明日、晴れたら、君と4


性描写があります。


1.審神者


 俺が正式に号持ち審神者に採用されてから、二年が過ぎた。国広と恋仲になったのも、いわくつきの本丸の任務後のことだから、二年が過ぎたことになる。本丸の仲間たちは、皆、俺たちのことを祝福して受け入れてくれた。そのときから今まで、俺たちは戦の最中ながらも幸せに過ごしてきた。
 ただ、恋仲になるにあたって、国広と決めたことがひとつある。それは、セックスをしないこと。刀剣男士と愛しあって性交をすれば、当事者同士の意向がどうであれ、人間は現世の理から外れてしまう。時間が止まって、老化しなくなる。それは、現世の家族や友人たちがこの世を去っていくのを見送りつづけて、最後には現世との繋がりを失うということだ。国広は俺にそういう別離を経験させたくない、と言った。俺の方も、自分の時が止まったまま、縁のある人々を見送りつづけるのは寂しい。互いの意見が一致して、俺は人間のままでいることになった。
 その話を聞いて、先輩は「君の望むとおりに」と答えた。先輩はもうずっと昔に刀剣男士と恋仲になって、時間が止まっている。
「俺、おじいちゃんになっても新人審神者の前で先輩のこと、先輩って呼びますから。それで、皆に『あれ?』って思わせてやるんです!」
「だめだよ、年長者になったら、それらしくしないと」
「だってー。きっとその頃になったら、ずっとベテランらしい態度でいないといけなくて、飽きちゃいますよ。せめて、ちょっとはイタズラしたいじゃないですか!」
「そう?」
 ちょっと首を傾げたものの、先輩は他愛もない俺の思いつきを受け入れたようだった。「なら、楽しみにしておくよ」と微笑してみせる。眩しいものに憧れるような、見守るような、慈愛に満ちた笑み。国広と恋仲になった今だから分かるけれど、先輩は出会った頃よりもどこか、柔らかくなった気がする。前だってけっして人当たりの悪い人ではなかったものの、やはりまとう空気が違うのだ。たぶん、いつも彼の隣りにいる近侍さんのせいなのだろう。
 幸せなのは、いいことだと思う。自分が幸せだからこそ、余計に。
 そりゃあ、俺だって健康な男子なので、好きな人と深く触れ合いたい欲求がないわけではない。ただ、それは自分自身で鎮めることができたし、それで構わなかった。他の何かや誰かが欲しくなることはなかった。成人男子として、それは少し奇妙なことなのかもしれない。けれど、国広と俺の関係は俺たち二人だけのものだ。世間がどうであろうと、俺たちが満足しているのだから、別にいいだろう。
 幸せだった。
 とても、とても、幸せだった。


 あるとき、俺は熱っぽさを感じた。咳も出ない、身体が少しだるいかなという程度の症状。ちょうど冬の始めたということもあって、俺はそれを風邪の引きはじめなのだろうと思った。たいしたことがないので、念のため風邪薬を飲んでおく。
 その直後にちょうど政府の調査班によって、大阪城の地下に開いた時空の裂け目が確認された。大阪城の地下の時空は常に変化し、訪れた者それぞれにわずかずすズレた時空間を見せているという。厄介なのはどの時空間に大阪城の地下時空の歪みの元凶があるか、分からない点である。政府は審神者たちに大阪城の地下時空の攻略を命じた。
 大阪城の地下は、今までに発見された戦場の中でも最も不安定な時空間だった。政府術者の術を使っても、そこに通じる時空のゲートを固定しておくことが難しいのである。ゲートを開けてひと月もすれば、塞がってしまうだろうということだった。ゲートが閉じる前に時空の歪みの原因を発見できなければ、そこにいる歴史修正主義者は野放しになる。政府術者がいくら努力しても、仮に次に時空のゲートを開く術を完成させるには、また半年を要する。それまでに、どれほどの歴史改変が行われるかと考えれば、チャンスは一度、今しかない。
 どの本丸も一斉に大阪城の地下攻略に向かったため、審神者たちは突然、忙しくなった。政府の命である大阪城調査の他に、これまでの戦場の巡回も行わなくてはいけないのだから。うちの本丸なんて、俺の霊力保持量が少ないせいで少人数でやっているのだから、なおのことだ。忙しさにかまけて、俺は自分の不調のことをすっかり忘れていた。いや、自分は大丈夫だと過信していたのかもしれない。
 生きているうちには、雨の日だって嵐だって来ることを、たぶん、幸せな俺は忘れていた。ずっとずっと晴れが続くのだと、無邪気に思いこんでいた。
 けれど。
 審神者たちが奮起したために、大阪城の攻略は無事に期限内に終わった。地下百階に到達した隊は無数にあったが、そのうちのひとつが時空間の歪みの元凶と遭遇して、倒すことに成功したのだという。俺の本丸の部隊も地下百階までは至ったけれど、首領らしき敵を倒しても何も起きなかった。外れだったのだろう。本丸の皆が頑張ってくれたのにと思うと、少し残念な気もする。
 そう言うと、石切丸は苦笑してみせた。
「まぁまぁ、主。誰が目的を果たしたかは、今は重要ではないよ。目的を果たしたこと、それ自体が大切なのさ」
「そーだけど。そーなんだけどさ! せっかく皆ががんばってくれたのに!」
「僕らは主が成果を認めてくれるだけで、十分なんだよ」とおやつを持って来てくれた燭台切が笑う。「でも、主が心苦しいって言うなら、大阪城攻略の打ち上げでもしようか?」
「あ! それ、いいね。どうせなら、先輩たちも招待して、ぱーっと……」
 と、俺は宙に手を差しのべて、横に大きく振った。『ぱーっと』のジェスチャーである。しかし、手を振り終えるか終えないかというとき、グラリと景色が揺らいだ。
 地震? いや、違う。揺らいでいるのは俺自身だ。なぜか身体に力が入らなくて、なす術もなくその場にくずおれる。やけに遠くで石切丸と燭台切の声がしていた。けれど、それに答えることもできないまま、意識がぼやけていく。
 目が覚めたとき、部屋には薬研と国広がいた。薬研はその本性が貫いたものの影響なのか、医療に興味を持っている。倒れた俺のことを診察してくれたのは、彼のようだった。
「ありがとう。非番だったのに、ごめんね」
「なに、大将。これくらいたいしたことじゃねぇよ。……それより、今回、ぶっ倒れるまでに何か身体の不調はなかったか?」
「それなら、大阪城攻略が始まる前に少し風邪気味だったくらいだけど……」
 そう呟くと、薬研の傍にいた国広が顔をしかめた。
「大阪城攻略だと? 一ヶ月も前のことじゃないか。どうして黙っていた?」
「たいしたことがなかったんだよ。忙しかったし……」
「身体は大事にしてくれ。主にもしものことがあったら、本丸の全員が悲しむのだから」
 国広は真剣な顔で言った。薬研もうんうんと頷いている。
 結局、俺は安静にしていることになった。それでも、風邪なんてすぐに治るだろうと軽く見ていた――けれど。三日経っても、六日経っても、俺の熱っぽさの症状は消えなかった。体力も消耗していて、身体を起こすのが少しつらい。いったいどういうことなのか。いよいよ何か妙だということになって、俺は審神者専用の病院へ向かった。
 審神者専用の病院に行くのは、初めてのことだった。基本的に、俺は風邪もほとんど引かないからだ。それに現代の医薬品は発達していて、少しの不調ならたちまち治ってしまう、という事情もある。病院は刀剣男士の立ち入りが禁じられていたので、俺は刀の姿に戻った国広を受付に預けてから、待合室へ進んだ。
 待合室は、老若男女の審神者でにぎわっていた。自分が健康なのであまり考えたことはなかったが、本丸で病気や大きな怪我をする人はいるらしい。中には審神者の子どもなのか、審神者として徴集されたにしては幼すぎる子もいた。子どものひとりがキョロキョロして、ふとこちらを見たとき、俺はハッと息を呑んだ。その子の瞳は青で――おまけに、瞳の中に金色の細い月が浮かんでいたのだ。
 あれは刀剣男士の――というか、三日月宗近の子どもだろう。三歳くらいだろうか。母親らしき審神者の後ろをチョコチョコとついていく姿が、あどけなくて可愛らしい。二人はソファに座る俺の前を通りすぎていく。と、そのとき、子どもの腕に結びつけられていた透明な玉を通したリボンが解けて、スルリと床に落ちた。どうやら、何か術のかかった玉らしい。玉を拾い上げて、落とし主である少年に声をかけようとした。
 その瞬間。強烈な悪寒と吐き気が襲ってくる。こらえきれずに、俺はその場で膝をついた。ザワザワと遠くでいろんな人の声が聞こえるけれど、何を言っているのか分からない。意識が遠くなっていく――。
 次に目覚めたとき、俺は病院のベッドに寝かされていた。しばらくすると看護士さんが入ってきて、あと三十分で医師が来ると告げる。その予告どおり三十分でやって来た医師が俺に説明したのは、信じられないような事実だった。
「――あなたは、付喪神の気に対するアレルギーを発症しています。先ほど倒れたのは、刀剣男士と審神者の子どもの気を抑制する呪具が外れて、彼の気を受けてしまったせいなのです」
「アレルギー……? そんなアレルギーがあるんですか?」
「一般には知られていないことですが。付喪神――刀剣男士は、人の姿を取ってはいても、人ならざる存在です。我々、人間とは属する世界、属する理が異なる。対して、人間は万物流転する現世に属するもの。個人差はありますが、審神者として日々、付喪神たる刀剣男士と接するうちに、その気に対するアレルギーを発症する場合があるのです」
「でも、俺は今まで何ともありませんでした。うちの刀剣男士との仲だって、良好だし……」
「発症は突然、やって来ます。それに、刀剣男士との関係が友好的かどうかは、関係ないのです」
 アレルギー反応の多くは、毒性のないものに対する免疫機構の過剰反応が原因だ。医師が言うには付喪神の気――神気も同じことが言えるという。神気はそれ自体では、人に害を為すことはない。しかし、人間にとって異質なものではある。現世の理に属する人間が、審神者として毎日、ずっと神気の近くにいつづけるうちに、人間に備わる防御機構が神気に過剰反応をすることもあり得るのだという。
「特に、あなたの魂は木の性が強い。五行陰陽のうち、木と土の性は他よりも現世との繋がりが深いのです。よって、神気を異物として認識しやすくなる」
「俺の他にも、神気アレルギーの人はいるんですか?」
「えぇ。やはり木性、土性の強い元審神者が多いです」
 医師は深刻な顔で頷いた。彼によれば、審神者制度開始以来、二十年ほどは神職の血筋や一般人でも霊力の多い者を厳選して、審神者にしていたという。それは元の霊力保持量の問題もあるが、もう一方で付喪神の気への耐性ということも考慮されていたのだとか。神職の血筋は先祖代々、多かれ少なかれ神の傍で過ごす機会が多い。もともと神気との馴染みがいいのだという。
 しかし、一般人はそうではない。現在のように、一般人でも少し霊力が多い程度で審神者になる者は、神気へ馴染みにくい場合もある。そうした人々が突然、神気アレルギーを発症する場合はそれなりにあるようだった。
「このアレルギーって治るんですか?」
 俺の問いに医師は首を横に振った。
「花粉症や金属アレルギーと同様に、神気アレルギーも体質ですから完治はしません。それどころか、神気に触れつづけていると、症状が重くなってショック死する可能性が高いのです」
「っ……死ぬってそんな……」
「神気アレルギーを発症した場合、取れる対処方は一つしかありません。審神者を辞して、神気の発生源である刀剣男士から離れることです」
 ――審神者を辞めなくてはならない。俺が……?
 医師の言葉を聞いた瞬間、俺は目の前が真っ暗になった気がした。だって、今まで霊力が少ないながらも、自分なりに審神者として力を尽くしてきたのだ。もっともっと、戦力になりたくて号持ち審神者の話も受けた。充実した日々だった。こんな霊力の少ない不完全な主である俺を、審神者でいさせてくれるうちの本丸の刀剣たちには、感謝している。それに、近侍として恋人として、俺を受け入れて、支えてくれている国広。彼と共になら、審神者として力の限り役目を果たしていける気がしていた。審神者を辞めるということは、今は俺のすべてだと言ってもいい、それらのものをすべて失うということだ。
 俺は顔を両手で覆った。自分の大切なものは、ぜんぶ、持っていると信じていた。決して失うことはないと。……けれど、それらはすべて、この手からこぼれ落ちていってしまうらしい。
 医師は規定により、俺の担当者にこのことを連絡すると言っていた。審神者辞職の前にしばらく身辺整理をする必要があるから、と本丸に戻るために呪具も渡してくれた。透明な玉を連ねたブレスレットだった。神気の影響を抑える効果があるという。けれど、呪具があっても長期間、神気に触れつづければ、いつアレルギーによるショック症状が出てもおかしくはない。身辺整理の期間は最長でも一週間しかもらえない、ということだった。
 少し休んでから、俺は病院を後にした。受付で刀姿の国広を受け取って、顕現する。国広は俺の顔を見るなり、驚いた表情になった。
「どうした、主? ひどい顔をしている」
「っ……」
 指摘されると、もう、堪えていられなかった。俺は国広を引っぱって病院内の庭の人気のないあたりへ向かった。二人きりになったところで、彼に抱きつく。その姿勢のまま、簡単に先ほど医師に言われた神気アレルギーのことを話した。審神者を辞めさせられるだろう、ということも。
 本当なら、隠して何もなかったことにしてしまいたい。けれど、そうするには、俺が審神者でいられる残り時間は短すぎた。あと一週間で、皆と離ればなれになってしまう。
 すべてを聞いた国広は、ギュッと痛いほどの力で俺を抱きしめた。それから、身を離して、抑えた声音で尋ねる。
「本丸の皆には、いつ話す?」
「今夜。遠征組もそろうのは、夕飯のときだから……その後に」
「分かった」
 冷静な態度で、国広が頷く。俺の好きな蒼天のような瞳の奥、荒れ狂う感情がかいま見えた。それでも、彼はそれを表に出さない。間違いなく、俺のために。けれど、俺は国広の心遣いを受け取る余裕はなかった。
「……ねぇ、国広。俺、審神者を辞めたくない」
「分かってる。だが、主の生命には代えられない」
「俺、皆と……国広と、離れたくないよ」
「馬鹿なことを言うな、主」
「でも……!」俺は国広に縋りついて、彼の顔を見上げた。「……俺、どうなってもいい。ショック症状で死ぬなら、それでもいい! だから、最期まで皆と国広といたい! 最期まで審神者でいたいんだ……!」
「主っ!」
 国広は吼えるように叫んだ。俺の単衣の胸倉をつかんで見据える。殺気立った目をしていた。青々とした空のような目は、どこまでも澄んでいて、けれど凶暴なほどに底が知れなくて――到底、手の届かないものなのだと感じさせられる。国広の目を怖いと思ったのは、初めてのことだった。
「馬鹿を言うな! 審神者を辞めれば、主の生命は助かるんだ。それなのに、無駄に死ぬつもりか!? そんなこと、俺は……うちの本丸の刀剣は皆、ぜったいに許さない!」
「だけど……」
「甘えるな! 他に生きる道があるのに、死ぬと分かっていて戦線に加わるのは、戦をする者として失格だ。審神者としての誇りがあるなら、主は辞職すべきだ」
 国広に言われて、ザッと頭から血の気が引いた気がした。戦を知る刀剣男士たちの価値観は、平和な時代に生まれた俺たちには理解しにくいこともある。けれど、ここ四年ほど審神者として本丸を率いてきて、分かったこともあった。
 彼の言うとおりだ。皆のそばにいたいというのは、俺のわがままに過ぎない。そうして引き時を間違えることで、歴史修正主義者との戦いの足手まといになるわけにはいかない――。そう思うと苦しくて、俺はガクリとうなだれた。
 国広がそっと俺から手を離す。その手が慈しむように、俺の頭を撫でた。
「すまない、主。厳しい言い方をした」
「ううん……。本当のことだ」
「すまない。……だが、戦のことはともかくとして、俺は主に生きてもらいたい。以前、主のご両親に会わせてもらったが――あの優しい人たちを悲しませてはいけない。ご両親にもらった生命を大事にして、主には人としての生をまっとうしてほしいんだ」
 その言葉に、俺は顔を上げることができなかった。そうだ、と思う。両親や友達――人として俺に関わってくれる人々を、彼らの間の暖かい場所を、俺は捨てては行けない。だからこそ、国広と俺は肌を合わせることを避けつづけてきたのだから。
 けれど、心がバラバラに裂けてしまいそうだった。
 俺は両手で顔を覆って、ひとしきり子どものように泣いた。その間、国広は俺を守るように抱きしめていてくれた。






2.山姥切国広




 その夜。夕飯を済ませた後、主は皆に自分が神気アレルギーを発症して、審神者を辞さなくてはならないことを告げた。皆、驚いていたが、騒ぎはしない。誰よりもショックを受けて、悲しんでいるのが主だと分かっているからだ。
 涙声になりながらも、「あと一週間だけど、よろしく」と微笑してみせた主は、足早に大広間を出ていった。おそらく、部屋で泣くのだろう。国広は主を追いかけたかったが、寸でのところでそれを思いとどまった。今、追いかけて主を慰めたとしても、あと一週間もすれば己は主から離れなくてはならないのだ。下手に傍にいて、互いに離れがたくなるのはよくない。
 病院の庭では主に審神者を辞めろと正論を吐いてみせたものの、国広とて主との別離を受け入れているわけではなかった。主に言ったのは、綺麗ごとだ。太陽のような主にはそうあってほしいという、国広自身の身勝手な願いだ。
 わがままを言っても許されるなら、己は絶叫していただろう。
 嫌だ。主と離れたくない。あれは俺にとって唯一無二の主君で、最愛の人なのに、何の権利があって奪っていくんだ。――けれど、そんなことを言ったって、仮に己のわがままが通ったとしたって、主が幸せにならないことは分かっている。だから、病院の庭では本音はぜんぶ飲み込んで、正論ばかり口にしたのだ。
 主が去った後の大広間は、重々しい空気が垂れ込めていた。皆、告げられたばかりの辛すぎる事実を飲み込もうとしているのだろうけれど……。
「……信じられない」加州がポツリと呟いた。「主が審神者を辞めるなんて……」
「俺が悪いんだ。多少、医療の心得があったのに、大将の変調に気づけなかったから――」珍しく薬研がうなだれる。
「儀式や術で、あれるぎーを、治す手だてはないの……?」
 小夜は石切丸を見上げた。が、御神刀は首を横に振った。
「主が神気に過剰反応してしまうのは、現し世の理との繋がりが深いからだ。その主が神気に馴染むには、彼の属する理が変質しなくてはならない。……それは、人の理から外れるということだからね。普通の儀式や術では無理だよ」
「なんとまぁ……。あの主が、こんなことになるとはなぁ」鶴丸は天井を仰いだ。それから、顔を戻して国広へ目を向ける。「それじゃ、一週間が過ぎたらこの本丸はどうなるんだい? 国広」
「解体して、俺たちは引き取り手に渡されるか……あるいは、逆に引き継ぎの審神者がこの本丸に来るだろうな」
 国広の答えに、三日月が視線を伏せた。
「人の手から人の手へ、受け継がれてゆくは刀の運命だが……まさかこの姿になってまで、主を渡り歩くことになるとは。ずっと今の主の下にいられると思っていたのだが……こればかりは嘆いても詮もないことよな」
「――俺は、次の審神者は持つ気はない」
 国広は思わず呟いた。途端、皆の視線が集中する。国広はもう二年ほど本丸では布を被らなくなっているから、皆の眼差が直接、己に突きささるのが分かった。今、布があれば、とほんの少しだけ後悔する。
「それは、どういう意味なんだい?」
 燭台切が困惑したように尋ねた。しまった、と国広は思った。が、ここまで来て、答えないわけにはいかない。
「……どういうも何も。俺は、主が審神者を辞めたら、刀解してもらう。他の主を持つ気はないということだ」
 皆はハッとした顔でおし黙った。辺りに重い沈黙が落ちる。と、そのとき、唸るような低い声が上がった。
「……っ、ざけんな……!」
 国広が顔を上げた途端、飛びかかってくるシルエット。加州だ。普段は外面に気を使う性質の彼が、今は恐ろしい顔で国広の胸倉を掴んでいた。
「何を馬鹿なこと言ってるんだよ! 俺たちは主の刀だろ!? 主の意思を映して、敵を斬り、味方を守る刀。――俺たちの中でも、いちばん主のことを分かって、主の志を汲めるのは、初期刀で、恋仲だったお前しかいないだろっ!? 主が戦えなくなるなら、俺たちは主の分まで戦わなくちゃいけないんだ」
「……所詮、俺は写しだ。そして、俺たちは審神者がいくらでも降ろすことのできる分霊だ。俺が消えたところで、別の審神者が別の俺を降ろすだろう」
「それでも、今の主に降ろされて、主と共に戦ってきた“山姥切国広”はお前だけだろ!? 俺だって、ここにいる皆だって。主の刀なのは、俺たちだけだ。俺たちが消えたら、主が戦ったこと、守ろうとしたもの、主の意思を受け継いで戦う者はいなくなる。お前は、それでもいいの!?」
 加州の懸命な言葉は、しかし、国広には届かなかった。加州の言葉に理があるのは分かっている。それでも――。
「……何と言われても、俺は主以外の人間に遣われるのは受け入れられない。すまない、加州。……戦いつづけるには、俺はもう疲れすぎてしまった」
「この馬鹿っ!」
 叫びと共に、加州の拳が頬を打つ。国広はそれを避けることも、やり返すこともなく、打たれた勢いのまま畳の上に倒れた。その場で呆然と二人の口論を見ていた仲間たちが、ワッと動き出す。燭台切が二人の間に割って入り、石切丸が加州を後ろから抱きかかえて制止した。薬研が国広の傍へ来る。小夜と鶴丸、三日月は事の成り行きを静観しているようだった。
「君たち、これ以上、争っては駄目だよ。いちばんつらいのは僕らじゃなくて、主なんだから」燭台切はそう言ってから、国広に目を向ける。燭台の火を映したみたいな金の瞳は、穏やかというよりひどく深い色をしていた。「――でもね、国広くん。僕も、加州君の言い分には賛成だよ」
「……俺は俺だ。皆に分かってほしいとは、思ってない」
「この馬鹿っ……!」
 石切丸に抑えられながらも、加州は鋭く吐き捨てる。けれど、言葉の強さとは裏腹に、彼の美しい紅の瞳からは涙が溢れていた。ときに口の悪い彼だが、根は優しいし、よく他者の心情を理解する性質なのだ。
「――すまない、加州」国広は静かに言った。「だが、俺の考えは変わらない」
「っ……! 考えを変えない限り、俺は許さないからねっ!」
 そう叫んだ加州は石切丸の手を振り払って、大広間から走り去ってしまった。


 翌日から、加州と国広の間にはどこか気まずい空気が流れていた。必要事項は話すのだが、それ不必要に関わりはしないのだ。他の刀剣たちも二人を気にかけている風だが、国広は意に介さずに過ごしていた。
 そうして、主が皆に審神者辞任を告げてから二日後。主が兄のように慕う鍛刀師“六条の君”とその近侍の鶴丸国永が、本丸へやって来た。鍛刀師は主に呼ばれたらしいのだが、国広はそのことが少し面白くなかった。というのも、鍛刀師の普段の仕事を知っているからだ。
 鍛刀師は、鍛刀を専門とする特殊な審神者だ。政府の命により鍛刀を必要とする本丸へ赴いて、そこで戦力となるべき刀剣を降ろす。ただ、いつも鍛刀の依頼があるとは限らない。鍛刀の依頼がないときの彼は、一時的に審神者が不在の本丸の代理審神者として過ごすもある。そんな鍛刀師がこの時期にこの本丸へ来たことは、主の審神者辞任の準備みたいに思えたのだ。
 挨拶もそこそこに、国広は馬当番を理由に外へ逃げ出した。ひとしきり馬の世話を済ませて、厩を出る。と、母屋の方から鶴丸国永がやって来るところだった。まとう霊力を見れば、彼が主の顕現させた刀剣ではなく、鍛刀師の刀剣なのだということはすぐ分かる。そうでなくとも、国広は彼とよく言葉を交わしているので、主の顕現させた鶴丸との雰囲気の違いは感覚的に理解していた。
「やぁ、国広。久しいな」
「……俺に何の用だ」
「用というほどのこともないが。そうだな……。少し話をしないか?」
 この本丸の刀剣は親兄弟のように近しく感じている。だからこそ、喧嘩もできるのだ。けれど、鍛刀師の近侍は他人の刀だった。少し距離間がある。人の子が離れて暮らす叔父の言葉なら素直に聞けるのに似て、国広も鍛刀師の近侍には、親しみと敬意を抱いている。その彼に提案をされると、国広としても突っぱねにくかった。
「少しなら。……俺も聞きたいことがある」
「何だい?」
「……アンタは主である鍛刀師を失いかけたことがあるんだろう?」
 国広は尋ねた。
 鍛刀師は、今の職に就く前は普通の審神者であったが、敵襲で本丸を失った。しかも、そのとき鍛刀師は死んで、黄泉の坂を下りかけていたところを本丸の刀剣たちが全身全霊をかけて呼び戻した。そのせいで、鶴丸国永以外の刀剣は折れてしまったという。そんな経緯の主を持つ鶴丸国永なら、己の問いに答えられるかもしれない。
 そんな希望を抱いて、言葉を続ける。
「主を失うとして、それに耐えるにはどうしたらいい? ――加州たちが言うんだ。主が審神者でなくなっても、俺たちは主の分まで戦いつづけなくてはならないって」
「それで、喧嘩をしたのか?」鍛刀師の近侍は穏やかに尋ねた。
「……俺は主を変える気はないと言った。新しい審神者が来たら、刀解を願い出るつもりだと。加州はそれに怒った」
 国広は地面に視線を落とした。今は冬とあって、足下に咲く花はない。枯れ草が風に揺れるばかりだ。
 季節は巡る。草は芽吹いて花開き、種を落として枯れていく。異空間であるこの本丸の内でさえ、生きとし生けるものは現し世の理に属している。己ら付喪神だけが、理から外れた存在だ。どうしたって、現し世に属する主に沿うてやることができない。主の刀でいられないなら、分霊の核だけでも主の魂により沿っていたいと思うのは、そんなにも罪なことだろうか。
 ぽつりぽつりと、そんなことを鍛刀師の近侍に話した。静かにそれを聞いていた彼は、やがて口を開く。
「国広よ。すまないが、俺は何も言ってやれない。俺は主を失いかけたが、本当に失ったわけじゃないからな。喪失に耐える方法は、俺も知らない。ただ――」
「ただ?」
「主の死を受け入れられず、黄泉から呼び戻したのは、俺たちのわがままだったのではないかと今でも思う。俺は襲撃当時、本丸を不在にしていたが……不在であった刀剣も含めて、あれは俺たちの都合であったのではないか、と」
 何しろ、現し世の理に反する行為だったのだからな。――そう言って、鍛刀師の近侍は静かに笑みを浮かべる。己を嘆いているような、自嘲のような、苦笑のような、曖昧な笑みだった。
 だから、と彼は言葉を継いだ。
「きちんと主を手放そうとする君の判断は、尊いものだと俺は思う。――実は君の主“夕霧”が審神者を辞した後、しばらくはうちの主が留守居役を務めるんだが……主も、君が刀解を望むなら、その意思を尊重するつもりでいる」
 ――勇敢な、若い刀。すべて、君の心の望むままに。
 鍛刀師の近侍はそう言うと、国広を残して母屋へ帰っていった。






3.審神者




 神気アレルギーと診断されてから一週間後。俺は自分のものだった本丸を後にした。これからしばらくは、神気を抜くために病院で過ごすことになる。俺はこのまま現世に帰っても平気だと思ったけれど、すぐにそれは不可能だと分かった。医師に借りていた呪具を返した途端、悪寒と熱っぽさとめまいが襲ってきたのだ。呪具で抑えていただけで、実のところ、俺の身体は自分の刀剣の気にすらアレルギーを起こしていたらしい。
 病室に通された俺は、ひとりきりになってから少し泣いた。本丸にいる間は、もうちょっと我慢できたのだけれど、自分の刀剣もいないこの場ではもう限界だったのだ。
 夕方になって、窓から赤く染まる空を見ていると、自分がもう審神者ではない事実が胸に迫ってきた。刀剣たちとの霊力の繋がりは、本丸を去るときに断ち切った。今、俺が顕現した刀剣たちは、留守居役として本丸に入ってくれている先輩の霊力でその姿を維持しているはずだ。目を閉ざして感覚を研ぎすましてみても、審神者であった頃なら感じられた刀剣たちとの縁が存在しない。そのことが、ひどく寒々しく感じられる。
 これが審神者ではない人間なら、普通のことなのだ。今後、俺は現世に戻って、審神者ではない人間として生きていかなくてはならない。
『――人は、変化していくものだよ』別れの日、部屋に訪ねてきた石切丸の言葉を思い出す。『人の心の嘆きも苦しみも、いずれは風化していく。それでいいんだ。忘れないでほしいと、私たちは言わないよ。ただ、どうか、苦しくても生きることを諦めないでほしい』
 俺は未来のことを考えようとした。普通の仕事に就いて、友人たちの遊んで。恋愛して、家庭も持たなくてはならない。だって、国広を始めとして俺の刀剣たちは、俺を普通の人間として生かそうとしてくれた。俺は、俺の意思を継いで戦いの場に残ってくれる彼らのためにも、普通の人間としての生をまっとうしなくてはならない。

 ――人として、幸せにならなくては。

 そう自分に言い聞かせたけれど、心が『違う』と絶叫した。高校卒業後に審神者となって、国広と出会って。俺は審神者として生きることが、自分の生の目的だと思ってきた。そのすべてを失って、今更、何を生きる目的としたらいい? どんな幸せを見つければいい? ――無理だった。今更、何か別のものを見つけるなんて、できるとは思えない。幸せだって、そう。俺の心は、もう、ぜんぶ国広のものだった。たとえ二度と彼に会うことが許されなくたって、別の誰かに恋をすることはできない。
 夢も、恋も、幸せも、俺のすべてはあの本丸にあった。ここにあるのは、夢破れた残骸だけ。

 このまま、死んだように残りの生を送るくらいなら、俺は――。

 意を決して、俺は病室を抜け出した。フロアの片隅にある公共の通信端末から、実家をコールする。コールに出たのは、母親だった。息子は審神者として戦いの最中ということになっているのに、気が抜けるくらいのんびりした声が聞こえてくる。
 次の帰省はいつ? とか、国広くんも一緒に帰ってくるんでしょ? とかいう問いを遮って、俺は言葉を発した。
「――母さん、俺……。俺がもし、遠くへ行ってしまって二度と戻って来ないとしたら、どうする?」
『いきなりどうしたの?』
「ただのたとえ話だよ。ねぇ、どうする? ……それか、俺が年を取らない人外の存在になっちゃうとしたら? 母さんたちが年を取っても、俺はずっと今のままだとしたら、どうする? 怖い?」
『あんた、また昔のマンガとかゲームにはまってるの?』怪訝そうに言った母親は、けれど、ふと優しい声になって答えた。『まぁ、もしもの話として。遠くに行くのも、人外になるのも、別に好きにしたらいいよ』
「え? なんで? いいの?」
『だって、あんたの人生はあんたのだしね。あたしも父さんも、寿命的に言えばあんたより先に死ぬんだもの。あんたはあんたの思うとおりにしなさいな』
「母さんは、止めるかと思った……」
『止めてほしいの?』
 優しく尋ねる母の声は、事情を話してもいないのに、何かを察しているようだった。たとえ話だと言ってあるにもかかわらず、ひどく確信に満ちた声で応えてくる。
「止めてほしいわけじゃないけど……」
『いい? あたしがあんたを生んだのはね、あたしたちに縛り付けるためじゃないよ。犯罪や人様を悲しませるようなことは許さないけど、とにかく、あんたがしなければならないと思うなら、信じたとおりに行動すればいい』
「母さん……」
 通信端末の前で、俺は両手で顔を覆った。人としての俺を生んで、育んでくれた場所はどうしてこんなに温かいんだろう。この温かい場所には帰らずに、俺はどこに向かおうとしているんだろう。
 分からない。分からないけれど、もう、俺の心は自分のいたい場所を決めてしまっている。わがままでしかないのに。皆に迷惑をかけるかもしれないのに。
 そのことが苦しくて、涙が溢れた。
 その間も、母の声が穏やかに響いてくる。
『もしもの話、あんたが遠くに行くのなら、そこで太陽みたいに笑っていなさい。そうして、あんたの温かさを皆に分けてあげなさい――あんたの取り柄は明るいことなんだから』
「ごめん……。母さん、ごめん……。――……ありがとう」
 俺はそっと通信を切った。それから、病院を抜け出して転移ゲートへ向かう。今日、去ったばかりの自分の本丸へ転移すると、そこはすでに夜になっていた。しかも、しとしとと雪混じりの雨が降っている。俺は単衣に袴という軽装で来たから、湿気を含んだ冷気が身体の芯まで浸食してくるようでひどく寒かった。
 しかも、本丸に漂う神気で身体が熱っぽくなってくる。うかうかしていると、倒れてしまうかもしれない。
 こっそり母屋へ行こうと思っていたら、門の前に人影がある。門灯の下、傘を差して立っていたのは、先輩だった。彼は俺に近づいてきた。自分の羽織っていた羽織を俺の肩に掛け、傘を差しかける。羽織から温もりと同時に、先輩の霊力が伝わってくる。俺の霊力とは異なる、闇の中の篝火みたいな、遠くへ飛んでいく火矢みたいな霊力。けれど、それは俺を傷つけるものではなくて、むしろ俺を覆って守ってくれる。少し神気の影響が緩んだ気がした。
「っ……先輩……! あの、俺……その……」
「怖がらないで。怒るつもりはないから。――君が病院を抜け出したと聞いて、きっとここへ帰って来るだろうと思っていた。だから、待っていたんだ」
「すみません……。ご心配をお掛けしました。でも、あの、俺が戻ってきたのは――」
「その件について、私は問いただすつもりはない。今日は、刀剣たちには部屋にいてほしいと頼んである。国広どのだけは、離れの君の部屋にいたいと言ったから、そこにいる。だから、はち合わせることはないよ。君は、君の望むままに行動すればいい」
「すみません」
 もう一度謝ると、先輩は笑って首を横に振った。
「私にはこれがいいことかは、分からない。でも、私が君と同じ立場になったら、結局、自分の好きなようにしか行動しないだろうと思う。だから……君も、望むとおりにすればいい」
「はい……」
「君がどんな選択をしても、私は君の味方でいるから」
 先輩はやんわりと俺を抱きしめた。恋愛感情とは無縁の、優しいばかりの抱擁。霊力の護りがさらに厚くなる。やがて、静かに身を引いた先輩は、「行っておいで」と俺を促した。
 弾かれたように、俺は走り出す。離れへ向かって駆けて、たどり着いたとき、ふと振り返ると門灯の傍らに先輩と寄り添う白い姿が見えた。向こうからこちらは、暗くて見えないかもしれない。それでも、二人に目礼して、離れへ上がった。
 執務室の隣、俺の使っていた部屋の戸は閉じられていた。けれど、戸の隙間から灯りが漏れている。俺は小さく部屋の中に声を掛けた。
「国広……。国広」
「っ……主……!?」
 驚いたような声。その直後、国広が戸を開ける。俺の姿を見た瞬間、彼はハッとした表情になって、慌てて戸を閉めようとした。その手を俺は押しとどめる。
「待って、国広」
「主、なぜここにいる? このままだと死んでしまうから、本丸から立ち去らなくてはならないんだろう?」
「そうだけど、無理だって分かった。……俺、国広がいないとダメなんだ。皆、幸せにって祈ってくれたけど……、俺、皆やお前がいないと、幸せになれないんだ」
「――主……」
 戸を閉めようとしていた国広の手が、力なく垂れる。俺は戸を開けて、彼に抱きついた。
「国広が、俺に人間のままでいてほしいって思ってくれたこと、感謝してる。でも、ごめん、俺……。――俺を国広のものにしてほしい」
 必死に告げるけれど、国広は返事をしない。不安になって、俺は顔を上げた。その刹那、痛いほどの力で抱きしめられ、唇を奪われる。やがて、唇を離した国広は、俺の首筋に顔を押しつけて言った。
「俺は主の刀だ。これまでも、これからも、ずっと。主だけの刀でいる」
 俺たちは抱き合ったまま、もつれるように部屋に入った。国広は俺の部屋で眠るつもりだったようで、寝間着姿だった。畳の上には布団も敷いてある。
 その傍らに立ったまま、俺たちはもう一度、口づけをした。今度は今までしたことのない、深い口づけを。そうしながら、国広が俺の肩から先輩の羽織を取った。次いで、腰の帯を解いて、袴を落とす。国広と単衣姿になった俺は、布団の上に腰を下ろした。
 国広が俺の帯を解く間、俺は啄むような軽い口づけを送った。いたずらするように軽く唇を甘い噛みすれば、仕返しのつもりか、国広が鼻先に歯を立てずにかみついてくる。びっくりした俺は、思わず小さく笑った。それを見て、国広も微笑する。
「久しぶりに、主が笑った顔を見た気がする」
「そうかな? 今日、本丸を出るときも、ちゃんと笑ってみせたと思うけど?」
「あんな作り笑いは、笑ったうちには入らない」
 国広はそう言って、ちゅっと軽く俺の唇に唇を触れさせた。そうする間にも、俺の単衣の前は開かれて、下着も取り払われていた。俺を横たえた国広が、上から覆いかぶさってくる。首筋に顔を埋めた彼は、舌や手で俺の肌をたどり始めた。
 まるで形を確認するような手つき。快楽を得るというよりは、ただただくすぐったい。けれど、国広が触れてくれているのだと思うと、幸せで仕方がなかった。肩口から胸へ、胸から腹へ愛撫の手が降りていく。国広が腹部をなぞるころには、俺の感じ方も少し変化していた。わき腹や下腹を撫でられると、快感とはいかないまでも、その一歩手前のゾクゾクするような感覚が広がっていく。
 気がつけば、足の間で自分自身が芯を持ち始めていた。
 それを見た国広が、目を丸くする。
「……まぐわうとき、人間の男というのは、こうなるんだな」
「知らなかった?」
「知識はあったが……改めて見ると、びっくりする。触れてもいいか?」
「ん……」
 小さく頷くと、国広はたどたどしい手つきで俺のものに触れた。愛撫とも呼べない、半端な触り方だ。
 刀剣男士は、顕現されるとき、男の姿を取る。けれど、人の姿であっても、彼らの三大欲求は後天的なものだ。食事や睡眠は日常生活で必要なので、すぐに獲得する。けれど、性欲については、子孫を残す必要がないので、恋仲の相手ができない限りは覚醒しないのだと聞かされていた。
 確認したことはないけれど、たぶん、国広は自慰さえも知らない。触り方がたどたどしいのは、そのせいもあるのだろう。どうすればいい? と国広に尋ねられたので、俺は彼の手に自分の手を重ねて、動かした。冷静に考えると自慰を見せているようで、いたたまれない。身体が羞恥で熱くなる。
 この状態であまり反応したくはないのに、性器への愛撫で身体が熱を上げる。とろとろと先端から先走りが溢れて、俺と国広の手を濡らした。
「主……何だか、濡れてきたが」
「ん……。気持ちいいと、……そうなる……」
「気持ちがいいのか?」要領を得てきたのか、国広は性器を愛撫する手を強めた。熱っぽい瞳で俺を見て、嬉しそうに笑う。「……主……今、とても可愛い顔をしてる」
「男……相手に、……可愛いも何も……」
 そう言ったとき、国広が唇に吸いついてきた。口内を舌でまさぐられながら、下肢を愛撫されて、限界がやってくる。俺はガクガク身体を揺らしながら、達した。
 その余韻が引いたところで、ハッと気づく。こういうことは、片方だけが気持ちよくなっても意味がない。
「国広……」
「ん?」
「――その……俺も、国広に触れても、いい……?」
「……あぁ」
 なぜか彼は少し困ったように頷く。不思議に思いながらも、俺は国広の腰の帯を解いた。下着ごしに見たそこは、反応していないようだ。
「すまない。……その、俺はまだ、性的欲求を覚えないようだ。感じている主はすごく可愛いし、興奮するのに……」
「そっか……。でも、もうちょっと、触ってみてもいい? たとえ繋がれないとしても、俺、もっと肌で国広のこと、感じたい」
「構わないが……」
 ためらいがちにも了承が得られたので、俺は体勢を入れ替えて上になった。国広の唇や首筋にキスを落としながら、下着を取り払って性器に触れる。芯を持たないその箇所を何度かしごくと、わずかに反応があった気がした。
 がんばれば、何とかなるかもしれない。そう思った俺は、身体をずらして国広の性器を口に含もうとする。と、慌てた声が上がった。
「なっ、待て、主! そんなことをさせるわけには……!」
「俺がやりたくて、やる。……始めてだから下手かもだけど、させてほしい」
 そう言うと、国広は頬を真っ赤に染めて目を瞑った。それでも、了承として頷いてくれるところがいじらしい。俺は口を開いて、国広の性器を含んだ。とはいえ、口淫をしたこともされたこともない。いちおう健康な男子なのでAVやエロ動画の類で見たことはあった。けれど、どうも口淫のシーンは直視できなかったから、ほんとうにイメージだけで舐めたり、吸ったりしてみる。
 しばらくそうしていると、国広の性器が反応し始めた。それが嬉しくて、水音が上がるのも構わずに、口の奥深くに招き入れてみる。苦しい。けれど――。
「主……! やめっ……何か、おかしくなる……!」
 艶を帯びた国広の声が聞こえてきて、もっとしたくなってしまう。気がつけば俺も妙に興奮していて、足の間ではさっき達したばかりの性器が反応し始めていた。何だか自分が浅ましい気がして、膝をすり合わせてそれを隠しながら、口淫を続ける。やがて、口内で国広が達した。
 独特の味が舌の上に広がる。
 口に出された精液をとっさに飲み込むことができず、俺は思わず起きあがってせき込んだ。国広が慌てて起き上がり、背中をさすってくれる。
「っ……ごめ……。ちゃんと、飲めなくて……」
「なっ、馬鹿主っ! あんなの飲む奴があるか!?」
「……だって……AVでは、飲んでたもん」
「えーぶい……?」
 何を言っているのか、と瞬きした国広は、そこでふと俺の下半身を見て、目を丸くした。俺のものが反応していることに、気づいてしまったらしい。
「主……どうして……。俺は、触れてないのに……」
「っ……。好きな相手に触ってたら、こうなるのは、当たり前なんだよっ……!」
「好きな相手……。そうか、好きな相手か……」嬉しそうに笑った国広は、何度目かの口づけをしてきた。それから、唇を離して尋ねる。「主は最初に、俺のものにしてほしいと言ったな? それは、つまり、俺が抱いてもいいと言うことか?」
「うん」
「……逆でも、俺は構わない。俺は主の刀だからな。主に遣われるのが、刀としての本分だ」
「それでも、俺は今、お前の恋人としてここにいるから。国広が俺の刀でも、俺が国広の主でも……今は対等だよ」
 俺は国広の首筋に腕を回して、ギュッと抱きついた。素肌の胸と胸を合わせて、相手の肌の温度を感じる。
 人として生まれた温かい場所を後にして、もしかすると人であることも捨てて、俺は自分の分不相応なところへ向かおうとしているのかもしれない。どこへ向かうにせよ、俺が何になるにせよ、この先を生きていく糧として国広のぜんぶがほしかった。彼のすべてを、この身に刻んでおきたかった。
 だから。
「俺が、国広に、抱いてほしいんだ。お前のぜんぶを、この身体で感じておきたいんだ。……だから、ぜんぶ、くれる?」
 俺の言葉に国広は、俺を強く抱き返して囁いた。
「――身に余る光栄だ」
 その後、二人でやっぱり四苦八苦しながら俺の身体を馴らして、国広の熱が体内に入ってきた。痛いし、苦しい。けれど、泣きたいくらいに幸せで――と思ったら、国広がギョッとした顔をしていた。
「あ、主……涙が……! 痛いのか? やめるか!?」
「っ……ちがう……。幸せ、だから……」
「幸せ?」
「そう。……くにひろと、こうなれて……幸せ、すぎて……」
 それを聞いた国広は、泣き出しそうな顔で笑った。「俺も幸せだ」と言って、俺の頬に唇を寄せる。温かな舌が、涙を舐めとる感触があった。



***



 行為が終わった後、俺は気を失うように眠ってしまったらしかった。最初は痛かったりした行為だが、途中から何だか気持ちよくなってきて、我を忘れてしまった。何度、達したのか、どんな声を上げたのか、あまり記憶にない。
 けれど、朝、目覚めると腰が痛くて、しかも声がほとんど出なかった。身体は夜のうちに国広が清めて、寝間着を着せてくれていたようだが、その彼も俺がこれほどひどい状態になるとは予想していなかったらしい。慌てて身支度をした国広が母屋へ薬研を呼びにいったせいで、俺の状態は皆の知るところになった。
 正直、恥ずかしい。
「……まぁ、腰痛と声はしばらくすりゃあ、治るさ。心配はいらねぇよ」薬研はそう言ってから、まじまじと俺を見た。「しかし、まぁ……。なぁ、石切丸の旦那」
 薬研に話を振られて、戸口にいた石切丸が苦笑する。
「あぁ。主はまぁ、見事に人の理を外れてしまったものだねぇ」
「まったくだよ。主に人としての生をまっとうさせてやりたいと、恋仲になって二年も手出ししなかったのは、何だったんだい」燭台切がため息を吐いた。
「まぁ、いいじゃん! 人の理を外れちゃったのは残念だけど、主はもう、俺たちといても平気なんでしょ? ずっと俺たちの審神者でいてくれるんでしょ?」
 加州は「よくないけど、よくやった!」と褒めているのかいないのか、微妙なことを言いながら、国広の肩をたたいている。二人は仲直りしたようだった。
 皆に囲まれていると、刀剣たちの間をすりぬけて先輩が俺のそばへやって来た。
「たぶん、こうなるとは思っていた」
『ごめんなさい』声を出せず、口をパクパクさせて謝罪の言葉をかたどる。
「君が一人前の男として選択したことだ。君のことだから、きちんとすべてを覚悟して、決めたんだろう。私に謝る必要はないよ」
 枕元に膝をついた彼は、俺の頭を撫でた。その掌を通して、刀剣たちとの縁が戻ってくるのが分かる。縁を返した彼は、立ち上がった。
「さぁ、私は行かないと。次の仕事、実はもう入っているんだ」
『ありがとうございました』
「いや……。こちらこそ、今後ともよろしく。しばらくして身辺が落ち着いたら、また号持ち審神者としての仕事を振るから覚悟して」
『……せんぱい、ちょうスパルタ』
 唇を読み切れないだろうと甘く見て、俺はちょっとからかってみる。「スパルタ上等。審神者はいつでも人手不足だからね」先輩は片眉を上げて、不敵な笑みを浮かべてみせた。あ、なんかこの表情、近侍さんに似てるかも。ある種、二人は似たところがあるのだろう。
「とにかく、しばらくゆっくり休んで」
 また穏やかな表情に戻ると、先輩はそう部屋を出ていった。


 結局、俺が起きあがれるようになったのは、昼過ぎのことだった。縁側に出ると、庭は白く雪が積もっていた。昨夜の雪混じりの雨は、完全な雪となっていたらしい。庭では鶴丸と小夜、それに薬研が雪遊びをしている。母屋の縁側で三日月が本を読みながら、時折、その様子を眺めていた。燭台切と石切丸が三日月の傍らで、碁盤を挟んでいる。どちらも好戦的な目をしているから、たぶん、勝負が佳境なのだろう。
 俺は三日月たちの傍に腰を下ろして、雪遊びの光景を見ていた。うちの本丸は刀剣が少ないので、だいたいこんな感じだ。何となく、皆が集まって一緒にすごしている。一人でいたいときは離れていることもあるけれど、それだって孤独だとは感じない。そういう距離感が心地いい。
「こうして、のんびりするのは一週間ぶりだな。主が審神者を辞めることになったときは、皆、通夜のようでな。本丸は火が消えたようだった」ぽつりと三日月が言った。
「ごめんね。俺、自分のことばかりで……」
「主がいちばん、つらかっただろう。己を責めてはならん。俺もそのつもりで言ったわけではない。ただ……」
「ただ?」
「審神者というのは、本丸の太陽なのだろうなと思った。審神者の率いることのできる刀剣は、今は四〇を越える。それでも、それだけいても、刀剣男士には審神者の代わりはできぬ」
 ――審神者という太陽の光を受け取って、俺たちがいる。忘れてくれるなとは言わない。だが、知っていてくれ。
 そういう三日月の言葉に、俺は頷いた。誰かにあんたの温かさを与えてやりなさい、と言った母の言葉を思い出す。三日月が審神者を太陽だと言ってくれるなら、皆が必要としてくれるなら、国広が俺の刀でいてくれるなら。人として生まれた温かな場所ではなく、ここを選んだ俺の選択は間違いではないのだろう。そう思うことができた。
「……ありがとう。皆がいるから、俺は審神者として生きていられる。本当に、ありがとう」
 俺がそう言ったときだった。
 できたよーと廊下の方から加州の元気な声が聞こえてくる。振り返ると、加州と国広が盆に乗せた湯呑みを運んでくるところだった。ふわりと香る甘い匂い。これは――。
「あ、甘酒」
「主、起きたのか」
 ちょっと目を丸くして、国広が言う。その間にも、加州は庭に向かって「甘酒できたよ!」と叫んでいた。鶴丸と小夜、それに薬研が縁側に駆け寄ってくる。頬を真っ赤にした小夜と薬研が寒そうで、俺は国広の盆から湯呑みを取って、二人に渡した。
 加州はてきぱきと他の刀剣にも湯呑みを配っている。
 静かだった辺りは、急ににぎやかになった。わいわいと楽しげな皆を見ながら、俺は思う。審神者として、皆と、国広と生きていく。この手を伸ばして、少しでも多くのものを守っていく。そのために、俺はここにいるのだ、と。





2015/10/25

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