雛鳥


1)BL描写(R−18)を含みます。ただし、触るだけで挿入はありません。
2)寝取りではありませんが、性的接触の最中に男審神者が鶴丸を加州と誤認しています。見る人によっては寝取りに見えるかもしれません。
3)『鍛刀師』前日譚です。この時点では鶴丸の片思いです。
4)男審神者が精神的に変調を来している時期のお話です。




 ハラリ。色づいた葉が、庭の池の水面に落ちる。この本丸の季節は秋。紅葉が、どこまでも青い空と澄んだ池を背景に燃えていた。本丸の中はしんと静まり返っている。ときおり、色づいた葉がハラリと散る音が聞こえるほどに。
 国永はその光景を大広間の前の縁側で、静かに眺めていた。己がこんなにも大人しい有様を目にしたら、仲間たちは驚くだろう。しかし、今となってはこの場にそんな存在はいない。そのことがとても残念だと国永は思う。
 この本丸にいるのは、たった二人。しかし、今、もう一人は国永の膝に頭を預けて眠っている。国永はそっと彼の髪を梳いた。それから、被せてやった己の羽織がずれてしまっていたのを直してやる。その間、無防備な寝顔をさらす彼は、目覚めなかった。それでも、呼吸に微かに上下する肩を見て、国永はほっと息を吐く。
 彼――己の主たる審神者が生きているのを確認してしまうのは、近頃の国永の癖だ。仲間が折れ、主を失いかけてから、国永は刀の頃よりもずっと喪失を恐れるようになった。墓に埋葬されたことがある身で今更、死を怖がるのも妙な話ではある。しかし、人の身で経験する死と喪失は、刀であった頃とは比べものにならないほど胸を抉るのだ。
 そう。国永の主は、一度、歴史修正主義者に本丸を襲撃された折り、生命を奪われかけた。彼が今、生きてここにいるのは、本丸に残っていた仲間と主の恋人であった加州清光が、世の理に反して主を黄泉路から呼び戻したせいだ。しかし、現世に戻ってきた主は、死と黄泉の穢れをまとった化け物と化していた。本丸に残っていた仲間たちの霊は――望んだこともあって、化け物に取り込まれた。
 そのままでは、主は人の世に災い成す存在となっていただろう。
 そこへ、出陣や遠征に出ていた国永や三条派が戻ったのである。帰還した部隊は本丸の惨状を嘆く暇もなく、化け物である主と相対することになった。主の穢れを削ぐうちに、一振折れ、二振折れ、仲間は減っていった。最後に残ったのは、国永と三日月宗近。宗近は国永に主を託して、自らは主の穢れをすべて祓いきって、折れた。
 以来、国永は主とふたりきりでいる。
 黄泉から戻った主は、政府で手当を受けるとすぐ、ろくな休みも取らずに他の本丸の救援に赴いた。他の多くの本丸も敵襲を受けていたためだ。政府だけでは手一杯。動ける審神者は仲間のために部隊を送るなり、別の本丸の避難を受け入れるなり――自分たちで事態を何とかするしかなかった。これが、後に『第一次本丸襲撃事件』と呼ばれるようになる出来事である。
 事件後は、深刻な審神者不足となった。主は事件の事後処理にあたり、そのまま他の本丸や新人審神者のサポートに忙殺されるようになった。多忙にして、失った仲間や愛する男のことを忘れたかったのだろう。しかし、主の心には負荷が溜まっていたらしい。傍にいた国永さえ気づかないうちに。
 そうして、ある日、主の心が折れるときが来た。硬質の刃が、パキリと割れるように。ある朝、目覚めた主は自身が審神者であることを忘れていた。国永のことすら、分からなかった。
 すぐに国永の報告で、主は審神者専用の病院に入院することに決まった。投薬やさまざまな治療が試されたようである。けれど、それらは一定以上の効果が出なかったようだ。
 ようだ、というのは国永がその場におらず、あとで聞いた話だからである。その当時、国永は刀の姿で政府施設に保管されていた。審神者専用の病院には、さまざまな事情の患者がいる。中には付喪神の気にアレルギーの出る者などいるようで、国永が付きそうことは不可能だったのだ。時折、許された面会のときにだけ、国永は政府施設の一角で主に会うことができた。
 結局、主は国永に接した後がいちばん好調だと分かって、政府は国永に主の世話を任せることに決めたようだった。折りしも審神者不足の時節である。政府としては、一度は討伐数一位にまで上りつめた成績優秀者である主を手放すわけにはいかなかったらしい。国永と主は、相模国サーバーの一角にあるこの特殊な本丸に移り住むことになった。
 この本丸は、以前の本丸より少し規模が小さいようだ。聞けば、政府の特命を受けて動く特殊な審神者用の本丸らしい。主と国永はこの本丸で、政府から寄越される鍛刀の依頼などを少しずつこなしながら、すでに半年を過ごしていた。
 仲間と本丸を失ってからは、五年の時が経っていた。
 今日はこの死んだように静かな本丸に、来客のある日だった。二人きりではさすがに管理に手が回らないので、この本丸ではごく簡易の式の使用が認められている。人型の紙の式がふわりと飛んできて、国永に客の到着を告げた。
「――主、主、起きろ」国永はそっと声をかけて、主の肩を優しく揺さぶった。「客人が来た」
「ん……ぅう……」
「ほら、主」
「……やだ。……おれ……つるの傍にいる……」
 嫌々をするように、主が頭を振る。駄々をこねる子どものような仕草だ。
 病院での治療の結果、主の症状はいくらか改善した。それでも、記憶はいまだに混乱している。『俺』という一人称は、彼の身内に聞いた話では審神者になる以前のものらしい。刀剣男士を率いると決まったときから、主は『私』という呼称を使うようになったのだとか。しかし、一人称が昔に戻ってしまったからといって、彼は国永のことを刀剣男士として認識していないわけではない。ただ、以前の本丸では『国永』と呼んでいたのに、ここでは『鶴』という呼称が頻繁に混じる。
 いったい主の中で現実がどのように認識されているのか、まったく分からない。けれど――無防備に甘えた声で名を呼ばれるのは、決して嫌な気分ではなかった。
「聞き分けのないことを言うな、主」そう諭す己の声が、やけに甘いことを自覚する。「ほら、気を分けてやる。そうすれば、しばらく離れても平気だろう?」
「ん……」
「うん」なのか「ううん」なのか。曖昧な返事をしながらも、主は上体を起こした。素直に顔を寄せてくる彼の唇に、己のそれを重ねる。呼気と共にそっと己の気を吹き込んだ。
 と、そのときだった。静かな足音が聞こえてくる。国永が唇を離して顔を上げると、廊下の向こうに三人の姿があった。燭台切と大倶利伽羅を従えて歩いて来るのは、主より少し年上に見える青年だ。相模国サーバーで〈千夜(ちよ)〉という本丸を任される彼は、主の母方の遠縁であるという。主の血族は歴史修正主義者の改変によって消滅したが、〈千夜〉はその影響を受けないほどの遠縁だった。現在、主の身内と呼べるのは彼だけだ。
「あぁ、相変わらず懐かれてるねぇ。まるで親鳥と雛みたいだ」
〈千夜〉は主と国永の姿を目にして、苦笑した。
「申し訳ない。お見苦しいところを」
「気にしないで。それにしても、彼のこんな姿は珍しいね。彼、昔は他人に自分の本当に弱いところは見せない人だったから」
 でも、鶴丸どのもたまには息抜きが必要だよね。〈千夜〉はそう言って、主の手をやんわり掴んだ。ちょっと二人で話そうか、と主の手を引く。主は起き抜けにぐずったわりに、抵抗もせずに起きあがった。大人しく〈千夜〉と共に離れの方へ歩いていく。
 後には国永と燭台切、そして大倶利伽羅が残された。かつて伊達家にいたという縁のある者たちだ。そうでなくとも、〈千夜〉の燭台切と大倶利伽羅とは、何度も顔を合わせたことがある。
「相変わらずみたいだね、鶴さん」燭台切が去っていく主たちを見送りながら、そう言った。「ここでは退屈じゃない?」
「そう見えるか?」国永は肩を竦めた。
「……お前の性格からして、出陣もせず、このような静かな場所にいられるはずがない。お前はここで満足か?」
 大倶利伽羅が金の瞳を国永に向けた。感情の読めない眼差し。国永はそれを視線で絡めとって、微笑してやる。
「まぁ、それなりに満足している」
「名刀と名高い鶴丸国永も、とうとう錆びついたか」
 チッと舌打ちする大倶利伽羅を、燭台切が「こら」と小さくたしなめる。それからこちらを振り返った隻眼の刀剣もまた、底知れぬ瞳をしていた。
「だけど、鶴さん。いつまでもこうしてはいられないよ。人の子らは……それに、彼らに仕える僕らも、そろそろ、反撃に出なくてはならない。最初の大波は終息した。けれど、いずれ、次の嵐が来る」
「……何を知っている、光忠?」
「政府は審神者召集の方針を転換した。審神者召集の対象となるのは、もはや神職の血筋や霊力の高い者ばかりじゃない」
「何……?」
 審神者制度開始から、現在まで三十年足らずの時が経っている。政府はこれまで審神者召集の条件を、神職や特別霊力の豊富な者に限っていた。それというのも、そうした条件にあてはまる者ならば刀剣男士との付き合いもある程度は心得ているだろうという考えの下だ。もっと言えば、これまでの審神者は危機的状況ならば、己の霊力で多少の無茶をして刀剣を増やしたり、手入れしたりしということが可能だった。
 燭台切が言うには、政府はそうした審神者召集の条件を大幅に引き下げたという。今後、審神者となることができるのは、刀剣男士を顕現可能な者。これはある程度の霊力を持っており、かつ、物の声に耳を傾けるだけの謙虚な心があれば難しくはない。――つまり、一般人の何割かがその対象となるということだ。
「それにあたって、政府は初期刀を打刀五振に限定したんだよ。短刀、脇差は夜戦に強いが、初期の戦場を戦いきるには火力が弱い。かといって、僕ら太刀以上は初心者の一般人が呼び出すのには霊力を食いすぎるからね」
「ということは、〈千夜〉どののように初期刀に君を選ぶようなケースは、なくなるということか」
「そう。少し残念ではあるね」
 燭台切は肩をすくめた。主は打刀である清光を初期刀を選んだものの、初期審神者は皆、顕現可能な刀剣のすべての中から初期刀を選定している。話に出たとおり〈千夜〉の初期刀は燭台切であった。また、先の『第一次本丸襲撃事件』で戦死した主の同期の女審神者〈千花〉は、後に夫とする薬研藤四郎を初期刀に選んでいた。
 初期刀は審神者の魂の形。あるいは、魂がもっとも必要とするもの。いかなる審神者であろうとも、己の初期刀を選び間違えることはない。――そのような戯言が政府術者や審神者の間で囁かれるようになったのは、最初期にすべての刀剣を選択肢としていた頃からだ。
 しかし、打刀といえば、一般人出身の審神者がなりたての頃にギリギリの霊力で顕現させられる限界ラインだろう。政府は本気で民間人まで審神者として戦わせようとしているのか。そう考えて、国永は眉を寄せた。
 そもそも、国永の本霊をはじめとして刀剣の付喪神らが人の子らに力を貸したのは、歴史修正主義者らとの戦いがあまりにも現世を荒廃させると考えたからだ。明治維新以降、日の本の国は内戦を体験していない。同じ国の民同士が戦えば、いかに悲惨な事態になるか、いかなる禍根を残すか、想像はでいても体感がない。戦乱の世を知る本霊たちが人の子に協力したのは、ひとえにこの戦の影響を残さずに終わらせたいがためだった。
 しかし、政府は一般人をも戦に引き込むという。もはや長期戦は避けられない見通しなのだろう。
「分かるだろう、鶴丸国永。お前もお前の主も、雌伏のときは終わりだ。戦へ戻れ」
 大倶利伽羅が告げる。その刹那、国永はある可能性に気づいた。
「もしかして、お前たちは……いや、お前の主はそれを告げに来たのか?」
「……そうだよ。今頃、うちの主が君の主――〈千古〉どのに同じ話をしているはずだ」
「馬鹿な。あの状態の主が、そんな話を聞いて分かるはずがない。……というより、駄目だ。今の主にはとても、戦に関わることはできん……!」
「甘やかすな。戦わせろ」大倶利伽羅がピシャリと言った。「刀剣男士を率いる者は、己が手で刀を振るわずとも、その心はもののふでなくてはならん。戦えなくなった者は、死ぬか、刀を置いて戦場を去るかいずれかだ」
「っ……! ――主は十分すぎる働きをした。そのために心折れたんだ。愚弄するなら許さん」
 大倶利伽羅と国永の間で鋭い殺気が交差する。それを目の前にしながら止めない燭台切も、普段は穏やかな性格ながらもさすがに織田、伊達、水戸徳川と渡り歩いた刀だった。
 と、そのとき。
「おーい!」
 場違いにのんびりした声がその場に響く。見れば、離れの渡り廊下から、燭台切たちの主〈千夜〉が手を振っていた。その後には、普段と変わらない表情の主もいる。
「何してるんだ? 喧嘩しちゃだめだよ、お前たち。そろそろ帰るからねー」
 その言葉に、大倶利伽羅はそっぽを向く。燭台切が苦笑と共に小さく「ごめんね」と謝った。
 そうして言葉どおり、三人はすぐに帰っていった。後には主と国永だけが残される。心の波立っている国永に反して、主は普段と変わらない様子だった。もしかして、〈千夜〉は主に戦線へ戻れとは言わなかったのかもしれない。
 夜になり、夕餉と入浴を済ませた後、主は普段より早めに床についた。昼寝をしていたが、客人があったせいで疲れていたのかもしれない。普段なら主の話相手などして夜を過ごす国永は、すっかり暇になってしまった。それで、昔、時折そうしていたように月を見ながら晩酌などしてみる。
 片づけをして、そろそろ眠ろうかと床に入った。頭は酒精の力でいくらかふわふわとしているが、胸には昼間の燭台切たちの話が重い石のようにのしかかっている。眠れぬまま、何度か寝返りを打った。
 そうしてどれくらい経っただろうか。
 カタリと戸が音を立てて開く。それでも、国永は己の本体を手にしようとは思わなかった。部屋に入ってきたのが、馴染みある主の気配だとすぐに分かったからだ。
 主は心を壊してから、悪夢を見るようになったようだ。この本丸で国永と暮らしはじめてから、夢にうなされて飛び起きることがあった。あるいは、夢を恐れて眠らない日も。
 やつれる主に、不眠になるくらいならいっそ己のしとねに来いと言ったのは、国永の方だ。以来、幾度となく主は真夜中に部屋にやって来る。別に不審に思うようなことは何もなかった。
 そればかりか、ちょうど眠れずにいたところだ。国永ら刀剣の付喪神にとって、人に触れられることは安らぎである。主の体温がそばにあれば、きっと寝付けるだろう。
「主……眠れないのか?」
 国永は布団をめくって主を招き入れながら、尋ねた。主は国永に身を寄せ、抱きついてくる。必死なその腕はこれまでにはないことで、国永は少し違和感を覚えた。
「主……?」
 思わず呼びかけたそのときだった。
「きよみつ……!」
 甘えるような声が、そう音をつづる。国永は彼を抱き止めながら、ギクリと身を強ばらせた。主は夢を見たか、記憶が混乱しているかで、どうやら己を破壊された恋人・清光と間違えているらしい。
 国永は困り果ててしまった。しかし、その間にも主はぴたりとくっついて、顔を寄せてくる。闇の中で、距離感を誤ったのか主の唇が己の口の端に触れるのを、国永は感じた。 主との口吸いは、これまでにもしたことがある。といっても、恋仲の二人がするそれとは毛色の違うものであったけれど。一度、黄泉路を下ったことのある主は、魂が黄泉と細くつながっている。その糸で『あちら側』に引っ張られるのを避けるため、国永が口吸いで己の気を与えて主の気を安定させるのが日課だった。しかし、それも毎朝、明るい日の下でのこと。このように閨での触れ合いはまず行わない。
 どうすればいい?
 国永は混乱する。本当ならば、俺は主の良人ではないと諭すべきである。けれど、主を失いかけた上、彼が心を壊してからというもの、国永は滅法、主に弱かった。甘やかしているという大倶利伽羅たちの言葉は、国永自身もはっきり自覚している。主を拒絶するような真似は、したくなかった。
 しかし、迷う間にも主の行動は先へ進んでいく。ちゅっ、ちゅっと他愛もなく唇を己のそれに触れさせていただけのはずが、やがて熱い舌が口内へ滑り込んでくる。誘うように舌先を触れ合わせ、上顎をくすぐっていく。しかも、足を絡めてより身体を密着させてきた。
「……っ、ふ……んぅ……」
 口づけの合間に囁く声が、とろりと溶けた蜜のように甘い。心を壊した主はどこか幼くなって、国永に甘えた態度を見せることもある。しかし、こんな風に艶めいた声を聞かせることは、絶対になかった。
 ドクリと胸の鼓動が速くなる。カッと顔に血が集まるのが分かった。
 刀剣男士は、人間と違って顕現された当初から三大欲求を持つわけではない。人である審神者と暮らすうちに、食事することを知り、眠りを覚えるのだ。だが、性欲は――そもそも付喪神には子孫を残す必要がない。ゆえに、性欲が覚醒するのは基本的に審神者と、あるいは刀剣同士で恋仲になった者のみだった。
 国永とて顕現して間もないうちに主に「好きだ」と告げたことがあった。けれど、それは今となっては人間の真似事をしてみたかっただけだと分かっている。そして、主はそれを受け入れなかった。ゆえに、国永は性欲を知らない。深い口づけに動揺こそしたが、衝動は感じなかった。
 けれど。
 主はいっそう身体を密着させながら、口づけを仕掛けてくる。国永はおそるおそる、その口づけに応じた。主の舌を吸ったり、甘噛みしてみたり。いまだ性的欲求を持たない国永は、人がその行為をどう感じるのかは分からない。それでも、それはちょっとしたゲームのように思えて、楽しかった。どこをどうすれば、相手の反応がより大きいのかという遊戯だ。
 と、そこで国永は主と密着した太股に妙な感触を感じた。なんだか熱がこもって、それに、妙に硬いような。どういうことか、と太股を動かしてみれば、主がいっそう甘い声を上げる。そこで、国永は理解した。
 この感触は、主の――。すでに熱い顔が、いっそうカッと熱くなる。嫌悪感は、驚くほどになかった。ただ、腹の底で何か得体の知れないモノがズルリと蠢いた気がした。
 国永はおそるおそる、下へ手を伸ばした。主の寝間着の上から、張りつめたそれに触れる。予想どおり、主は甘い声を上げて国永にしがみついた。その腕をやんわり解いて、国永は主の帯の結び目を外す。緩んだ着物の前をはだけて、その奥の素肌に触れた。下着をずらして、そこで兆す熱に指を絡める。
 熱くて、張りつめている。
 国永とて男の性を持ってこの世に顕現しているから、平常時のその箇所のことは理解している。もっとも、己のものがそんな風になったことはなかったけれど。こうなったら、男は精を吐きださなくては苦しいのだと、何かで聞いたか読んだかしたことがある。このまま主を放置するのはかわいそうだ。内心でそう考えるけれど、もしかすると、言い訳にすぎないのかもしれなかった。
 己が、もっと主に触れていたい、口実。
 ゆるゆると指で輪を作って、主の熱を扱いてみる。
「ふ……ぅ……。ぅ……んぁっ……!」
 甘い声が上がるのに気をよくして、国永はさらに手を動かした。先端をいじったり、浮き出た血管を指でたどったり。その度に、主の腰が面白いように跳ねる。先端から溢れてた先走りが手を濡らした。
「気持ちいいか、主?」
 耳元に吹き込むように囁けば、はっきりと快楽に濡れた声が「きもちいい」と返す。その瞬間、頭の奥でジリリと何かが焦げついたような気がした。
 国永は乱暴に主をしとねに押しつけて、愛撫を施した。「あ、あ、あ」と面白いほどに甘い声が上がる。国永が手を動かす度に先走りが派手な水音を立てて、ひどく卑猥だった。主は国永の背をかき抱いて、いっそう身をよせてくる。腹の底で蠢く何かがかさを増した。もうじき、臓を食いやぶって飛び出してきそうな何か。
 目の前が、衝動で赤く染まる――。国永は興奮のあまり、のけぞった主ののどに食いつきかけた。なぜだか分からないが、どうしようもなくそうしたくなったのだ。けれど、その刹那。
「――きよみつ……! ……きよみつ、すき……」
 甘く、己以外の相手を呼ぶ声。
 そこで、国永はハッと我に返った。今、己が何をどうしようとしていたのか、分からなくて呆然とする。その間も、主は清光の名を呼び続けている。興奮が一気に醒めて、国永は無性に泣きたくなった。ここにいるのは己の番ではないのだと、そのことが胸に広がっていく。
 国永はそっと主に口づけて、もういない男を求める主の言葉を奪った。昼間にするように、口づけて己の気を注いでやりながら、いまだ張りつめたままの主の熱を刺激してやる。
 それは、愛情からの行為というより、雛に餌をやるのに近かった。主のことを愛していたが、それは顕現した頃の興味本位とは違う。かといって、欲望の対象にしているわけでもない。ただ、己の翼の下に庇ってどんな雨風からも守ってやりたいと、その一心だった。
 やがて、主が身体をびくつかせて、熱を吐き出した。そのまま、ことりと眠りに落ちて弛緩した彼を寝かせたまま、国永は身を起こす。掌に吐き出された主の精を、舌を出して舐めとった。独特の味、それ自体はたいして美味いものではない。ただ、精は血液と同等に霊力のこもる体液である。主の霊力で顕現し、それが多ければ多いほど力を増す付喪神としては、無駄に洗い流す気にはなれなかった。
 眠ってしまった主の身なりを整えて、国永は彼の身を抱いて眠りについた。翌朝、主は昨夜のことを覚えていなかったようだった。いつの間に国永の寝床に来たのかと不思議そうな顔をしている。
 しかし、その日から主は確実に変化した。国永のことを以前のように『国永』と呼び、数日すると一人称が『私』に戻った。そして、一週間後――主は国永に言った。政府に連絡して、復帰の相談をしようと思う、と。その場では見せなかったが、主も〈千夜〉に何か言われていたのかもしれない。
 その頃には、主はすっかり以前の主だった。凜としていて、簡単には隙を見せない。国永は主が復調したことを嬉しく思ったが、同時に寂しくも感じた。
 あの可愛らしい雛は、もういない。ここにいるのは、戦をするもののふ。あるいは、刀たる己の持ち主にふさわしい、一人前の男。刀としては、それで十分なはず――。
 端末で呼び出した政府担当者と面談する主を、国永は後ろから見つめていた。その背は真っ直ぐに伸びている。やがて、面談が終わって、国永は主と共に政府担当者を正門まで見送った。復帰の沙汰は追って、と言われたものの、審神者不足のこの時勢にまだ療養しろと言われることはないだろう。
 先に立って母屋に戻っていく主の背中を見ていた国永は、不意に強烈な渇望を覚えた。あれがほしい。興味本位ではなく、主の強さも弱さもすべてをこの手に抱きたい。共に永遠をとは望まない。ただ、共に黄泉を下るとも、輪廻の果てまでも、あの魂と共にありたい。赤く燃え盛る炎の輝きを取り戻した主の魂を透かし見て、強く、強く、そう思う。
 あぁ、そうか。かつて、主に己の子をと願った清光もたぶん同じ心情だったと今更に理解する。
 己がほしいのは、この翼の下でかわいらしく鳴く雛ではない。たった一人ででも嵐の中を飛べるような強い翼を持つ鳥こそを、己の番にと望んでいるのだ。








2015/10/11

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