はじまりの審神者1






 天下五剣の三日月宗近は、本丸の中でもっとも俺となじみの薄い刀である。
 顕現可能な刀剣男士の中で、もっとも稀少なせいだろうか。彼がうちの本丸に来たのは、ごく最近のことだ。最初に挨拶を受けただけで、後は他の刀剣男士に任せているせいか、ろくに言葉を交わしたこともない。
 政府に力を貸す刀の付喪神は、二三〇二年の現在――審神者制度開始から二百年近く経った今では、六〇振程度。審神者は寄代にその分霊を降ろして顕現する。人間の戦争に力を貸してくれている付喪神たちは無論、敬って感謝すべきだ。とはいえ、学校のクラスメイトだって親しい子とそうでない子がいるように、約六〇振もの刀剣男士と親密に接するのはとても難しい。なじみが薄いとう点では、宗近の他にもなかなか接する機会のない刀剣男士は他にもいる。
 二百年前、最初に審神者になった奴はこれほど多くの刀剣男士を顕現することになると、考えてみたことがあるのだろうか? 少し疑問に思う。
 いちおう、俺は審神者として彼らを率いる身だ。だから、職場の人間関係をエンカツにするという管理職的な義務感から、短刀たちと遊んだり、厨番に混じったり、太刀や大太刀の酒盛りに付き合ったりすることもある。また、そういうときは普段、話す機会の少ない刀剣と会話するように心がけてもいる。それでも、何となく宗近とはしばらくの間、ろくに言葉を交わすことはなかった。
 ――俺は宗近が苦手なのかもしれない。
 そう自覚したのは、久しぶりに太刀や大太刀らの酒盛りに顔を出したある晩のことだ。そのときはちょうど春の宵だった。皆は大広間の庭に面したふすまを開放して、庭の桜の木を見ながら酒を飲んでいた。大広間の中で話に興じる者、縁側に出て桜を眺めながら酒を呑む者。それぞれ、思い思いに過ごす。
 俺はといえば、食うことも飲むこともできない桜には興味がない。だから、毎回、酒宴に参加する目的である刀剣たちとのコミュニケーションを取るために、自然にできた刀剣たちの小さなグループの間を行ったり来たりしていた。そうして、ふと縁側へ出たときだ。宗近が同じ三条派の小狐丸や石切丸と一緒に、そこに腰かけていた。どうやら、間近で夜桜を楽しんでいるらしい。
 刀剣男士は皆、それぞれに美しい。けれど、夜桜を眺める宗近は、まるで曇りのない月のような完璧な美貌だった。さすがに天下五剣のうちでもっとも美しいと言われるだけのことはある。
 俺は一瞬、三条たちの元へ話に行こうかと思った。が、すぐにその考えを打ち消す。宗近があまりに美しくて、穏やかで――不意に俺は彼に苛立ちのようなものを覚えたのだ。嫉妬というほど、はっきりした感情ではない。ただ、宗近の視界に俺がいなくとも彼の世界は成立するだろう、と少しひがむように思った。
 宗近は美しい。力もある。付喪神として、皆に大事にされている。もしも俺が彼のような立場であったなら、俺の人生は楽しいものになっただろう。
 ところが、実際の俺はパッとしない見目の、平凡な男だ。いちおう審神者になってはいるが、適性も低い。霊力もかなり少ない。そうしたこともあって、手入れや鍛刀などの回数が限られているので、審神者としての戦績はあまりよくなかった。美しい上、能力値もいい宗近とは正反対。
 俺は黙って、彼らの後ろを通りすぎようとした。そのとき、宗近が振り返る。
「主、ここで飲まぬか?」
「俺はもう少し話をしたら、執務室に戻るから。仕事を少し、残してるんだ」
「審神者の仕事は大変だな」宗近は眉をひそめた。それから、微笑して彼が持っていた杯を俺に差し出す。「だが、気分転換に一献だけどうだ?」
「それなら」
 俺は仕方なく、宗近から杯を受け取った。彼が手ずから、提子(ひさげ)を傾けて酒を注いでくれる。俺は杯を満たした酒に口をつけた。
 ――強い。なんて強い酒を飲んでいるのか。
 一瞬、飲むのをやめようかと思ったが、飲めないと打ち明けるのも癪だ。俺は我慢して、杯の酒をすべて飲み干した。カッと身体が熱くなる。グラグラと目眩がして、俺は立ってその場でひっくり返った。
「あなや」
「ぬしさま! いかがなされました?」
 騒ぎだす刀剣たちの声。急速に遠くなっていく――。


 目が覚めたとき、俺は私室に寝かされていた。
「あ、主。起きた?」
 そう声をかけてのぞきこんで来たのは、初期刀の加州清光だった。普段は黒を基調とした装束に身を固めている彼だが、今は白い寝間着をまとっている。おそらく就寝前だったのだろう。にもかかわらず、彼は酔いつぶれた俺を介抱してくれたらしい。
「ごめん、加州……。介抱してもらって」
「主がぶっ倒れたって、宗近が慌てて俺を呼びに来たからね」そこで、加州はふふふと面白そうに笑った。「酒盛りしてた連中は叱っておいたよ。『主は酒に強くないんだから、あんまり飲ませるな』って。皆、主が倒れたもんだから驚いたんだろうね。神妙な顔して聞いてた」
「ここへは加州が?」
「ううん。……主がぶっ倒れる原因を作った本人が、反省して運んだんだ」
「原因を作った本人?」
 頷いた加州が廊下の方へ声を掛ける。ふすまが開いて、中に入ってきたのは宗近だった。普段どおり超然としていて、落ち着いた笑みを浮かべている。
「もう体調はいいのか?」宗近は尋ねた。
「平気だ」
「すまぬ。主が酒に弱いとは、知らなかったのだ」
「そうじゃないって」加州が呆れた顔で口を挟んだ。「あんた方が飲んでた酒が強すぎるの。あの酒って、俺たち刀剣男士の中でも特に酒に強い奴用で、ものすごい度数なんだ。あんまりにも酒の減りが早いから、少量で満足できるように買ってみたんだけど」
 加州は初期刀として、この本丸の運営の諸々を仕切っている。経理面は、博多藤四郎やへし切長谷部など、数字に強い刀剣を補佐につけているが。本丸の必需品や嗜好品の発注も、一度、加州を通す。彼自身は元の持ち主・沖田総司の影響か、酒を飲まない甘党だ。それでも、宗近たちが飲んでいる酒について把握しているのは、彼が酒を発注したためだった。
 それにしても、そんな強い酒を誤飲してしまって、急性アルコール中毒にならないか。一瞬、心配になる。けれど、加州は大丈夫だと請け合った。
「強い酒っていっても、人間の誤飲はちゃんと考えてあるって、通販サイトに書いてあったよ。飲み過ぎないように、変な味にしてるって」
「あー。だから、口に入れた瞬間、消毒液っぽい味がしたのか」
「あなや。主はあの酒を不味く感じたのか? 酒をすすめて、かえってすまぬことをしたな」
 俺と加州が話す傍らで、宗近がまったくポイントのズレた反省をはじめる。どうやら、宗近は何が問題だったのか、いまだ分かっていないらしい。少し疲労を感じた。
 もう大丈夫だからと言って、二人を下がらせる。加州はなおも俺を心配していたが、平気だと言って押し通した。なぜなら、明日は久しぶりに政府の施設に顔を出さなくてはならないからだ。審神者としてあまり優秀でない俺にとって、政府の施設というのはひたすら、赴くのが億劫な場所である。そこへ向かう気力を養うためにも、さっさと休むべきだろう。


***


 翌日の昼下がり、俺は本丸を出ようとしていた。審神者の中には、どこへ行くにも護衛の刀剣男士をひとりは連れていく者が多い。けれど、俺はあまり護身刀を連れることはしなかった。誰かに頼みつづけるのは申し訳ない。かといって、護衛のローテーションを考えるのも面倒だからだ。
 審神者がどうしても行かねばならない現世といえば、政府施設くらいのもの。そこが敵に襲われるとなれば、もはや戦は敗北ということだ。護身刀がいて、我が身を守れたとしたって、じきに社会自体が混乱に陥るだろう。結局、護衛の刀はいてもいなくても同じことだ。そう結論してから、俺は滅多に現世に刀剣男士を伴うことはなくなった。もちろん、そのことに渋い顔をする刀剣もいる。けれど、別段の支障もなくこれまで過ごしてきた。
 今日もまた、俺はひとりで現世へ向かおうと、正門の転移装置へ向かって歩いていた。普段は白衣に浅葱色の袴姿でいることが多い俺だが、今日はスーツを着ている。その着心地に少し違和感を覚えていた。審神者になった頃は和装に馴れなかったものだ。しかし、三年間をほとんど着物で過ごすうちに、むしろ洋服の方が馴染みのない気がするようになってしまった。
 まったく、馴れとは恐ろしいものだ。
 庭先は、短刀や脇差たちが遊んでいる。珍しいことに、彼らの中心には宗近と今剣がいた。平安の遊びでも教えているのだろうか。今剣が棒で地面に線を引き、宗近がそれを指さして、皆に何か説明しているようだ。
 俺は彼らに見つからないうちに、さっさとゲートを通ってしまおうとした。けれど。
「主さんっ!」ブンブンと手を振った鯰尾藤四郎が元気に叫んだ。「その服、男前ですよ!」
「えー、鯰尾兄、嘘でしょ。主は着物がいちばんだよ」鯰尾の傍らで、乱藤四郎が異議を申し立てる。
 わいわい賑やかな短刀・脇差の真ん中で、宗近は目を丸くして俺を見ていた。
「主……その格好は」
「これは現世へ行くためだ」
「現世……。戻って来るのであろうな?」
 少し不安そうな顔で、宗近が尋ねる。まさか、俺が現世へ帰ってしまうと思ったのだろうか。俺は苦笑した。
「もちろん、夕方には戻るよ。現世へ行くのは、政府の面談のためだから」
「供はおらぬのか?」
「ひとりだけど、心配はない。政府の施設に行から、危険はないよ」
 俺の言葉に、「しかし」と宗近は渋い顔をした。
「いつ何時、何があるか分からぬ。審神者が供も連れずに出歩くのは、危険であろう。――俺が主の護衛についていってもよいか?」
「はあ……」
 正直、ご遠慮願いたい。そう思ったものの、宗近は人ならざる力を持つ付喪神である。無碍に彼の申し出を断るような非礼を働くのもためらわれる。
 昨日、不可抗力とはいえ、泥酔してひっくり返ったせいで、宗近にも迷惑をかけたのだし。昨日のお礼と思えば。そう納得して、「分かりました」と頷いた。それを聞いていた他の刀たちが、どっと声を上げる。
「えー! いいな! 俺も行きたいな」と浦島が言った。
「ずるーい! 僕も連れてってよ!」と乱が手を挙げる。
 他の短刀や脇差たちも、宗近を羨ましがった。俺は彼らを「また今度の機会があれば」と宥める。その間に、宗近は皆の輪から抜け出してきて、俺の傍らに立った。
「三日月宗近、この名にかけてそなたを護り、無事に本丸に帰還させると誓う」
「そんなに大げさな現世行きじゃないんだけどなぁ……」
 俺は少し呆れつつ、宗近を連れて正門をくぐった。転移装置が作動して、即座に周囲の風景が変化する。次の瞬間には、俺たちは政府の転移装置の中に立っていた。政府の転移装置は、現代らしい内装のビルの一角にある。転移装置から外へ出ながら、宗近はあたりを物珍しげに見回した。
 ばかりか、ふらふらと廊下の見当違いの方向へ歩きだしたりする。さすがドロップ率の低さから、審神者たちにひそかに『徘徊ジジイ』とあだ名される刀剣だ。そんな内心を表には出さず、俺は宗近を呼んだ。
「こっちだよ。護衛ならちゃんと傍にいてくれないと」
「すまぬ。物珍しくてな」
「本霊の宿る太刀『三日月宗近』は現代まで残っているはず。どうして現代が珍しいんですか?」
 本霊は現代の様子を知っているだろうに。俺がそう言うと、宗近は少し考えてから首を横に振った。彼が語ったところでは、本霊は今ここにいる宗近の根本ではあるが別の存在なのだという。
「本霊の知識がそのまま、俺の中にあるわけではない」
「……? どういうこと?」
「たとえば、主の執務室の床の間には、今は梅が生けてあるな?」
「あれ? そうなんだ?」
「……ああ。あれは、歌仙が生けたものだ。その前は俺と小狐が生けた南天が飾ってあった。くりすますの頃の小さなつりーは、短刀たちが飾り付けした」
 そうだったのか。花に興味なんかないので、俺は床の間をろくに見たことがない。いつも何か置いてあるな、と思った程度だ。
 俺は頭をかいた。
「ごめん。まったく気づかなくて」
「謝罪にはおよばぬさ。主は審神者の仕事が多忙ゆえ、花を見ている暇がないだけだ。……だが、今この話を聞いた主は、床の間を見るたびに誰かの生けた花だと思うようになる」
「お礼くらいは言おうと思うけど」
「だろう? 花を意識して見るようになる」
「まあ、確かに」
「本霊と俺の関係は、それだ。本霊の意識は漠然としている。主の下に降ろされた俺は、今、主のそばで過ごすときに意識を集中して、ものごとを体験している」
「それでも、宗近にだって現世の知識はあるのでは?」
 俺がそう尋ねると、宗近はクスリと笑った。
「そなたは毎日、床の間の花を無意識のうちに目にしていたはずだ。俺が生けた南天には、他にどんな植物が使ってあったか分かるか? くりすますのつりーは? その前の花は何だった?」
「え? あ、えっと……。分からないな」
「そういうことだ。意識せぬうちは、見ているとしてもそれをきちんと記憶して、その記憶を取り出せはしない。もちろん、それを目にしてどんな感情を抱いたかも」
 そこで、宗近は窓に目をやった。青い空を背景に林立するビルの姿が四角く切り取られている。「この時代を本霊がどう感じているか、俺は知らぬのだ」その声はわずかに寂しそうだった。彼が現役だった時代から、あまりにかけ離れてしまった今の世を、残念に思っているかのように。
 話すうちに、俺たちは目的の部屋まで辿りついていた。政府担当者が定期的に審神者と面談を行う、応接室。小さく区切られた部屋が五つほど並んでいるうちの一つに、俺の担当者の名前のプレートが架かっている。俺はノックしてから部屋へ入った。両側に置かれたソファのうち、一方に俺の担当者が座っている。三〇代半ばの彼は、俺を見て目を丸くした。
「君が刀剣男士を連れてくるのは珍しいな」
「そうですね。たまには」
「君は刀剣男士と親しくしたくないみたいだったから、意外だよ」
 そう言われて、俺は首を傾げた。うちの刀剣との付き合いは、仕事仲間として最低限くらいだろう。だが、それは彼らを嫌っているからではない。単純に面倒だから、職場の人付き合いはビジネスライクでいきたいだけだ。
 俺が反論しようとしたとき、横から宗近が言った。
「これからは、俺が主を護衛する」
「お願いします。あなたの審神者を護ってやってください」担当者は宗近の言葉に、微笑した。自己主張する幼子を見守るような眼差しだ。それから、彼は俺に言った。「さて、定期面談を始めようか」
 宗近と俺がソファに座ると、担当者は毎度、お馴染みの質問をしてきた。刀剣男士との関係は良好かとか、本丸の運営状況はどうだとか。これは、昔、審神者がストレスから過剰出陣を指示したり、刀剣を虐待したりして、ブラック本丸というものが多かった時期にできた制度だ。担当者が面談することによって、審神者が相談しやすく、ストレスをためにくい状況を作ろうというのである。ブラック本丸発見にも役立つらしい。
 しかし、審神者制度が始まって、二百年。審神者のあり方も今では変わってきている。
 終わらない戦争。倒しても尽きない敵。もはや日本の社会は、歴史修正主義者と政府の戦いが続いているのが当たり前の状況だ。戦費を捻出しつづける社会は、疲労と諦めが蔓延している。対して、国民から戦費を預かる政府と審神者は、かえって豊かになっていた。政府は戦争に湯水のように資金を投入する。それを給料としてもらっている審神者は、贅沢をする。
 いつまでも戦争を続けることはできないと、誰もが承知の上。しかし、過去に政府が国民から戦費を徴収するという方式ができあがってしまったから、誰にも止められない。止めたとして、歴史修正主義者との戦いが続行できなくなったとき、何が起こるのか。最悪の事態が起こった場合、誰が責任を取るのか。そうした結果とリスクがはっきり分からないだけに、誰も現状を変えようとは言い出せないのだ。
 今では、審神者たちは同じ戦場を周回するばかり。新戦場が発見されることはない。決まりきった日課をこなして、高い給料をもらう。ただそれだけの日々だ。敵が急に増加することも減少することもないと分かっているから、政府が審神者に要求するノルマもさほど厳しくはない。いちおう決められた日課というのはあるが、俺のような落ちこぼれ審神者はそれすらサボりがち。それでも、政府からはやんわり注意されるだけだ。審神者に訓戒だとか、罷免だとか、そういう話になることはまずない。
 敵も味方も、戦争中の『ふり』をしているようなこの世界。
 きっと、最初の審神者は使命感に燃えていただろう。こんな未来が来るとは、考えたこともなかったに違いない。
 俺だって、審神者になったのは別に敵と戦いたかったからじゃない。給料がいいから、楽な暮らしができそうだから、審神者適性があったからなっただけだ。俺がサボることで戦争がどうなろうが構わないし、実際のことろ、戦況は変わらないだろう。ずっとずっと、このまま世界は続いていくのだろう。そう思っている。


 政府担当者のお決まりの質問に、お決まりの答えを返して、面談は終了した。宗近は始終、わけが分からないという顔をしていた。この面談に何の意味があるのか、と。
 ――もちろん、何の意味もない。
 さあ、本丸に帰るか。そう思ったところで、俺は宗近があまりに消化不良な顔をしていることに気づいた。別にそのまま帰還してもよかったのだが、ふと悪戯心がわきおこる。この世間知らずな太刀を、少し驚かせてやろうと思ったのだ。
「――宗近、帰る前に少し、遊んで行かないか?」
「遊ぶ……?」
 俺の言葉に宗近が目を丸くする。予想通りの反応だ。俺は何だか面白くなってきて、ウキウキしながら宗近の手を取った。こっちだと、おっとりした彼を急かしながら、ふたたび政府の一角にある転移装置へ向かう。
 転移装置から飛んだ場所は、万屋のある地区だった。万屋地区は、審神者の本丸と同じように異空間に形成された場所だ。そこに、審神者と刀剣男士向けに、商業施設や娯楽施設などが固められている。建物が江戸の頃の雰囲気で統一されているので、高いところから見下ろすとまるで江戸の街のように見えるのだった。
 万屋地区は現世と時刻を合わせてあるので、今は夕暮れどき。ちょうど店先の提灯が灯ってひどく幻想的だ。さまざまな店の並ぶ大通りを抜けて、俺たちは路地を脇へ逸れる。そこは万屋地区の中でも歓楽街とされる一角だった。
 居酒屋やバーや宿の他、店の女性や男性と酒が飲める店もある。実は公営の売春施設――『花街』も存在するのだが、そこは万屋地区とは別の異空間に置かれていた。おまけに、遊びに行くには申請が必要だ。花街はそこへ行く手続きが煩雑なのを帳消しにするほどの楽しい場所なのだが、手軽に遊びたいなら万屋地区の歓楽街で十分。適当な飲み屋で相手を見つけて、宿へしけこめばいいだけ。
 俺は決して社交的な性格ではない。けれど、現世で悪い遊びはいろいろしてきたから、一夜の相手を見つけるくらいはできる。審神者になってから、刀剣に隠れてそうやって遊んでいたこともあった。
 そのとき、よく通ったクラブへ、俺は宗近を連れていった。
 そのクラブは、外見こそ和風だが、中へ入ればがらりと変わる。大音量でかかるBGM。青を基調とした薄暗い照明。行き交うのは大半が人間だが、たまに刀剣男士がかいま見える。赤いサザンカの花のような着物の美女をエスコートする燭台切。三〇代始めくらいの男審神者を護るように付き従う次郎太刀。その他にも。
 俺は宗近の手を引いて、カウンターの席についた。そこで酒を注文する。宗近にも、同じものを一つ。俺のお気に入りの、青いカクテルだ。たいして強い酒でもないが、青い酒の中に沈むスライスレモンが細い月のようで美しい。
「これが現世の酒か」
 珍しそうに呟く宗近に、俺はニヤニヤした。
「飲んでみれば」
「……甘い」宗近は眉をひそめている。
「だけど、綺麗だろ」
 俺は笑って、グラスに口を付ける。そうしていると、すぐ脇に座ってた人間の男女が、キスを始めた。宗近は目を丸くしてその様子を見ている。
「現世というのは、人前で口吸いをするものなのか」
「それは、時と場所と場合によると思うけど。まあ……ここはそういう場所だから」
「かつて、口吸いは睦み合いの一環だった。閨の外ではあまりしなかったものだが……時代は変われば変わるものだな。……主も、この店で誰かと口吸いをしたことがあるのか?」
「宗近はどう思う? 俺が、あるって言ったら?」
 俺は顔を近づけて尋ねた。宗近はパチパチと瞬きをする。濃い青の瞳の中、金色の月が一瞬だけ浮かび上がった。その目には、不思議そうな色がある。
「……分からぬ。口吸いとは、そんなに楽しいものなのか? 人の子らは、なぜ口吸いをしたがる?」
「なら、してみる?」
 そう囁いて、俺は顔を寄せた。薄く開いた宗近の唇に、自分のそれを触れさせる。柔らかい。その感触を楽しむように触れ合わせたり、軽く唇を食んだりした。短い口づけの後、離れると宗近はやっぱり不思議そうな顔をしている。
「どうだった?」
「……分からぬ」
「そっか」俺は苦笑した。
 この世俗からかけ離れた雰囲気の付喪神に、泥臭い人間の本能なんて分かるまい。愛情が得られないとしても、ただ温もりだけであっても欲しいと願ってしまう人間の気持ちなんて。
 審神者と刀剣男士として、今、このとき俺たちは一緒にいる。けれど、それも流れていく膨大な時間からすれば、ほんの刹那のことだろう。俺と宗近は今、ここで一瞬、接点を持っているだけ。俺と彼の道が重なることは、絶対にない。きっと、彼は俺の刀剣男士でいる役目が終わったら、また穢れのない無垢な魂のまま、何事もなかったかのように本霊に還ってゆくのだろう。俺と過ごしたことも忘れて。
 別に、それで構わない。
「――そろそろ、帰ろうか」
 俺はカクテルを飲み干して、カウンターに置いた。宗近はキョトンとした表情のまま、同じように酒を飲みきってから腰を上げた。


***


 クラブでの一件は、宗近に何の影響もなかったかのように思えた。けれど、それは俺の思い過ごしだったらしい。あのときから、宗近は何か変わった。それまで本丸では他も刀剣と一緒にいることが多かったのに、急に俺の傍に来たがるようになったのだ。もっと本丸になじむために近侍の仕事を覚えたいと言うので、二週間ほど連続で近侍に任命もした。
 おっとりとして浮き世離れした宗近に、現世の仕事を教えるのはなかなかの骨だった。けれど、初期刀の加州の努力もあって、宗近は次第に仕事を覚えていった。浮き世離れしているとはいっても、戦の面では優れた能力を示す宗近である。多少、得手不得手はあるにせよ、覚えた仕事はきっちりこなした。
 それはいい。
 困ったのは、何かと俺の傍にいたがることだ。二週間目――近侍に指名した最終日の今日も休憩と言ったのに、彼は俺の執務室に残ったまま。とうとう俺は疑問をこらえきれなくなった。
「なあ、宗近、どうして最近、俺の傍にいようとするんだ?」
 そう尋ねると、宗近はパチパチと瞬きをした。
「さて……。主のことが知りたいからだ」
「俺のこと? 別に俺は知っても面白くもない男だよ」
「現世や万屋での主は、俺のまったく知らない男だった。俺はもっと主のことが知りたい。主が見ているものを見たい」
「ふうん」
 俺は気のない返事をした。宗近が俺に興味を持ったとはいっても、彼はただ物珍しいだけだ。俺を深く知ったところで、現世に染まりきった俗物だと分かるだけ。興味はいずれ尽きるに違いない。
 結局、宗近はいつでも美しくて無垢で、俺とは生きる世界が違う。そう思ったところで、凶暴な気分が湧いてきた。もしも宗近を泥臭い人間の本性にまで引きずり落としたとしたら、この男はそれでも澄ました顔をしていられるのだろうか。口吸いの意味が分からないと言うことができるだろうか。
「宗近、キスしよう」
 そう言って、俺は彼の頬に掌をあてがった。自分の顔を寄せて、宗近に唇を重ねる。この前の夜とは違って、官能を引き出すためのキス。だから、舌を出して誘うように彼の唇を舐めた。薄く開いた唇の合間、深くに舌を挿しいれて、上顎や歯列をなめる。
 唇を深く重ねて、滴り落ちそうな互いの唾液を飲みくだした。最近、遊んでいなかったから、ここまで深い口づけは久しぶりだ。すぐにジンと身体の芯が痺れてくる。
 俺は手を伸ばして、着物越しに宗近に触れた。反応していない。ギクリとして、思わず唇を離す。その瞬間、「何してんの」と戸口から低い声が響いた。
 顔を上げれば、そこには戦装束姿の加州が立っている。彼はズンズン部屋に入って来ると、俺と宗近を乱暴に引き離した。「痛っ」小さく呻くが、加州は恐ろしい形相のままだ。
「主、何しようとしたか分かってんの?」
「……分かってるよ。俺は、宗近と」
「それが主にとってどういう意味を持つか、分かってんの? 俺たち付喪神の愛情は、主の魂を縛り付ける。心変わりしたって、他には渡せない。そういう、後戻りのできない愛情だよ? 主はそれを受け入れる覚悟はあるの?」
「それは」
「答えられないよね。主は宗近も、俺たちのことも、愛してない。俺だってそれくらいは分かってる。分かってるけど、俺たちを愛してって強要する気はなかった。でも――」そこで、加州は俺の着物の胸倉をつかんだ。ズィと怒りに満ちた顔を近づけてくる。紅い瞳が怒りにギラギラと輝いていて、彼はたいそう美しかった。呆然とする俺に、彼は低く囁く。「ぜんぶ投げうつ覚悟もないのに、人外と交じわろうなんて百年早いよ、坊や」
「っ……」
 ゾクリ。恐怖が背中を駆け抜ける。加州清光は、愛してほしがりの寂しがり屋な刀だと思っていた。愛していると言っておけば、楽しく過ごしてくれるだろう、と。けれど、それは俺の思い違いにすぎない。加州清光は、愛情を求めながらも、反面、立派な刀剣男士だった。彼は凛として、真っ向から審神者である俺に意見していた。
 加州の雰囲気に気圧されて、俺はその場を動くことができなかった。加州は俺を解放すると、今度は宗近に向きなおる。
「宗近も、主のためを思うなら、簡単に誘われちゃだめだよ。主は人間だ。俺たちとは異なる理の中で生きているんだから」
「……あい分かった」
「ならいいよ」
 加州は小さく頷く。それから、宗近を連れて部屋を出ていってしまった。加州がどう言ったのか、宗近はもう執務室に戻ってこなかった。俺は夜まで、ひとりで仕事をこなした。
 そうして、夜。
 夕餉が済むと、その日は酒宴が予定されていた。いつもの、酒好きの刀剣男士たちが楽しむための宴だ。けれど、今日はさすがに騒ぐ気になれなくて、俺はひとり執務室に戻った。文机の前に座って、ぼんやりと考えごとをする。
 俺はこのままでいいのだろうか。審神者としても、人間としても中途半端なままで。けれど、変わろうにも今更、変わってどうなるのだろう。俺が真面目に審神者業をしたって、戦況は変化しない。よくも悪くもならず、同じ状態がずっと続いていくだけ。
 こんな世界で真面目に生きるなんて、気が狂ってしまいそう。だから、適当に過ごしてきたのに――。
 そう思ったときだった。廊下から声が掛かる。
「主」と呼ぶのは、宗近の声だった。「入ってもよいか? 酒を少し持ってきた。人間でも飲める酒を」
「ああ……」
 俺が頷くと、宗近がふすまを開けて入ってきた。盆に徳利と杯二つをのせている。彼は俺の前に座ると、杯に酒を注いで差し出した。それを受け取って、口を付ける。宗近は俺が酒を飲みだすのを待って、自分も杯に酒を注いだ。
「昼間のことを、俺は主に謝らねばならぬ」
「謝る?」
「主に応じなかったことだ」
 宗近が言うには、刀剣男士には元々、性欲が備わっていないのだという。それどころか食欲も睡眠欲も持たず、人の姿で暮らすうちに獲得していくのだとか。確かに、刀剣たちの中には顕現した当初、ほとんどものを食べない者や、夜に眠らずに歩きだす者もあった。そうしたことは、彼らが本丸で過ごすうちになくなっていったけれど。
 同様に、性欲も後天的なもので、恋愛でもする状況でなければ覚醒しないらしい。
「衆道はかつて武家のならいであったというのに。主の求めに応じられず、すまない」
「いいんだよ」俺は苦い気持ちで笑った。「昔のことはいざ知らず、今は同性だろうが異性だろうが、好き合った相手と抱き合うものだ。……俺がしようとしたことは、お前に軽蔑されてもおかしくない」
「俺は軽蔑などしない。それに、主が俺に何かしてほしいと言うなら、喜んでそうしよう。無論、夜伽でも」
「どうして、そこまで思う?」
「俺は顕現してから、ずっとただこの本丸にいただけだ。主のことをもっと知ろうとしなかった。ゆえに、今度は主の刀としてできることをしたいのだ」
 そう言う宗近は、どこまでも無垢な刀だった。夜伽は宗近を地に落とす絶好の機会だと一瞬、思う。けれど、結局、俺は笑いながら首を横に振った。
 たとえ、性欲を覚えさせたとしたって、セックスをしたとしたって、宗近はきっと穢れのないままだ。地を這うようにここで生きる俺とは違いすぎる。俺はたぶん、愛されたり、護られたいわけではない。空へ引き上げてほしいわけでも。ただ共に地を這って、泥にまみれてくれる相手を望んでいるだけ。宗近と抱き合ってみたところで、彼は俺の望む相手にはなってくれない。
 だったら、宗近は綺麗なままでいればいい。俺の手の届かない相手で――。
「主――」
 宗近は眉をひそめた。何か言おうとするみたいに、口を開く。その刹那だった。
 ガクン。
 本丸がグラリと揺れた。地震――のようだが、地震ではあり得ない。本丸サーバーネットワークという霊的ネットワーク上に形成された本丸は、現世とは切り離された異空間だ。たとえ、現世で地震が起きたとしても、本丸が揺れることはない。そういう場所。
 だとしたら、何か変事が起きたということになる。
「何だ……?」
「嫌な気配がする。――主は俺から離れずにおれ」
 宗近は厳しい表情になって、俺の傍に寄りそった。ともかく状況を確認しなければ、と二人で執務室を出る。夜の庭はシンと静まり返っていた。けれど、それは嵐の前の静けさだ。実戦に出たことのない俺であっても、あたりの空気が緊張感でヒリついているのが感じられる。
「宗近……」
「皆と合流しよう。ともかく母屋へ――」
 そのときだった。

「敵襲! 敵襲だ!」

 夜の闇を裂くようにして、白い寝間着姿の薬研が現れる。膝まで裾を乱した彼は、俺たちを見つけると駆け寄ってきた。
「薬研、何があった?」宗近が鋭く尋ねる。
「旦那、敵襲だ。敵は母屋を囲みつつある。数が多い。母屋の前では酒盛りをしていた太刀や大太刀の旦那方が、敵を引きつけてくれている。その間に、夜目の利く俺たち短刀や脇差に、敵を背後から討てと」
「すぐに行かないと」
 俺の言葉に、薬研は鋭く「だめだ」と言った。
「大将は、敵の後ろを抜けて正門へ。現世へでも逃げてくれ」
「そんなこと、できるわけないだろ!?」
「俺たちは大将の霊力がなけりゃ、顕現していられない。だが、本丸を責められてこの夜戦、しかも敵の数が多いと来ていやがる。あんたを護っている余裕がない」
「護る? 俺を?」
 俺は驚いて、薬研を見た。執務室からもれる明かりを受けて、白く浮かび上がった彼の細面を。藤色の瞳が戦意に凛と輝いていて、ひどく美しかった。
「あんたは俺たちの大将だ。あんたを護れないなら、俺たちに存在する意味はない」
 きっぱりと言い切られて、俺はたじろぐ。
「だけど、俺はそんなに価値のある審神者じゃない……。成績も悪いし」
「それでもさ」ニィと薬研は笑った。「俺たちは皆、アンタが好きだよ。生命をかけて護るに値する主君だと思っているし、あんたに顕現してもらえて幸せだって感謝してる」
 そう言い終わるや否や、薬研は身を翻して去っていく。母屋の方から、火の手が上がった。戦の始まりを告げる鬨(とき)の声が聞こえてくる。


 俺の本丸が、戦場になろうとしていた。








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