はじまりの審神者2
宗近は俺の手を引いて、夜の庭を進んだ。夜戦を不得手とする太刀とはいえ、それでも、普通の人間より夜目が利くらしい。庭木や石を避けて、上手く俺を誘導してくれる。 俺は背後の母屋が炎上するのを気にしながら、宗近についていった。本当は彼の手を振り払ってでも、他の刀剣たちを探しに行きたい。けれど、そんなことをしても、足手まといになるだけだ。俺がこの場から逃げるのが、いちばん刀剣たちへの助けになるのだと、不安がる自分に無理矢理、言いきかせた。 そして、庭の木々の密集する地帯を抜けて、正門前の広場に出たときだった。燃える母屋の炎に照らされて、俺は敵の槍が小柄な愛染に斬りつけるのを目の当たりにした。愛染は吹っ飛ばされて、庭木の茂みの中に落ちる。 ――愛染! 俺は叫びそうになるのを、何とか堪えた。思わず駆けていきそうになるのを、つながれた宗近の手が引きとめる。俺は宗近を振り返った。視線で「行かせてくれ」と訴える。しかし、宗近は首を横に振った。 刹那。 ふっと何かが自分の中で途切れるような感覚。それが何なのか、俺は言われなくても分かった。俺と愛染の中にあったつながりの途絶――愛染が折れたのだ。 ああああぁぁ。絶叫したいのを、自分で自分の口を押さえて堪える。そんなの嫌だ、愛染。視界がにじんで、俺は自分が泣いていることに気づいた。にじむ視界の中、茂みから飛び出した物吉と歌仙が、二刀開眼を繰り出すのが見えた。 しかし、いかんせん、敵の数が多すぎる。二人の一瞬の攻勢は、けれど、すぐに敵の数で押し返されつつあった。宗近がグィと俺の手を引く。彼はゆっくりと頭を振って、俺の手を引いた。促されるままに進み出した俺の中で、歌仙と物吉とのつながりがふっと消える。次郎太刀、燭台切、石切丸、鶯丸、大倶利伽羅……他にも。どんどん刀剣たちのつながりが消えていくのを、俺はなすすべもなく感じるしかない。 そうするうちにも、俺と宗近は正門前へたどり着いた。そこでは、大和守や同田貫、青江、浦島、秋田など数振の刀剣たちが敵と戦っていた。内番装束の加州が吠えるように叫びながら、指揮を執っている。 「正門は主の退路だ! ぜったいに死守するよ!」 「……言われなくったって……!」 唸るように応じた大和守が、目の前の大太刀を斬り捨てる。その脇で秋田が、敵の槍の突きをかいくぐって、渾身の一撃をたたき込んだ。それでも、まだまだ敵は攻め寄せてくる。 「宗近! 主を正門へ!」 青江が叫んで、敵に向かって駆け出す。最前線の敵の中に飛び込んで、先頭の敵を斬りふせた。それに呼応して、同田貫がさらに敵へ果敢な攻撃をはかる。 俺は思わず、皆の元へ行こうとした。が、宗近が有無を言わせぬ力で俺を引きずって、ゲートへ向かう。ここで逃げられるわけないだろう!? そう怒鳴ろうと顔を上げたところで、俺はハッと息を呑んだ。 いつも悠然とした態度の宗近が、顔を歪め、唇を噛みしめていたのだ。俺の手首をつかんだ左手は、力を込めすぎぬように堪えているのか、微かに震えている。右手は腰にはいた本体の柄を、きつく握りしめていた。そうか、と俺は気づいた。この本丸で、いちばん新入りの宗近はもっとも練度が低い。彼とて、この状況で戦力にならない己を歯がゆく思っているに違いなかった。 そうする間にも、俺と刀剣たちのつながりがひと振、またひと振と消えていく。やがて、母屋の方から敵をかき分けるように斬りすてて、ボロボロの岩融と今剣が現れた。そのとき、俺は彼らが口を開く前に、何を伝えようとしているのか理解していた。 「おもやはてきにおちました」今剣が静かに言う。 「皆、主の刀剣であったことを誉れに思って、折れていったぞ!」あくまで豪快に、快活に、岩融が笑ってみせた。 「主、行って。ここは俺たちで死守するから。宗近を護衛に連れて行って」 きっぱりと言う加州に、宗近が「しかし」と声を上げた。 「主の供は初期刀であるそなたが適任であろう? 俺は練度が低い上、現世の事情にも疎い。ここに残るなら、俺の方が――」 「ダメ」 「なぜだ?」 「アンタは練度が低い上、夜目が利かない。正直、足手まといだよ。それに――」そこで、加州はふと優しい笑みを浮かべた。「最後に顕現されたアンタが、いちばん、主と過ごした時間が少ない。他の俺たちは、そこそこ主との思い出があるのに」 どうせこの世に刀剣男士として顕現されたからには、人の身をもらって主君を持つのがどういうことか、あんたにもっと知ってほしい。それが、どんなにうれしいことか。面白いことか。だから――。 宗近は、目を丸くして、それから、一瞬だけ今にも泣き出しそうな表情になった。すぐにそれを打ち消して、小さく頷く。彼は俺の手を引いて、正門の前に立った。ゲートが転移権限保持者――つまり、審神者である俺の存在を関知して、ギィと開いていく。 「清光、皆……!」 俺は皆に向かって、手を伸ばした。刀剣たちが戦いながら、ある者は振り返り、ある者は肩越しに手を振ってみせる。加州が正門の門柱に埋め込まれたパネルに触れて、手早く操作をした。ヴヴンと低い作動音と共に、正門が作動しだす。門の内部が淡く輝きだすのを、加州は正門の前に立って見守っていた。 「ばいばい、ある――」 あるじ。加州がそう言おうとした瞬間、走ってきてドンッと勢いよく彼にぶつかった者があった。大和守だ。その勢いで突き飛ばされて、よろめいた加州が正門の中へ転がり込んでくる。 「痛っ……! 何すんだよ、安定……!」 起きあがった加州が怒りの声を上げるのに、正門の前に立った大和守は笑っていた。 「お前心中なんか、ごめんだね。主と宗近と、さっさと行けよ、ばーか!」 「安定っ、このっ……!」 加州が怒りに拳を震わせる。その刹那。大和守の腹や胸から、三本もの刃が生えた。敵が背後から彼を貫いたのだ。大和守は、彼のかつての持ち主である沖田総司のように真っ赤な血を吐き出して、それでも、なおも微笑していた。 「どうか、逃げのびて」 祈るような大和守の声。その直後、正門の内部は輝きを増して、転移装置が作動した。敵に貫かれた大和守も、戦いの最中の刀剣たちも、炎上する母屋も。皆、光の中に消えてしまう。ブチリ、と刀剣たちとの霊力のつながりの多くが途絶えたのが分かった。 「嫌だ、皆! 俺も一緒に……!」 俺の叫びは、空しく光に呑まれた。 *** やがて、転移装置の輝きが収まると、そこは政府の施設と思しきだった。しかし、それにしてはどうも雰囲気がおかしい。ゲートから見える室内は明かりが消えて、薄暗い。 「――ここは……」 「俺は現世につながるよう、転移装置を操作したんだ。だから、普通に考えればここは政府のはずだよ」加州が言う。 「ふたりとも気をつけよ。……ここも、嫌な気配がする」宗近は厳しい眼差しで、前方を見据えた。 ともかく、本丸が襲撃されたのだから、政府に届けでて保護を受けなくては。俺たちは慎重にゲートから出た。直後、メキメキと音を立ててゲートが崩れおちる。間一髪のところで崩壊したゲートを振り返って、俺は自分がもはや作動するのが不思議なくらいボロボロのゲートを使ったことに気づいた。 だが、おかしな話だ。 俺が宗近と政府の担当者の面談に訪れたのは、わずか二週間前。普通に使っていれば、いくら何でもたった二週間で転移ゲートがボロボロになることなんてありえない。チラリと転移する時代を間違えた可能性が、頭を横切る。ここはずっと未来なのではないかと。 二三〇二年現在の技術では、時間を過去に飛ぶことはできても、未来へ行くことはできない。過去はすでに過ぎ去ったある時点であるため、転移が簡単だ。時間を滝にたとえると、現代は滝の半ば、過去は滝の下流ということになる。転移のエネルギーが比較的、少なくてすむのだ。ところが、未来へ転移するとなると、滝の半ばから滝の上まで遡るのに似て莫大なエネルギーが必要となる。現実問題として、二三〇二年の転移装置ではそのエネルギーをまかなうことができないだろう、と言われていた。 仮に未来に転移できるとしたら、それは今にはない画期的なエネルギー変換技術が発明されてからになるだろう、と。 「どこなんだ……ここは……?」 ともかく、様子を探らねばならない。加州を先頭に、俺たちは廊下へ出た。どこかから漂ってくる、焦げくさい臭いが嗅覚を刺激する。火災が発生しているのかもしれない。 「ともかく外へ出ないと。仮に火事だとしたら、ここにいたら俺たち溶けちゃう」 加州がそう言ったのを機に、俺たちは建物の外を目指しはじめた。そうして、エントランスホールに近づいたときだった。廊下に誰かが倒れているのが見えた。ツンと錆びた鉄のような臭いがして、その人物が血を流しているのが分かる。 思わず駆け寄ろうとした俺を、背後から宗近が抱きしめて留めた。何をするのかと言おうとしたときだ。エントランスホールの方から、ぬっと姿を現したものがあった。歴史修正主義者の操る刀だ。驚いた俺は、危うく声を上げるところだった。ここはおそらく政府施設。そこに、歴史修正主義者の刀がいて、傷つきたおれた人間がいるということは――政府さえも陥落したというのだろうか。 のぞいて見れば、エントランスホールにはさらに数人、人々が倒れているのが見えた。男もいれば、女もいる。格好からして、その多くは政府施設の職員のようだった。 俺の知る現世は、政府の治める退屈な世界だった。戦争は、外国での出来事。日本国内でも歴史修正主義者と戦っているとはいえ、傷つくのは刀剣男士のみ。民間出身の審神者が傷つくことは、決してない。政府が国を統治するという秩序が崩れるとは、大半の国民が夢にも思わなかったはずだ。 いったい、今、何が起こっているのか。俺はひどく混乱してしまった。 「しっかりして、主」加州が小声で叱咤する。 「そうだ。玄関の敵はまだ数が少ない。隙をつけば、何とか脱出できるだろう」宗近も言った。 短い打ち合わせの後、俺が囮として敵の注意を引くことになった。加州も宗近もこれには反対した。だが、仮に加州か宗近が囮をしたとしても、敵も刀剣男士に対しては警戒するだろう。相手の油断を誘うには、ただの人間である俺がもっともふさわしい。そう、二人を説得した。 それから、俺はエントランスホールへ飛び込んでいった。ホールにいた敵は三体。その注意が一瞬にして、俺に集中する。肌がヒリつくような殺気に、へたりこみそうになりながらも出口へと駆けていく。 と、敵の一体が俺に向かって突進してきた。風のように走ってきた加州が、そいつを斬りすてる。さすがの機動性。その加州を攻撃しようとした敵を、追いついた宗近が倒した。返す刀で落ち着いて残りの一体も斬ったところは、練度が低くとも天下五剣というところだろうか。 「行くよ」 加州が短く促す。俺たちはエントランスホールから外へ出た。途端、信じられない光景が目に飛び込んでくる。林立するビルの稜線が、夜空を背景にあちこち燃え上がる炎に彩られていたのだ。街全体のあちこちから、火の手が上がっているのである。 「嘘だろう……?」俺は呆然と呟いた。 「逃げ場はない、か……」宗近が低く呻く。 「それでも、逃げなきゃ。……俺たちは助かるって、安定たちと約束したんだから」と、加州。 確かに加州の言うとおり、この政府施設にいても助かる見込みはなかった。何とかして、安全な場所へ向かわなければならない。俺たちは敵を避け、敷地に倒れる人々の脇をすり抜けて、政府施設から外へ出た。 夜空には夜よりも暗い、直径十メートルほどの巨大な球体が浮かんでいた。そこから、異様な霊圧が感じられる。 「……あれは、異界……」 俺は呆然と呟いた。本丸のような異空間を利用するようになって発見されたのが、異界と呼ばれる混沌の空間だ。そこは、イザナギとイザナミの国造り以前に存在していたという無秩序な場所。一度、異界が口を開いてしまったら、人間の力でコントロールすることはできないと言われている。 霊的仮想空間である本丸サーバーネットワークならまだしも、現世で異界の入り口が出現するなんて。 これは何かの間違いではないのか。――悪い夢だといってくれ。そう祈りながら進むうち、政府施設の建物の正面に掲げられたデジタル時計が目に入る。最新のエネルギー技術を利用したその時計は、確か、狂うことがないと謡われていたはずだ。 ――二三〇二年年三月二一日。 その表示に、俺はハッとした。ゲートから出たとき、ここは未来かと思ったけれど、何のことはない。ここはまさしく、俺の生きる時代だった。俺の時代で、日本は崩壊するというのか。なんてことだ。 「主! 立ち止まらないで!」 加州が鋭く言う。しかし、あまりの衝撃に俺は動くことができない。と、戻ってきた宗近が俺を軽々と抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこ。しかし、俺は抗議する元気もなければ、自分で歩こうという気力も湧いてこなかった。 「しっかり掴まっておれ」 そっと宗近が囁く。俺は彼の狩衣を握りしめた。宗近は返事のように一瞬、俺を抱く腕に力を込める。それから、加州を追って走り出す。 さすがに、刀剣男士ふたりは速かった。加州は打刀の中では、長谷部や山姥切に次いで機動性が高い。宗近は機動値の上では加州に劣るはずだが、それでも俺よりずっと速かった。飛ぶように、破壊された街並みが背後へ流れていく。傷つき、あるいは倒れた人々も、炎を上げる建物も。 やがて、街中のある場所までやって来たときだった。 「――待って。誰かの声が聞こえる」立ち止まった加州が言った。 「声……?」 言われて、俺はふと気づいた。 日本全国の主要都市は、街の一定の範囲ごとにシェルターを設けられている。天災や、万が一の緊急事態の場合のためだ。特に、この首都のシェルターは歴史修正主義者の大規模テロも想定して、簡単な転移装置も持っているくらいだ。 ともかく、シェルターの入り口を発見できれば、少なくとも一時的に避難することができる。転移装置を利用すれば、異界から逃れられる。異界の影響から逃れるには別の異空間か過去にでも飛ぶしかないのだ。 「加州、宗近! 人の声がする場所を探してくれ。シェルター……つまり、避難場所があるはずだ」 俺の指示で、加州と宗近が辺りの探索を始めた。そうする間にも、頭上の異界の入り口は肥大していく。同時に嫌な気配を感じて、俺は振り返った。通りの角を曲がって、敵の刀の一群が現れる。 太刀、大太刀、槍……。いわゆる高火力の刀ばかりだ。とっさの事態で、こちらも身を隠すことができなかった。 「加州、宗近……!」 「主は隠れておれ」 宗近が俺をアスファルトの上に降ろす。しかし、そうは言われても隠れ場所はない。それに、俺も二人を置いて逃げるつもりはなかった。このまま離れたら、もう二度と会えない――そんな予感があったからだ。 「嫌だ。俺も一緒にいる」 「主、聞き分けよ!」宗近が怒った。 そのときだ。 「待って、二人とも。こっち」気配を探りつづけていた加州が、顔を上げる。「こっち」ともう一度、促されて俺と宗近は顔を見合わせた。「たぶん、主の言ってた隠れ家がある。走るよ――」 加州の言葉と同時に、宗近が俺を抱き上げる。俺たちは加州を先頭に走り出した。後ろから敵の刀たちが追ってくる。が、いかんせん、あちらは機動が遅い。何とか追いつかれることなく、加州の指さした場所――あるビルの地下への入り口までたどり着くことができた。 地下への入り口の扉は閉ざされている。見れば、そこには確かに避難施設という表示がしてあった。だが、パネルに触れてみても開かない――。 「開けてくれ!」俺はドアを叩きながら叫んだ。「誰か、いるんだろう!? 開けてくれ! 敵に追われてるんだ!」 「どけ、主。その扉を斬る」 宗近が俺を降ろし、刀の柄に手を掛ける。と、どこかのスピーカーから男の声が聞こえてきた。 『やめろ。ここは満員なんだ。余所へ行ってくれ』 「じゃあ、俺たちのことはいいから、うちの主だけでも――」 加州が前のめりになる。そんな彼を押しとどめて、俺は前へ出た。 「申し訳ないが、入れてくれ。俺たちはそこに居座るつもりはない。そこには簡易の転移装置があるだろう? それを使わせてくれるだけでいいんだ」 『転移装置? たしかにあるが……あれは使えない』 「そう、普通なら転移装置は使えない……過去への時空ポイントを設定するか、異空間に場を形成するための霊力がなければ」 転移装置を悪用できないよう、政府は過去に転移する場合、歴史修正主義者の戦場のある時代・地域のみに飛ぶように時空の『道』を固定してしまっている。また、本丸サーバーネットワーク内に転移するならば、本丸に飛ぶか霊力を使って新たに『場』を形成しなくてはならない。つまり、シェルター内に時空転移装置があったとしても、民間人には無用の長物なのだった。 だが、審神者ならば話は別だ。俺は交渉のためのカードを切る。 「俺は審神者だ。転移装置が使える」 『審神者だって……?』 「ああ。それだけじゃない。霊力で異空間を形成して、そこにいる民間人の何割かを避難させてやることもできる」 『本当か?』 「もちろん。あんた方にとっても、悪い取引じゃないはずだ。あんた方から見えているかは分からないが、外の空には異界の入り口が出現している。あれが開いたら、シェルターにいても助かるかどうか分からないぞ」 そう言う間にも、背後には敵が迫っているようだった。宗近と加州が、本体を抜く。敵には複数同時攻撃のできる大太刀がいる。交戦が始まれば、宗近や加州はともかく、俺は最初のひと太刀で即死だろう。 「早く決めて、扉を開けろ!」 そう叫んだ瞬間だった。シュッと音を立てて、シェルターの扉が開く。俺たちは転がるように中へ駆け込んだ。しかし。ガンッ! 閉じかける扉の、わずかな隙間に槍が突き込まれる。それにセンサーが反応して、扉が半開きのままで停止した。 「このっ!」 加州が扉の隙間から、突きを繰り出した。それが敵に命中したのかどうか。グラリと揺らいだ槍の半ばを、宗近が本体で断ち切る。ガチャンと槍の穂先が床に落ちた。 切断された槍の柄が消えると同時に、シェルターの扉が閉じる。俺はホッとして、思わず壁に背を預けた。宗近は静かに刀をしまい、加州もすぅと長い息を吐いている。 そこへ、コツリと足音が聞こえた。 エネルギー節約のためか、絞られた照明の下に現れたのは、壮年の男だった。スーツ姿で、政府の職員であることを示す小さな職員章を胸元に留めている。 「三日月宗近と加州清光を連れている……。君は本当に審神者なんだな」 「宗近と加州のことを知ってるってことは、あんたは審神者関連の仕事をしているのか?」 俺は尋ねた。が、男は首を横に振る。 「ちがう。私は都市計画省の職員だ。同期で国家公務員試験に合格した友人が審神者関連省庁にいたから、少し知識があるだけだ」 「そうか」 それより、と政府職員の男は切り出した。このシェルターでは危険だというなら、早く転移装置を使って民間人を何割かでも脱出させてほしい、と。手っとり早く転移ができるなら、それは俺にとっても願ったりかなったりな話だった。 転移装置に案内してほしい、と頼む。政府職員はすぐに俺たちをシェルターの奥へ連れていった。シェルターの奥、おそらく無人ならばちょっとした体育館かホールくらいの広さはあるであろう場所に、人々が集まっている。街中のオフィス街や繁華街の最中ということもあって、成人が多いようだった。スーツ姿のサラリーマンや、飲食店の従業員らしき格好の若者。ドレスに身を飾ったホステスのような女性や、観光客なのか外国人の姿も見える。それに、家が近いのか、避難してきたのか、家族連れの姿も少しあった。 不安げに身を寄せ合う彼らの間を通って、俺たちはシェルターの奥へと向かう。いちばん奥に、小さなドアが見えた。政府職員の男がドアを開くと、そこに転移装置の構造が見える。 「使い方は分かるか?」 政府職員が尋ねるのへ、俺はうなずいた。「大丈夫だ」操作パネルに触れると、スリープ状態であった転移装置が機動する。電源ランプが灯って、小さく稼働音が上がりはじめた。 俺は操作パネルで、転移のための設定をしていった。 過去ではなく霊的空間である本丸サーバーネットワーク上に座標を設定。まず、俺の霊力を使ってそこに『場』を形成するように指定する。審神者と刀剣男士が使う本丸を作るなら、きちんと結界を張ったりしなくてはならないので、一瞬で『場』を形成するような博打はできない。しかし、今回はとりあえず、この現世からの避難所を作ることができればいいのだ。そう難しいことはない。 設定は五分ほどで終了した。 「それじゃあ、まず、俺と加州、宗近が転移する。あんた方は異空間に来る人選をしておいてくれ。何人、収容できるかは俺の霊力がどれくらい保つかにかかっている」 俺の言葉に、政府職員は重々しく頷いた。そのときだ。入り口付近で悲鳴が上がった。と、同時にガクンと建物が揺れる。 いったい何が――。 振り返ったときだった。バリバリと轟音と共に、天井がはがれていく。大小のコンクリートの破片が降り注ぐ。シェルターに避難していた人々は、悲鳴を上げて逃げようとした。傷ついた者の絶叫。我先に逃げようと争う人々の怒声。子どもの泣き声。すべてを諦めたのか、その場でうずくまった誰かの祈りの声。 俺は呆然と空を見上げた。空に浮かぶ異界が急速に肥大して、無数の真っ黒な触手を伸ばしてくる。人々はまるで人形のようになす術もなく触手に絡めとられて、異界に取り込まれた。 さらに、割れたシェルターの天井の向こうに見える街並をも貪欲に飲み込んで、異界がいっそう巨大化する。滅亡の文字が脳裏で明滅した。 そうだ。 現世でここまで異界が口を開けてしまっては、もはや封印する術などあるはずもない。異界とは原始の混沌。底がなく、すべてを飲み込んでしまう。ぜんぶ終わりだ――。 「……主! 転移装置を動かして!」 加州が叫ぶ。俺はその意図に気づいたが、動けなかった。だって、このまま本当に日本が――この世界が異界に呑まれて滅びるのならば、俺たちだけが逃れて何になる? 他のすべての人を、ものを見捨ててまで生き延びるほどの価値が、俺にあるはずがない。 「無理だ、加州。俺にはできない」 「主! どんなに少しでも生きのこる可能性があるなら、それを捨てちゃダメだ!」 「できない……」 俺は頭を振る。加州はキッと俺をにらみつけた。かと思うと、俺の胸倉を掴んで宗近の方へ突きとばす。「宗近、主を連れて転移装置の中へ」と加州は低く告げた。 「加州……!?」 「もう転移装置はだいたい準備できてる。ここからなら、何度も出陣のときに転移装置を操作した俺でも動かすことはできる」 「聞いてくれ、加州……。俺はもう、いいから……」 懇願するが、加州は聞かなかった。宗近に「早く装置へ」と厳しい表情で促す。その迫力に気圧されるように、宗近は抵抗する俺を引きずって転移装置へ入った。 「ぜったい、ぜったい、俺は主に可能性を諦めさせたりしない」加州はパネルを見据えたまま、低く呟いた。「だって、今、この時は沖田君や土方さんや――皆の元の持ち主たちが生きた先にある時間なんだ。ここで諦めたら、生きて歴史を作ってきた人間たちに申し訳ないよ。……そうでしょ?」 その呟きを聞いて、俺の腕を握る宗近の手に力がこもる。振り返れば、宗近も苦しげな表情をしていた。この状況がとても残念だというように。 「加州……。宗近……」 やがて、加州がパネルの操作を終えたようだった。転移装置が本格的に稼働音を上げはじめる。それを見届けて、加州は自分も転移装置に入ろうとした。 その刹那だった。異界から伸びた漆黒の触手が、加州の左足を捉える。グィと引っ張られそうになる彼の右手を、俺はとっさに身を乗り出してつかんだ。グン。強い力に引かれて、前のめりになる。このままでは、俺も一緒に引っ張られそうだ。 「主! 俺の手を離して!」加州が叫ぶ。俺は歯を食いしばって踏ん張りながら、首を横に振った。すると、加州は今度は宗近に呼びかける。「宗近! 主を俺から引き離して! 刀剣男士の誇りにかけて、主だけは守らなくちゃいけないんだから……!」 その言葉に、宗近が動いた。彼が俺の肩を掴む。 「加州の言うとおりにしろ、主。手を離せ」 「嫌、だ……! なんで……」 なんでお前まで、加州を見捨てろと言うんだ。 俺は抗議しようと、宗近の顔を見た。そこで、ハッと息を呑む。宗近は顔を歪めていた。天下五剣でいちばん美しいと謡われ、顕現した姿も完璧なほどの美貌を誇る彼が。美しい顔(かんばせ)を歪めて、まるで幼子のように泣き出しそうな表情をしていたのだ。 そして……たぶん、その表情は俺と同じだった。 「許せ、主」 宗近は手刀で、加州の腕をつかむ俺の手を打った。痛みと衝撃で力が緩む。スルリと呆気なく、加州の手は俺の手の中からすり抜けていった。 「加州っ!!」 宗近が俺を抱きとめる。その腕の間から、俺は必死に手を伸ばした。もちろん、加州にその手は届かない。触手に引きずられ、宙につり上げられながら、加州は綺麗に笑ってみせた。 「主っ! 俺、主の刀で幸せだった! もしも時を繰り返すとしても、俺は何度だって主の初期刀になりたいよ……!」 ――だって、あいしてるから。 そう告げたとき、加州の身体に黒いヒビのような模様が広がった。そのヒビから黒が彼の身体を浸食して――。パリンと音を立てて、加州であった人の形が粉々に砕ける。真っ黒な無数の破片が、異界から伸びた触手に取り込まれて消えていった。俺の中から、加州との絆か消えるのが分かる。 俺が呆然とする中、転移装置が稼働する。輝きが装置自体を覆ったとき、黒い触手が伸びてきた。装置の一部にからみつき、取り込もうと力を込めてくる。グラグラと装置が揺れて、宗近は俺をかばうように抱きしめた。けれど、俺は恐怖すら覚えなかった。加州が消滅したことがショックで、すべての感覚が麻痺していたのだ。 装置が常にない赤い光に明滅する。 まがまがしい光に辺りが包まれて、そして――。 *** 気がつけば、土の匂いがした。本丸の畑で土いじりをしたとき、よく感じた匂いが。目を開ければ、周囲で小夜や愛染、厚なんかが遊んでいるのではないかという気がした。 俺は死んだのかもしれない。ここはあの世なのかも。 だとしたら――加州や、俺の刀たちに会えるだろうか? それとも、彼らは本霊に還ってしまっていて、再会はできないのだろうか。そんな不安に、目を開けるのが怖くなる。 と、優しく身体を揺さぶる手があった。 「主……。主……無事なのだろう……? どうか目を覚まして、無事だと言ってくれぬか……?」 響きのいい宗近の声が、幼子のような不安に歪んでいる。少なくとも、宗近はそばにいてくれるのか。少し安堵して、俺は目を開けた。不安そうに俺をのぞきこんでいた宗近の顔が、ほっと綻ぶ。「よかった。もう目覚めぬかと思った」すがるように、宗近は身をかがめて俺の肩口に顔を押し付けた。スンとかすかな音。泣いていたのかもしれない。 けれど、顔を上げたときには、彼は普段どおりの完璧な美貌をしていた。きっと、泣いていたなんて俺の勘違い。 「……ここは……?」 「分からぬ」 答えながら、宗近が俺を助け起こす。身体を起こして見ると、そこはどこかの神社の境内のようだった。辺りに人の気配はなく、しんと静まり返っている。春の昼下がりの穏やかな日の中で、本殿の脇に植えられた桜の花がハラハラ舞いおちて地面につもるばかり。 俺は立ち上がった。宗近と寄り添うようにして、神社の本殿へ歩いていく。そこに何か手がかりがあるかもしれない、と思ったのだ。と、そのときだった。 パタパタパタ。軽い足音が響いてくる。隣りあった建物から、小さな子どもが渡り廊下を走ってくるのだった。この子は人間なのだろうか? 俺は呆然と、子どもを見つめていた。 「――どこへ行ったの? 本殿で遊んではダメと言っているでしょう?」 子どもを追いかけるようにして、女の声が聞こえる。少し遅れて、淡い水色の着物姿の女が渡り廊下に現れた。子どもに追いつこうとした彼女は、俺を見てハタと足を止める。 「……付喪神を連れた方……。あなたは、いったい……?」 「宗近が付喪神だと、知っているんですか?」俺は思わず尋ねた。 「――宗近……?」 「この男は三日月宗近。天下五剣のひと振『三日月宗近』の付喪神の……分霊です」 俺は傍らの宗近を示しながら言う。女は困ったように首を傾げた。 「なぜ、あなたは付喪神を従えていらっしゃるの……?」 「俺は審神者ですから」 「審神者……? 審神者とは、神と対話する役目の神職のことでしょう? それがどうして、付喪神を従えていらっしゃるの?」 女の言葉はいまいち要領を得なかった。いくら民間人とはいっても、審神者制度を知らない者はいない。何せ、一定の年齢が来れば必ず、審神者適性検査を受けることになるのだから。 まさか。 ふと思いついて、俺は女に尋ねた。 「あの、今年は何年ですか?」 「今年?」わけが分からない、という顔をしながらも女は答える。「今年は、二一一五年ですけれど」 「二一一五年……」 それは俺がいた時代より二〇〇年ほど前。 審神者制度開始より、十年も前だった。 |