最愛の君へ
・事後の描写があります。 ・主人公は過去に加州清光と恋仲でした(鍛刀師』本編参照)。当時の描写が少しあります。 目が覚めたとき、私はふと違和感を覚えた。自分の部屋と似ているが、微妙に異なる風景が目に映る。身動きすると、布団からふわりと馴染みのある匂いがした。 あぁ、そうか。ここは国永の部屋か。 そういえば、昨夜はここで同衾して、そのまま自室に帰りそびれてしまったのだった。恋仲になってしばらくは、共寝をした後、別に眠っていたものだ。けれど、このところどうも自室に戻りそこねてしまう。別にそれがいけないわけではない。共に朝を迎えるのは、恋人同士ならば珍しいことでもないだろう。 それでも、朝、国永の寝床で目覚める度に「しまった」と思う。私と彼の間には恋仲になった今もごく薄い境界線があって、その線をうっかり踏み越えてしまいそうだからだ。 境界線があるからといって、私が国永に心を許していないわけではない。ただ、私と国永は恋仲であってもほんの少し距離感が必要なだけだ。ちょっとよろめいたくらいでは、相手を巻き込むことはないと思える程度の距離が。少なくとも、私には。 寝返りを打つと、身体の芯にわずかに疼きのような、痛みのような感覚があった。昨夜の名残だ。後始末はしてあるのに、なおも身に残る感覚はまるで、いっときたりとも存在を忘れるなと囁きかけるかのようで、少し困る。あぁ、この色惚けした頭をさっさと本調子に戻さなくては。 私自分の頭を軽く拳で叩いてから、身を起こした。寝間着の緩みきった襟元を直しながら、あくびをひとつ。耳を澄ませるけれど、部屋の中は静かだ。外から微かに鳥のさえずりや目覚ましのアラームが聞こえてくる。 そういえば、休みの今日、国永はひとりで出掛ける予定だったと思い出した。行き先は、街の中心部にある書店だ。彼の気に入りの作家が、サイン会をするらしい。ついでに、大型の雑貨店も見に行くと言っていた。ので、行ってこいと応じた。 国永は私の護身刀という扱いだが、それなりに別行動もある。活動的な彼のペースに付き合うのは、基本、引きこもり好きな私には難しい。仕事は仕方ないが、休みは家でごろ寝したいと主張したら、呆れられたものだ。君には若さが足りないと、昔から言われつづけている。せっかく逢い引きに誘ったのに君は男心が分かってない、とは最近ふざけて言われるようになった。私も男なのだけれど。 ともかく、私は今日は家で過ごすつもりだった。起きて朝食を済ませたら、洗濯をしている間に読みかけの本を少し――。と頭の中で段取りを組みかけたときだ。ベッドの横のテーブルに、折り畳んだ紙が置かれていた。初夏らしい涼しげなあさぎ色に細かな金箔を散らした和紙だ。私はそれを手に取って、開いた。 和紙には筆で字が書き付けてあった。国永の流れるような文字だ。現世の暮らしが長い彼は、その気になれば現代人でも判読できる文字を書ける。けれど、同じ平安生まれの刀剣たちとは、あの古文書のような文字でやり取りしていた。たぶん、それが国永にとってはいちばん書きやすいのだろう。 私は何とか和紙に書かれた文字を読み取ろうとした。が、まったく分からない。ただ、それが和歌で、私に宛てたものだということだけは、知っている。というか、初めて肌を合わせた翌朝に教えてもらった。 国永が置いていったのは、後朝の歌だ。 平安の頃は男が女の元に通う通い婚が一般的だった。つまり、一夜を共にしても朝になれば男は帰る。帰ってから恋人に歌を贈るから、後朝の歌という。 国永はこの後朝の歌をときどき、贈ってくる。たいていは、私が彼の床を脱け出して自分の部屋に戻った朝に。目覚めると枕元に折り畳んだ和紙が置いてあるのだ。 残念ながら、私は彼の後朝の歌を理解できたためしがなかった。歌どころか、文字がまず読めない。こんな人間に後朝の歌はもったいない、と国永に言ってみたこともある。けれど、彼は笑っただけだった。 そうなることは分かっていて、けれど、やりたいからやっているのだ、と。無理に歌を解読する必要はないから、受け取ってくれればいい、と言われたら、そうしないわけにはいかなかった。 けれど。 ――やっぱり、気になるよなぁ……。 もらっておいて、内容を知りませんというのも、不実だという気がする。実際、以前にも和歌で想いを告げられたのに長い間、気付かずにいた前科があるのだし。国永にしたって、分かってほしくても素直に気付いてと言う性質ではない。もしかしたら、知らないうちに重大なすれ違いをしている可能性も――。 「こういうのは、専門家に聞いてみるか……」 私はベッドを降りて、自室へ戻った。携帯端末を手に取って、知り合いのアドレスを呼び出す。今日、そちらに行ってもいいかという問いに、すぐに快諾の返信が来た。 昼過ぎ。私は政府施設の一角にあるゲートをくぐって、知り合いの本丸にいた。審神者は簡単に本丸から出られないし、現世の身内の本丸訪問も手続きが厄介だ。が、審神者やその関係職業の人間は、かなり簡単に本丸間を行き来できたりする。私はゲート利用申込みに記入して、ゲートの前に立った。顔見知りの警備員さんに、ひとりは珍しいねと声を掛けられて苦笑する。会釈をして、ゲートを抜けた。鳥居の並ぶ空間を、五分ほど歩く。やがて目の前に現れた門が、ゆっくりと開きだした。 この本丸の審神者とは、友人としてすでに二年ほど交流がある。向こうもこちらも気心が知れているので、勝手に中に入らせてもらった。どうせ訪問の約束は取り付けてある。私は母屋に向かって歩きだした。 ここの本丸の四季は、現世の日本のそれに合わせてある。今は初夏だ。春に芽吹いた草木の葉が、強い日差しに燃えるような緑の葉を差しのべている。それでも、庭に小川や池があるせいか、吹き抜けていく風は涼しい。誰が吊るしたのか、石畳の舗道の脇に立つ松の木の枝で鉄製の風鈴が涼しげな音を上げながら揺れていた。 ふとそれを見ていたら、脳裏にかつて自分が持っていた本丸の記憶が蘇ってきた。 縁側で短刀たちと昼寝したこと。鯰尾や鶴丸と池の魚を捕まえようとしたこと。雨の日に石切丸や太郎太刀に囲碁を教わったこと。それから――宵に清光と星を見たこと。 もう、何十年も前の話だ。 あのときは、すでに彼とは夫婦の契を交わしていた。だから、暗くて人気がないのをいいことに口づけをしてみたものだけれど――もう思い出せない。自分が何を感じたのか。どんな睦言を交わしたのか。何となく覚えているのは、浮かれていたことと楽しかったこと。清光を好きだと思ったことだけで――。 「“六条の君”」 リンと風鈴が鳴る音に、穏やかな声音が重なる。顔を上げると、三日月宗近が立っていた。日差しの下にいても、なお月を連想させる端正な面差し。非番の日らしく、戦装束ではなく涼しげな単衣をまとっている。 「宗近」 「そんなところでぼんやりして……陽炎にでも魅入られたか? 万が一にもそなたが妖に浚われたら、国永が怒り狂うぞ」 「縁起でもないことを言わないでくれ」 「ならば、気をつけることだ。鶴はただ一羽を生涯の番(つがい)と定めるもの。国永がそなたに向ける情けは、そなたが思うよりも深いのだからな」 「――……」 言い返すつもりが、私は何と言えばいいのか分からなかった。 国永が自由気ままに見えて、情け深い性質なのは知っている。そうでなければ、私がほとんど正気を失っている頃から今まで、何十年も傍にいてはくれなかっただろう。清光を愛していても構わないと許しはしなかっただろう。いずれ死ぬ宿命の人間でもいい、と私を望まなかっただろう。 ただ私が国永の情をどれほど分かっているかは、分からない。ときに神としての彼の愛情は私の理解を越えて、深い。 しばらくの間の後に、私は宗近の言葉に「たぶん、そうなんだろうな」と返した。と、宗近は目を丸くしてから面白そうに笑った。 「なに、難しく考えることではないさ。恋をすれば、我らとてただの男に過ぎぬ。……基本的には、だが」 「たいていの物事は、例外部分が肝腎なんだよ」 「ははは、皮肉屋の調子が出てきたか。立ち話も何だ、案内しよう」 宗近は笑って、踵を返した。先に立って母屋へと歩き出す。私はそれを追いかけた。去り際に、大きく揺れた風鈴のリンと澄んだ音が耳に残った。 母屋へ行くと、この本丸の審神者である若い男が迎えてくれた。出会ったときにまだ十代の終わりだった彼は、二年ほどの間にずいぶんと大人びたようだ。私が肉体的に年をとらなくなって久しいから、余計に思うのかもしれないが。 審神者は私を見て笑顔になり、「先輩」と言った。 「先月の召集ぶりですね。呼び出しでもないとなかなかお会いできませんけど、何もないのはいいことです」 召集というのは、審神者の中でも実力者や特殊能力持ちに緊急時にかかる政府からの呼び出しである。こうした審神者は審神者としての登録名ではなく、政府から別に与えられる号を名乗るのが一般的だ。私は鍛刀の才と多少は腕に覚えのあることから、“六条の君”という号をもらっている。ここの審神者は刀装づくりの才能があって、それを生かした役目が多い。号は“夕霧”といった。 号持ち審神者が呼び出されるのは、たいてい敵襲かいわゆるブラック本丸の浄化ということが多い。確かに、呼び出しがないのはよいことだった。 「急にすまないね」 「いえ。うちは、今日は休日にしてあるので」 「それにしては、静かだけれど……」 私の言葉に傍らから宗近が口を挟む。 「今日は燭台切が小夜と薬研と清光、それにお鶴と万屋へ行っている」 「メールでは、三日月か石切丸に用があると仰っていましたよね? 先輩が相談ごとなんて、珍しい」 居間に落ち着くと、青年は話を切り出した。そのとき、ジーンズにTシャツというラフな格好の山姥切国広が入ってくる。姿を見ないと思ったら、茶と茶菓子を運んできたらしい。給仕に邪魔だからか、暑いからか、さすがに戦装束のときは被っている布はない。金髪に碧眼の涼しげな容貌が、惜しげもなくさらされていた。 山姥切は茶を配り終えると、青年の傍に腰を下ろした。それを待っていたかのような間合いで、青年が話を始める。 「先輩の相談っていったい何なんですか?」 「相談というほどでもないのだけれど……」私は持ってきた国永の文を取り出して、とりあえず一通を宗近に渡した。残りは机の上に置く。「国永からときどき文をもらうけど、読めないんだ。意味が分からないどころか、一文字も解読できない」 「で、俺か石切丸なら読めるだろうと?」 宗近は開いた文に視線を落としながら尋ねた。そうだ、と私は頷く。青年も見せてほしいと言うので、構わないと答えた。現代人にはそうそう読める代物には思えなかったからだ。 案の定、青年は宗近の手元をのぞき込んで、首を傾げている。 「ふむ。これはなかなか……」 宗近は呟いて、自分の持っていた文を石切丸に渡した。どう思うと問えば、石切丸も感嘆したような表情を浮かべる。 「以前、見せてもらった扇面の歌のときも思ったけれど、君のところの鶴丸国永はなかなか雅だね」 「雅? 国永が?」 石切丸の言葉に、私は戸惑いを覚えた。 雅というが、うちの国永は昔、私と一緒に泥だらけになって遊んでいたような奴だ。読む本の傾向だって私と同じくらい乱読で、一昨日に純文学を読んでいたかと思えば、昨日はホラー、今日は官能小説といった具合。雅なんておっとりして優雅な表現とは、あまり縁がなさそうに思える。 「やれやれ。想い人がこれでは、国永も苦労するな」と宗近。 「そうだろうねぇ」と石切丸も苦笑している。 「何? なんて書いてあるの?」 青年が待ちきれないというように急かした。まぁ待て、と宗近が笑う。 「“六条の君”よ。これらは後朝の歌であろう? 国永もかわいいことをする」たとえば、と宗近は最初に渡した文を指先に挟んで示した。「この文に詠まれているのは、長年の想い人と情を通じたことへの喜びだ。今のこの喜びを抱いてなら、いっそ折れても構わないとさえ思う、とな」 宗近に続いて、今度は石切丸が口を開いた。 「こちらの文は、想い人の過去に思いを馳せた内容だね」 「過去、ですか」 「そう。想い人とまぐわう度に、過去にその人を愛した者の面影を感じる、と。想い人が過去に愛されていたのが嬉しくもあり、ねたましくもあると言っているね」 「っ……」 石切丸の告げた内容に心当たりがあって、私は思わず息を呑んだ。 初めて閨を共にしたとき、国永は私が清光によって行為に馴らされているのが分かると言っていた。閨でどう振る舞うべきか、何をどう感じるべきか……そんなことを。それが好ましいとか妬ましいとかいう感想を、国永は特に言っていなかったのだが――やはり思うところはあったのだろう。 なんだ、それ。そんなの直に言えばいいじゃないか。――と思いかけて、でも自分なら隠したいだろうなと気付く。私だって、口に出しにくい気持ちはたくさんある。後朝の文は読めないけれど嬉しいんだ、とか。好きだ、とか。閨での国永の触れ方が何だか壊れ物に触るみたいで、少し気恥ずかしい、とか。そんな他愛もないこと。 「他の文の意味も聞きたいか?」宗近が尋ねた。 「頼む」 私が言うと、宗近は石切丸と視線を交わして楽しげに笑った。あれ?この反応は何だろう?わずかに違和感を覚える間にも、宗近が口を開く。 「この文は閨の話だな。閨でのそなたは愛らしかったのに、朝になればあっさり自分の元を去ってしまうのが憎らしい、というような意味だ」 「な、ちょっと……」 「こちらもなかなかだね。閨で初めて自分の名を呼び、すがり付いてくれたのが嬉しい、とあるよ」 「わー! ちょっと、止まって、止まって!」 私は身を乗り出して、宗近と石切丸の前で大きく手を振った。まさか国永がそんなあけすけな内容を歌にするとは思わなかったため、宗近たちに解説を頼んだのだ。しかも、後輩まで同席している。さっきのは明らかに青少年の教育上はよろしくない内容だった――。 おそるおそる後輩を振り返ると、不機嫌な顔の山姥切が後輩の耳をふさいでいた。それでも多少、聞いてしまっていたのか、後輩はやや赤い顔で目を丸くしている。 「……ごめん。こんな話を聞かせるつもりじゃ……」 「まったくだ」山姥切が重々しく頷いた。「あんたとあんたのところの鶴丸国永は、うちの主の教育に悪すぎる。主はあんたに憧れてるんだから、少しは自重してくれ」 「本当にごめん……」 私が頭を下げるのを見て、後輩はギョッとした顔になった。両耳をふさぐ山姥切の手を押しのけて、自らの初期刀をにらむ。 「国広、いま、先輩に失礼なこと言っただろっ」 「言ってない」否定した山姥切は、ふと顔を上げた。耳を澄ますような仕草をする。それから、ごく自然な動きで後輩の手を掴んで立ち上がった。「客が来たみたいだ。出迎えなくては」 「わ、国広。分かったよ。俺も行くけど、正座で足が痺れてるんだよ。もうちょっとゆっくり歩いてってば――」 後輩と山姥切はにぎやかに声を上げながら、部屋を出ていく。私は呆然と、その様子を見守った。あの二人はもともと仲がよかったけれど、どうも様子が変わったような――。 「ふふふ。さすがに鈍いそなたでも分かるか?」 「分かるって、何が」 私の問いに宗近は楽しげに笑った。 「主と国広は、今、微妙な時期なのだ。もともと互いに信頼しあってはいたようだが、二人ともそなたと国永を見て人と刀剣が情を通じる関係もあるのだと気づいたようでな」 「まぁ、そうはいっても奥手な二人だからね。まだ互いに憎からず想うだけで、それを相手に告げてはいないようだけど」石切丸が肩をすくめる。 なるほど。宗近たちの様子を見るに、後輩と山姥切の恋は彼らの娯楽になっているらしい。まぁ、他人の恋を見守るのは気楽だが。 そんなことをつらつら考えていると、後輩と山姥切に案内されて部屋に入ってきた者があった。薄いグレーのジーンズに黒のシャツという現世の格好をした、うちの国永だった。 「あ、国永。おかえり。サイン会、どうだった?」 思わず素に戻って言うと、国永はがくりと肩を落とした。 「まったく、君は……。帰ってみれば、“夕霧”の本丸に行くという置き手紙があったから、急な仕事の打ち合わせかと焦ったんだぞ」 「ごめん。端末に連絡入れるほどの用事じゃなかったし、邪魔したくなかったから」 「あのな……。主より先ずる用なんざ、俺にはないんだぞ……。――って、その文は」 国永は宗近の手にある後朝の文を見て、ガチリと硬直した。ほんのわずかな間に彼の白い頬に血が上り、色味が差す。とっさに言葉が出ないらしく、パクパクと意味もなく唇が開閉していた。 そんな国永の様子を面白がるように、宗近は手の中の文を軽く振ってみせる。 「国永よ。そなた、たいそう情熱的ではないか」 「読んだ、のか……?」 「すまないね」石切丸が謝った。「“六条の君”が一字も読めないから、内容を解釈してほしいと言ったのでね。……おっと、“六条の君”を責めてはいけないよ。平安の昔ならばこそ、人々は歌の含みやもののあはれを解したけれど、今の人間にそれを求めてもね」 「そうだぞ、国永。特に“六条の君”はとんだ鈍感だ。分かりやすく言わねば、伝わらぬぞ」 宗近と石切丸に交互に言われて、国永は唇を引き結んだ。心を落ち着けるためだろうか。短い間の後にハァとため息をひとつ落とす。 「――別に、伝わらなくてもいいんだよ。俺がただ、文を贈りたかっただけだ」 「さようか、国永。そなたもなかなかどうして、いじらしいな」 「放っといてくれ」 さすがに三条派の刀相手では国永も太刀打ちできないらしい。言い負かされて、拗ねたように頬を膨らませる。それから、彼は後輩を振り返った。うちの主が世話になったな、と挨拶をして、私に帰ろうと言う。後輩は夕餉を食べていけばいいのにと勧めてくれたけれど、私は暇を請うことにした。国永が帰りたがっているみたいだし――何より、山姥切が主の前で不適切な行動を取ったら許さない、という顔をしていたからだ。 私たちが後輩の本丸を後にする頃には、夕方になっていた。警備員に「やっぱり二人一緒か」と笑われながら、ゲートを潜る。夏場なので午後六時でも、まだ外は明るかった。人目もあるというのに、外に出ると国永は私の手を取ってずんずん歩き出す。傍目には手をつないでいるように見える構図が、少し気恥ずかしい。けれど、国永は不機嫌そうだったので、私は彼のなすがままになっていた。 与えられている官舎の部屋にたどり着くと、ちょうど夕飯時だった。ご機嫌取りになれば儲けものという気持ちで、国永の好きなそうめんと昨夜の残り物で夕餉をすませる。その頃には国永の態度は普通に戻っていて、私たちは一緒に夕飯の片付けをした。 休みはもう一日、残っている。風呂を済ませて私が読みかけの本を読んでいると、国永はもう休むと言って部屋へ下がった。さすがに人の多い街に出て、疲れたのかもしれない。予想外のことだが、好機だった。 私は戸棚からペンと便箋を出してきて、テーブルの上で広げた。本丸を持たなくなってから、手書きの報告書を書くことが少なくなった。字を書くのはメモ程度。現代での生活はたいてい、端末への打ち込みで事足りる。手紙を書くなんて久しぶりだ。ましてや、恋文なんて初めてのこと。気恥ずかしいし、柄でないとも思うのだけれど、それでも私は国永に文を渡したかった。 後朝の文を他の刀剣に見せたことへの詫びもある。けれど、それ以上に、国永がいつもどんな気持ちで私の元に歌を残していたのか、知りたかった。国永は平安の頃に生まれた刀剣で、私などよりもさまざまなものを見て経験してきている。彼の上に重なった時間を本当に理解することは、人である私には不可能かもしれない。それでも、伝えたかった。私は国永を大切に思っている。理解したいと願っている。 どんなに他愛ない言葉であれ、彼が私に向ける言葉を受け取りたいと思っている。 だから、伝わらなくてもいいなんて、言わないでほしい、と。 私は便箋を何枚か反故にして、あれこれ考えた結果、短い言葉を書きつけた。他愛ない気持ちは幾つもあるけれど、最初に伝えるべきなのは一つだけだと思ったからだ。 『あなたを愛しています』 真名で署名しただけの、短い手紙。だけど、後はゆっくり言葉にしていけばいい。 やがて、文を書き終えた私は、それを折りたたんで国永の部屋へ向かった。ドア越しに気配を窺うが、しんと静まり返っている。眠っているようだ。私はこっそり文を置いていこうと、ドアを細く開いて室内へ入り込んだ。 足音を立てないように、そっと国永に近づく。 ベッドの脇のテーブルに手紙を置こうとすると、伸びて来た手が私の手首を掴んだ。 「何をしている? 主」 「国永……。起きていたのか」 「起きたんだ。俺はこれでも刀剣男士だからな。主の気配はすぐ分かる。……いつも、俺の腕の中から去っていくときだって、本当は起きているんだ。引き留めないだけでな」 「そう、だったのか……」 「あぁ。驚いたか?」 「少し」 「そうか。……で、主は何をしに来た? 俺を驚かせにか?」 「違うよ」 「なら、何だ」 「文を……」 文? と国永は呟いて、起き上がった。部屋の明かりを点けて、テーブルの上を見る。そこに置いた私の文に、彼は不思議そうな顔をした。 「どうして……」 「もらってばっかりじゃ、悪いだろう?」 「後朝の歌は、俺が勝手にやったことだ。……長年、想ってきた君がこの手に落ちてきたものだから、少し浮かれているだけだ。別に見返りを期待しているわけじゃない」 「それでも、私は嬉しかったから」 「嬉しかった?」国永は驚いた表情になった。「君は嬉しかったのか? 後朝の文は読めなかっただろうに」 「読めなくても、嬉しかったんだよ。嬉しく思うくらいには、私はお前が好きだから」 私の言葉に、国永は少し顔をしかめた。「君はときどき、無防備にそんなことを言う」と苦々しげに言う。聞けば、国永は私が少しでも彼のことを長く考えればいいと思って、後朝の文を送っていたらしい。 「君が清光を愛しているのは知っているし、そういう情け深い君が好きだ。だが、俺も神の端くれだからな。時折、君のすべてをほしいという衝動に駆られるのさ。……もちろん、そんなことをすれば君は窒息してしまう。するつもりもない。だが――」 それでも、俺の文を見て、決して読み解けぬ内容を想像して。そうなるように仕向けることで、君の心をもう少しだけ俺のものにできたらいいと思った――。国永はひっそりとそう打ち明けた。 なんといじらしいのだろう。私は目の前の付喪神を見て、そう思った。彼に比べたら赤子同然の私が思うのもおかしいかもしれない。けれど、どうしようもなく、愛おしいと感じた。愛情を教えてくれたのは清光で、相手を慈しむことを教えてくれたのは本丸の仲間たちで。彼らとの時間は消せないし、消してしまったら私は国永の好いてくれている私ではなくなってしまう。だから、心のすべてを明け渡すことはできないけれど。 私は国永に抱きついた。 「国永、国永。大好きだよ」 「君、いきなり何を……」 国永は戸惑うように私の腕の中で身を強張らせた。そんな彼を気にせず、私は伝えたい言葉を一気に告げる。 「私が大切に思うもの、譲れないもの、すべてひっくるめて私を愛してくれるお前が好きだよ。だから、国永の言葉がほしい。どんなに他愛ないものでも、お前が私に伝えたいと思うなら、伝えてほしいんだ」 腕の中で、国永の身体からゆっくり力が抜けていくのが分かった。しばらくの間の後に、彼は「主」と声を発した。 「ひとつ、我儘を言う。――明日はまだ休暇だろう? だから、今宵はここにいてくれ。君に触れさせてくれ」 私は笑って、彼の言葉に頷いた。お前に触れられるのは好きだよ、と打ち明ければ、国永はびっくりした顔になる。それからすぐに苦笑して、彼は私を抱きしめ返した。まったく君には驚かされる、と耳元でひどく柔らかい声が囁いた。 pixiv投下2015/07/17 |