍛刀師が頭を下げる。
 突然の行動に、国広は驚いて目を丸くした。
「なぜ謝る? あんたの咎ではないだろうに」
「君の主のことで、不安にさせてしまったから」
「不安? ……あぁ、これはそういう感情なのか。不安……そうだな。不安だ」国広は自分の感情を確かめるように呟いた。それから、鍛刀師へ視線を向ける。「あんたを責めるつもりはない。あんたが主を害さないことは、分かる。ただ……俺は怖いんだ。主が主の持てる力以上の役目を与えられて、押しつぶされてしまったら、どうしようかと」
 言いながら、そうだと国広は思った。主はこのところ、霊力が少なくて刀剣が増やせないことを気にしている節があった。かつて、まだ主と己が本丸に二人きりだったときに、他の評価はどうあれ自分たちの思うままに戦っていくと誓い合ったのに。ときおり号持ち審神者たちに混じるようになって、欲が出たのかもしれない。国広はそのことが悲しかった。
 もしも、主が功績を焦って無理をして、壊れてしまったら――そう思うと、不安になる。ベテランや特殊技能持ちなどから選抜される号持ち審神者に欠員が出るということは、彼らでさえ何らかの事情で審神者を辞めることがあるということなのだから。
 と、そこまで考えて国広は違和感を覚えた。国広が今まで会ったことのある号持ち審神者は、多くが異空間である本丸に長く過ごした影響で、老化がほとんど停止している。さらに、人の理とは異なる存在である刀剣男士と情けを通じた者――鍛刀師もそのひとりだが――は、確実に時間が止まるのが常。普通の人間のように老いたから引退、ということは考えにくい。
「……待ってくれ。号持ち審神者の欠員っていうのは、どういうことだ?」
 国広の質問に鍛刀師は瞬きをした。妙なことを聞かれた、という表情だ。
「欠員は欠員だよ」
「どういう理由で?」
「それは……心を壊したりした場合もあるけど、今回は――」

 魂の、現世からの消滅。

 鍛刀師は冷静にそう告げる。国広は一瞬、自分が何を言われたのか分からなかった。
「どういうことだ? 魂が消滅する? そんなことがあるのか?」
「あぁ……。国広どのは顕現してまだ二年ほどだから、知らないのか。あなた方、付喪神と違って、人間はこの変転する世の摂理に属する存在。たとえ刀剣男士と情けを通じて老化が止まっていたって、魂が属する場所は変わらない」
 鍛刀師が言うには、人間の肉体はどれほど健康であろうとも生きていられる年数に限界があるのだという。その年数はおよそ一二〇年。
「これは人間の肉体の細胞分裂の回数で決まっているからだ。けど、老化の止まった審神者でさえ、実年齢で一二〇歳くらいには魂が消滅すると言われている。老化が止まっている以上、細胞分裂は無関係なのに。だからこそ、通常の人間の肉体の限界年数が魂の存在していられる限界年数と同じなのではないか、と考えられている。魂が保たないから、老化が停止していても滅びるのだと」
「……それは事実なのか?」
「事実というか、審神者制度が始まって、今で八〇年ほど。私の世代が第一期だ。私たちの世代のうち、今まで審神者として残っている者が皆で、魂の耐久年数について実験しているようなものだよ」
 今回、欠員となった審神者は生まれ年齢から考えると百十歳過ぎだった、と鍛刀師は言った。
「じゃあ、その審神者は、今は……」
「彼は伴侶である刀剣男士と共に、現世から消滅することを選んだよ」
「っ……」
 国広は呆然として、鍛刀師を見つめた。彼は静かな表情をしている。しかし、今、語った審神者の末路は、鍛刀師自身の未来でもあるはずだ。
 なぜ、そんな風に平然としていられるのか。
「魂の消滅が起こりえるなら、あんただって他人事じゃないはずだが」
「そうだね。私もあと数十年で、同じようになるだろうと思う」
「恐ろしくはないのか?」
「どうして? 人間は老いて、死ぬのが宿命だよ。私は刀剣男士たちに黄泉から引き戻してもらったことがあるけど……それでも、死の宿命には変わりない。皆が等しく通る道をおそれても、仕方ない」
 そうだろう? と鍛刀師は微笑する。人間は恐ろしい、と国広は初めて思った。
 付喪神には死がない。本霊が破壊されない限り、己と同じ分霊はいくらでも生み出すことができる。己は刀剣男士にとっての死である刀剣破壊を恐れないが、それは己の根本である本霊が残ると知っているからだ。
 人間はそうではない。死によって、個が蓄積した記憶も経験も人格も、すべては失われてしまう。子を為せば血は残るだろう。だが、それはまったく別の魂を持つ別の存在だ。自分自身ではない。それでも、人間はいずれ己が死ぬものと理解しながら生きている。
 いつか消えることを承知で今を生きるのは、いったいどんな心境なのか。国広は想像だにできなかった。人間と己たち付喪神とが根本的に違う存在なのだと、改めて思い知らされる。
 主も――そう主もまた、いつか死ぬ運命の人間なのだ。そのことを思い出して、国広は心臓が掴まれるような気分になった。主が無茶をしてしまったとして、その結果は審神者引退で済むとは限らない。下手をすれば、黄泉に下って永遠に手がとどかなくなってしまうかもしれない。
 知っていたはずなのに、ようやくそのことが理解できた気がした。




4.審神者


 国広が急に冷たくなった。俺が号持ち審神者の話を受けたいと言ったときからだ。
「くにひろー。機嫌直して、国広。俺の分のおやつ、あげるから」
「機嫌を直す? 俺は別に不機嫌なんかじゃない。……それと、おやつは主が食べろ。ここで食っておかないと、また間食して飯が食えなくなるぞ」
 ツンと顔を背けながら、国広が言う。これが不機嫌じゃないなら、どういう状態が不機嫌なのか。それでも、俺が差し出した燭台切の特製ドーナツをこちらに返してくれるだけ、優しい? のだろうか。まぁ、国広はおやつを受け取らないだろうとは、予想していたけれど。
 俺は返却されたドーナツにかじりつきながら、話を続けた。
「じゃ、何でここ数日、目を合わせてくれないんだよ?」
「俺はもともと、他人と目を合わせない」
「いや、まぁ、多少そういうところはあるけど……。でも、ちょっとは目を合わせてくれるだろ。俺、国広の目が好きだから、あんまり長い間、見ないと欠乏症になっちゃうんだよね」
 欠乏症は言い過ぎだけど、これは八割方、本当のこと。
 刀剣男士は皆、美しい。目も宝石みたいだ。三日月なんて、角度によっては金の月が目の中に見える。けど、俺がいちばん好きなのは国広の目だった。カラリと晴れて、どこまでも高い蒼天の青。どんなにしんどいときだって、国広の目を見たら快晴の日の爽快な気持ちを思い出して頑張ることができる。そんな風にしっかり見てるんだから、俺が国広が最近、伏し目がちだと言ったらそれは事実だ。本人が認めなかったとしても。
 そう力説すると、国広はいっそう俯いてしまった。
「は、恥ずかしい奴だな、主は……」
「俺は恥ずかしくないもん。綺麗なものを綺麗って言ってるだけだもん」
「だから、綺麗とかそういうことは……」
 国広はもごもごと何か言っていた。けれど、やっぱりどこかよそよそしいのは変わりない。いつものように、国広を近侍に仕事をしながら俺は「困ったなぁ」と呟いた。
 皿に入っていたドーナツは、すでになくなっている。
「困ったとは、何がだ? ドーナツが足りないなら、俺のを半分……」
「や、そうじゃなくて。先輩から、メールが来てるんだ。今度、政府からの依頼の仕事についておいでって」
「政府からの依頼の仕事?」
「訳ありで廃棄された本丸の、解体」
 俺の答えに、国広は眉をひそめた。何でそんな危険そうな仕事を言ってくるんだ、と呟く。その表情が、母の帰りが遅くなると聞いたときのうちの父に似ていて、何だかおかしい。
 うっかり笑いそうになるのを堪えて、俺は言葉を続けた。
「でさ、先輩が護衛を一振、連れておいでって言うんだけど……国広が怒ってるなら、他の誰かにしようかなって。守り刀というなら、薬研や小夜がいる。御神刀枠なら石切丸がいいかもだし――」
「っ……! 俺が行く!」
「でも、俺が政府からの特命を受けるようになるの、国広は反対なんだろ?」
「それは反対だ。……けど、俺は主の初期刀で近侍だから、護衛にするなら俺だろう。山姥は斬ってないから、霊剣とは言えないが……それでも」
 懸命にそう言う国広の言葉に、俺は思わず笑った。だって、誰よりも国広について来てほしかったんだから、行くと言ってもらえてこんなに嬉しいことはない。
 国広の手を取って、俺は「ありがとう」と告げる。国広は、恥ずかしいのかちょっと顔を赤くして、俯いてしまった。


***


 夜半、国広が廊下を歩いていると、大広間に行灯の明かりが見えた。中に入ってみれば、鶴丸と三日月が片隅で酒を飲んでいるところだった。その傍らでは、燭台切と加州が畳の上に転がっている。……どうやら、酔いつぶれているらしい。
「――酒盛りか?」
 国広の言葉に鶴丸が笑みを浮かべ、頷いた。鶴丸は、主の初太刀だ。何気に付き合いが長い。彼はけっこう飲める性質なのだが、三日月たちが来るまで酒を飲む相手がいなかった。個体差なのだろうが、この本丸の燭台切は酒に強くない。また、国広や加州、薬研、小夜は、酒の味より甘味を好むので、鶴丸の酒の相手になるほどではなかった。
 そこそこ――否、かなり飲める三日月や石切丸が来てから、鶴丸はよく彼らと共に飲んでいる。それこそ、これまでの分を取り戻そうとするように。
 しかし、珍しいことに、石切丸がいなかった。どうしたのかと問えば、小夜と薬研に寝る前に絵本を読んでほしいと頼まれて、彼らの部屋にいるのだという。小夜も薬研も子どもの姿に反して、実年齢は高い。しかし、顕現した肉体に嗜好が引きずられる部分があるのか、絵本などを好んでいた。
 さらに言えば、小夜も薬研も読み書きは十二分にできる。小夜などは、細川家にいたことがあるせいか、和歌にも堪能なくらいだ。けれど、この本丸には彼らの兄がいないせいか穏和な石切丸に懐いていて、彼に読み聞かせをねだることが多かった。三日月も穏やかで大らかといえばそうなのだが、こちらは不器用なところがあって、小夜も薬研も世話をしなければという意識が先に立つらしい。二人は三日月には“懐く”というより、“世話を焼く”という方が近い接し方をしていた。
「国広、少し飲んでいくか?」
 鶴丸が酒を勧めてくる。少し考えてから、国広はそれを受け取って、潰されている燭台切と加州の間に腰を下ろした。差し出された杯を受け取って、口を付ける。清酒の甘みが舌に広がった。これはけっこういい酒だな、とぼんやりと感想を持つ。間もなく、ほのかな酔いが広がってほろりと気分が解けだした。
 その表情を読みとってか、鶴丸が問うてくる。
「近頃、主と少しギクシャクしているようだな?」
「……ギクシャクというのか。俺が、ひとりで主の希望に反対しているだけだ」
「あぁ、まぁ、そうだな」クスクスと三日月が笑う。「主は、あれで、なかなかちゃっかりしておるな。国広が不機嫌でも、屈託なく自身の“ぺーす”に巻き込んでしまう。憎めぬ童よの」
「あんた方は笑いごとかもしれないが、乗せられるこっちの身にもなってくれ。主が号持ち審神者に加わるのに反対していたのに、気が付いたら次の任務についていくことになっていた」
「そいつは別に驚きじゃないな。君は主に対して、滅法、過保護だ。君自身の意見はどうあれ、任務とあらば付いていこうとするのは目に見えている」
 鶴丸が肩をすくめた。三日月もうんうんと頷いている。
「おそらく、主もそれを見越していたのであろうな。しかし、そなたを乗せてまで、任務について来てほしいというのが、主のかわいいところではないか」
「違いないな!」
 平安の太刀二振が納得しているが、国広はまったくそう思えない。思わず、首を傾げた。
「かわいい……? そうか?」
「かわいいさ。もし、主が“六条の君”のようにひそかに気性の烈しい男だったとしたら、そなたを説得せずにひとりで任務に赴いたであろうよ」
「違いない。何しろ、あそこの俺もなかなかに苦労しているようだからな!」鶴丸は自分の同位体のことを面白そうに評してから、ふと真顔になった。行灯の明かりを映して、いつもより赤みがかった琥珀のような金の瞳が、国広をとらえる。「それにしても、国広よ。主の望みを、認めてやったらどうだ? あれも男子だ。今は主の手に余るかもしれんが、それでも、より大きな役目を果たしたいと望むのは自然なことだろう」
「それは……そうかもしれない。だが、主はまだ審神者として未熟だ。せめて足場を固めてからでないと、転倒することになる」
「あぁ、そなたの言葉には理があるな」
 三日月はそう言って、手元の杯に視線を落とした。杯の中に満ちた酒の水面に、何かを見ているような眼差しである。やがて、顔を上げた彼は「けれど」と言葉を続けた。
「機というものは、かならずしもこちらの準備ができたときに訪れるものでなはないさ。……とりわけ、人の子に与えられた時は短い。主が今為さねばならぬと判断したことならば、させてやってもよいのでは?」
「もしも主が転倒したなら、俺たちが助ければいい。俺たちは主の刀なんだから。主が転倒の痛みを経験するのすら、我慢ならない言うなら――それは、もう、主従とは言えないぜ? 己の女を囲う男の心情だ。しかも、狭量な男の、な」
「っ……」
 三日月と鶴丸に言われて、思わず肩が揺れた。手の中の杯が動揺を映すように、ピシャリと水音を上げる。国広はその杯を口に運んで、一気にあおった。
 主を、己の女のように思ったことは、一度もない。誓って、ない。けれど、確かに以前と今とでは、己の主に対する心情は異なっているようだった。一年前、審神者の仕事がうまくいかずに嘆く主を慰めたとき、国広は主に『思うようにやってみろ』と告げた。失敗しても、皆と同じでなくてもいい、己はぜったいに付いていく、と。
 けれど、今の己はそのときとは正反対のことを考えている。なぜあのときのように、ただ主を信じてついて行くと言ってやれないのだろう。主を失うことに怯えて、主に傷ついてほしくなくて、結局、彼から危険なものすべてを取り上げられたらと思っている。いつから己は、こんな風になってしまったのだろう。
 分からない。
「……あんた方の言葉を聞いて、分かった。俺は、どうも妙なようだ。――主の任務が無事に終わったら、俺は刀解された方がいいかもしれない」
 国広がそう呟いた瞬間、鶴丸が口に含んでいた酒を噴き出した。しかも、それを拭わずに腹をかかえて爆笑しだす。
「若い! 若いな、君は! あはははは!」
「な、何がおかしい!?」
「何がって、ははははは!! これが笑わずにおれようか!!」
 鶴丸の爆笑に、燭台切がのそりと起きあがった。わけが分からないという顔で、辺りを見回している。加州も眠ったまま顔をしかめていて、今にも起きそうだ。
「これ、お鶴、静かにせい」三日月はおっとりと、いちおうはたしなめてから、国広へ目を向けた。「まぁ、早まるな、若人よ。我ら付喪神は人と異なる理を生きる存在なれど、こうも人の近くにおれば引きずられてしまう。人が変化するように、そなたも変化しているということだ」
「はぁ……」
 いったいどういう意味なのか。今ひとつ理解できないでいる国広に、三日月は「まぁ、いずれ時が解決するだろうさ」と気楽に締めくくった。




2015/10/12

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