はじまりの審神者4









 目が覚めると、傍に宗近がいた。夢じゃない。昨夜のことは夢じゃないのだ。そう思ったとき、感じたのは気まずさや後悔ではなくて、妙に面映ゆいような気持ちだった。自分で考えているよりも、もしかしたら俺は宗近のことが好きなのかもしれない。
 俺はベッドを抜けだした。時計で確認した時刻は昼を過ぎている。シャツだけ羽織って二人分の昼食の支度をしながら、しかしなぁと俺は思った。宗近が俺の元に来たとして、問題はこれからだ。南雲神社の宮司夫妻とは話し合うとしても、宗近と一緒に暮らすならばこの先のことを考えなくてはならない。ウェイターの給料は俺が生きていくには十分だが、宗近もいるとなると心許ない。それに、たとえ金の問題が解決したとしても、宗近を無為に放っておくわけにはいかないのだ。
 昼食ができる頃には、宗近も起き出してきていた。狩衣の下に着ていた着流しだけの楽な格好をしている。俺たちはふたりでテーブルに向かい、昼食を食べた。
 その後、片づけなどを済ませているうちに、夕方が近づいてくる。もうすぐ出勤時間だ。俺が仕事に行くと告げると、宗近は俺の職場を見てみたいと言い出した。この言葉は俺にとって、渡りに船だった。今後の状況次第だが、宗近にも何か仕事をしてもらわなくてはならないかもしれない。彼が現世に興味を持ってくれれば、働くということにも馴染みやすくなるだろう。
 ――何なら、オーナーに頼めば宗近もウェイターとして雇ってもらえるかもしれない。
 そんな期待を抱いて、俺は普段より早めに家を出た。もちろん、宗近も一緒だ。彼は狩衣姿だが、道を行く人々は特に気にする様子もなかった。それもそのはず。刀剣男士たちは、姿変えの術といって自分の容姿や服装を変化させて人間に見せることができるそうだ。宗近もその術を使っているようだった。
 やがて、店にたどり着いたところで、俺は微かな違和感を覚えた。どこがどう、というわけでもないのだが、何かが昨日と違っているかのような――。
「どうした、主?」店の前で宗近が尋ねる。
「いや、何でもない……」
 きっと気のせいだろう。そう思いながら、俺は宗近に微笑んでみせた。彼を促して、店の中に入る。まだ営業時間前なので、店内には準備のスタッフと女の子たちがいるばかりだ。その顔ぶれが、何だか普段と違う気がする。けれど、それもおかしな話ではなかった。
 クラブの仕事は、夜が遅い。加えて、勤めている人間の多くは何らかの事情を持っている。スタッフや女の子の入れ替わりは頻繁にあった。たまたま、早く来ているのが俺と面識のない人ばかりなのだろう。
 そう自分に言い聞かせて、俺はオーナーが普段、オフィスに使っている一室を訪ねた。ノックして、許可が出たのでドアを開ける。そこにいたのは――見慣れない男だった。
 年齢は、五十過ぎだろうか。背の低くてズルそうな男だ。俺の知るオーナーとはまったく違っている。
「オーナーは……?」
 俺が尋ねると、男は不審そうな顔をした。
「何を言っているんだ? オーナーは俺だぞ」
「そんな……。変わったんですか?」
「変わってなんかいない。この店を作ってから、ずっとオーナーは俺だ。何を妙なことを言っている」
「ずっと……? 一度も変わらず……?」
「そうだ」
 男が頷くのを見ながら、俺は呆然としていた。これはいったいどういうことなのか。疑問が頭の中でグルグル回る。けれど、ここで騒ぎ立てれば面倒になることは目に見えていた。
 俺は何でもない風を装って、執務室の外へ出た。それから、「主?」とおっとりと首を傾げる宗近の手を取って猛然と外へ歩きだす。
 おかしい。これは、いったい何が起きている?
「どうしたのだ?」
「分からない。ただ、何か嫌な予感がして――」
 審神者の直感はかなりあたる。それは二三〇〇年代では常識だった。審神者は霊力が高いせいだ。ただし、俺はエセ審神者だから、自分の直感があたるとは思っていなかった。
 むしろ、この場合、外れてくれた方が。
 そう思いながら、外に出たときだった。店の表の通りを行き交う通行人たち。そのうちの一人の姿が、ふっと淡い光を放ちながら消えた。けれど、周囲の人間は驚きもしない。最初からそこには誰も存在しなかったかのように自分の目的地へと向かっている。ばかりか、その数メートル先にいた女性が、光を放ってまったく別の男に変わった。それでも、通行人たちは意に介さない。
 そんなことが、通りのあちこちで起きていた。
「主……これは……?」
「――歴史改変……おそらく誰かが過去の歴史を変えてるんだ。だから、生まれるはずの人間は生まれず、存在しないはずの人間が生きている」
「だが、この世界に審神者も刀剣男士もいないと主は言っていたはずだ」
「ああ、そうだ」俺は、人々が消滅したり、出現したりする異様な通りを見つめながら、拳を握りしめた。
「この時代に審神者制度はない。だから……この状況を止められる者は誰もいない」
「違う。いるだろう?」
 その言葉に、俺は宗近を振り返った。彼は真っ直ぐにこちらを見ている。金の月を宿す美しい瞳は、はっきりと戦意に輝いていた。そうか、と俺は気づく。三日月宗近は、刀なのだ。平時においては大人しく鞘に収まっているが、決して戦いを忘れたわけではない。
 だが。
「無理だ、宗近。本丸もない。政府の制度もない。お前がいるだけでは、歴史修正主義者と戦っていくことは――」
 言いかけたそのときだった。ドォンと街中で大きな爆発音が上がる。目の前の通りの真ん中、通行人の多くいる道で爆発が起こったのだ。
 モウモウと通りに煙と砂埃が巻き上がる。ゆっくりと散っていく煙の中、たたずむ五体のシルエットが見えた。その姿に、俺は見覚えがあった。敵の召還する刀剣の化け物たちだ。短刀、脇差、打刀……。大太刀や薙刀などいわゆる高火力の刀がいないのは、まだ幸いか。
 突然、現れた刀剣の化け物たちに、人々は驚いてワッと逃げまどう。日が暮れたばかりの繁華街は人が多く、あたりはたちまちパニックになった。押しあい、逃げるのに手間どる人々に、敵の刀たちが向かっていく。
「――主よ。俺に、敵を討てと命じよ」
「だけど……! 相手は五体だし、この時代に審神者制度はないし……」
「主」宗近は俺に呼びかけた。静かな声音。けれど、そこには凜として俺を叱咤するよう響きがあった。「俺は刀だ。敵を斬るものだ。そして……俺を振るう資格を持つのは、今、そなたのみ。それでも、逃げるのか?」
 俺は宗近の言葉に、息を飲んだ。五対一の戦いで彼が折れたらどうしよう。そんな不安が渦巻いている――けれど、戦意に満ちた宗近の目を見ると、もはやためらってはいられない。俺は腹を括った。
「分かった。宗近、敵を斬れ。……ただし、俺も戦うぞ」
「主、それは――」
「異論は認めない。それより、行動しろ」
 承知、と短く呟いて、宗近は敵の一体へと駆けていった。刀を抜く動作の勢いで、敵の短刀を斬りすてる。そのまま、傍にいた打刀へ向かった。敵もそう簡単に倒されはしない。打刀がつばぜり合いに持ち込んだところで、脇差が宗近に斬りかかっていく。
 危ういところで、宗近は後退して刃をかわした。
 その間に、俺は宗近たちとは反対側へと駆けていた。逃げ遅れた女性を襲おうとする刀に、思い切ってとびかかる。掌に込めたありったけの霊力をたたき込んで、敵を強制的に刀解した。
「主……」不安げな宗近に、
「俺だって戦える」と言ってみせる。
 宗近は渋い顔をしたまま、敵との戦いに意識を戻していった。俺もまた、それ以上は敵に仕掛けることはしない。さっきのは不意を突いたから上手くいっただけで、俺が戦って勝てるはずがないのは分かっている。結局、敵との間に結界を張って、人々が逃げる時間稼ぎをした。
 やがて、宗近が最後の敵を倒しおえた。
 辺りに人や車の姿はまばらになっている。誰かが警察に通報したらしく、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。警察と遭遇すれば、きっと厄介なことになるだろう。
 ――宗近、行こう。
 そう声を掛けようとしたときだった。宗近がハッと目を見開いて、ある方向へ顔を向けた。厳しい表情で虚空をにらみつける。
「どうかしたか……?」
「南雲神社が襲撃されている」
「何だって!?」
「そなたと交わったとはいえ、俺はまだ南雲神社との縁が切れたわけではない。ゆえに、分かる。敵はおそらく、煉を狙っている」
「煉を? あの子が歴史改変の障害になるって言うのか……?」
「煉には神子の資質がある。それは、モノに宿る声を聞く審神者としての才を持つことをも意味する」
 宗近の言葉に、俺はハッとした。
 この時代に審神者制度はない。しかし、歴史修正主義者は現れた。ということは、もしかして、審神者制度はこれから作られるのではないか。仮に、煉がこれから審神者制度が成立して、審神者に選ばれるとしたら――彼が殺されればこちらは大きく戦力減だ。
「宗近、南雲神社へ行こう」
「ああ」
 短く返事して、宗近はいきなり俺を抱き上げた。この間、二三〇〇年代でしたように俺を横抱きにしたまま走りだす。
 タクシーを使った方が。という考えが一瞬、頭に浮かんだ。けれど、この混乱の中、普通の交通手段がどれほど仕えるかが分からない。結局、宗近が走るのに任せて、俺は彼にしがみついた。
 歴史修正主義者が現れてしまった。しかし、この時代に審神者はいない。審神者制度を確立しなければ、歴史が改変されてしまう。そうしたら、俺が二三〇〇年代で経験したあの破滅が、二一〇〇年代のこの時点で起きることになる。
 そんなのは、嫌だった。
 たとえ、二三〇〇年代での破滅は止められないとしたって、今このときに時間が崩壊したら、俺は生まれない。そうしたら、本丸で皆と過ごした時間さえ起こらないことになるのだ。決していい人生だとはいえないけれど、それでも、俺は俺の刀たちと過ごした時間を失いたくない。
 ――はじまりの審神者。
 ふと、俺は思いいたった。はじまりの審神者は、今、どこで何をしている? 政府はいつ、はじまりの審神者を発見した? 審神者制度のないこの時代に、それでも審神者としての資質を持つ者がいるはず。
 ――……もしかして、南雲煉か……?
 宗近は煉に審神者の才能があると言った。もしかして、彼がはじまりの審神者なのではないか。だとしたら、敵が彼を狙う理由も理解できる。
「煉を守らなくちゃいけない」
 俺の呟きに宗近が頷く。
 目的の南雲神社は街の郊外にあった。とはいっても、繁華街からさほど遠いわけではない。宗近が一部の家屋やビルを突っ切るという暴挙に出たせいで、俺たちは十五分ほどで南雲神社に到着した。そこは、外から見ても普段にはない異様な雰囲気に包まれている。
「行こう、宗近」
 俺は宗近と共に、神社の神域に足を踏み入れた。参道に作られた階段を掛けあがって、境内へと急ぐ。階段の頂に到着したときだった。
 敵の刀の群れが、鳥居の前にいた。しかし、それ以上は進むことができないらしい。槍がしきりに鳥居の向こうに突きを放つが、硬質な音と共に跳ねかえされる。今、敵の刀が多く集まっている状況で討って出ても、宗近ひとりのこちらは不利だ。敵が分散するときまで待たなくては。
 俺たちは鳥居の傍の茂みにひそんで、敵の様子をうかがった。
「どうして敵は先に進めないんだ?」
「神社の結界が働いているようだ。おそらくは宮司が、霊力を送っているのだろう」
 俺の問いに宗近が答える。
 なら、しばらくは大丈夫そうだな。そう言おうとしたときだった。敵の刀の群れの中央に、人のシルエットが見えた。刀を操っている術者だろうか。石灯籠に照らされたその人物は、青ざめた顔の若い女のようだった。彼女はおもむろに、敵の刀たちの間から前へ進みでていく。そうして、刀たちには通れない鳥居の下に立った。
「――まずい」
 宗近が舌打ちして、立ち上がる。いったいどうしたのか。俺がそう尋ねようとしたときだった。鳥居の下で、女がほほえみながら短刀を取り出した。鞘を払ったその刃で――自分ののどを真一文字に切りさく。
「っ……」俺は息を呑んだ。
「遅かったか」宗近が苦い顔をする。
 俺たちの目の前で、女ののどから噴き出した血が地面を染めていく。途端、敵の刀たちが動き出した。ズンズンと先ほどまでは通れなかった鳥居の下の道を通って、神社の境内へ侵攻していく。女も流れる血をそのままに、刀たちと歩きだした。
「嘘だろ……? ありえない」
「あの術者は、己の血で神域を穢したのだ。そのせいで、結界が破れてしまった。主よ、見ただろう? あの女はもはやただの人間ではない。――化け物だ」
「馬鹿な。人間が化け物になったりはしない」
「多大な穢れを受けたり、強すぎる恨みの感情を抱くと、人も化け物と化すのだ。あの女の場合は……おそらく、刀の化け物らと交わって、身に蓄えた穢れで力を高めたらしい」
「刀の化け物と交わる……」
 衝撃的な内容に、俺は吐き気を覚えた。俺だって二三〇〇年代では底辺の生活を経験したが、そのとき大金を積まれたって穢れた刀と性交するなんてことはぜったいしなかったはずだ。あの女のしたことは、正気の沙汰ではない。自分の存在に替えても、変えたい歴史があるというのか――。
「――主、しっかりしろ」
 宗近に肩をつかまれ、ガクガクと揺さぶられる。俺はハッと我に返った。「もはや一刻の猶予もない。行くぞ」と促される。俺は刀を手にした宗近と共に、境内を拝殿へ向かって駆けていく。
 やがて、松明を赤々と燃やしてたたずむ拝殿が見えてきた。
 拝殿とそこから続く本殿を、敵が取り囲んでいる。柱に囲まれた拝殿の中で、宮司が座しているのが見えた。その傍らには、禰宜や権禰宜が並んで、太鼓や鐘を打ちならしている。そのリズムに乗って、巫女装束の静紅が鈴を振りながら円を描くように歩み、舞っていた。静紅が描く円の中央に、煉が正座している。大人たちが厳しい表情をしているのに対して、煉だけは状況がよく分かっていないという顔だ。
 敵の刀たちは拝殿に入りかねている。しかし、術者の女だけは別だった。彼女は拝殿の前に据えられた階段を上っていった。とはいえ、本殿が近く、神威が強く働いているせいか、簡単には前に進むことができない。強い向かい風に吹き付けられているように、進むスピードが落ちる。それでも、女は強引に歩みを進めた。
「させぬ!」
 宗近は拝殿へ駆け寄っていった。しかし、拝殿を取り巻く敵の刀たちが、宗近に気づいて殺到する。俺も宗近も、女を止めに行くことができない。
 バチバチバチ。
 火花が散る音と同時に、あたりに肉の焦げる臭いがたちこめる。結界が排除しようとするのも意に介さず女が進むたびに、飛び散る火花が彼女の身を焼き、肉を抉った。それでも、女は立ち止まらない。やがて、拝殿まで登りきった女は、静紅の前に立った。
 肌がただれ、あるいは血の流れる腕を、静紅にのばす。しかし、宮司たちは動けない。拝殿の結界を維持して刀たちを遠ざけておくために、霊力を送りつづけねばならないのだ。
 そのとき、静紅の後ろにいた煉が、パタパタと彼女の前へ走り出てきた。母親を守るように、強ばった表情で立ちはだかる。しかし、それは術者の女の思う壷だった。女はニィと壮絶な笑みを浮かべて、煉へ手を伸ばす。
 刹那。拝殿を囲む松明がカッと燃えあがった。まるで炎が意思を持ったかのように、敵の刀たちに燃えうつる。刀たちは躯に火がついて、慌てたように逃げまどいはじめた。
「何だ……?」
「祭神――迦具土命が怒ったのだ。だが、長くは保たぬ……!」
 拝殿を包囲する敵が乱れたのを逃さず、宗近はほとんど跳躍するように階段を駆け上った。迷いのない動作で、術者の女を袈裟がけに斬る。しかし、その傷口からもはや血は流れなかった。太刀の傷から血のかわりに炎が上がって、術者の女を包み込む。女は悲鳴も上げずに燃えて――三分ほどでひと塊の灰の山となってしまった。彼女が灰になるやいなや、拝殿を取り囲んでいた敵の刀たちもバラバラと折れたり曲がったりした刀に戻っていく。
 宮司たちも俺も、呆然とその様を見ていた。いつしか音楽は止んでおり、シンと静まり返っている。その中で、煉がようやく事態を理解したのか、ワッと泣き出した。その彼を、宗近が抱き上げて赤子にするように背中をたたく。遠く、街のあちこちで上がるサイレンが、夜の空気の中を響いてきた。





[newpage]






 そうして、一夜が明けた。南雲神社に泊めてもらった俺は考えていた。
 この時代にもとうとう歴史修正主義者が現れてしまった。にもかかわらず、審神者制度はない。はじまりの審神者ではないかと思しき南雲煉は、まだ五つの子どもだ。煉が成長すればいい審神者になるのだろう。しかし、それまでの間、敵が手をこまねいているとは思えない。今からでも、敵と戦うことのできる人間、あるいは手段が必要だ。
 と、そこまで考えたところで、俺は頭を振った。
 歴史修正主義者との戦いは、この時代の人間が考えるべき問題だ。未来の人間である俺が心配する筋合いはない。もともと審神者の基準を満たしていない俺は、ただひっそりと生きていくだけ――。
 そんなことを考えながら、俺は縁側に座って煉と遊んでやっている宗近を見ていた。そのときだ。
「少しよろしいですか?」
 縁側を歩いてきた静紅が、そう言って俺の傍らに腰を下ろした。
「初めてうちへいらしたとき、あなたは自分が未来で歴史を変えようとするモノたちと戦っていたと打ち明けてくださいましたね」
「ええ」
「それは、昨夜の化け物たちのような存在のことなのでしょう?」
「そうです。歴史修正主義者は、折れ刀の精霊をこの世に呼び出して使役する」
「……主人が政府にいる義弟と連絡を取りました。今、全国ではあのような化け物がさまざまな場所に出没しているのだとか」
「それにしては、ニュースなどが入っていないように思いますが」
「報道規制がされているようです。けれど、被害は確実に増えていると。それに、改変された時間のせいで、消えてしまった方もいる。実はうちの出仕の方もひとり……家ごと存在が消えてしまったのです」
 そういう静紅の顔を、俺はまじまじと見つめた。
 普通、歴史改変で誰かの存在が消えた場合、その人物は最初からいなかったことになる。つまり、存在を覚えていようにも、記憶しておくべき思い出がなくなってしまうのだ。改変される前の状態を覚えておけるのは、審神者のように時間遡行に適性のある人物だけ。おそらく、この南雲神社の人々はそうした点においても審神者適性が高いのだろう。
 そう思っている間にも、静紅は「それだけではありません」と言葉を続けた。
「昨夜、あなたもご覧になったとおり、私は巫女です。少し先見の力がある。このところ、私は何度も夢を見るのです。……敵はふたたび、この神社を襲うと。煉と、いずれ生まれるあの子の弟の生命狙う、と」
「どうして、その話を俺に?」
「あなたはあの化け物たちと戦う術をお持ちです。どうか、化け物たちを止めてくださいませんか?」
 静紅の言葉に、俺はわずかの間、目を閉じた。
「俺ひとりでは、到底、敵をどうにかすることはできません。……俺の時代では、政府は二百年間も敵と戦っていたことになっている」
「むろん、あなたを助ける者が必要でしょう。主人が政府に伝手を持っています。それに、政府関係者である義弟によれば、政府の方でも対策を探しあぐねている様子。政府にあなたの存在を伝えましょう」
「だけど」
 言いかけた俺の言葉を遮って、静紅はさらに言葉を重ねた。
「それに、あなただけに戦えとは申しません。三日月どのの態度から察するに、おそらく煉もあなたと同じ才能を持っている。煉が成長すれば、あなたと共に戦うこともできるでしょう」
「待ってください」
 堪えきれずに、俺は言った。俺は、この時代でふたたび宗近と生きていくことを決めた。けれど、それは俺個人としての話だ。また審神者として敵と戦うとなれば話は別である。
 俺は本来なら、適性の基準にも満たないはずのエセ審神者だ。審神者制度を始める『はじまりの審神者』なんて立派なものになれるはずがない。おそらく審神者として優れた才能を持つであろう煉こそ、その役目にふさわしい。
「俺はそんな大事な役目をもらうには、値しない人間です。俺はもう戦えない」
「……では、あの化け物が害するであろう多くの人々を見捨てるおつもりですか?」
 静紅が低く尋ねる。その目には怒りの炎が燃えていた。俺は思わず、彼女に叫んだ。
「あなたに何が分かる!? あなたは戦いを知らない。家族のように過ごしてきた仲間が、ある日、突然、ことごとく失われる。最初からずっと一緒に戦ってきた奴も、誰も彼も……宗近しかこの手に残らなかった。俺はもう、あんな思いをするくらいなら死ぬ方がましだ……!」
 俺の怒声に驚いたのだろう。宗近と遊んでいた煉が、短い間の後にワッと泣き出す。宗近が彼を抱き上げて、ゆっくりした足取りで傍へやって来た。
「すまぬ。俺では泣きやますことができぬようだ」緊迫した場の雰囲気にそぐわず、宗近はおっとりと微笑んだ。そうして、静紅に泣きじゃくる煉を引き渡す。「少し、主と話がしたい。静紅どのも、そろそろ煉に昼寝をさせる時間ではないか?」
 宗近の言葉に、我に返った静紅が煉を受け取る。彼女は俺たちに小さく会釈して、離れを立ち去った。後には俺と宗近だけが残される。
 ふたりきりの庭で、宗近はじっと俺を見つめていた。俺は何となくいたたまれず、彼の視線を逃れようと立ち上がる。部屋に入りかけたとき、宗近の声が背を追ってきた。
「――主よ、逃げるのか?」
「逃げる? 静紅さんの言ってたことか? 俺に戦えって?」
「そうだ」
「それは、違うだろ」俺は宗近を振り返った。「俺はエセ審神者だ。審神者制度を始める『はじまりの審神者』なんて立派なものになる資格はない。そういう運命でもない」
「資格も運命もどうでもいい。今、敵の刀とまともに戦うことができるのは、俺を持っているそなたひとりだ。戦う理由はそれで十分ではないか」
「駄目だ」
「なぜ」
 なぜって。
 俺は猛烈に腹が立ってきた。だって、戦えば今度は宗近が折れるかもしれない。唯一、残った俺の刀が。戦わないでいる理由なんて、それで十分だ。宗近がそれを理解せず、自分が戦うと口にするのは、おそらく彼が付喪神だから――モノに宿った精霊だからだろう。
 モノは本来、生き物とは違う。人間のように死ねばすべてが失われるというわけではない。大量生産品ならば代わりがあるし、一点ものだとしてもある程度は修繕できる。だから、そんな風に簡単に言うけれど――俺にとっては、本丸の仲間たちも宗近も唯一の存在だ。失われて、たとえ再び別の分霊を顕現できるとしても、それは加州たちが蘇るわけではない。宗近だって同じこと。
「戦いでお前を失うのが、怖い……」俺は吐き出すように言った。「……そう、怖いんだ。――俺はもう戦いたくない。できることなら、歴史修正主義者のいない世界に逃げ出してしまいたい! だって、もし失ったら、お前はもう戻ってこないんだから」
「主」
「分かるか? たとえば俺が死んだら、もうお前とは会えない。永遠の別れだ。俺にとって、加州を失ったのはそういうことだし、お前を失うのが怖いのも同じ理由なんだ……」
 俺は畳に膝をついた。身を投げ出すようにして、両手で顔を覆う。「もう、逃げさせてくれないか」泣き出しそうで食いしばった歯の隙間から、そう呟いた。
 そのときだ。
「人の死がどういうものか、俺とて分かっているさ」と宗近が静かに言った。「義輝どのも、太閤どのも、北政所も、この世を去ってふたたび俺を手にすることはなかった。……俺とて、そなたを失うのは怖い。だから追いかけた」
 淡々とした彼の声に、俺は顔を上げた。庭に佇んだまま、宗近は流れ去った時間を見ようとするかのように、虚空へ目を向けていた。普段は堂々としている彼が、なぜかひどくはかなげな様子だ。そのまま、宗近は俺へ視線を移して、「それでも」と言葉を続けた。
「俺は刀だ、主。所有者の意思を映して、振るわれるべき刃なのだ。俺の主である以上、そなたは戦わねばならぬ。――加州も他の仲間たちも、ただそなたを救ったわけではない。そなたならば己の分まで戦ってくれると信じて、折れていったのだ」

 皆が守った主を、そなた自身がおとしめてはならぬよ。

 宗近の言葉に、俺はいつしか自分が泣いていることに気づいた。頬を涙がゆっくりと伝いおちていく。戦いたくはない、とまだ俺は思っていた。けれど、宗近がいるからにはふたたび戦に身を投じなければならないのだろう、という確信があった。
 きっと、今日が戦から離れていられる最後の一日になる。そう思いながら、俺は縁側を上がってきた宗近に手を差し伸べた。その手を取った宗近が、何も言わずに腰を下ろし、寄り添ってくる。彼と唇を重ねながら、俺は今日の日が暮れて訪れた夜が明けるまでの間だけ、戦や敵のことを忘れることに決めた。


***


 翌日、宮司の紹介で俺は彼の弟に連絡を取った。政府関係者であった宮司の弟は、歴史修正主義者に対抗できる力――つまり、俺と宗近の存在を知ると、すぐに飛びついた。
 こうして、歴史修正主義者のテロと歴史改変が続く中、俺が政府に『提案』した審神者制度が急速に整備されはじめた。俺にしてみれば、それは『提案』というよりは俺の知る事実でしかなかったのだが。審神者適性の持ち主の選定や、過去へ転移する足場となる異空間たる本丸の形成、刀剣の付喪神の呼び出しなど細々と決めなければならない事項は多い。そうしたことは、神道や仏教、陰陽道の関係者の協力を得て整備されていった。
 そして、二一二〇年――一定数の刀剣の付喪神の協力を取り付けて、審神者制度のプロトタイプが施行された。施行といっても、実際のところ審神者として戦えるのは俺ひとり。俺と宗近が本丸に入って、過去の歴史改変を止める戦いに取りかかるだけなのだが。
 本丸を擁するための『サーバー』そして、そのサーバーを置くための『本丸サーバーネットワーク』はいまだ不安定だからだ。本丸をひとつずつ増やしながら、〈本丸サーバーネットワーク〉がきちんと作動するか監視しなければならないのである。焦れったい話だが、どうしようもない。
 俺が本丸に入る日の前日、俺は宗近と十になった煉と共に政府の審神者関連施設にある刀剣庫に入った。明日、本丸に着任するにあたって、初期刀となるべき刀をひと振、選ぶことになったのだ。
 その場に煉を立ち会わせたのは、彼はあと五、六年もすれば審神者になると決まっているからである。若くして将来が決まってしまうのは可哀想な気もする。しかし、今のところ煉ほどの審神者適性の持ち主は十名程度しか見つかっていない以上、悠長なことは言っていられないというのが政府関係者の見解だった。南雲神社の宮司夫妻も覚悟しているらしい。ただ、当の煉はどこまで分かっているのか、大きくなったら仲良しの宗近と同じ刀剣男士に会えると楽しみにしている風だった。
「刀がいっぱいある……!」
 俺たちと共に刀剣庫に入った煉は無邪気にそう言った。
 刀剣庫にある刀は、実物ではない。現存する刀や、消失していても付喪神のみ現世に残っていた刀に似たものを、分霊の『寄り代』として鍛刀した――言ってしまえば『レプリカ』である。とはいえ、どれも付喪神が降りる器だけにレプリカといえでも名刀であった。
 その名刀たちの掛けられた棚の間を、俺はゆっくりと歩いていく。現在、政府に力を貸すことに同意しているのは、三十振あまりの刀だ。現在、交渉中の付喪神も存在するから、おいおい数は増えるだろう。しかし、現時点の三十あまりの中から、俺は刀剣をひと振、初期刀として選ぶことになる。
 これは、不可欠な事柄だった。
 初期刀というのは、審神者以外の人間が鍛刀したものだ。初期刀になる刀にはあらかじめ、術が施されている。宗近のように俺が鍛刀した刀は、万が一のときの俺を害すれば、主殺しの穢れで折れてしまう。しかし、術を施された初期刀は、非道な主にあたった場合、主を告発したり……最悪、生命を奪うことができる。これは、俺がわずかでもブラック本丸の対策になるように、と政府に進言したことだった。
 政府と俺がこの決定をしたときから、宗近はたいそう不機嫌だった。彼がいるのに、俺があらためて『初期刀』を選ぶのが納得いかないというのだ。今も、俺の後ろに従ってはいるが、どこかすねた空気を発している。煉もそれに気づいているようで、時折、俺と宗近を交互に見ていた。
 俺は棚の間を進んで、ある刀の前で立ち止まった。赤い鞘のその刀を迷わず手に取る。振り返ると、宗近は俺の手の中の刀を見てハッと息を呑んだ。
「初期刀はもう決めてあるんだ」
「主……本当にいいのか? 今日まで拗ねていたのは、俺が大人げなかった。謝る。だから、落ち着いて冷静に考えぬか? つらい記憶もあるのに、よりによって……また、加州清光を初期刀とすることはない」
 宗近の言葉に、俺は笑って首を横に振った。
「異界に呑まれるとき、加州は言ってくれた。時を繰り返したとしても、また俺の初期刀になりたい、と。――この刀を顕現しても、加州が蘇るわけじゃないということは分かってる。だけど、」
 俺の初期刀は加州清光しか考えられない。時を繰り返すとしても、俺が審神者として戦うならば、何度だって加州を初期刀に選ぶだろう――。そう告げて、俺は朱塗りの鞘を両手で捧げもった。祈りと霊力を、手の中の刀にこめる。
 すぐに刀が淡く輝いて、幻の桜の花が舞った。
 淡い光をまとって現れた加州清光の姿を、煉が目を丸くして見つめていた。


***


 それから、五年後のことである。審神者制度が開始されることになり、今度こそ南雲煉ほか数名、正式に審神者に選定された者たちが着任することになった。敵方に本名を知られると呪詛を受けたり、祖先を滅ぼされる可能性がある。このため、審神者は皆、本名を捨てて本丸の名称を自分の審神者名とした。煉もまた、本名は捨てて着任する本丸の名を取って〈千古〉と名乗ることになる。
 着任したばかりの煉――〈千古〉の本丸へ、俺は宗近と共に訪ねていった。母屋の玄関で声を掛けると、〈千古〉と彼が初期刀に選んだらしい加州清光が現れる。
「お久しぶりです」
 そう微笑むすっかり大人びた〈千古〉に、俺は思わず言った。
「久しぶり。……というか、初期刀は加州にしたのか」
「ええ」〈千古〉はふわりと笑った。「初めて刀剣男士の顕現を見たのが、あなたが加州清光を初期刀にしたときだったので。……あのときから、ずっと初期刀は決めていたんです」
「主、迷わず俺のところへ来たもんねぇ」
 加州は愛おしげに目を細めて、〈千古〉を見た。愛してほしいという主張で紛れてしまいがちだが、加州清光という刀剣男士は愛情深い性質を持つ。きっと〈千古〉をうまく補佐してくれるだろう、と俺は安堵の息を吐いた。
 さぁ、上がってください、と促されて俺は宗近と共に真新しい本丸の母屋に足を踏み入れた。〈千古〉が先に立って、ガランとした母屋の中を大広間へ歩いていく。縁側から庭をのぞみながら、俺はこの本丸のことを思った。
「――いずれ、あなたの本丸のようにここも刀剣男士が増えていくのでしょう」
「ああ、そうだな」〈千古〉の言葉に俺は頷いた。「〈千古〉なら、きっとすぐに刀剣男士がそろうだろう。何しろお前には才能がある。本当なら、最初に審神者になるべき者はお前だったと俺は思っているんだ」
 それは幾度も考えた仮説だった。
『はじまりの審神者』となるべきは、本来、南雲煉――〈千古〉だった。ところが、この時代に俺と宗近が転移してきたために少しずつ誤差が生じて、結果、俺がいた世界よりも数年、早く歴史修正主義者が活動しはじめたのではないだろうか。結果、その時点で戦うことのできる俺が『はじまりの審神者』として敵との戦いの先陣を切ることになってしまった。
 そう言うと、〈千古〉は足を止めて振り返った。そうでしょうか、と首を傾げる。そのときだった。俺の後ろにいた宗近がゆったりと言葉を発した。
「――俺は初めて顕現されたとき、あの本丸で加州清光に政府による文書を見せられた。俺たちがどういう経緯で現世に呼び出されるのか、その根拠となる文書を。いわく――政府は〈歴史修正主義者〉による歴史改変を阻止するため、〈審神者〉なる者を過去へと送り出す、と」
「それがどうかしたのか?」
 俺の問いに宗近は微笑んだ。
「この文書には、審神者『なる』者とある。古語において、『なる』は『なり』の活用形だ」
「あ、そうか!」気づかない俺を差し置いて、〈千古〉があっと声を上げる。「それ、前に学校で習いました」
「俺はまともな教育受けてないんだよ」
 じとり、と〈千古〉を見ると、彼は慌てて言葉を続けた。
「ええと、古語の『なり』には断定の意味と、伝聞や推測の意味がある。だから、宗近の言う文書の意味は二通り考えられるということです」

 ひとつには、「審神者である者」と断定で解釈する形。
 もうひとつには、「審神者という者」と伝聞で解釈する形。

 それがどうしたのだ、と俺は眉をひそめた。「分かりませんか」と〈千古〉が興奮した調子で言う。
「分からない」
「あなたの時代の政府の文書に出てくる『審神者なる者』が、政府が伝聞したという意味ならば、誰か、政府が審神者制度を始めるよりも早く――政府が『審神者』を認知する以前に『審神者』を名乗った者がいるということにはなりませんか?」
 きらきらと目を輝かせる〈千古〉に、俺は呆然とするしかない。
 二三〇〇年代の俺の時代には、もはや『はじまりの審神者』の詳細な記録は残っていなかった。いや、もしかすると、存在したのかもしれない。しかし、そうだとしても、『はじまりの審神者』についてのデータは一般の審神者の目に触れることのない極秘の記録だったはずだ。
『はじまりの審神者』は、いったい誰だったのか。
 俺は何も言えないまま、傍らにたたずむ宗近を見上げる。彼は微笑んで、静かに言った。
「主の言う『はじまりの審神者』とやらは、どこから来て、どこへ行ったのだろうな」

 その問いに答えられる者は、誰もいない。





2016/03/05-26

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