鍛刀師
1.“六条の君” わずかな着物に手入れ道具。 政府と連絡を取るためのタブレット。非常用の携帯端末。 それから、ひと振の刀。 これらが私の所持品の全て。鞄ひとつに詰めて、私はゲートをくぐる。傍らには白い男が一人。肌も髪も衣も、何もかも雪のよう。その中で色の異なる装飾の金鎖と金の瞳が、ひどく鮮やかに映えている。 美しい男だった。 見目は二十代半ばにもならぬように見えるだろう。しかし、刀剣の付喪神たる彼は、すでに千年ほども年を経ているのだった。 「主よ、何を呆けている?長い付き合いだというのに、今さら俺に見とれるとは驚きだな」 白い男――“鶴丸国永”――国永がこちらを見て、ニィッと悪戯めいた笑みを浮かべる。彼の言葉はまことに図星だ。だが、私はごまかすことにして、首を横に振った。 「次の派遣先について、考えていた。資料によれば……今回の本丸にはすでに“鶴丸国永”がいるらしい」 「気にするな。どうせ俺たちは、演練で別の本丸の己自身を見慣れている。主は昔、幾度か俺を演練に出したではないか」 「……そう、だったな」 私は目を閉じた。目蓋の裏、かつての自分の本丸の情景が目に浮かぶ。悲惨な様子も見たはずなのに、こういうとき思い出すのは暖かな光景ばかりだ。戻れないと知りながらも、目蓋の裏がじわり、熱を帯びる。 あぁ、泣きそうだ。 そう思ったとき、傍らで空気が動いた。国永だった。 「行こう、主」 言うが早いか、彼はゲートを潜ってしまう。不測の事態でも私を守るためだ。私はそのことを知っている。だが、気づいている素振りを見せない――見せてはならない。 私は彼を追って、足を踏み出した。目映い光を抜ける。いつの間にか、私たちは本丸の門に立っていた。こちらの到着を待っていたらしい、この本丸の審神者とこんのすけ、資料によれば初期刀の山姥切国広が近づいてくる。 審神者はまだ若い男だった。事前資料によると、十八歳。高校を出てすぐに審神者になったという。真っ直ぐな目をした男で、ひたむきな眼差しが山姥切と少し似ていた。 「ようこそ、鍛刀師――“六条の君”さま。この度はお世話になります」 緊張した面持ちで、審神者は挨拶をした。いかにも使い慣れない敬語という感じの口調だが、こちらへの敬意はしっかり伝わってくる。 この子はいい審神者になるだろう、という予感がした。いい審神者でいつづけられるかどうかは、誰にも分からないけれど。結局のところ、いい審神者というのは手入れや鍛刀の技術ではない。霊力の量でも、神職に連なる血筋も関係ない。心を強く持てるか、いなか、それだけなのだから。 私は不安げな審神者に笑いかけた。 「始めまして、審神者さま。この鶴丸国永は私の護身刀として帯びております。二人して、しばしご厄介になります」 私は鍛刀師という職にある。この職は実際の刀を鍛える刀工とは、まったく異なる。刀剣の付喪神を喚び、寄り代となる刀に降ろすのが役目だ。 五十年ほど前、時を渡る術が確立されたとき、ひとつの問題が起きた。歴史を改変したいと願う者たちが、過去に遡って史実に関与しはじめたのだ。政府は時空移動術を極秘としたにもかかわらず、技術漏洩は止められなかった。 とはいえ、歴史改変の場に軍や警察を送りこめば、今度は政府自らが歴史を変えることになる。そこで、政府は刀剣の付喪神を喚びよせて、彼らに時を渡らせることに決めた。この付喪神を喚び、率いるのが審神者と呼ばれる人間の役目である。 歴史改変しようとする勢力――歴史修正主義者は広くさまざまな時代にはびこっている。このため、審神者も数が必要だった。当然ながら神職の血筋だけでは足りず、素質ある民間人からも徴発されることとなる。ゆえに、能力の満たない者や偏りある者も本丸を運営しているのが現状だった。 たとえば、この本丸。 審神者になったばかりの少年は、鍛刀と手入れが苦手だった。ただ資料によれば、刀装造りの腕は一級品だという。十の刀装を作らせれば、八は特上を造るというのだから、異様な成功率だ。審神者として不適格の烙印を押してしまうのは、どうにもこうにももったいない。 そこで、政府は鍛刀師――つまり、私を派遣することにした。私もまた少年と同じ。鍛刀に天賦の才があると認められた。他の審神者のことは分からないが、私の場合、ある程度は降ろす刀剣を自らの意思で決めることができるのだ。 私は派遣された本丸の様子を見て、喚びよせる付喪神を誰にするかを決める。鍛刀師が呼べるのは三振のみと決められているので、私が派遣先の刀剣をすべてそろえてやることはない。 また、すべきでもない。付喪神にとって、己を鍛刀した主というのは特別だからだ。本当は主自身が喚ぶのがいちばん望ましいのだが、そうもいかない現実がある。ゆえに、私のような鍛刀師がいるのだ。 そういうわけで、私は派遣目的である鍛刀を行うまでにしばらく、本丸で過ごして様子を見極めなくてはならない。本丸の主たる少年審神者にも、そう伝えてあった。 本丸に着くと、我々はすぐに部屋に案内された。審神者以外の者の霊力が本丸に影響するのはよくないので、用意してもらった部屋は離れにある。案内してくれたのは、山姥切だった。少年審神者は出陣した第一部隊が戻ってくる頃だということで、門前に居残った。 「主が案内せず、申し訳ない」 山姥切の言葉に私は首を横に振った。これでも一度は本丸を持ったことのある身だ。こんのすけを胸に抱いてソワソワしている彼の気持ちは、よく分かる。 「構いません。自らの刀剣を優先するのは、審神者として立派なことですから。気遣っていただいて、ありがとうございます、切国」 私の言葉に山姥切は目を丸くした。その反応で、私はハッと我に返る。 先ほど、少年審神者は彼のことを国広と呼んでいた。この本丸はいまだ刀剣が少なく、山姥切の兄弟である山伏国広や堀川国広が来ていないという。そのため彼を『国広』と呼んでも困らないのだろう。 「主」一瞬、静かになった空気を破って、国永が声を発した。「ここの本丸じゃ、号と名を混ぜて呼ぶ呼び方はしないらしいぞ。主は確かに他の“国広”も降ろしているから、呼び分けがしたくなるのだろうか」 私は少しほっとしながら、鶴丸の発言に乗ることにした。 「つい、慣れた呼び方をしてしまった。申し訳ありません、山姥切どの」 「いや……。もうじき第一部隊が戻る。皆が揃ったら、あなたと引き合わせよう。それまで、荷物を解いて休んでいてほしい」 「ありがとうございます」 礼を言うと、山姥切は小さく頷いて離れを出ていった。 荷物といっても、私の持ち物は多くない。部屋で二人きりになるなり、私は国永に話しかけた。 「さっそくだが、この本丸をどう思う? 鍛刀するなら、山姥切国広の兄弟、山伏国広を含めてもいいか……」 「おっと、主。とりあえず兄弟刀を揃えようとするのは主の優しさだろうが、しばし待て。この本丸、こうも出払っていては様子が分からんしな」 「それは仕方ない。ここの刀剣は六振。日課の出陣や遠征をこなすのも、ギリギリの数だ。近侍はつねに主に付き添う必要がある」 そう言いながら、私は携帯端末を取り出した。画面にこの本丸のデータを表示させる。 ここの手持ちの刀剣は初期刀の山姥切、太刀は鶴丸と燭台切、短刀が薬研、小夜左文字、それに打刀の加州。となると、山伏と江雪か宗三、一期一振を喚びたくなるのが人情だ。が、鶴丸の言うとおり、それでは戦力が偏りすぎる。 考えていると、国永がポツリと言った。 「ここの審神者の元にそこそこ神格のある“俺”が降りてきたのは、奇跡みたいなものだな」 「“鶴丸国永”自身が選んだのかもしれないぞ? ここの審神者には、鍛刀とは別に才能がある」 「……かつて、“俺たち”が主を選んだように、か?」 ふと国永の声が不思議な響きを帯びた。顔を上げれば、彼は奇妙に静かな眼差しでこちらを見ている。深い淵のような金目の奥に、何かしらの感情がうごめいているようだった。 私は国永から視線をそらした。私たちが二人きりになってしばらく経つが、いまだに彼の幾つかの問いには答えることができない。 向き合えていない、ということなのだろう。 「……また、そこで黙るのか」 国永は言った。怒りも悲しみもない、平坦な声音。 そのときだった。 にわかに門の方が騒がしくなった。単に部隊が帰還したというには、空気が物々しいような気がする。付喪神である国永は、私よりも強くその気配を感じたらしかった。パッと表情を切り替えて立ち上がる。 「どうも様子がおかしい。行くか、主?」 「もちろん」 私は国永と共に門へ向かった。近づくにつれて、血の臭いが鼻をつく。「皆、手入れ部屋へ!」と少年審神者の混乱しきった声が聞こえてきた。 少年法審神者の部隊は、ひどい有り様だった。いずれも血と泥にまみれている。いちばんましなのは小夜左文字のようだが、その彼とて重傷の一歩手前で辛くも中傷というくらいだ。 山姥切はその小夜左文字を抱き上げていた。他は重傷ながらも気力で立っているらしい。 「鍛刀師どの。ご到着早々にこのような場面をお見せしてしまい――」 「気に病むな、狐どの。主は元審神者だ。戦の勝敗は時の運に左右されるということは、百も承知さ。何か不測の事態があったのだろう」国永はこんのすけの言葉を遮って、言った。皆に言い聞かせるような口調だった。「それよりも、主が審神者どのに非力なれど助力したいと言っている。俺も手伝おう。お許しいただけるか?」 私は内心、緊張しながら少年審神者の返事を待った。 本来、鍛刀も手入れも、刀剣を顕現させた審神者以外が行うのは、よくない。というのも、付喪神の仮初めの人としての身体と精神が、強く審神者自身と結びついているためだ。そのため、審神者たちの元に現れる刀剣は同じ刀でも少しずつ性格や思考が異なるのである。 ところが、審神者以外の者が刀剣を手入れするとなると、審神者と付喪神の絆に第三者が介入することになる。その第三者に悪意があれば、審神者と付喪神の契約を奪って自らを刀剣の主とすることさえ可能だ。 国永が口にした申し出は人によっては非礼と受け取られても仕方がないものだった。 けれど、少年審神者はあっさりと言った。 「許します。……というか、ありがとうございます! 俺、手入れが遅いから。皆を早く治してやりたいんです!」 審神者が頷いたため、私たちはすぐさま負傷者を手入れ部屋に運び込んだ。主である彼はすぐさま、いちばん怪我のひどい燭台切の手入れに取りかかる。私は鶴丸の手当をしようとしたが、他の者を先にしてほしいと頼まれた。 「短刀は寄り代が小さい分、神気の蓄えが少ない。加州も傷がひどい。俺は後でいいさ」 「分かりました」 私は彼に言われるままに、重傷の薬研に取りかかった。もはや身に馴染んだ手順で素早く手入れを済ませる。次に重傷の加州に向き直ると、彼は小夜を先にと小声で言った。 「しかし、あなたの方が重傷ですから」 そう言って、手を伸ばす。刹那、加州が私の手を払った。パシッと音が響く。私は驚いて、動きを止めた。手を振り払った加州の方も、呆然として目を見開いている。 「あの……。ごめん……、でも、俺……」 そういう加州の身体は、小刻みに震えていた。痛みのせいではない。彼の顔にはありありと恐怖の色が浮かんでいた。 ――あぁ、やはり、そうか。 私は鋭い胸の痛みを覚えた。重傷の加州に、かつて愛した者の姿が一瞬だけ、重なって見える。加州が私を恐れるのも無理はないと思った。なぜなら、私は私の顕現させた“加州清光”――清光を――。 思い出を振り払うように、私は頭を振った。手を引っ込めて、加州に微笑してみせる。 「大丈夫です。あなたの仰るとおり、小夜左文字を先に手入れしましょう。それから、鶴丸を――その間に、審神者があなたの手入れに取りかかるでしょう」 私は部屋の片隅で小さくなっている小夜左文字の元へ、近づいていった。私の“鶴丸国永”――国永が傍について、彼を宥めながらポツポツと話をしていた。彼は私を見て、微笑した。 「主、次は小夜左文字の番か?」 「あぁ。鶴丸も加州も、短刀が先だと言うから」 そう言って、私は小夜左文字の前に座った。自身の怪我のためというよりは、皆の深手にショックを受けているようだ。私は彼と視線を合わせて、「少し手入れさせてください」と声を掛けた。コクリと彼が頷いたのを見てから、手入れを始める。 「――第一部隊は」国永が傍らで静かに話し出した。小夜から聞いた負傷の経緯を報告してくれるらしい。「織田の時代の一地方の敵を掃討して、帰還しようとしたらしい。時空ポイントを通って本丸へ戻ろうとしたところで、突然、現れた敵に襲われたのだそうだ」 「よく、皆、折れずに戻られましたね」 私は治療の合間に小夜の頭を撫でた。彼は微かに頷いて、それから少年審神者に目を向ける。審神者は山姥切の手を借りながら、たどたどしくも懸命に手入れを行っていた。 「……皆、ここに、帰りたかったから」 「審神者どのは、きっとあなた方を誉めてくれます。よくぞ無事に戻ってきた、と」 小夜がもう一度こくりと頷いたとき、手入れが終わった。安堵からかウトウトし始めた小夜と、手入れで傷が治ったものの発熱している薬研を国永に頼む。つき合いが長いだけあって、彼は目配せしただけで私の願いを理解してくれた。 それから、私はこの本丸の“鶴丸国永”――鶴丸の元へ向かった。彼も重傷ではあるが、刀としても戦歴が長いせいか負傷にも落ち着き払っていた。こちらを見て「よろしく頼む」と挨拶ができるくらいだ。 さっそく、私は鶴丸の手入れに取りかかった。ちょうど同時に、少年審神者が燭台切の手入れを終えて、フラフラになりながらも加州の元へ歩いていく。 「……主が手入れしてくれるんだ。ボロボロだけど、手入れしてくれるってことは、捨てないってことだよね?」 加州の怯えと甘えを含んだ声が聞こえてきた。私はそれを意識から締め出すようにして、鶴丸の手入れに集中する。 「……ほぅ、あんた、手入れに慣れたもんだな」鶴丸が私の手元を見て感心した。「うちの主とは大違いだ」 「あなた方の審神者どのは、まだ初心者です。いずれは手入れも鍛刀も問題なくこなせるようになるでしょう。……だいいち、審神者どのを選んだのは、実はあなたでしょう?」 「ハハッ。分かるか。主と一緒なら、面白いものが見られそうだったのでな。……しかし、これほどの技があるなら、あんたも自分の本丸を維持するくらいの力はあるんだろうに。どうして、そうしない?」 「私は……」思わず後ろを振り返る。国永は小夜を抱き上げて薬研のところだった。その体勢のまま、こちらを見ている。「私には、その資格がありません」 「そうか……」 納得したのか、さほど興味がないのか、鶴丸はあっさり頷いた。 2.鶴丸 少年審神者の“鶴丸国永”――鶴丸は、本丸の大部屋にいた。治療の済んだ仲間たちが熱を出しているからだ。 審神者の力によって造られているはずの人の肉体は脆い。動きつづければ疲労する。傷は手入れで治るが、元の傷がひどいと発熱する。何とも不便だった。だが、主が言うには、これでも刀剣男士らの身体は人よりもよほど丈夫らしかった。 昨日、審神者と山姥切が交替に現れては、皆の世話を焼いていく。二人がそんな調子で本丸の仕事が滞るのではないか、と鶴丸は心配になった。が、山姥切を捕まえて聞いてみたところ、客である鍛刀師と彼の護身刀が手伝ってくれているのだとか。 やはり、あの鍛刀師には本丸を運営した経験があるのだろう。でなければ、昨日今日のようにあっさりと余所の本丸の手伝いをできはしまい。 そんなことを考えていると、いい匂いが漂ってきた。審神者と件の鍛刀師が、盆に乗せた器を運んでくるところだった。たびたび眠るので時の感覚が薄いが、もう昼どきらしい。 「珍しいな。今日は主が作ったのか?」 「安心しろよ、俺じゃない。鍛刀師どのが作ったんだ」料理の苦手な審神者はにやっと笑ってみせる。 「審神者どのは、お手伝いくださったのです」 鍛刀師はそう応じながら、鶴丸の元へ来た。粥の器と匙を差し出してくる。 粥には刻んだ青菜と人参、それに鮭のほぐし身が入っていた。 鶴丸は匙を取って、粥をすくう。温かなそれを口に含んだ。米の風味と仄かな塩味。美味というよりは、優しい味だと感じた。 「うまいな」 「ありがとうございます」鍛刀師はにっこり笑って、立ち上がった。今度は鶴丸の隣に布団を敷いていた加州に給仕しようとする。 が、どういうわけか、加州は鍛刀師と目が合った途端、ギクリと身を強ばらせたようだった。鶴丸は加州の目に恐怖が映し出されるのを目撃した。 ――いったい、加州はどうしたのだろう? しかし、鍛刀師本人を前に加州に尋ねるわけにもいかない。鶴丸は粥を食べながら、何ごともなかったかのように燭台切の元へ歩いていく鍛刀師を観察した。 鍛刀師の外見は二十すぎというところだろうか。 黒目、黒髪、造作が悪いわけではないが地味な顔立ち。事前に聞いていた話では三十歳だというが、とてもそうは見えない。ただ、若い外見に反して、妙な落ち着きがある。 落ち着き? ――いや、違うな。 鶴丸は内心で己の所感を否定した。鍛刀師のあれは、単なる冷静さではない。一度は絶望を経験して腹を括った者の毅(つよ)さだ。わけもなく、そう感じる。にわかに鶴丸は鍛刀師に強い興味を抱いた。 ――あの男は、いったい、何だ? 加州はあの優しげに見える男の、何を恐れた? 鶴丸は加州の様子をうかがった。彼は審神者から粥の器を受け取りながらも、どこか落ち着かない様子だ。燭台切の給仕を終えて、立ち去ろうとする鍛刀師の背中を目で追っている。加州の赤い双眸に恐怖が――次いで、恐れではない何らかの感情がよぎるのを見て、鶴丸はますます分からなくなった。 審神者が自らの昼餉のために出ていくのを待って、鶴丸は布団を出た。何かを考えこんでいる様子の加州の元へ近づく。 「なぁ、加州。ひとつ、聞いていいか?」 「……なに?」 加州は上の空のまま応じた。いまだに心は半ば思考の海を漂っているらしい。 「君、あの鍛刀師を恐れているのか?」 「っ……」 鶴丸の問いに、加州は息を飲んだ。部屋がシンと静まり返る。薬研と燭台切も、話に入っては来ないものの、二人の会話に耳を傾けているようだ。 「――……あの人は怖いよ」加州は長い沈黙の後にポツリと言った。答えというより、独り言のような小さな声だった。「なぜそう感じるのか、自分でも分からない。でも、怖い……とても、怖い。なのに、哀しいんだ」 「哀しい? なぜそう思うんだい?」 燭台切が子どもをあやすような声音で尋ねる。加州はそれに、幼子の仕草で頭を振った。 「分からない。今、ここにいる“俺”には分からない……。人の姿を得て持つようになった心の、俺に感じ取れる部分よりも更に奥――魂の根元から染み出してくるみたいな哀しさなんだ……」 そう言う加州の大きな赤い双眸に、透明な滴が盛り上がる。膨らみきったその滴は、ツゥと頬を滑り落ちた。涙だ。 鶴丸は驚いて、加州の涙を凝視した。この本丸で肉体を得てから、主の涙は見たことがある。しかし、同じ刀剣が泣くのを見るのは始めてだった。というか、自分たち刀剣にも涙することができるのだと今更、知った。 「――今は、なぜ泣いてるんだい? 加州の旦那、傷が痛むのかい?」 薬研が気遣うように尋ねる。その言葉に加州はまた、首を横に振った。 「傷は痛くないよ。なぜ泣いてるのかも、自分でも分からない。……でも、知りたくないよ。理由を知ったら、俺は俺でいられなくなるかもしれない……」 「加州……。分かった。もういいから眠れ」鶴丸は宥めるように加州の背中を撫でてやった。「お前のソレは、きっと人の身体と精神を得て、まだ上手く扱えていない証拠さ。しならく眠れば、感情の混乱は収まるだろう」 「ん……」 幼子のような素直さで頷いて、加州は布団に横になった。鶴丸はその傍らに胡座をかいて、小さな声で唄を歌った。いつの時代にか、どの持ち主だったかの元で耳にした子守歌を。そうしながら、赤子にするように旋律に合わせて軽く背を叩いているうちに、いつしか加州は寝入ってしまったようだった。 「……懐かしいな、鶴丸の子守歌。むかし、伊達で歌ってくれたよね」 静かになった部屋の中で、燭台切が懐かしげに笑った。 夕方頃。鍛刀をするというので、鶴丸は起き出して鍛刀部屋に向かった。主である審神者の鍛刀は目にしたことがある。だが、主のものであるこの本丸で、第三者たる鍛刀師がいかに新たな付喪神を降ろすのか、興味があった。 鍛刀部屋には、審神者と山姥切、鍛刀師、そして鍛刀師の護身刀たる鶴丸国永がいた。審神者と鍛刀師は神職の装束をまとっている。彼らは突然、現れた鶴丸を見て、驚いたような表情になった。例外は鍛刀師の鶴丸国永――国永だ。彼だけは、何か察したらしく、ちらりと鶴丸を一瞥しただけだった。 「鍛刀師の鍛刀がどんなものか、見てみたかったのさ。俺には気にせず、続けてくれ」 「そんなこと言ったって、緊張するじゃないか。第一、鍛刀師どのの気が散るし」 審神者は渋い顔をした。だが、鍛刀師は苦笑して首を横に振る。大丈夫だと請けって、仕事に取りかかった。 鍛刀師の仕事の手順は、鶴丸の見るところでは主の鍛刀と違いがないようだった。式神に資材を渡して、炉の前で祈る。資材の量も鍛刀のための祈祷も、特殊なものではない。 そのはずだ。けれど。 鍛刀師が祈祷を始めてしばらく経つと、はっきりとした違いが見えてきた。鍛刀部屋に無数の火の精霊が舞いだしたのだ。火の粉のように赤く小さく輝く火精たちは、祈りに引き寄せられるかのように鍛刀師の周囲を飛び交っている。 ――この男は。 鶴丸は目を細めた。鍛刀師の周囲の火精は彼をいとおしむかのように柔らかく照らしている。おそらく、鍛刀師は生まれながらに五行のうちの火の性質が強いのだろう。ゆえに鍛刀に深くかかわる火精が協力的になるのだ。 さらに、五行のうち火は直感や精神を意味する。思考によってあれこれ理屈を経ない叡知。つまり、唐の思想でいうところの『無為自然』の状態を言う。鍛刀師はその精神によって、付喪神の精神を喚びよせているのだ。 これが、たとえば五行の水の性質が強い者ならば、こうはいかない。水が司るのは無意識や共感。この性質が強い審神者の元には、付喪神は無意識のうちに相手に惹かれて降りることとなる。付喪神にも、もちろん審神者自身にも、降霊する相手を選ぶことはできない。何か、人にも神にも届かぬ摂理のようなものによって、この世に顕現するのだ。 ――なるほど、これが鍛刀師たる所以というわけか。鶴丸は内心、感嘆した。 しかし、審神者も鍛刀師自身も、異変には気づいていないようだった。それも無理はない。神ならぬ自然の精霊は、集まれば強大な力になるとはいえ、一柱一柱は微小な存在。どれほど霊力がある人間であっても、目にすることは叶わないのだ。 事態に気づき、山姥切が目を丸くしている。国永はといえば、大量の火精に気づいているのだろうが、動じる様子もない。 火精は祈りに合わせて、鍛刀師の周囲でくるくる舞った。やがて、その舞が霊力の道を作り出す。 やがて、鍛刀師がふと顔を上げた。鶴丸はその顔を見て、あっと内心で声を上げた。身の内で高まる霊力のせいか鍛刀師の双眸が、静謐な黒から鮮やかな紅に変化したのだ。彼は虚空に向かって、わずかに唇を動かした。 ――大太刀、石切丸よ。どうか、この審神者に力をお貸しください。 鍛刀師の唇がそう動いた刹那、炉の炎が赤々とひときわ強く燃え上がる。火精が作った霊力の道を通って、一柱の神の魂が降りてくるのを鶴丸は感じた。にわかに、鍛刀の式神たちが動き出す。炉の中から熱した鉄を取り出して、神の魂の寄り代となる刀をこしらえに入る。 式神のうちの一体が、審神者の近侍である山姥切に声なき声で「もう席を外していてもいい」と告げた。山姥切がそのことを審神者に告げる。しかし、審神者は首を横に振った。 「せっかく鍛刀師どのが俺のために喚んでくれた付喪神なんだ。ここで待っていて、お迎えするよ」 審神者は山姥切と鶴丸に、それぞれ仕事と休養に戻るように進めた。鍛刀師はもうしばらく、審神者と共にいるという。それならば、と鍛刀部屋を出た鶴丸は、国永を追った。離れへ帰りかけていた彼を、母屋からの渡り廊下で引き留める。 国永は目を細めて、鶴丸を見た。 「俺と話していいのかい? 世間では、同じ刀同士はあまり親しく接さない方がいいと言うらしい。よくない影響があるのだとか」 「こいつは驚きだな。“俺”ともあろう者が、世間の決め事に惑わされるのか? それが事実かどうか、誰も試していないのに?」 鶴丸が言うと、国永はため息を吐いた。 「ならば聞こうか。俺に何の用だい?」 「君の主について教えてほしい。いったい彼は“何”なんだ?」 「なぜ君に教えなければならない?」国永が静に問う。 「君のその顔さ」鶴丸はズバリと相手に指先を突き付けた。「君は“鶴丸国永”の顕現した形としては、静かすぎる。まるで墓の中にいた頃のようだぜ」 「俺たちは分霊だ。審神者の霊力によって、人としての肉体を得ているがゆえに、人格形成は審神者に左右される。個体差、だとは思わないのか?」 「あぁ、どこかの本丸にはもの静かな“鶴丸国永”というのも、いるのかもしれない。だが、君は違う。そうだろう?」 そう問いかけた瞬間、国永の表情が揺らいだ。静けさが破れて、金の瞳に感情の波紋が見て取れる。 けれど、鶴丸には彼が何を感じているのかは分からなかった。国永の目に浮かぶのは、怒りのようであり、悲しみのようでもあった。思慕に似ているような、限りなく狂気に近いような、そんな揺らぎだった。 あぁ、この“鶴丸国永”は、と鶴丸はふと感じた。どこまでも正気で、我を失うことができぬ己を嘆いているのではないだろうか。 「君に何が分かる?」国永は言った。冷静さがひび割れたような声音だった。 「分からないさ、何ひとつ」鶴丸は子守唄を歌うように、穏やかに答えた。「だから、話してみないか?そうしたら、少しは楽になるだろう。俺ならお前を誰より理解してやれる。――だって、俺と君は同じ“鶴丸国永”なんだから」 その言葉に国永は静かに息を吐いた。心を定めたような吐息だった。 「鍛刀師“六条の君”……主の号の由来は何だと思う?」 「由来って……五条国永の造った“鶴丸国永”を連れている。その五条にちなんだ“六条”じゃないのか?」 その言葉に、国永はニヤリと笑った。人を食ったような笑みだが、それにしてはわずかに覇気に欠けていた。 「そんな簡単な話なら、なぞなぞなんか出しはしないさ。俺の主の号“六条”の由来は、六条の御息所だ」 鶴丸は眉をひそめた。六条の御息所といえば『源氏物語』に登場する主人公、源氏の年上の恋人だ。彼女は恋多き源氏の他の女に嫉妬して、呪い殺してしまう。 そんな女と涼やかで儚げな鍛刀師の印象は、まったく重ならない。 「冗談だろう?」 「ところが、これは真実だ」 「じゃあ、本当に……?」 「――かつて審神者だった主は、愛に狂って俺以外の四十一振の刀を失った。“六条”の号は、その罪の証として主が自ら決めたのさ」 3.国永 ――俺は主の喚んだ、四十二振の刀剣のうち、最後の一振だった。 といっても、他の刀剣と比べてさほど遅く降ろされたわけでもない。 主は神職の血筋を引いている。その血の成せる業だろう、霊力が強くて鍛刀の才があった。現在、顕現させることのできる刀剣男士は、一年で主の元に集まった。 主の治める本丸は、理想的であったと思う。皆が仲よしすぎて、俺は少し戸惑いもしていたが。 あの本丸に喚ばれた者らは、俺をのぞいて皆、優しかったと思う。あれは主の魂の性質なのだろうな。大太刀や太刀など、打たれ強い者は短刀らを気遣っていた。また短刀や脇差なども、機動性を生かして皆の助けとなっていた。 不和はなかった。少しもな。 やがて主は初期刀の加州清光と恋仲になったが、そのときも不満に思う者はなかった。皆、主と清光は互いがおらねばならぬのだと分かっていたからだ。 そんな穏やかな本丸だが、皆、強かった。歴史修正主義者との初期の戦いにおいて、主の率いる本丸はほとんど先陣にあったはずだ。――それゆえ、悲劇は起こったのだろう。 あるとき、歴史修正主義者たちは強大な怨霊を呼び覚まして、主の本丸を襲撃した。そのとき、運悪く俺や三条の刀剣は出陣していた。もう一部隊、太刀や大太刀、打刀らで構成された隊が遠征に出ていた。それでも本丸にはなお三十振もの刀剣が残っている。本丸が手薄だなんて、誰も考えやしなかった。 だが、歴史修正主義者らの怨霊はあっさりと本丸の守りを突破して、攻め込んだ。この中で幾振かの刀が折られて、主は殺された。――そう、確かに主は一度、死んだのだそうだ。 本丸の留守居役であった清光は、恋仲の主の死を目のあたりにして、それを受け入れることを拒んだらしい。そうして、自らの神通力すべてを使って、理を捻じ曲げた。主を黄泉路から呼び戻そうとしたんだ。 付喪神になって日の浅い清光だけの神通力では、おそらく、主の黄泉返りは不可能だっただろう。だが、傷つきながらもその場に生き残っていた刀剣たちが、清光の想いに力を貸した。本丸に残っていたほとんどの刀剣が自らのすべての神通力を捧げて――結果、主は黄泉路から戻ってきた。 しかし、人ならぬ付喪神にとっても、黄泉返りは世の摂理を捻じ曲げる外法。黄泉返りを願った刀剣は闇に堕ち、主の中に吸収された。そして、主は化け物と化した。 俺たち出陣部隊と遠征部隊が戻ってきたのは、このときだった。 俺たちは主と戦い、一振ずつ折られていった。無理もない。この身に霊力を与えてくれるはずの主は化け物となり果ててしまっていた。そのときの俺たちは、以前の主の力の名残で人としての形を得ている状態だった。そんな状況で全力を出せば、破壊は免れない。 最後に残ったのは、俺と三日月宗近だった。 俺は宗近と共に、主と刺し違えるつもりだった。だが、最後の最後――宗近はたったひとりで自らの持てる神気のすべてで主の穢れを払いきった。引き換えに力を失って、折れて粉々になっていく刹那。あいつは俺に言ったんだ。 ――主を頼む。これはお前にしか任せられぬ役目だ、と。 俺は今でも宗近を恨んでいる。運命を恨んでいる。 どうして、最後に残ったのが俺なのだ。俺は主との間に、壁を作ることしかできぬのに。もしも、俺と宗近の立場が逆であったら。他の者と俺の立場が逆であったら。俺以外の誰かが生き残って主の傍にいて、彼と幸せになってくれるのなら。 それなら、俺は折れても構わなかったのに。 |