君、なかりせば






1.清光


 あの日のことを、俺は忘れない。

 桜の舞う晴れた日だった。
 恋仲になって一年。俺とあの人は、仮の祝言をすることになった。
 俺たちが恋仲なのは、最初から本丸の仲間たち皆の知るところだった。俺たち刀剣男士は付喪神。下位とはいえども、神の末席に座する存在。人同士ならばいざ知らず、人と神が縁を結べば、他の神に分からないはずがない。相手の人間の霊力が、明らかに質を変えてしまうからだ。
 皆、俺たちの仲を知っているにもかかわらず、祝言をすることになったのは、あの人に影響が出始めたせいだった。俺はあの人を神気で浸食しないよう、注意を払いはしていた。それでも、神と人とが近しく接すれば、後者が前者に引きずられるのは仕方ない。
 このままでは、あの人は俺たちと同じになってしまう。
 そこで、ご神刀の太郎太刀、皆の中でも神格の高い三条派が話し合って、解決法を見つけてきた。結果が、祝言を行うことだった。
 神と人とがはっきりした契約もないままに、恋仲として触れあうのは、まずい。仮の祝言を行って、双方の関係性を固定するのがよいというのだ。
 祝言という契約の中では、妻側が夫側の世界に属することになる。これは、男女のいずれが優遇されているとか、そういうことじゃない。夫が陽で妻が陰、あまねくこの世に満ちる二つの力の均衡の問題だ。どちらが欠けても均衡が崩れるのだから、どちらが優でどちらが劣ということはあり得ない。
 俺たちの場合、あの人は人間であることを望んでいる。だから――たとえ閨の中でどうあろうと――俺があの人に嫁入りする形を取る。これは、あくまで“加州清光”の分霊たる俺の話で、本神には影響がない。ただ、俺自身は神の身ながらも人の世に属することになる。普通の分霊ならば、役目を終えれば本神の元に戻ることになるけれど、嫁してしまった俺は本神には戻れなくなる。本神とは異なる性質を抱えるようになるからだ。従って、あの人を神域に連れ込むことができない。
 けれど、神隠しはあの人が望まないから、できなくなっても問題ない。あの人がいないなら、本神の元に戻りたい気持ちもない。
 問題があるとすれば、俺が白無垢を着なければならなかったことだ。いくら、着飾るのが好きといっても、女装がしたいわけではないし。百歩譲って俺が白無垢を着てもいいけれど、できればあの人の花嫁姿も見たかった。
 控えの間でそう言ったら、支度を手伝ってくれていた乱と次郎が苦笑した。
「皆だって、同じことを思ってるよ」と乱。
「まぁ、いいじゃないか。あんたもよく似合ってるよ。かわいい、かわいい」次郎も取りなすように言う。
 そのときだった。
 入るぞ、と宗近の声がする。襖が開いて、あの人が入ってきた。宗近と国永が、親のように付き添いをしているのが、何だかおかしい。
 あの人は普段から着ている審神者の白い単衣と水色の袴の上に、白の狩衣をまとっていた。少し感じが違うと思ったら、化粧をしているらしい。唇と目の縁に紅が引いてある。元が俺たちより華奢なあの人の狩衣姿は、勇ましいというより、白拍子のようで艶めかしかった。
「主……綺麗だ」
「綺麗なのは、お前だろうに」
 あの人は柔らかく苦笑してみせた。紅ののったその唇に口づけてみたい。そう思ったけれど、あの人ははしゃいだ乱と次郎に連れていかれてしまう。後には俺と宗近、国永が取り残された。
「――清光よ。神通力の一部を捨てることに、悔いはないのか?」
 宗近が尋ねる。顔を上げれば、彼はじっとこちらを見ていた。俺はその目を見返して、ニヤリと笑ってみせた。
「当然。“あたし今すぐ死んでもいいわ”ってやつだよ」
「二葉亭か……」国永が呟く。彼は桜の花びらの散る縁側に出た。「俺はそうは思えなかったな。……正直、今回のことも感情はいまだに割りきれてはいないんだ。みっともない」
 それはそうだろう。神は死にゆく運命の人とは違う。感情も思考も、簡単には変わることができない。千年をも存在して、高い神格を持つならば、なおのこと。
 人の子の死する運命は、ある意味では救いなのだ。うつろいやすさは、ある意味では癒しなのだ。
「……主のそばにいてやってくれ」
「うん。……ていうか、祝言したら、俺は本当にそばにいるくらいしかできなくなる。神格、あんまり高くないから」
 そういうと、国永は痛みを堪えるように笑った。その肩に、髪に、薄紅の花びらが降りかかる。
「お前はたいした奴だよ」
 変われないはずの彼の、痛みをこらえた言葉が何よりも嬉しかった。だから、俺は花びらの雨の中にいる彼に笑ってみせた。

 のに。

 はらはらはら。
 舞散る花びらが、真っ赤に染まる。思い出の中で地面に散った花びらは、目の前で血の染みに変わった。畳を赤く染める血液。血溜まりの中にあの人が横たわっている。
 生命の息吹は、感じられなかった。事切れたその姿に、かつての主たる沖田の姿が重なる。

 嘘、嘘、嘘。
 こんなのは嘘。

 あの人が、俺の手のとどかない場所に行ってしまうなんて。

「ある……じ……」
 呼べば、喉の奥からせりあがって来た血の塊が、口から溢れる。仮初めの肉体はともかく、傍らの本体も今に折れそうだった。
 あぁ、でも、俺はどうなってもいい。あの人が生きて、幸せでいてくれるならそれでいい、のに。国永に、主の傍にいると約束した、のに――。
「だめ……。主を……逝かせない……。黄泉には……渡さない……!」
 ほとんど無意識のうちに、俺は身に宿るわずかな神通力を呼び起こしていた。今にも切れそうな主との夫婦の縁を、主従の縁を、思い切り引き寄せる。いまだ折れずに残っていた仲間たちが気づいて、力を貸してくれた。
 ズズズ……と虚空に闇が口を開く。黄泉路の入り口だ。下位とはいえ、幾人もの付喪神が神通力の限りを尽くしたのだから、世の理(ことわり)が曲げられぬはずがない。
 やがて、黄泉路の口に細身のシルエットが見えた。あの人の魂だ。たとえ、死の穢れを帯びてひどい有り様だろうと、間違えたりはしない。

 あぁ、戻ってきてくれた。
 俺は安堵に微笑した。
 イザナギはなぜ、イザナミの黄泉での姿を見て逃げ出したのだろう。心から愛する妻なれば、どんな姿だって――そう、どんなあの人だって、恐れたりはしない。そんなこと、できるわけがない。だって、こんなにも、いとおしいのに。
 あの人の魂が器に近づいていく。黄泉の穢れを引き連れて。辺りを浸食するその穢れに、俺も仲間も呑まれていく。けれど、構わない。すべて承知でしたことだ。あの人が黄泉返りさえすればいい。あの人の魂にまとわりつく死の穢れは、誰かの――そう、国永の神域で祓えばいいから。
 だけど、あの人の魂が肉体に戻った瞬間。俺は自分が甘かったことを悟った。
 あの人の魂には黄泉から伸びる糸が絡みついて、がんじがらめにしているのだ。
 これでは、もはやどんな神でもあの人を神域に連れ去ることはできない。あの人の魂は黄泉平良坂の奥にいるイザナミのものだ。
 あの人は、生きて、滅びて、輪廻する宿命。そばにいると誓ったのに、俺にはあの人と共にはいられない――。



2.審神者


 白い男――“加州清光”は少年審神者から刀を受け取り、瘴気の中を進んでいった。抜き身の刃を携えて、時折、襲ってくる敵の刀を軽々と斬り捨てる。
 ――強い。
 審神者はそう感じた。この本丸にも、まだ練度が低いとはいえ加州はいる。だが、“加州清光”は段違いだった。襲いくる敵をひと薙ぎで二体、三体と倒すのだから、普通の打刀の性能ではない。
「彼は刀剣男士としての、力の上限を凌駕しているようです」
 胸に抱いたこんのすけが呟く。審神者は首を傾げた。
「上限なんかあるの?」
「左様。付喪神とて、神は神。彼ら本来の力は人には押さえられませぬ。ゆえに、審神者が仮初めの肉体――敢えて脆い器を与えることで、刀剣男士としての彼らの力に上限を設けているのです」
「じゃ、審神者は刀剣男士の足枷ってことじゃないか」審神者は顔をしかめた。
 と、傍らの山姥切が怒ったように言った。
「そうじゃない」
「だけど」
 審神者はなおも言い募ろうとした。そのときだった。前を行く“加州清光”が、振り返った。ふわり、と柔らかな笑みを浮かべる。はくはくと、唇が声なき言葉を象った。
《俺たちは、不幸じゃないよ。感情を抱ける心を、触れあえる身体を得られたんだから》

 ――生命に限りある人の子が、有限を移ろう人の子が、決して不幸とは限らないように。

 声と共に、ふわりと温かなものが心に伝わってくる。あぁ、これはきっと、人を愛した彼の心。気づけば審神者は涙を流していた。悲しいわけでもないのに、なぜか溢れたその滴を見て、“加州清光”は優しく目を細める。
《こうなった俺は、もう、涙を流すことはできないから……泣いてくれて、ありがとう》
 それから、彼はすべてを振り切るように前を向いた。《ここにいて!》そう叫んで駆け出す。“加州清光”の向かう先には、巨大な百足がいた。そのすぐ傍らに、鍛刀師の鶴丸国永が倒れていた。
 百足はつん裂くような咆哮を上げる。その声音に、審神者は思わず耳を押さえた。ガンガンと頭の奥が痛む。何かの記憶がよみがえりそうになった。と、山姥切に抱き寄せられる。彼は庇おうとするかのように、審神者を自らの被る布の内へ招き入れた。途端、少し頭痛が緩くなる。
 そのとき、再び百足が咆哮を上げた。
「ぐっ……うぅ……」
 山姥切は審神者を自身の布に包むようにしてから、ズルズルとその場にくずおれた。いつもは人の目を避けたがる彼だが、今はそれどころではない。
「国広……!?」
「審神者さま、国広どのの布を取ってはなりませぬ!」審神者の腕の中でこんのすけが叫んだ。
「どうしてだよ」
「あの百足の鳴き声は、生者の苦しみの記憶を引き出すようです。かよわき人の子たるあなたは、長くさらされれば気が触れてしまいます!」
「刀剣男士は大丈夫なのか!?国広の苦しみようはそんな風には思えないよ!」
「刀剣男士は人よりは長く耐えられるはず。しかし、限界を超えれば闇墜ちしてしまいます。何せ刀剣らは年若い者とて百年以上もの時を経て、その記憶は人より膨大でござりますゆえ」
 審神者は山姥切と百足を交互に見た。百足の咆哮と瘴気をものともせず、“加州清光”は相手に向かっていく。
 どういうわけか、彼は百足の咆哮の影響を受けていないようだった。だが、その剣に先ほどのような鋭さはない。なぜ――と考えて、審神者はすぐに気づいた。
“加州清光”は百足の近くに倒れている鶴丸国永を、庇っているのだ。彼があの場にいる限り、“加州清光”は全力で戦うことができない。
「……このままじゃ、皆、助からない」
 審神者は山姥切の被せてくれた布の端を、きつく握り締めた。
 刀剣たちはボロボロになっても自分を守ってくれる。主と言って、信じてくれる。
 戦を指揮する者としては、刀剣男士たちを駒として扱うのが正しいのかもしれない。事実、そうすることで功績を上げている本丸もあるという。しかし、刀剣男士たちをモノとして扱うことは、自分には無理だと審神者は痛感した。
 甘かろうと、間違っていようと。主と呼んでついて来てくれる刀剣たちにふさわしくありたい、と審神者は願った。仲間の信頼に応えるために、何ができるかと考えた。
 そして――。
 審神者はこんのすけを地面に下ろした。
「こんのすけ。国広を、頼む」
「審神者さま、何をなさるおつもりです!?」
「“加州清光”を助ける」
 審神者は山姥切の布を被ったまま、百足へと向かっていった。瘴気に息苦しくなるが、布に織り込まれた山姥切の加護のおかげで何とか呼吸はできる。
 ただ、物理的な百足の攻撃はどうしようもなかった。一度など、足元から五十センチほどの近くを百足の尾がかすめて、転びそうになる。それでも、何とか体勢を立て直して、審神者は横たわる鶴丸国永の元にたどり着いた。国永はしっかりと赤い鞘の打刀を抱いている。自らも危険にさらされながらも、審神者の加州を守ってくれていたことは明らかだった。
 審神者は国永へと手を伸ばした。彼を今のまま運ぶのは無理だ。しかし、刀に戻せば何とか――。と、審神者の手が国永の肩に触れて霊力を込めた刹那、国永がパッと目を開いた。すがるように審神者の手をつかむ。
「――“      ”」
 国永は必死の様子で、誰かの名らしきものを呼んだ。審神者はすぐにそれが鍛刀師の真名だと気づく。
 普通、審神者は付喪神に真名を明かさない。真名を取られれば、審神者と刀剣男士の主従関係は一変して、人と神の関係になってしまうからだ。こうなると、もはや人である審神者には付喪神の分霊一体とて制御不能である。本丸運営の経験もある鍛刀師が、それを知らないはずがない。
 どうして――と尋ねる暇はなかった。
「“鶴丸国永”……!」
「あぁ……君か」
 不意に正気づいた様子で国永は言った。しかし、その瞳は異様に明るい金色に輝いている。彼は審神者に加州の刀を預けて、立ち上がった。クシャリと布の上から、審神者の頭を撫でる。
「君のおかげで助かった。礼を言う」
 途端、フワリと瘴気の圧が軽くなった。淡い金のベールのような加護が、審神者を包み込んだのだ。国永が山姥切の加護に重ねるようにして、加護をかけてくれたらしい。
 その国永は、真っ直ぐに大百足と戦う“加州清光”を見ていた。金の瞳を細めて、ニヤリと笑う。いっそ好戦的とも言える笑みだった。
「清光か……。主の愛刀は君だが、今の護身刀は俺だ。護身刀の名にかけて、君ばかりに手柄をやるわけにはいかないな」
 そう言うなり、国永は駆けだした。本体を手に“加州清光”の隣に並ぶ。“加州清光”は彼を見て、ふわりと嬉しげに笑った。それから、真顔になって、臨戦態勢に入る。大百足は二人めがけて、食らいつこうとしてきた。“加州清光”がその大百足の目に鋭い突きをたたき込む。百足が痛みに怯んだ隙に、国永が太刀を振りあげてその頭を真っ二つに引き裂いた。
 ギヤァァァァ。
 大百足は断末魔の絶叫をあげて、バタリとその場にくずおれた。シュウシュウと瘴気がその死体から立ち上って、空へ還っていく。瘴気の息苦しさが消えて、審神者は大きく息を吸い込んだ。顔を上げれば、国永と“加州清光”が見つめあっているのが目に入ってきた。
 ハクハクハク。“加州清光”が唇を動かす。それから、フワリと微笑して、やがて刀に戻ってしまった。そのことを予想していたのだろう。国永は驚く様子もなく、足下にあった波紋の揺らぐあの刀を拾い上げる。彼は審神者を振り返った。
「――あいつは何と言っていた?」国永は尋ねた。
「え? あなたにも聞こえなかったんですか?」
「アレは……もはや俺たちとは異なる次元の存在だからな。だが、それでもまだ付喪神……神ではある。翻って、審神者は神と対話する者の意。君ならば、アレの声が聞こえたろう?」
「えぇ……。“主の傍にいてほしい。今、生きて、主の傍にいられるのはあんただけだから”と言っていました」
「そうか」国永は微笑した。今にも泣き出しそうな、けれど、優しいしい笑みだった。「清光……。君までも、俺に主の傍にと願うのか」
 その直後だった。
 その場にフワリと夜が舞い降りた。夜――と見えたのは青い衣。この世のものとも思えない麗しい顔立ちの男だった。その目の中に細い金の半円が見える。審神者は彼のことを知っていた。演練で幾度か見かけたことがある。天下五剣のうちの一振“三日月宗近”が刀剣男士として顕現した姿だ。
 しかも、“三日月宗近”の腕の中には、鍛刀師“六条の君”が横抱きにされている。いったいこれはどういう状況なのか――。審神者は呆然と目の前に現れた二人を見つめた。



3.“六条の君”


“三日月宗近”が私を地面に降ろしてくれた。さっそく、私はその場にいた少年審神者と国永の元へ駆け寄る。
「審神者どの。国永。無事だったか?」
「鍛刀師どのも、ご無事で何よりです」審神者がほっとしたように言った。
「どこ行ってたんだよ、主? 大事な愛刀も放り出して」
 ボロボロになった国永は、しかし、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべながら私の刀を差し出してきた。鞘のないそれを大事に受け取る。
「すぐにこちらへ来ようと思ったんだが、いろいろあって。――とりあえず、審神者どのの他の刀剣は鍛刀部屋の炉の神の傍だ。少し野暮用を頼んであってな」
「お前たちを探しに出たのだが、途中で怨霊どもを召喚した歴史修正主義者らと遭遇してなぁ。殺すわけにもいかぬから、二人で捕縛しておったら、思わぬ時がかかった。あわてて駆けつけたが、こちらは済んでいたようでよかった」と“三日月宗近”が補足する。
「捕縛した敵は?」国永が尋ねた。
「炉の神の神棚の傍で、審神者どのの鶴丸たちが見張ってくれている」
 私の答えに、国永は忌々しそうな顔をした。
「いっそ、そいつらを贄にしてこの本丸の穢れを祓えばいいんじゃないか?」
「それは私も考えた。が、ダメだ。いちおう、こっちは政府側だからな。あまりブラックなことはできない」
「これこれ、“六条の君”、国永」“三日月宗近”が苦笑混じりに口を挟んだ。「そなたら、いたいけな審神者の前で滅多な話をするでない。怯えておるであろう? 審神者よ。“六条の君”と国永の話はただの冗談――ではなく、かなりの本気だが、まぁ、そういうことはせぬ。安心せい」
「いや……。その発言は逆に安心できませんが……」審神者はためらいがちにツッコんだ。
 再会を喜ぶ間にも、本丸の地面はグラグラと揺れていた。怨霊たちが地面をさんざんに引き裂いたせいで、時空のあるポイントに設置されたこの本丸は、もはや崩壊寸前なのだ。しかも、強い憎悪や怨念で穢れている。今のまま穢れを浄化せずに崩壊するに任せれば、よその本丸にまで影響が及んでしまう。
 早急に怨念を浄化する必要があった。
 その儀式を行うには、本丸の中心――鍛刀部屋のあたりにいる必要がある。とはいえ、地面は地割れを起こしていてまともな移動などできそうになかった。そこで、来たとき同様、“三日月宗近”が私を横抱きにした。審神者の方はまだ瘴気がひどいので布を被せたまま、回復した山姥切が背負う。国永はそこそこに負傷していたので、加州と私の刀を携えた。
「まってください。私めもこの小さな体では、ひび割れた地面は歩けませぬ!」
 忘れかけられていたこんのすけが必死に訴える。そこで、国永が狐をつまみ上げて自分の衣のフードに放り込む。それから、刀剣男士の三人は、鍛刀部屋の方へと移動しだした。地面の割れ目を跳躍し、傾斜を登り、前進する。とてもではないが、ただの人間には進めないような道だ。
 やがて、荒れ果てた本丸の中にポツンと佇む鍛刀部屋が見えてきた。鍛刀部屋は炎の神の加護の下にある。炎の神にとっては、刀剣たちは我が子も同然。その加護はとても篤い。実を言えば、この鍛刀部屋は本丸の中では霊的に最も安全な場所だった。
 鍛刀部屋に入っていくと、石切丸の太刀を抱えた鶴丸がはっと顔を上げた。傍らでは、燭台切と薬研が油断なく捕らえた歴史修正主義者を見張っている。彼らは皆、審神者と山姥切の姿を見てホッとした表情になった。
「審神者、国広。よかった……」審神者の鶴丸国永――鶴丸が言った。
 そのときだ。グラグラと再び大きく大地が揺れた。鍛刀部屋の床がミシミシと鳴る。主立った怨霊は片づけたものの、本丸に満ちる瘴気と憎悪のせいで崩壊が進行しているのだ。しかも、大百足や大蛇を倒したて歴史修正主義者を捕らえたことで、怨念を操る者はいない。制御を失った負の力が暴発しようとしている。もはや一刻の猶予もなかった。
「――国永、“三日月宗近”。結界を張って、皆をその中へ。練度から言って、おそらくこの中ではお前たちが最も適任だろう。私の本丸での記憶も持っていることだしな」私は言った。
「待て。鍛刀師よ、何をしようとしている?」“三日月宗近”が低い声で尋ねる。
「そうだ。主よ、まさか黄泉路の扉を開く気ではないだろうな?」国永も詰問に加わった。
「そのまさかだ。これらの怨念は無理矢理に呼び起こされた死者の無念の想い。元はと言えば、黄泉に属するもの。黄泉路の扉を開けば、自ずから還っていくだろう」
「冗談は止せ」国永は右手で私の肩を掴んで揺さぶった。その振動が伝わったのだろう。こんのすけが慌てて国永のフードから逃げだすのが見える。「君は一度、黄泉路を下ったせいで、黄泉の神に目を付けられている。君が呼べば扉は簡単に開くだろうが――冥府へ引きずりこまれるぞ!」
「このままでは、この本丸はもう保たない。助けが来る前に崩れ落ちるだろう。皆が助かるために、私は最善を尽くしたいんだ」
「それでも……!」
 なおも言い募る国永の襟首を掴んで、私は唇を重ねた。驚きに開いたままの彼の口から、神気を吸い取る。国永の神気は吹き抜けていく風のように爽々しくて、橘のようにわずかに甘い。宗近の夜の甘さとも、清光の花の香しさとも異なる神気だ。ひとつ、ふたつ……とおを数えて、私は唇を離した。
 勝手に神気を奪ったのに、国永は怒らなかった。金色の目を見開いて、呆然としている。なぜかジワジワとその頬に血の色が差し始めた。
「私はまだ、黄泉には行かない。だから、保険にちょっと神気を貸しておいてくれ」
 そう言ってみたものの、国永は真っ赤な顔で呆然自失の状態だ。傍らで“三日月宗近”が意味ありげに「ほう」と笑った。後ろでは鶴丸が「こいつは驚いたな」などと呟いている。
 何がどうなったのかよく分からない。だが、国永が自失している今が好機だった。私は国永の手から自分の刀を抜き取り、鍛刀部屋から外へ出た。辺りでは相変わらず、地鳴りが響き、怨念たちの恨みの声が聞こえてくる。私はむき出しの地面に、直に正座した。膝の上に刀を置いて、冥府に住まう神へと祈りを捧げる。
 膝の上の刃の波紋が、私の祈りに呼応するように激しく波打った。凍るように冷たい風が、虚空から吹いてくる。不意に一切の音が消えて、私は顔を上げた。私から五十メートルほど離れた空中に、真っ暗な闇の裂け目が口を開けている。
 黄泉路の入り口だ。
 やがて、黄泉路から黒い闇が触手のように伸びてきた。幾重にも分かれたそれが、本丸中を這い回る。さまよえる怨念をその腕に抱いて、死の安らぎへと引き戻す。この本丸の空間で生きていられるのは、国永と“三日月宗近”の張った結界の中にいる者のみ。私はといえば、膝に置いた刀が――そこに宿るかつての仲間たちの魂が守護してくれている。私と国永たちの結界の周囲をのぞいて、本丸の大地は死の闇に染め上げられていた。
 どれほどの時が経っただろう? おそらくは一瞬。しかし、死の腕をほとんど触れる距離で感じている私には、ひどく長い時が経ったように思える。髪の中から汗が頬を伝って、私は我に返った。自分でも気づいていなかったが、ひどい緊張と恐怖を感じていたらしい。そうと気づいた途端、集中が途切れた。
 バチッ。刀の加護を突き破って、闇の触手が私を絡めとる。まずい、と思ったけれど、どうしようもなかった。
 そもそも、黄泉路を開くのは正式な術ではない。人間がそうそう黄泉路を開いていたら、この世は大変なことになる。私がそれをできるのは、私自身が一度は黄泉路を辿ったことがあるからだ。つまり、私には冥府の女神の印がついている。彼女は八百万(やおよろず)の神の中でも、最も力あるうちの一柱。ゆえに、彼女との契約から逃れられる者はない。つまり、私はいずれ死すべき運命――他のどんな神も私を神域に隠すことはできないのだ。
 ただ、冥府の女神よりも先に私は清光と契って、人間の理から外れた。これもまた契約。しかも、神々の契約というのは、力の強弱にかかわらず先に結んだ契約の効力が優先される。ゆえに、私は老いることなく、しかし、いずれは死ぬという奇妙な運命にある。
 論理的には死の運命が果たされるには、私が自殺するか、殺されるかしなければならない。今回の術は死の宿命を持つ私を贄にして、黄泉路を開いた。気を抜けば黄泉が私を連れ戻そうとするのは、当然のこと。
 黒い死の腕に抱かれながら、私は死を覚悟した。死は恐ろしかった。たとえ、神域に行くことを拒んで、人として死ぬことを願っていたとしても。

『――主、俺、傍にいるから』

 私のために泣いてくれた清光の、温かな涙を思い出す。
 清光に逢うことができて、よかったと思った。彼は愛を教えてくれた。本当なら、人である私こそが教えるべきだった感情を。

『……どういう形であれ、俺たちはそなたを愛している。生きよ』

 化け物と化した私を、諦めずに生かそうとしてくれた宗近の笑みを思い出す。彼が私を人に戻してくれたから、私は続きの時間を生きることができた。彼が、私に諦めないことを教えてくれた。

 そして――。
 戦う国永の横顔を思い出す。
 強い意思を宿した、美しい金色の瞳を。

 自分の本丸と刀剣を失って、清光もいなくなって。それでも、国永が共にいてくれたから、生きてこられた。まだ生きていたいと思っている。国永と一緒にいろんな本丸を旅して、笑いあって、戦って――そんな日々を続けたい。
 けれど、そうした心残りを残しても、なお死んでいくことこそ、人としての死なのだ。昔、国永の誘いを断ってまでも選んで、こだわってきた道なのだ。
 ――私の終わり方は、きっと、これでいい。これで正解だった。
 私はそう自分に言い聞かせた。
 そのときだ。

「――“       ”」

 国永が私の真名を叫んだ。死の穢れを帯びるのも気にせず、結界から走り出てきた彼はなおも叫ぶ。
「“       ”よ、生きよ! 君はまだ死んでいない。そうだろう?」
 途端、黄泉路に引き込まれかけていた私の身体が止まった。死の黒い腕が身体から離れて、黄泉路へ戻っていく。庭の土の上に投げ出されながら、私は虚空の黄泉路の扉が閉じるのを見た。行き場のない怨念たちを引き戻して、ひとまずは満足してくれたらしい。
 私はホッとして脱力した。霊力も体力も消耗しきっていて、しばらくは動けそうにない。穢れをまとい、ボロボロの姿で駆け寄ってくる国永を早く手入れしてやりたいが、それはもう少し先になりそうだ。
 駆け寄ってきた国永は、ひどく怒った様子だった。それもそうだろう。私が無茶をして黄泉路を開いて、しかも取り込まれかけたのだから。
「君は馬鹿か!?」
 国永は私の襟首を掴んで引き起こし、平手で頬を打った。なかなか痛い。が、刀剣男士としては、かなり手加減してくれたのだろうと分かる。
「……すまない……」私は掠れた声で謝った。
「すまないで済むか! 君は死にかけたんだぞ!? ――君は黄泉の神に印を付けられてるから、俺が神域に連れてはいけない。死ねば、君は俺の元から永遠に去ってしまう。それを分かっていて、君が黄泉路を開くのを見る俺の気持ちが分かるか!?」
 私をガクガク揺さぶりながら、国永は怒った。追ってきた“三日月宗近”が、見かねて彼をなだめようとする。「そなたの主は気力を使い果たしている。気持ちは分かるが……」しかし、そう言っても、国永には通じなかった。
「主よ。君は俺の気持ちなど、どうでもいいのか? そうだろう!?」
「違う……」
「違わないっ! だいたい、君はずるいんだ!」
 こちらを見据えていた金色が、不意にじわりと滲んだ。大粒の涙が、ハラハラと私の顔に降りかかる。私は呆然として、国永を見ていた。彼は流れる涙にかまわずに、コツリと私と額を合わせる。
「……君はずるい。とても酷い。俺にはもう、君しかいないのに、君としかいたくないのに、君がいなければ退屈で死にそうなのに――君はあっさり、勝手に死にかけるんだ……」
「ごめん……国永。ごめん……!」
 私は国永にしがみついて、子どものように泣いた。傍らでは“三日月宗近”が、仕方ないというように苦笑していた。


***


 私が黄泉路を開いてから半刻もしないうちに、政府の救助がやってきた。彼らは崩壊寸前の本丸に、呆然とした様子だった。
 それでも、何とか私たちは救助された。霊力と体力が尽きかけていた私は政府系の病院へ。少年審神者と刀剣男士は、新しい本丸が決まるまでは政府の宿舎へ。捕らえた歴史修正主義者らは政府の監視下へ入ることになった。国永と“三日月宗近”は少年審神者が手入れをして、しばらく預かっていてくれた。
 入院して三日後。ようやく体力と霊力が回復してきた私の元に、国永と少年審神者、それに“三日月宗近”が面会に来た。
「審神者どの。国永と“三日月宗近”を預かってもらって、申し訳ありません。審神者どのの方も、新しい本丸の引っ越しや手続きで大変でしょうに……」
「いえ!」審神者は快活に笑った。「“六条の君”にはお世話になりました。あなたがいなければ、俺も仲間も生きていられなかった。お礼に、お手伝いできることは何でもしたいんです」
「ありがとうございます……」
 審神者とひとしきり話が終わると、おもむろに“三日月宗近”が私の前へ進み出た。穏やかな面もち。だが、その目には決然とした光が宿っている。
「“六条の君”よ、霊力はもう回復したであろう? 俺もあまり長く現世にいては、未練ができてしまう。そろそろ、刀解してほしくてな」
「“三日月宗近”……。助けてもらったのに、こんな形で別れるのは残念です」
「そなたが気に病むことではない。俺がそなたを助けたくて、出てきたのだからな」
 と、そのときだった。「と、刀解するんですか!? 三日月宗近を!?」少年審神者が驚きの声を上げる。すかさず、国永が私の事情を説明して、護身刀以外を持てないのだと話した。
 審神者はそれを聞いて、決然とした顔で“三日月宗近”の手を取った。私と三日月の顔を交互に見ながら、必死の表情で言葉を発する。
「あの……! だったら、三日月宗近に俺の本丸に来まていただけませんか? せっかく顕現して、短い間だけど一緒に戦たり、笑ったり、ご飯を食べたりしたのに……彼が刀解されてしまうのは、辛いんです」
「気持ちは分かります。でも、この“三日月宗近”は審神者どのが顕現させたわけではありません。彼は私の本丸の記憶を持っているし……何かとやりにくいのでは?」私は言った。
「そうだ、審神者よ。そなたの今の霊力では、現在いる刀剣と俺を顕現させるだけで手一杯。何せ、俺は他の刀剣男士よりも顕現に霊力を食うゆえ。しばらくは他の刀を増やせなくなる――」三日月も困り顔で審神者を諭した。
 しかし、審神者の意思は固かった。一度、仲間として過ごした相手が刀解されていくのは嫌だ、と言い張る。とうとう、三日月も審神者の熱意に絆されて、彼の元へ行くことに同意した。
「ありがとうございます!」
 少年審神者が元気に礼を言う。彼は三日月と共に、自分に割り当てられた宿舎へ帰っていく。国永がそれを見送りに出た。


***


 国永は病室の外で、宿舎に戻っていく審神者と三日月を見送っていた。国永の方はこの後、主である鍛刀師が退院するのに付き合って、彼に用意された宿舎へ入る予定だった。だが、その前に少し、主に話すべきことがある。
 部屋に戻ったらどのタイミングで切り出そうかと考えていると、去りかけた三日月に手招きされた。
「国永よ」
「どうした? 忘れ物か?」
「違う。ひとつ、言うておかねばならぬことを思い出した」
「何だ?」
「“六条の君”と清光のことよ」
 三日月が声を潜める。何かを察したらしい審神者は、ロビーで待っていますと言って廊下を歩いていった。
「清光なら、この前、魂を見かけたが……」国永は困惑しながら答える。
「そう、それだ。“六条の君”にはそなたを除く刀剣男士四十一振の魂が連結されている。その魂は“六条の君”を加護していて、多少の無理をすれば姿を見せることもできなくはない」
「……」
 あのとき、国永は審神者の力で清光が顕現したのだと考えていた。共闘しているときも、特に疑問は感じなかった。だが、それならば主の手にあるうちに、清光は顕現できたはずだ。もっと頻繁に主の前に姿を見せてもいいはずだ。
 なぜ、今まで一度も、顕現しなかったのだろう? もっと言えば、あのとき、本丸でもう少し顕現したままならば、清光は主に会うことができた。それをせずに刀に戻ったのは――?
「なぜ、主に姿を見せない?」
「そう、そのことだ。他の刀剣はともかく、主と清光は夫婦であるから、イザナギとイザナミの宿命――ヨモツヒラサカの論理が適用されている。夫婦が生者と死者に分かたれたならば、会うことはできないというあれだ」
「なるほど。……ということは夫婦でなくなれば、会える可能性も出てくるのか?」国永は尋ねた。
「会うこともできるが……何より、今の“六条の君”に縛られた状態から脱することができる。本神に戻ることも、消えることも、輪廻に加わることも選べる」
 三日月が言うには、主が誰かと婚姻すれば、清光と主の夫婦関係は上書きされるという。主から離れられない清光の魂も自由になるのだと。
「……そうはいっても、清光は主から離れたがらないだろう。他の奴らだって、ずっと主を加護してるんだし」
「まぁ、そうだな」三日月は苦笑した。「だが、縛られて共にあるのと、自由の身ながら共にあることを選ぶのとでは、心持ちが違うだろう?」
 ではな、と三日月は踵を返した。優雅な足取りでロビーへと降りていく。国永は苦笑しながら、その背中を見送った。
 三日月は、もしかしたらこれから国永がしようとしていることに気づいているのかもしれない。


***


 見送りから戻ってきた国永は、やけに決然とした表情をしていた。私はちょっと驚いて、それから覚悟した。もしかして、国永は私の無茶さ加減に嫌気がさして、自分も他の審神者の元へ行きたいと言うのかもしれない。
 そんな心配をしていると、国永は懐から取り出した細長い小箱を私に差し出した。小箱? 見たところ三行半でも絶縁状でもなさそうだが――。
「……これは?」私は尋ねた。
「君の快気祝いだ。開けてみてくれ」
 促されるままに、私は小箱を開いた。中には扇が納められている。私はそれを手に取った。扇は軸の部分は黒い漆塗り。本体は真珠色の紙でできている。真珠色の紙の表面には銀の箔がまるで天の川のように一筋、散らされていた。
 扇の表には流れるような文字が墨で書かれている。国永が書いたのだということは、何となく分かった。だが、肝心の内容は読みとれない。
「ありがとう。ところで、これは何て書いてあるんだ?」
「意味などないさ。ただ、無地の扇をそのまま渡すのでは、驚きに欠けるだろう?」国永はニヤニヤしながら言った。
「そういうものかな……? 確かに、この扇はお前の文字がある方が美しい気はするな。意味はまったく分からないが」
「君がそう思ってくれるなら、それでいいさ。……それより、話がある」
 真剣な顔になって国永が持ち出したのは、ユイノウカッコカリという審神者の制度だった。この制度は、練度上限に達した刀剣と審神者のみが利用することができる。結納を思わせる名称は少々アレだが、要点は審神者と刀剣男士との関係を少し近しくすることで、練度の上限を少しだけ取り払おうというものだ。
 国永は、それをしたいと言った。
 私は護身刀以外の刀剣男士を持つことができない。しかし、今回の本丸襲撃事件を見ても分かるように、敵は強さを増している。国永は練度上限に達しているが、やはり一振では敵を倒しきれないこともある。主を護るために、もっと強くなりたい――そう国永は願っていた。
「ユイノウカッコカリか……。たしかに、強くなる手段としてはいいな。だけど、国永、私は――」
「君の言いたいことは分かる。清光のことを今でも想っているんだろう? そんなことは構わんさ」
「え? そこ構わないのか?」
「あぁ。そもそも、君は昔、愛とか恋いとか分からんと言って、俺を袖にしただろう。清光がいなければ、君は今でもそれを知らぬままだった。清光抜きで、今の君はいないのさ」
 私はびっくりして国永を見た。彼がまさか清光と私のことをそこまで肯定的に捉えているとは。しかし、問題はそれだけではない。
「国永、気持ちは嬉しい。だけど、私は結局、死ぬ宿命で――」
「そんなこと分かっているさ。もちろん、今だけ、今生だけ、練度のための仮初めの約束で十分だ。……君はいつか黄泉へ下る。そこでまっさらな魂となり、輪廻を巡るだろう。そうなったら、俺には君の魂は見つけられない」
「だったら、約束なんかしない方がいいだろう?」
「いや――うつし世のほんの束の間でいい。君と縁を結んでいたい。わずかな間の記憶があれば、俺は幸せなんだ。……清光を本気で愛した君ならば、分かるだろう?」
 国永は穏やかに笑った。その表情を見ているうちに、私は急に胸が締め付けられるような感覚を覚えた。頬に温かく濡れた感触があって、自分が泣いているのだと気づく。
「本当に、そんな仮の約束でいいのか……?」
「もちろん。――それが死にゆく運命の人の子を愛した、俺の覚悟だからな」
 そう言って、国永は手を伸ばし――ゆっくりと私の頭を撫でた。







『鍛刀師』1〜4pixiv投下2015/03/27-04/18

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