はじまりの審神者3
※この回、性描写があります。 俺と宗近は、そのままいったん、目覚めたその神社に保護されることになった。神社の敷地の隣にある日本家屋の離れに、部屋を与えられて過ごしている。宗近はそばにいない。人外のモノがヒトである俺と常に一緒にいるのでは、悪い影響があるかもしれない、と神社の宮司が判断したのだ。 結果、俺は宗近と離されて、ひとり、離れで過ごしている。一日のほんのわずか間に、宮司の目を盗んだ様子の宗近が訪れる時をのぞいて、俺はほとんどぼんやりして過ごした。他家に厄介になっていて申し訳ないのだが、気力がわいてこなかったのだ。 加州のこと、仲間のこと、未来で救えなかった民間人たちのこと……。あのとき、ああしていれば。そのとき、あの行動に出なければ。そんな仮定ばかりが脳裏を回りつづけている。そうしていつも最後に至るのは、俺がもっと優秀な審神者であれば事態が違ったのだろうか、という後悔だった。 そんな俺を訪れるたびに、宗近は不安を感じたようだった。 「主よ。本当にこれでいいのだろうか? この神社に厄介になったままで、俺は主の傍にいることも許されないとは……」 宗近の言葉に頭を振った。この神社を飛び出して、やっていける自信がないのだ。前向きになるには、俺はあまりにも疲れすぎていた。 俺たちが未来から南雲神社にやってきたとき、遭遇した女――南雲静紅は神社の宮司の妻だった。俺は少しどうしようかと迷ったものの、宮司と静紅にすべてを打ち明けることにした。ぜんぶ聞き終えた後に、宮司と静紅は俺を居候させる判断を下したのだった。 まだ、歴史修正主義者が出現していないこの時代、審神者や刀剣男士の説明をしても理解してもらえるはずがない。また、俺はこの時代に身よりもない。不審者として警察に突き出されたら、非常にまずいことになる。そう思っていたので、宮司や静紅の判断はありがたかった。 しかし、同時に不可解でもある。彼らはなぜ、俺と宗近を保護しようと考えたのか。尋ねてみると、神主と静紅は顔を見合わせた。それから、静紅の方が俺へ顔を向けて答える。 「あなたは、付喪神を従えていらっしゃる。それに、現世の人と人の縁とはまた異なる縁を持っていらっしゃるようにも思います。おそらく、警察や行政機関ではあなたの状況を正しく把握して助けになることはできぬでしょう」 「それに」と神主が言葉を添える。「万が一、あなたが霊力を悪しき術に利用しようとするならば、警察では止めることができません」 そうそう縁もない相手の家で厄介になるなんて真似ができるわけがない。――そう思ったけれど、頼っていく縁者もない。左も右も分からない。ともかく、考える時間がほしい。そんな気持ちから、俺は南雲神社に居候させてもらうことに決めた。 南雲神社は、その土地でも大きく格式のある神社のようだった。社に仕える者も多い。境内や拝殿、本殿を袴姿の男女が行き交っている。俺はときどき、境内へ出て彼らの仕事を見ることもあった。けれど、基本的に俺は南雲神社の居候でしかない。すべきことはほとんどなくて、静紅の五歳になる息子――南雲煉と遊んでやるのが、いちばんの仕事だった。 ぼんやりとしているうちに、一週間、十日と日々が過ぎていく。夜毎、俺は夢を見た。加州を、仲間を失った上、宗近までいなくなる夢を。夢はひどくリアルで、俺は次第に不安を覚えるようになった。これは、悪いことの――つまり、宗近を失うということの前兆ではないのだろうか? 身よりもなく、まったく勝手の分からないこの過去の世界でひとりきりになったら、俺はどうしたらいい? 強烈な不安だった。未来で異界を前にして死を覚悟した瞬間と比べても、今の孤独になるかもしれない恐怖の方が強い。 ひとりは嫌だ。この世で天涯孤独の身になるくらいなら、宗近をなんとしてでも俺につなぎとめておきたい。万が一、宗近が破壊されるなら、その瞬間に俺の生命も消えてしまえばいい。それは、愛情から出た執着ではなかった。孤独を恐れる弱さから、俺は宗近を求めているのだった。――だが、それの何が悪い? 俺の刀は、宗近をのぞいてすべて失われた。宗近はこの手に残った唯一の刀剣男士なのだから……。 俺は、孤独をおそれるあまり、半ば狂っていたのかもしれない。ある日、締め切った暗い部屋の中でひとり。審神者になる前に覚えた手管で、自分の身体をひっそりと拓いた。身を清め、油を用いて後孔に指を含ませる。クチクチと微かに鳴る水音と、口からこぼれる熱っぽい吐息と。挿入した指を小刻みに動かしながら、閉じていたソコを、雄を受け入れるための密壷へ変えていった。 やがて、夕刻になる頃、前日の約束どおりに宗近が離れへ現れた。近づけば、彼からは微かに草の匂いが香る。 「さっきまで何をしてた?」 「煉と遊んでいた。花輪の作り方を知らぬと言うので、教えてやっていたのだ」 幼子が親にその日の出来事を話すように。楽しげに宗近は言った。そういえばこんな風に話す奴だったのか、と俺は今更のように気づく。 「……お前は花輪の作り方、知ってるんだ?」 「ああ。顕現してから……江雪に教えてもらった」 「――江雪に……?」 「小夜は細川家にいたこともあったせいか、風流を解する性質でな。四季の花を好むらしい。その小夜を喜ばせてやりたくて覚えたと言っていた」 そういえば、と思い出す。本丸の畑の傍には花畑があった。江雪は内番が多めなので、よく畑と花畑の世話をしていたものだ。確かに俺がたまに畑に顔を出すと、江雪は花畑で小夜や乱、ときには宗三にも花輪を作ってやっていたっけ。それだけじゃない。本丸の四季が変わったときには、決まって俺にも花輪を作ってくれていた。 ――でも、皆、もういない。 俺は胸が苦しくなるのを堪えて、笑みを作った。話を続ける。 「……宗近はなんで、花輪を教えてもらったんだ?」 「美しかったからだ。人の姿を得てはじめて、花や空や……四季の美しさが分かった。だから、この手で触れてみたかった」宗近は月の宿る瞳を好奇心に輝かせていた。完璧な美貌で、幼子のようにあどけなく笑う。「おかしなものだろう? 刀として千年も存在してきたというのに、人の姿をして初めて分かることがあるというのは」 「そうだな」 頷く俺を見て、宗近はふと心配そうな面持ちになった。 「……主は、大事ないか?」 「え?」 「本丸を失ってから、そなたはひどく落ち込んでいる。それは無理もないことだ。だが、今日は……いつも以上に何か――」 そう言う宗近の言葉に、俺は改めて自ら拓いた我が身の疼きを意識した。この腹の内で、目の前の美しい男を地に引きずり落としてでも自分につなぎとめようと決心したことを。 俺は宗近に手を伸ばした。 「……主?」 あどけなく目を丸くする宗近の肩を、やんわりと押す。きっと、彼なら簡単に抵抗できるくらいの力。それでも、なぜか宗近はされるがままに畳の上に押し倒された。俺はその上に身を乗り上げる。 形のよい唇に自分のそれを重ねて、唇をついばんだ。そうしながら、宗近の衣装をまさぐる。宗近は俺の腰をやんわりと掴んでいた。抵抗の意思はないようだ。俺は宗近の腰の位置をずらして、衣装ごしに宗近の性器に自分の臀部があたるようにした。疑似セックスのようにそこに臀部をすり付けながら、複雑な狩衣を乱していく。 「宗近……むねちか……」 吐息混じりに名を呼ぶと、宗近は腰をつかんでいた手を俺の背に移動させた。トントンと軽く節を付けるようにして、背中を叩かれる。まるで幼子をあやすかのような態度に、俺はハッとした。淫靡な動きを止めて、顔を上げる。宗近は、俺と視線が合うと小さく首を傾げた。 「……主が求めているのは、これでよいのだろう? 俺は、今度はちゃんと、主の求めることを理解できているだろう?」 「……宗近。俺は……」 「そなたは、泣きたいのだろう? ちゃんと分かっている。主は一人前の男だから、涙を恥じるのかもしれぬが……俺は、そなたのつらさを知りたいと思う」 違う。そうじゃない。 そう思ったけれど、気が付けば涙があふれていた。もはや行為に誘うことも忘れて、俺は宗近の胸に突っ伏して泣いた。宗近はやんわりと俺を抱きしめて、トントンと軽く背中をたたきつづける。その腕の温かさに、一定のリズムに、俺は自分がひどく安堵していることに気づいた。 同時に寂しくなる。 人間の生々しい欲望を知らぬ、無垢な刀剣。宗近はやや見当違いとはいえ、精一杯、俺に歩み寄ろうとしてくれている。それなのに、俺ときたらどうだ。自分のつらさしか考えられなくて、たったひと振、残ったこの優しい付喪神を人間の泥臭い欲求に引きずり落とそうとした。それでも、なお、宗近は俺を心配してくれるのだ。 俺は、何をしているのだろう――。 そう思って、情けなく感じたときだった。 「――失礼いたします」 部屋の外から、女の声が聞こえる。静紅だ。「少し、よろしいでしょうか?」と問われる。その声の決然とした響きに、俺はギクリとした。静紅が何のためにこの離れへ来たのかは分からない。それでも、俺は彼女が何を話そうとしているのか、察することができた。 ぎこちなく、宗近の上から身を起こす。 「主……?」 不思議そうな顔をする宗近に、微笑してみせた。「……お前のおかげで、十分、泣かせてもらったから」そう言って立ち上がる。乱れた着物を手早く直した。宗近にも、狩衣を直して彼の部屋へ戻るように告げる。それから、俺は廊下へ出た。 「――どこか違う場所で話しましょう」 そう提案すると、静紅は小さく頷いた。怒っている顔ではない。ただ、少し悲しげな表情。「分かりました。では、こちらへ」と、彼女が俺を連れていったのは、母屋の隅にある小部屋だった。物置に使われているのか、箪笥や座布団が取り留めもなく放り込んである。古びたモノの発する匂いが、嗅覚に触れた。 「お話というのは、あなたとあなたが従えている付喪神――三日月どののことです。このままでは、彼は穢れに堕ちてしまうかもしれません」 静紅に言われて、俺はびっくりした。 宗近は、完璧な美貌とは裏腹に、幼子のように無垢な性格だ。何事にも絶対はないが、今のところ宗近が穢れに染まって闇堕ちする気配はないように思う。危ういとしたら、むしろ俺の方ではないか、というくらいだ。いったいどういうことなのか。 「何か、宗近が闇堕ちする兆候があるんですか?」 「三日月どの自身に問題はありません」 「では、どうしてそんなことを?」 「大変、言いにくいことですが……あなたと三日月どのの関係が危ういのです。主従の契によって、密接につながっている。その一方であるあなたは、精神的に不安定」 「……俺のせいで、宗近が闇堕ちすると?」 「可能性があるのです。不安定なあなたの精神は闇を呼び込みやすい。けれど、あなたは人間ですから、そう簡単に存在が揺らぐことはありません」 静紅が言うには、人間は物質的な存在であるから、心が病んだとしても簡単に闇堕ちすることはないのだという。だが、付喪神は違う。彼らは末席の神――モノに宿る精霊の一種だ。本来、物質世界に実体を持たない付喪神は、人の心の影響を受けやすいのだという。 そういえば、と俺は審神者になるときの研修を思い出す。刀剣男士は、霊的な存在である付喪神の分霊を、審神者の霊力によって物質化して、肉体を持たせている。とはいえ、彼らは非物質的な存在としての性質が強い。そのため、審神者の霊力による手入れで傷が治癒するのだと。 だとしたら、審神者の心に影響を受けやすいのは当然だ。 「あなたの心が呼び寄せる闇や穢れを、三日月どのは まともに受けてしまいます。たとえ彼自身が無垢だとしても……いえ、無垢であるからこそ、穢れに染まりやすい」 「そんな……。それなら、俺はどうしたら……」 「――三日月どのとの主従関係を断ち切って、しばらく距離を置いた方がよいのではないかと」 「宗近と俺が離れる……?」 俺は目を見開いた。 宗近は、俺の手の中に残った、唯一の刀剣男士だ。せめて宗近だけは、何としてでも失いたくない。そう思って、つなぎ止めようとしたけれど。俺が宗近とつながっていること自体が、彼を闇堕ちさせることになるかもしれないだなんて。 宗近と離れたくない。そう思って、俺は拳を握りしめた。そのときだ。ふと、先ほど、宗近が俺を柔らかく抱きしめて、あやしてくれたことを思い出す。唯一、残った俺の刀――優しい、無垢な付喪神。俺が誘っているのに、泣きたいのだと勘違いをした頓珍漢な宗近が、好きだと思った。ずっとあのまま、無垢でいてほしいと思った。 だから。 俺は顔を上げて、静紅と目を合わせた。 「分かりました」ときっぱり告げる。「俺は、宗近を手放しましょう。主従の縁を断ち切って、この神社に宗近の寄代を奉納することにしましょう」 「納得してくださいますか」 「宗近のためですから。……でも、条件があります」 「条件ですか……?」 静紅がわずかに首を傾げる。俺は自分の思う条件を彼女に告げた。俺の言葉を聞くうちに、静紅は次第に顔を強ばらせていく。 「そんな……。本当によいのですか?」 そう念を押す彼女に、俺は静かに頷いた。 *** 二日後、俺は宗近の不意をついて、彼を刀の姿に戻した。宮司に頼んで、それを南雲神社に納める。儀式を終えると、宗近と俺をつないでいた縁は無にはならないものの、ひどく薄くなってしまった。主従の縁よりも、南雲神社に祀られる火の神・迦具土神に従う者であるという縁の方が強くなったらしい。 宗近を奉納してしまうと、俺は宮司と静紅に南雲神を出ていきたいと打ち明けた。この俺の申し出にふたりは驚いたようだった。宗近を奉納するという意思は、先日、静紅と話したときに伝えてあった。宗近を誘おうとした、あの日に。静紅はその俺の言葉を受けて、宮司に刀剣奉納の準備をするようにと言ってくれたのだ。しかし、俺自身が去るということを伝えたのは、奉納が終わったこのときが初めてだった。 最初に俺の事情をすべて打ち明けてある宮司と静紅は、俺の意思に困惑の表情を見せた。 「ですが、この時代に知り合いもないのでしょう?」静紅が言う。 「うちにいらっしゃればいい。息子……煉もあなたになついておりますし」宮司も俺を引き留めようとする。 「そういうわけにはいきません。働かないと」 「仕事が必要ということでしたら、うちの神社で出仕として働いてくださればいい。いずれ、仕事に慣れれば資格を取って、権禰宜に進む道もありますし……」 宮司の申し出に、俺は首を横に振った。 もう宗近が俺のものでなくなった今、彼の傍にいるのはつらすぎる。いつ、また自分の元へ取り戻したいという欲望に駆られるか分からない。そうしたら、きっと自分によくしてくれたこの神社の人々に迷惑を掛けることになる。 それくらいなら、宗近から離れるべきだと思った。 「……もう、決めたことなんです。どうか行かせてください」 その言葉で、宮司夫婦は俺の説得を断念したようだった。 翌日、わずかな荷物をまとめて、俺は南雲神社の参道の階段を降りようとしていた。こちらの姿を見つけて、境内でひとり遊んでいた煉がパタパタと駆けてくる。 「……どこへいくの……? みかづきは……?」 「俺はひとりで行くんだ」 「三日月をおいていくの? かわいそう……」 煉は宗近の気持ちを想像したのか、泣きそうに顔を歪めている。俺は手を伸ばして、彼の頭を撫でた。 「あいつのためなんだ」 「三日月の……? 三日月は、きっとかなしむよ?」 「そうだとしても、これは宗近のためなんだ。宗近自身が悲しむとしても……俺がそばにいたら、あいつがダメになるから」 「……どうして……?」 泣き出しそうな声で問う煉に、俺は苦笑した。子どもに「なぜ、なぜ」と問われて苦労するという知人の子育て話を、ふと思い出す。確かに、子どもはこちらが上手く言葉にできない部分まで質問してくるものらしい。 「どうしても」と俺はおおざっぱな答え方をした。そもそも、そんなに子どもが得意じゃない俺が、上手く煉の相手をできるはずがない。「どうしても、俺はひとりで行かなきゃならないんだ。……もし、宗近が泣いたら、煉が傍にいてやってくれ」 俺の言葉に、目に涙をためた煉は納得できないという顔をしていた。 [newpage] 二一〇〇年代で生きることは、最初に考えていたよりも難しくはなかった。この時代にろくな身元もなくまっとうな暮らしをしようとすれば、確かにそれは困難だろう。しかし、とりあえず生きていくくらいなら、どうにでもなる。審神者として政府に飼わる間に忘れてしまっていたけれど、そもそも、俺だって育ちがいいわけではない。審神者になる前は二三〇〇年代で細々と生きてきたのだ。 二一〇〇年代は、二百年後の俺が生まれた時代に比べると豊かな時代だった。時間遡行法が発見され、しかし、いまだ歴史修正主義者は現れていない。第二次世界大戦以降、戦争を経験せずに平和のうちに繁栄してきた日本の豊かさが、いまだ残る時代。治安の悪化は年々、指摘されているものの、それでも荒廃した二三〇〇年代を知る俺にとっては繁華街でさえ安全に思える。 俺は繁華街の一角にあるクラブで、ウェイターの仕事を得ることができた。家はクラブのオーナーの持つアパートだ。そこには、クラブで働く女性たちが多く住んでいる。女の子同士で喧嘩したり、彼氏や彼女と修羅場を演じたり。アパートは何かと騒がしい。けれど、俺に文句はなかった。 仕事があって、食っていけるだけで十分だ。 二三〇〇年代なら、こうはいかなかっただろう。歴史修正主義者との戦が長期化し、戦費の膨らんだ社会。裕福な夫婦の下に生まれるか、養子にもらわれるか。そうでなければ、高校以上の教育を受けることは難しい。職業も限られてくる。一発逆転をねらうなら、何とか誤魔化してでも審神者の適性試験に合格して、審神者になること。そうすれば、どんなクズだって政府が飼ってくれる。 もともと、俺は審神者適性試験の結果を、誤魔化したクチだった。普通には食っていくことができなくて、バイトと、それに身体を売ったりもする生活が嫌だった。だから、ろくな適性もないのだけれど、審神者適性試験にかかわる政府関係者と寝て、便宜を図ってもらったのだ。だから――刀剣男士をすべて失うことになったって、仕方がない。 それでも、深夜の仕事を終えた後。ひとりきりのアパートで、ふと寂しくなることがある。そんなとき、俺は自分に言い聞かせるのだった。本当は、俺は審神者になれるような人間じゃない。俺といない方が宗近だって幸せだ。きっと、これでよかった。 俺はひとりでやっていける。 そうして、半年が過ぎたある日のことだ。店の営業時間が終わって、俺は他のスタッフと共に片づけをしていた。そのときだった。店から出たところにある階段で、オーナーと顔を合わせる。会釈をしてすれ違いかけたとき、オーナーが俺の肘をつかんだ。 四〇前後といったところのオーナーは、自身もホストができそうなくらい華やぎのある人だ。彼はニコニコ笑いながら、尋ねる。 「――そういえば、ここに来て半年になるねぇ」 「そうですね」 「恋人はできた? 店の女の子とか」 オーナーの言葉に、俺は苦笑した。 「職場恋愛はしない主義です。面倒なことになるかもしれないし」 「恋愛でなく、遊びなら?」 そうたたみかけられて、気づく。俺はパチパチと瞬きをした。これは、もしかして誘われているのだろうか。反応に困っていると、オーナーは「強制する気はないよ」と続けた。 「遊び……ですか?」 「君、真面目なのはいいけど、あまりにも真面目すぎるから。ちょっと息抜きをした方がいいと思って」 「真面目……。俺が?」 俺は思わず笑った。素行に顔をしかめられたことはあるが、いまだかつて真面目と評されたことはない。オーナーの言葉をひどく新鮮に感じた。 「自分で気づいてなかった? うちのウェイターに応募してきたとき、君、すごく思い詰めた顔してたよ。思い詰めるのは真面目な証拠。だから、これは採用しないといけないなと思ったんだ」 オーナーは余裕めいた笑みを浮かべていたが、その眼差しはひどく優しかった。彼と恋愛ができたなら楽しいかもしれないなと、取り留めもなく考える。脳裏に宗近の顔が浮かんで消えた。少し考えさせてください、と答える。 仕事を終えた俺は、店を出た。ちょうど雨が降り出していて、小さく舌打ちをする。今日は雨の予報なので、傘は携帯していた。だが、もう少し早く帰れていれば、傘を使わずに済んだのに。そう思いながら、傘を開いて大通りへ出る。 深夜の大通りは、昼間よりは人が少ない。とはいえ、人通りが途切れることはない。街灯に照らされて、男女が行き交う道をふと見たとき、俺は目を疑った。 通りの真ん中に、宗近が立っているのだ。通行人は、狩衣姿で明らかに浮いている宗近の存在を、騒ぐこともない。まるでそこにいないかのように、通り過ぎている。 俺は驚いて――けれど、無視するわけにもいかず、宗近に近づいていった。迷子の子どものような顔をしていた宗近は、俺の姿を見つけるとはっと目を見開いた。よく見れば、その姿は薄く透けている。さらに異様なことに、空から降る雨は宗近の狩衣を濡らしていない。 ――あるじ。 宗近は唇を動かした。けれど、声が聞こえない。まるでここにいるのに、物質として存在していない幽霊のよう。 ――あるじ。 もう一度、宗近が呼ぶ。 俺はゆっくり手を伸ばして、彼の手に触れた。刹那。パリンと何かが割れるような音がする。その直後、降り注ぐ雨が宗近の髪や肩に降りかかりはじめた。ちょうど、今、ようやく宗近が実在しだしたかのように。見つめ合う俺と宗近にかまわず、雨はどんどん狩衣を濡らしていく。 「……主、会いたかった」 宗近は呟いて、俺を抱きしめた。往来で立ち止まる俺たちに、通行人は騒ぐでもない。ただ、邪魔だというように舌打ちしながら過ぎていく。 「宗近……これ、持って」 俺は宗近に傘を持たせて、寄り添うようにして彼の手を引いた。忙しく行き交う人々にまぎれて、自分のアパートに帰る。狭い通りの隅にあるそこは、宗近にはひどく不似合いだった。けれど、宗近が戸惑う様子はない。知らない場所に連れてこられた幼児みたいに、ぼんやりとしている。 彼の手を引いて、俺はアパートの自分の部屋へ入った。 「この部屋は……主の部屋か?」 尋ねる宗近に、俺は少し笑う。 「今は、ここが俺の『家』だ」 「『家』……? ここが……?」 宗近は部屋の真ん中に立ったまま、首を傾げている。俺は彼に近づいて、身体や衣装の濡れ具合を確かめた。狩衣は濡れているが、その下の単衣は無事なようだ。 よかった、と俺は安堵した。何しろ、俺と宗近の体格差からして、部屋にある俺の服を貸すことはできない。それでも手入れすれば衣装の濡れは乾くだろう。だが、もはや主従の縁の薄れた今、手入れが有効なのか分からない。いずれにせよ、宗近の衣装がさほど濡れていないのはありがたいことだった。 ほうと息を吐いたところで、宗近に尋ねる。 「何で、お前がここにいるんだ?」 「主に会いに」 「俺はお前を南雲神社に奉納したはずだ」 「そうだ。南雲神社の神域から、俺は出ることができなかった。……だが、俺が毎日、嘆いているのを見かねた煉が、外へ出してくれた」 俺は南雲神社の少年のことを思い出した。 「煉にそんなことができるのか?」 「あの子には、神子の資質がある。それも、おそらく主よりも強い」 「そりゃあ、俺は審神者といっても、ズルして審神者になったんだ。資質がないのは当然だ」 「主が、ズルをした……? 資質がない?」 宗近が呆然と目を見開く。そこで、俺はずっと本丸の刀剣たちには隠していた真実を打ち明けた。そもそも、本当なら俺では審神者になれるはずはなかったのだと。 「――だから、宗近、お前が俺を慕ってくれるのは何かの間違いなんだ。錯覚でしかないんだ。お前は、南雲神社にいる方が幸せなんだよ」 「そんなことはない」宗近は、俺の両腕を掴んだ。幼子がかんしゃくを起こして、今にも泣き出すかのような表情をしてみせる。「そなたは、俺にとって唯一の主だ。理屈ではなく、そう感じる。たとえ、本霊や別の分霊の『俺』がそなたを選ばないとしても、この俺はそなたしかほしくない……」 そこで、宗近は縋るように俺を抱きしめた。それは勘違いだよ、と笑おうとした俺を制して、宗近はなおも言葉を重ねる。 ――俺は主だけの刀でありたい。願わくば、主と俺をきつく結びつけて、二度と離れぬようにしてしまいたい。 宗近の懇願に、俺は息をのんだ。こんなに完璧な男が、天下五剣として名高い刀が、どうしてエセ審神者の俺なんか望むのか。分からない。けれど、俺も宗近の気持ちに応えてやりたいと思った。 いや、違う。俺もまた、宗近と同じように、たったひと振残った俺の刀を手放したくないのだ。加州が言ったように付喪神の執着が人間に重すぎるとしても、構わない。宗近の願いを利用して、綺麗な彼を恋慕という泥臭い執着の中に引きずり落とすことになったとしても、彼を手元に置くための理由がほしかった。 これは、恋なのだろうか。そうではない、何かなのだろうか。本当にいいのか。後悔はしないのか。頭の中で無数の迷いと警告が渦をまく。俺はそれらを振り切るようにして、宗近の背に腕を回した。 ピタリと身体を沿わせて、彼に願う。 「俺を、お前のものにしてくれ。……言っている意味は分かるか?」 宗近ははたと顔を上げた。目を丸くして俺を見つめる。それから、すぐに頷いた。 「分かるよ。今度は分かる。――現世のものは移ろいゆく。人の心はなおのこと。……それでも、相手を己がものとしたいこの気持ちを、人は恋と呼ぶのだなぁ。何とも不安定で、切実なこの想いを」 人とは何と不器用なもの。しかし、悪くはない――そう言って笑った宗近に、俺は押しつぶされそうな罪悪感と、泣きたくなるくらいの愛しさを覚えた。 準備をしてくる、と風呂場へ行こうとすると、宗近が自分が手伝いたいと言う。そこで、俺は彼と共に風呂に入ることにした。アパートの狭い浴槽に湯を張って、ふたりで入る。もちろん、男ふたりが並ぶスペースなんかないから、俺は宗近の膝の上だ。 肌を触れあわせて、キスをしながら、俺は宗近の手を自分の後孔に導いた。同性と寝た経験があるとはいえ、長い間、そこを使ったセックスはしていない。固く閉じたそこに宗近の指を触れさせた。 「ゆっくり押してみてくれ。ただし、無茶はするなよ。俺が怪我をするから」 「俺は主を傷つけない」 神妙な顔で頷いて、宗近はおそるおそるといった手つきでそこに触れる。そんな彼に苦笑して、俺は軽い口づけを繰り返した。そうしながら、手を伸ばして宗近の性器をまさぐる。まだ反応していないそれは、長さがあり、綺麗な形をしていた。 これが反応したらどんな風になるのだろう。そう思いながら、湯の中で竿を擦ったり先端を指先で刺激したりしてみる。前のときとは違って、そこは刺激に反応して硬くなり始めた。 「……主……変な感じがする」 「感じてるんだよ」 「……? どういうことだ?」 「宗近は、気持ちいいと感じてるってこと」俺は少し反応している自分のものと宗近の性器をまとめて、刺激をしはじめた。そうしながら、彼を促す。「後ろ……うずうずしてきた。指、挿れて」 「大丈夫か? 主は痛くないか?」 「大丈夫だから、早く……」 宗近はおずおずと、指を挿入してきた。異物感はあるものの、痛みはない。むしろ、久しぶりのセックスに身体の芯がじんじん疼きはじめる。俺は宗近の性器と自分のそれをすり合わせながら、腰を揺らした。体内をまさぐる宗近の指が、昔、覚えさせられた快い場所を掠めて、ビリリと電流が背筋を走った。 気持ちいい。 快感に思わず背中が反る。 「むねちか……、指、増やして……。もっと、激しくして……」 小刻みに腰を揺らしながら、そう懇願する。宗近は驚いた――けれど、わずかに飢えたような目を俺に向けた。カプリと自分から俺の唇にかみついて、宗近は左手で俺の腰を掴んだ。グィと腰を引き寄せながら、右手の指をもう一本、俺の内部に挿入する。 「あ……あぁ…………っは……」 キスの合間に堪えきれぬ喘ぎ声をこぼしながら、俺は夢中で自分と宗近のものを愛撫する手を動かした。そうすると、後ろと前が同時によくなって、いっそう腰の奥がうずく。俺だけでなく宗近も快感を覚えているらしく、手の中の彼の性器も次第に勢いを増してきていた。 二本、三本と俺がねだるたび、体内に含ませてある宗近の指が増えていく。やがて、堪えきれなくなって、俺は彼に「もういい」と言った。内側をあぶる熱に急かされて、宗近の手を引っ張って体内の指を抜き取る。性急に腰をずらして、俺は完全に勃ちあがった宗近のものの上に後孔をあてがった。 「っ……主、まて……ここではダメだ」 「……いや、だ。待てない……!」 制止する宗近を待たずに、俺は彼の性器の上に腰を下ろした。ズルリ。太い先端を呑み込んで、そのまま強引にすべてを体内に収めてしまう。さすがに、圧迫感と痛みに呼吸が浅くなった。けれど、それを超えて飢えていたものが満たされた充足感が強い。 行為を再開しようと緩く腰を上下に揺らすと、宗近は眉をひそめた。 「俺は、ちゃんと主を抱きたい」 「……抱けば、いぃ……だろ……っ……」 「違う。しとねの上で、俺が主を抱きたいのだ」 つまり、俺が上に乗って主導権を握るこの体勢に、不満があるらしい。そんなこと言ったって、今更、ベッドまで待てやしない。そう訴えようとしたときだった。 宗近は俺を抱きしめて、湯船から立ち上がった。 「〜〜〜っ……!」 つながったまま、重力が一気に結合部にかかる。いわゆる駅弁の体位だが、それをさせた宗近本人は知らないだろう。彼の長さのある性器を、いっそう深く呑み込むことになったせいで、切っ先が奥の奥まで届いてしまっている。 宗近が歩くたびに小刻みに刺激が伝わって、俺は浅く喘いだ。苦しい。けれど、その先に強烈な快感がチラチラかいま見えている。それを感じてみたくて、けれど、その快感を知ってしまったらおかしくなりそうな気がして、身がすくむ。 どうすることもできなくて、俺は宗近の腰に足を絡めた。 「あ、や、……ああ……止まっ、て……」 「っ……もう少しでしとねだ、主」 俺が締め付けるせいか、そう言う宗近も少し苦しそうだ。やがて、長いような短いような移動時間の後に、宗近はベッドにたどり着いた。つながりを解かぬまま、俺をベッドに横たえる。 背中がシーツに触れて、俺はほっと息を吐いた。湯船から出て、身体を拭かないままなので、ベッドがびしょぬれになってしまう。けれど、今、それを気にしている余裕はなかった。 宗近が俺の腰を抱えて、律動を始める。先ほど、つながったまま移動したときよりも細かな動きで、切っ先が奥の奥へ入ってきた。奥の奥を攻められて、強烈な快感が膨れ上がる。 「あっ……あぁ……! むねちか……それ、だめぇ……! も、むり……」 「無理……?」宗近はいちばん奥を抉ったまま、不意に腰を止めた。勃ちあがって、先走りを垂らしている俺の性器に触れる。ぬるぬると密をのばすように塗りひろげながら、彼はキョトリと首を傾げた。「だが、主のココはきちんと反応しているが……?」 「っ……それ、……さわるな……! も、イきそ……だから……!」 「? 主は、陽根を触られるのは嫌か……?」 ああ、そうじゃなくて! 達してしまう寸前で、説明を求められて、射精感と焦燥が膨れ上がる。宗近はこうした行為の知識がないから、とっさに言った「いや」や「だめ」を枠面通りに受け取ってしまうのだろう。 俺は内心、半泣きになりながら、宗近の背に腕を回した。 「や……じゃない……」小さな声で告げる。自分で言っておいて、羞恥で全身が熱くなった。「でも、イきそ……で。……もうちょっと、……むねちかとシてたいから、さわらないで……」 「続けてよいのか?」 「いい……。――……奥、きもちよくて……おかしくなりそう……。…………もっと、して」 「……ああ」 ふわり、とこんな行為の場にふわさしくない、花開くような笑みを浮かべて、宗近は俺に口づけた。それから、動き出す。「あるじ……好きだ」と熱にうかされたように繰り返しながら、宗近は幾度も俺の奥を攻めた。それに押し上げられるようにして、強烈な快感がこみ上げてくる。 「宗近……! むねちか……。俺、もイく……!」 揺さぶられながら、必死に訴えた瞬間。快感が弾けて、頭が真っ白になった。知らず、身体がビクビクと跳ねる。俺の内側に絞られるようにして、宗近も達したようだった。体内に熱が広がるのを感じる。 力を失って、俺に覆いかぶさってくる宗近の重みを受け止めて、俺は目を閉じた。宗近が俺の元に来てしまって、南雲神社では騒ぎになっているだろう。だが、もはや宗近を手放すことは考えられない。どうにか宮司や静紅に説明して許しを求める必要がある。けれど――今のところは。明日に希望があることを信じて眠ろうと思った。 |