いずれ消えゆくよ
1.“六条の君” 私は石切丸の本体を抱えたまま、懸命に駆けた。それまで部屋の内にいたから分からなかったが、外に出てみると本丸はひどい有様だった。母屋は破壊され、地面は地割れが刻まれている。そこから這いだしてきた大蛇が動くたびに、断層のできた地面がズルズルと持ち上がったり沈んだりしていた。 鍛刀部屋は、本丸の母屋から少し離れた位置にある。離れの一つに資材用の物置と鍛刀部屋が、併設されているのだ。母屋から離れていたがために、そこは辛うじて破壊を免れたようだった。あと少しでたどり着く――私は必死で残りの距離を走った。 けれど。 大蛇の動きのせいだろう。急に足場が盛り上がってきて、私は転倒した。そこへ、大蛇の頭が牙をむいて襲いかかる。けれど、石切丸で応戦すれば、彼が穢れに染まってしまうかもしれない。私はせめてとばかりに、自分に迫ってくる大蛇を見据えた。目をそらすことはしたくなかった。 そのときだ。 「“六条の君”……!」 聞き覚えのある声が響く。見れば少年審神者の鶴丸と薬研、燭台切がそこにいた。皆、ところどころ負傷しているようだが、いずれも傷は浅そうだ。 「皆、よく無事で」 「うちの大将は? 俺たちは、てっきりアンタと一緒だとばかり……」 「えぇ、先ほどまでは。しかし、大蛇の出現で離ればなれになってしまいました。審神者どのは山姥切と一緒です」 「ひとりじゃないなら、まだ安心か……」 薬研がホッと肩の力を抜く。その脇から、燭台切がこちらの手元をのぞきこんだ。 「それって、もしかして石切丸かい?」 「審神者どのには申し訳ありませんが、刀に戻させてもらいました。練度の低い彼では、瘴気に染められて闇落ちする危険性がありましたので」 「それはそうかもしれないが」鶴丸は苦い顔をした。「鍛刀師“六条の君”――君は政府がよこした、主への客人だ。俺たちには、主同様、君を守る義務がある」 「“鶴丸国永”、勘違いのなきように。歴史修正主義者との戦いの中で何より優先されるべきは、敵を切り裂く剣たる刀剣男士とそれを率いる審神者。鍛刀は、審神者でもできる。この非常時においては、私が、あなた方と審神者どのを守らねばならないのです」 「か弱き人の身で何を……」 鶴丸が言ったときだった。私のすぐ傍の地面が割れて、そこから新たな大蛇の首が現れた。どうやら、歴史修正主義者たりがこの本丸襲撃に送り込んだのは、ただの大蛇ではないらしい。 歴史修正主義者の生み出す化け物は、怨念の塊を無機物や、虫や蛇に憑かせて呼び起こす。大蛇も、これだけ立派で複数の首を持つとなると、必要な怨念は莫大な量であっただろう。呼び出しに関わった術者が、軽く見積もっても三名ほどは狂気に陥ったに違いない。それほどの怨念だった。 私はその場から飛びのいた。そこに大蛇の首が襲いかかる。とはいえ、跳躍した直後では体勢を整えることもできない。牙で貫かれる――思わず身をすくめたときだった。傍らにふと黒い影が見えた。かと思えば、ぐぃと腕を引っ張られる。気がついたときには、私は薬研に抱えられて、安全な地面の上にいた。 私を食らいそこねた大蛇の頭が、再びユラリと頭をもたげる。大蛇は緩やかに頭を揺らしながら、次の攻撃の機会をうかがっているようだった。 「降ろしてください」 「そいつは聞けねぇな」薬研が大蛇をにらみながら言う。 「君はここを離れろ。あの怨念の化け物と戦うには、人の身は脆すぎる」 鶴丸はそう言いながら、自らの本体を鞘から抜いた。 その傍らから、「僕が先に」と燭台切が駆け出す。彼は駆け抜けながら、大蛇の首筋に切りつけた。大蛇の首の皮が裂けて、黒い血と瘴気があたりに飛び散る。燭台切は深追いはせずに、すぐに大蛇から距離を取った。見れば、大蛇の血を浴びたのだろう。燭台切の右肩がシュウシュウと焦げている。 「血にまで憎悪と怨念がいっぱいとはね……」 燭台切は苦しげに呟いた。が、それでも挫けた様子はなく、刀を構える。鶴丸も身を低くして、臨戦態勢に入りながら言った。 「薬研、鍛刀師どのを鍛刀部屋へ。あそこには、神棚がある。この瘴気の中、少しでも楽でいられるだろう」 「待ってください。私が――」 しかし、薬研はすでに走り出していた。もともと身軽な短刀の彼である。成人男性たる私を抱えていても、五十メートルほど離れた鍛刀部屋まであっという間だ。薬研は、もがく私を猫の子のように無造作に、鍛刀部屋へと投げ込んだ。 「悪いが、ここで大人しくしていてくれよ」 そう言って、彼は鍛刀部屋の扉を閉めた。 鍛刀部屋に放り込まれた私は、しばし呆然としていた。が、すぐにそんな場合ではないと思い出す。私はまず、石切丸の太刀を鍛刀部屋の神棚の前に据えた。鍛刀部屋の神棚には火の神たる二柱――火之加具土命と火焼速女命を祀っている。鍛刀で鍛えられた刀は彼らの子も同然。穢れから守ってくれるに違いない。私は火の神に加護を祈ってから、片隅に置かれている予備資材の元へ駆け寄った。 資材は、最低でも脇差が出る程度の量があった。上手くすれば打刀が打てるだろう。 ちょうどいいか。迷いなくすべての資材を炉に投じた。 この鍛刀は私が振るう刀を打つためのものだ。刀さえあれば、私はこの身に残る黄泉の息吹を呼び覚まし、絶大な力を得ることができる。もっとも、今度こそ化け物堕ちしてしまう可能性も高いが。ともかく、私が振るうならば太刀よりも脇差か打刀の方がやりやすい。 私は資材を溶かしてから、祈りを捧げた。次いで、鍛刀にかかる時間を早めるために、札を使う。“手伝い札”と呼ばれるこの札は、使い手の霊力を吸収して、式神に与える。式神たちは必要な作業を一瞬で終えてくれる――はずだった。 しかし、今回は普段と違った。本丸という“場”が破壊されつつあるせいだろう。式神は鍛刀の速度を早めはしたが、鍛刀が終わったわけではなかった。 「はやく、はやく……!」 私はひとり焦れて呟く。はやく、はやく、はやく。もう誰も折りたくはないのだ。だから、どうか――。 こらえきれず、私は手伝い札をさらに二枚、追加した。 パッと炉が光を放つ。鍛刀が終わったのだ。 私や審神者たちの鍛える刀は霊的な炎の中で打たれる。そこが普通の刀とは違う。刃以外の拵えさえ、炉の中で出来上がるのだ。鍛刀式神が、そもそも炉の精霊――火精に属するからだろう。 普段なら、炉の中から運び出された刀剣は、審神者の祈りによってすぐに刀剣男士の形を取る。失敗ならば、霊力のこもった鉄屑と化す。しかし、私は祈ることはせず、すぐに刀を取り上げた。いまだ炎の気配を帯びた刀は、ひどく熱い。取り落としそうになるのを堪えて、私は左手に刀を握りしめて、走り出した。勢いで扉を蹴り開けて、転がるように外に出る。 外はひどい有り様だった。鍛刀部屋のすぐ前の庭には、重傷を負った燭台切が倒れている。前方で辛うじて立っている薬研もボロボロの姿だ。ただ一人、何とか大蛇の頭部と戦っているのは、少年審神者の鶴丸だけだった。しかし、その鶴丸も白い衣を赤く染めた中傷状態である。 目の前の光景に、かつて見た自分の本丸の惨状が重なって見えた。 駄目だ。 誰も折らせない。 守らなくては。 ほとんど恐怖のようにそう思う。緊張に震える手で、刀を鞘から抜いた。 私は刀を構えた。我が身に宿る神気――国永や宗近、それにかつて清光から分け与えられたそれを、刃に流す。神気が辺りを漂う瘴気と反発しあって、微かな風が生まれた。私が刃に込める神気を増やすうちに、風はどんどん強くなる。やがて、風は小さな竜巻ほどの強風になっていた。髪が、裾が、袂が、わき起こる風になぶられて、バサバサと宙に遊ぶ。 大蛇はわずかに怯んだ様子を見せたものの、引き下がりはしなかった。大きく開いた口から、なおも濃い瘴気を吐き出し続ける。瘴気の圧力がのしかかってきて、刃がひどく重くなった。このままでは、こちらが瘴気に耐えられないだろう。 だが、押し負けるわけにはいかない。 「ああああああぁぁぁぁ!」 私は駆けながら、刀を握る手にありったけの力を込めて振るった。 ザッ! 刃を振り切った瞬間、目の前に壁のように広がっていた瘴気の帯が、真っ二つに割れる。私は刀を振り切った勢いのまま、地面に膝をついた。神気を使ったせいで、すぐには立ち上がれない。うずくまって荒い呼吸を繰り返す。 「き、君……その姿は……」 鶴丸が震える声で言った。きっと、周囲から見れば、私は紙のように白い肌と朱金の目を持つ化け物に見えただろう。しかし、鶴丸たちに自分の状態を説明している暇はなかった。裂けた瘴気の向こうから、いまだ戦意を失わぬ大蛇が現れたのだ。 私はもう一度、刀を構えた。 「やめろ!君、そんなことをしていると、戻れなくなるぞ!」 鶴丸の叫びが聞こえる。私は構わずに走り出そうとした。そのときだ。 ふわり。 清々しい薫が嗅覚に触れた。同時に、青い袖が視界に翻る。気がつけば、私は柔らかく、しかし、有無を言わせぬ力で抱き止められていた。 「なっ……」 何をする、と言葉にもならないうちに、顎を取られる。無理矢理振り向かされて、唇を奪われた。ひとつ、ふたつ……とおを数える間、合わさった唇から神気が流れこんでくる。夜のようなひんやりした甘さが感じられるその神気には、覚えがあった。 「……むねちか?」 唇が離れて、なおも息の触れる近さで、夜の色をした瞳が笑みの形に細められる。その奥に金の月が輝いた。――かと思った刹那。 緩んだ私の手から、彼は刀を奪い取った。 あっと思う暇もない。 気がつけば、大蛇に向かって疾走する青の狩衣姿が見えた。あれが分からないはずはない。天下五剣に数えられる太刀“三日月宗近”の、刀剣男士として顕現したる姿が。 大蛇は“三日月宗近”に襲いかかった。大きく口を開いて、食らいつきにかかる。しかし、彼は怯まなかった。少しも速度を落とさないまま、大蛇に突っ込んでいく。“三日月宗近”は刃を振りかざして、一閃させた。まるで舞うような優雅な動作。だが、地に降り立った彼の背後で、ゴトリと大蛇の頭が落ちた。 「まったく、そなたは人の身で無茶をする」ふわりと微笑して、“三日月宗近”は言った。「久しいな。……いや、お初にお目にかかると言うべきなのか。どう思う? 鍛刀師“六条の君”よ」 「は? 三日月は何を言ってるんだ?」 鶴丸が不思議そうに尋ねる。私はそれに答えられないまま、近づいてくる“三日月宗近”を見ていた。 「お前は……うちの本丸にいた宗近なのか? だが、彼は私がこの手で」 と、“三日月宗近”は優雅に差し伸べた指先で、私の唇に軽く触れた。笑みをにじませた瞳が、それ以上は言葉にするなと告げている。 私は言葉を飲みこんだ。それを察したらしい“三日月宗近”は、サラリと一度、私の唇を撫でてから手を離す。『よい子』と言われたような気がした。 「鍛刀師よ。俺はそなたによって新たに鍛刀された剣だ」 「私は刀剣男士を顕現するつもりはなかった」 「知っておるよ、“六条の君”。どんな刀をも自在に鍛刀する『鍛刀師』――しかし、そなたは付喪神を顕現させることができぬ。できぬというより、恐れているのだろう? 自らの刀剣男士が折れるのを」 「っ……」 「国永ではないが、“どうだ? 驚いたか!”と言うところであろうな」 “三日月宗近”はニコニコと微笑している。彼は私の本丸にいた宗近とよく似ていた。とはいえ、宗近と彼は別人のはずだ。 理由は、付喪神の分霊に血肉を与える私たち、審神者にある。刀剣男士の人格は、本来の付喪神としての性格に加えて、審神者の魂や精神を一部、写し取って形成される。人の身を得るには、神としての心持ちでは不可能だからだ。刀剣男士として肉の器に馴染めるように、審神者は己が人間らしさを彼らに与える。これが刀剣男士に個体差があると言われる所以だ。 ならば、審神者が一度、破壊された刀剣をもう一度、降ろせばどうなるか。同じ審神者の精神を写し取るならば、同じ記憶と人格を持つ刀剣がやって来そうなものだ。しかし、実際には折れた刀剣そのものが再び顕現することはない。というのも、人の心は時と共に変わっていくからだ。わずかな一瞬の後には、人の心はわずかに――あるいは大きく変化している。私を例に取って言うならば、初めて宗近を降ろしたときと、彼を折った記憶を持つ現在とでは、まったく別の心を持っているということだ。少なくとも“三日月宗近”が一度は折れたという記憶と感情を経験しているのだから。 「……お前は“何”だ?」 私は尋ねた。礼を失する問いだとはいえ、そうとしか言えなかった。 「俺はそなたの鍛刀した“三日月宗近”だ。とはいえ、そなたの宗近の魂は練結されてそなたの内側に存在する。それ故、俺はそなたの内の宗近の魂と記憶を写す形で、この世に現れた」 「なぜ……? 私は顕現しようとしなかったのに」 「あぁ。だが、そなたには、宗近の加護がある――そなたを護りたいという宗近の意思が。俺はその加護に喚ばれたのだ」 「――そんなことがあり得るのか?」そう尋ねたのは、鶴丸だった。「俺たちは地上の声に応じて、分霊を降ろすことはできる。だが、刀を顕現させるかどうかは、審神者の意思次第。審神者によって顕現されなければ、俺たちはこの世で肉の器を得ることはできぬはず」 「鶴丸よ、俺と“六条の君”の関係は、特別なのだ。彼は折れた我らの魂を捨て置くことができず、自らの魂に我らを練結した。逆に言えば、彼の中に存在する俺の魂は“六条の君”の審神者としての能力をわずかながらも引き出せるということ」 「――勝手なことを」 私は泣きたい気持ちで、“三日月宗近”をにらんだ。 鍛刀師たる私が刀剣を顕現しないのは、彼らを折るのが怖いからだ。 だが、それに加えてもう一つ理由がある。私は審神者として刀剣男士を率いることを、許されていないのだ。なぜなら、かつて私は本丸にいた刀剣たちごとたたり神と化しかけた。しかも、冥府の息吹はいまだにこの身の奥にあり、国永から神気をもらうことでやっと抑制している状況。審神者として本丸を持ったとして、私が化け物になったとき刀剣たちは主従契約のために私に従わざるをえない。最悪、本丸ひとつの戦力が丸々、歴史修正主義者とは異なる第二の敵になってしまう。 政府も私もそれを恐れるが故に、私は審神者でなく鍛刀師の役目に就いている。本丸をもてないのだから、この“三日月宗近”も顕現したところで、すべてが終われば刀解せねばならない。 「よいのだ、“六条の君”。すべて承知の上のこと」“三日月宗近”は微笑んだまま、歌うように言った。それから、ふと思いついたような顔になる。「そういえば、妙な話よな」 「何がだ?」 「そなたの号よ。愛に狂った六条の御息所にちなんだ号とは……。昔のそなたは、愛も恋も知らぬ童(わらわ)だったというのにな」 「記憶があるなら、知っているだろう? 清光が、私に教えてくれた」 私は彼の面影を思い出そうと、僅かな間、目を閉じた。 2.こんのすけ 灰色の小さな狐が廃墟の中を歩いている。狐は名を『こんのすけ』という式神ロボットだった。もとは白い毛並みとフワフワの尻尾を与えられていたのだが、敵襲の中を逃げまどううちに薄汚れてしまったのだ。 「まったく、ひどい目に遭いました……」こんのすけヨロヨロと歩を進めながら、ブツブツと呟く。「本丸の土地ごと真っ二つとは、歴史修正主義者らはなんと乱暴なのか。審神者どのたちが心配です……」 襲撃直前、こんのすけは審神者たちから政府との連絡を任されていた。その連絡に集中しているうちに、審神者たちとはぐれてしまったのだ。 破壊されたとはいえ、本丸にはいまだに審神者の霊力が濃く漂っている。おそらく、審神者はまだ無事であろう。しかし、状況はもはや一刻の猶予もない。 さすがにここまで本丸が破壊されれば、政府にアラートが伝わるはず。ただ、そこから政府が時空ゲートをこの本丸につなげるのに、どれほどの時が必要か。普段ならば、時空ゲートをつなげるのはたやすい。ところが、現在は普通の状況ではない。本丸は、怨念によって探知をジャミングされているのだった。 どうか、間に合ってほしい。限定された力しか与えられていないこんのすけは、祈ることしかできない。 今はせめて、はぐれてしまった審神者たちと合流しなければ。そう思って、こんのすけは敵の刀や化け物が跋扈(ばっこ)する本丸を、身を低くして進んでいく。 と、そのときだった。 こんのすけは庭木にひと振の刀が引っかかっているのに気づいた。どうやら刀種としては打刀のようだ。鞘は失われており、抜き身の刃がさらされている。その造りはこの本丸の打刀、“加州清光”とも“山姥切国広”とも異なっていた。 「これはいったい……“誰”なのでしょうか……?」 おずおずとこんのすけは刀に近づいていった。刃をのぞき込んで、思わず絶句する。刃の刃紋がユラユラと揺らめいていたのだ。水のように、炎のように、平坦になったかと思えば波打つ紋様が現れる。刀の内部には、何らかの強い魂の存在を――それも、複数、感じた。 ――この刀、生きているのか。 こんのすけはあまりに異様な刀の前に、つかの間、立ちすくんでいた。だが、この刀をこのまま放っていくことはできない。憎悪に染まれば、これほどの非凡な刀が今度は敵方として襲ってくることが考えられる。 それに、何より――この刀を放っておいてはいけないと、勘のようなものが告げていた。 「……私めは狐の身ですからね。うまくお運びできぬのは、お許しくださいよ」 そう呟いて、こんのすけは柄をくわえた。地面を引きずっていくことになるが、他にどうすることもできない。重い刀を引きずりながら、こんのすけは再びゆっくりと歩きだした。 3.清光 その刀の中では、いくつかの魂がまどろんでいた。彼らは元は刀剣男士であったけれど、もはや人の形を取ることはない。主の傍らにあり、主に振るわれ、主の腕に抱かれて眠る。それだけの日々を重ねていく。 彼らは幸せだった。持ち主に振るってもらえるのなら、人の姿を取る必要はない。いつか、主と共に果てるときまで、彼らはその刀でまどろんでいるつもりだった。人とは時の流れの違う付喪神たちのこと、彼らにとって、たとえ生命の理から外れたとはいっても人の子を待つのは、さほど苦痛でもない。 刀の中で、“加州清光”――清光の魂は昔の夢を見ている。かつて、本丸で過ごしていたときの夢だ。 初期刀として主を支え、苦楽を共にしてきた。そのいずれも――楽しい思い出も、苦しい思い出も、今はひどく懐かしい。 清光は、最初から主のことが好きだった。というより、“加州清光”という刀は、ほとんどの場合そういう性質なのだ。己自身でも自覚はある。 主が好きだから、特別になりたい、愛してほしいという気持ちはあった。けれど、清光はそれがかなわないことも承知していた。主は愛されて育った人で、そうであるが故に、愛情深い人だ。本丸の刀剣四十二振すべてを家族のように大切にしている。それでも、決して特別は作らない。 本丸の外に想い人や恋人がいるわけではなかった。尋ねても主は「いない」と答えたし、連絡を取り合ったりしている様子もなかった。何より、一緒に酒を飲んだとき、主自身がこぼしていたのだ。愛とか恋とかはよく分からない、分からないのにそれをすることはできない、と。だから、清光は彼に想いを告げるつもりはなかった。愛してもらえないなら、意味がないから。 顕現して一年で、国永が主に想いを告げたことを知ったのは、偶然だった。近侍をすることが多い清光は、書類を主の部屋に忘れたことを思い出した。取りに行こうとしたところで、部屋の中での二人の会話を聞いてしまったのだ。 国永は主に好きだと告げた。 主はその想いは受け入れられないと答えた。己には審神者の役目がある。悲惨なことも醜いこともあるこの世を、それでも護る者のひとりとして在りたい、と。それゆえ、神の愛を受けて神域で安穏と過ごすつもりはない、と言い切ったのだ。 清光が見る中で、国永と主にはどこか似たところがあった。優しいが、決然としていて、捉えどころがない。己がこうと決めたなら、たった一人になっても進んでいきそうな――そんな自由さというのだろうか。 国永は、自分の神域に誰かを囲って、安穏と過ごすことをよしとする性分ではない。常に驚きと変化を求めている。清光は深い話をする間柄ではないが、国永が刀剣男士として人に力を貸すのは、刻々と移りゆく現世を好んでいるからだと何となく知っていた。その国永が主を欲して、神域に連れていきたいというのは、余程だろう。何者にも囚われぬ己の性質を曲げて、主に囚われてもいいくらい想っているということだ。 ――国永はそこまで、主を。 驚きを胸の中にしまって、清光はそっと主の部屋の前から離れた。翌日、主と国永が話す姿を見たが、二人は普段通りだった。前日のことなど何もなかったかのように、冷たいほどに――。 それから三年後のこと。 主の家に不幸があった。歴史修正主義者らの歴史改変によって、主の一族の多くが消えてしまったのだ。殺されたのではない。時間の流れの中から“消されて”しまったのだ。もともと、主の一族は神職に連なる血筋であり、審神者を幾人か排出していた。その一族も、歴史の深部で血筋ごとを消されて、現代に残ったのは審神者の能力を有する者のみ。 悼む間もなく、血も流れぬままに、主は一夜にして自分を愛してくれた家族を喪った。しかも、家族のことを覚えているのは、一族の生き残りだけ。それまで関わりのあった人々は、最初からそんな人間などいなかったという認識なのである。 主は悲しんだ。けれど、部屋にこもっていたのは一日きり。すぐに審神者としての仕事に戻った。本丸の日課をこなさねばならないからだ。普通なら、さすがに審神者でも家族の不幸には忌引きが認められる。ただ、今回は誰かが死んだわけではない。歴史上から一族が消えたのだ。戸籍からも政府の職員の記憶からも。結果、“何もなかった”ことになった。 それでも、主は怒らなかった。いつもと変わらない顔で、いつも通りに笑って冗談を言うことさえあった。 そんな主を清光は見ていられなかった。執務室で仕事をしているとき、清光は無理に元気そうに振る舞わなくてもいいのにと告げた。すると、彼は顔を上げた。闇の色をした目が、深い淵のようだ。清光には読み取れぬ感状をたたえている。 「悲しくても、泣いているわけにはいかない。私は歴史修正主義者たちを憎んでいるよ。いままでに増して。だから、仕事をするんだ。だから、笑うんだ」 「どうして……?」 「私はお前たちと違う。いくらか戦えるといっても、我が身を守れる程度だ。だから、私が歴史修正主義者たちに対して出来る復讐は、審神者としての役目を果たすこと」 ――笑うのは。己の役目を果たすのは。私にとっての戦いなんだ。 だから許してくれ、と主はきっぱり言った。 その表情に、かつての持ち主である沖田総司のことを思い出す。どうして人というのは、短命なくせに己の痛みさえ気に留めず、前へ進もうとするのだろう? いや、短命だからなのか。清光は無性に、主を支えたいと思った。今までだって、主を守るつもりだったし、支える気ではいたけれど――そんな感情とは程度が違う。この人が幸せで、生きてくれるなら、己はボロボロになっても、折れてもかまわないとさえ思うのだ。 あまりに強い感情に、胸がギュッと締め付けられる。何かがそこからこみ上げてきそうだった。――でも、いったい何が? 清光の顔を見ていた主は、ふと表情を和らげて笑みを浮かべた。手を伸ばして、そっと清光の頬に触れる。 「どうして、お前が泣く?」 言われてはじめて、清光は己の頬を伝う滴に気づいた。人の身を得てはじめて流した涙。それでも、己の涙の理由は分かった。 「主が、泣かないからだよ」 「同情したということ?」 わけが分からない、というように主が首を傾げる。あ、この人、朴念仁ってやつだ。いままでにも薄々、感じてたけど。 そう思いながら、清光は頬に添えられたままの主の手に、己の手を重ねた。 「違うって。同情、とかじゃなくて……主のこと、いとおしいって思ったの」 「今のにそんな要素はなかったはずだが」 「要素とか、どうでもいいよ。俺は主が好き。たとえ主が愛とか恋とか分かんなくて、俺を特別に愛してくれなくてもいい。俺は主のこと、愛してる」 口をついて出た言葉は、これまでの自分からは考えられない内容だった。たとえ特別に愛されていなくとも、誰かを愛するなんて。けれど、こみあげる感情の奔流は、普段の自分も過去から来る恐怖も不安も、全部を押し流していく。 清光はまた新たな涙を流しながら、言葉を重ねた。 「神域に来てとか、言わない。主は人として、ここにいればいいよ。俺は人間で、脆くて、それでも強い主が好き。俺なんかじゃ、主の家族の代わりにはなれないけど、精一杯、愛するから。主が主の戦いをできるように、それでも寂しくないように、愛するから……だから、主の寂しさとか、悲しさとかが少しでも軽くなればいいのに」 「清光、らしくない」 主はポツリと呟いた。先ほどの決然とした態度とは異なる、ひどく幼い口調だった。と、その目の縁にじわじわと水滴が浮かぶ。涙だ――ぼんやりとそう思う。清光の目の前で、主は笑いながら泣いていた。 「どうして、そんなこと、言うんだ……。清光らしくない……らしくないけど」 ありがとう――そう言って、主は、清光にしがみついて泣き出した。 そうやって抱き合って、どれほど経っただろうか。主は泣き疲れて、眠ってしまったようだった。主を布団に寝かせた清光は、彼の部屋を後にした。母屋へ戻ろうとすると、渡り廊下に腰かけている国永の姿が目に入る。彼は今日、第一部隊の隊長として出陣をしていた。無理に平静に振る舞う主を心配しながらも、本丸に課せられる日課をこなすために。 清光の気配に気づいたらしい国永は顔を上げて言った。 「主は落ち着いたか?」 その言葉に、主との会話を国永が聞いていたのではないかと思い至る。清光は少しぎこちなく、頷いた。 「今、主は眠ってる」 「そうか。落ち着いたのなら、いい。近頃の主は無理をしていた。どこかで感情を晴らす必要があった」 「国永……。俺――」 「聞いていた」清光の言葉を遮るように、国永は言った。「帰還の報告に行ったところで、お前と主が話しているのを聞いてしまってな。偶然だったが、悪かった」 「そ、じゃ、なくて……。国永が主に惹かれているのを知ってるのに、俺――」 「気にするな」 国永は微笑した。穏やかな表情。けれど、その後ろにわずか、痛みの色が見える。感情というのはどうしてこれほど厄介なのか。清光は途方に暮れてしまう。そんな清光に構わず、国永は続けた。 「主はお前の前では、泣けたんだ。俺でも、他の誰でもなく、お前の前でだけ。主は強いが、硬いばかりの刀は折れる。俺たち刀剣が硬い鉄ばかりでなく、柔らかな鉄も混ぜて造られるのは、斬れるように、折れぬようにするためだ。主がお前にならば、弱さを見せられるというのなら……お前が主のやわい心を守ってやれ」 心の痛みを堪えながら、なおもそう言う国永は、ひどく主に似ていると清光は思う。きっと、自分は彼にはかなわない。主の心の自由さを理解できるのは、きっと国永だけ。自分にできるのは、ただ主の傍にいて、愛して、その存在を現世に繋ぎとめるだけなのだ。 4.審神者 少年審神者は何かに呼ばれた気がして、顔を上げた。 ここは庭木の陰。本丸の惨状に仲間を探しに行くこともできず、隠れている。傍らでは山姥切国広が注意深く周囲を警戒していた。 「国広。今、何か聞こえなかったか?」 尋ねると山姥切は審神者を振り返って、首を振った。 「怨霊どもの咆哮はうるさいが……他には何も。それより、大人しくしていろ。主がやられては、皆が悲しむ」 「だけど……」 審神者は反論しかけた。そのときだった。もう一度、何かに呼ばれたような感覚があった。やはり、何かおかしい。審神者は茂みの中から立ち上がった。山姥切に隠れていろと叱られる。が、審神者はどうしても行かねばならない、と言い張った。 「行かねばならないって、どこに?」山姥切が少年の常にはない様子に目を白黒させる。 「こっちだ。声が聞こえる気がするんだ。……来て」 審神者は導かれるように、瘴気の渦巻く庭を歩き始めた。山姥切は本体を手に、油断なく後を追おう。やがて、審神者は立ち止まった。そこには薄汚れた毛玉がうずくまっていた。――いや、毛玉ではない。こんのすけだ。 「……こんのすけ」 少年審神者が呼ぶと、こんのすけは顔を上げた。 「おお、審神者さま。ロボット本体がバッテリー切れになってしまいまして。省エネモードに入ったので、自力では動けぬのです。お見苦しいところを、お見せしてしまって……」 「そんなこと……! とにかく、こんのすけが無事でいてくれてよかった」 そう言ったときだった。審神者はこんのすけの傍らにある抜身の刀に気付いた。この刀には、何となく見覚えがあった。鍛刀師が携えていた刀だ。彼の手の中にあったときはごく普通の刀に見えたそれは、しかし、今は異様な有様だった。刃の上でチラチラと刃紋が踊っているのだ。しかも、刀の内には魂が幾つも感じられる。 ――起コシテ。 ――喚ンデ。 そんな声が聞こえた気がして、審神者は刀に手を伸ばした。途端、山姥切がその手を掴んで押しとどめる。 「国広」 「いけない。その刀は何か妙だ。黄泉路の気配がある」 審神者はじっと刀を見つめた。確かに異様ではあるが、悪意や憎悪は感じられない。それに、ここから移動するならば、鍛刀師が大切にしている刀を放っておくわけにもいかなかった。なぜだか、この刀を鍛刀師の元へ戻さねばならない気がする。 「国広、どうしても、この刀は鍛刀師どのに返さなくては駄目だ」 きっぱりと言って、審神者は山姥切の手をどけた。鍛刀師の刀に手を伸ばす。柄に触れた瞬間、目の前に白い光が生じた。ふと見れば、そこに細身の男が立っている。青白い肌に白い髪。死に装束のような白い衣装。何か骨のような素材の甲冑をまとっている。白い髪は長く、背中に緩く流されていた。 少年審神者はしばらく、その男に見入っていた。 刀剣男士だろうか? だが、それにしては見たことも聞いたこともない姿をしている。 彼はいったい――。そう思ったとき、ふと脳裏にある面影が蘇った。白い甲冑の男の面差しに見覚えがある。少しばかり大人びて、衣装も変化しているけれど、この男は――。 「もしかして……加州清光……?」 審神者の呟きに、白い男はゆっくりと目蓋を上げた。そこから、色鮮やかな朱金の瞳が現れる。彼は唇を開いた。ハクハクと形のよい唇が言葉を象る。しかし、声はなかった。 「話せない、のか……?」山姥切が言う。 しかし、審神者には白い男の言葉を聞き取ることができた。というより、脳に直接響いてくるのだ。 「――国広。この人は、“六条の君”の加州清光らしい。状況が悪いから、助けに出てきてくれたって」 「主、分かるのか?」 「分かるよ。……まずは瘴気で闇落ちしそうな“六条の君”の鶴丸国永と、うちの加州のところに行くつもりだって。だから、俺も一緒に行くつもりだ」 「主、いけない!」 「俺はひとり、隠れているつもりはないよ。審神者の仕事は後方支援だけど、俺だっていつも皆と一緒に戦ってるつもりなんだ」少年審神者はきっぱりと言ってから、白い男を振り返った。「つれて行ってください。俺たちにも、まだ何かできるはず」 白い男は審神者の言葉に、微笑して頷いた。 |