東風の吹く庭
公式一周年記念の鶴丸と物吉のイラストネタです。 彼らの中に、俺は入れない。この本丸で俺はひとりきり。審神者になってから、ずっとそう思ってきた。とはいっても、孤独を感じていたわけではない。ただ、ヒトである俺は付喪神たる刀剣男士とは違うのだと、そういう認識があるだけ。 刀剣男士の本体たる刀剣は、生み出されてすでに数百年から千年、経過している。彼らは戦乱の中で貴族や武士の手にわたり、さまざまな場所を渡り歩いてきた。同じ家に所蔵されて顔見知りの者や、因縁のある者など、彼らの関係はさまざまだ。古い歴史は時空転移装置が発明された二二〇五年現在でも、はっきりしないことが多い。それでも、たとえば粟田口の兄弟刀たちの中にも、歴史上、敵味方に分かれた者同士もあったかもしれないと聞く。そんな風に刀剣男士たちの関係は複雑に絡み合っているのだ。とても、生まれて三十年そこそこの若造が、絡んでいけるようなものではない。 だから、就職に失敗して審神者になった俺は、昔から刀剣男士たちにあえて深く関わることは避けていた。もちろん、審神者としての仕事はきちんと果たしている。職場の同僚に対するのと同じ敬意と親しみでもって、皆には丁寧に接した。 けれど、そこまでだ。 俺は、刀剣男士とプライベートな交わりを持たないように注意していた。たとえば、酒宴が開かれても、俺が同席するのは最初の一時間ほどだけ。皆が酔う頃には退席して、刀剣同士で親交を深める邪魔にならないようにする。悩みごとも、戦の悩みは刀剣たちに相談したが、個人的な心配ごとは本丸で口にしなかった。 そうやって、注意深くラインを引いてきた。だって、本丸の中でただの人間は俺だけだ。本物の戦を知らないのも。そんな若造がどうして、ヒトならざる付喪神と深く親交を結ぶことができるだろうか? 彼らに気持ちよく過ごしてもらうために、俺はできるだけ空気のような存在でいるのがいちばんだと思っていた。 それなのに、俺の思惑を裏切ったのは、他ならぬ俺の心だった。 それは、本丸に新たな脇差――物吉貞宗を迎えて、しばらく経った頃のことだった。季節は梅の頃だったかと思う。その日は久しぶりの小春日和だった。ちょうど梅が見頃だというので、本丸の雅な連中――歌仙だとか、平安生まれの三条や鶯丸あたりが庭で梅見をすると言い出した。俺も誘われたが、書類仕事がたまっているので断って、執務室にこもっていた。 その日の近侍は、まだ来て間もない物吉だった。真面目な彼は、遊びたいと言わずに俺の書類仕事に付き合おうとしてくれた。梅見をしておいで、と勧めても聞かない。そこで、俺は少しだけ仕事を手伝ってもらってから、「もう近侍の仕事はなくなったから」と物吉を解放した。上手く梅見に合流できるといいのだが、と思いながら。 そうして、三〇分は過ぎただろうか。 俺は物吉のことが気になって、執務室を出た。母屋に用があるという風に、廊下を歩いていく。ちょうど庭では小春日和のうららかな日差しを浴びながら、刀剣たちが茶を飲んでいた。たまに酒の銚子が見えるが、あれは甘酒だろう。歌仙が、甘味の好きな短刀たちのために用意すると言っていたから。 和やかな刀剣たちの宴を見ながら、俺は彼らの目につかない廊下を進む。目的の物吉の姿を探すと、彼は母屋の縁側に座っていた。すぐ傍には、母屋に寄り添うように立つ紅梅の木がある。彼は楽しそうに花をつけた紅梅を眺めていた。 しかも、物吉はひとりではなかった。横には鶴丸が腰を下ろして、朱塗りの杯を傾けている。彼は物吉の生き生きした表情を見守りながら、時折、庭を指さして何かを話しかけていた。そのたびに、物吉がコロコロと笑う。ひどく幸福で、絵になる光景だ。 けれど。 鶴丸と物吉を見た瞬間、俺は無性に寂しくなった。今、物吉のいる場所に座っているのが自分だったらよかったのに。そう考えてから、ドキリとする。物吉は俺の大事な刀剣の一振だ。幸運をもたらそうと笑ってくれる彼のことを、俺は好きだと思っている。もちろん、本丸の他の刀剣たちのことだって。だが、俺の胸に芽吹いた寂しさは、そんな理屈を越えたところにあるものだった。 鶴丸の柔らかな眼差しを受けて、微笑みかけられたい。彼に自分を見てほしい。焦燥のような衝動を覚えて、俺は悟った。そうか。俺は鶴丸国永に恋をしているのか。刀剣男士への恋愛感情なんて、俺が審神者として目指すべき姿とは完全に相反するものだ。だいたい、刀剣男士は一介の人間になんて、間違っても興味を抱くことはないだろう。彼らには彼らの世界があるのだから。厄介な感情を抱いてしまったものだ。俺は心の中で自分に言い聞かせる。 この恋を、知られてはならない。 この恋を、なかったことにしなくては。 *** だが、そもそも俺はえてして不器用だ。それはコミュニケーションについても言えること。もし円滑に他人と関わることのできる人間だったなら、刀剣男士とわざわざ距離を置かなくてもやっていけただろう。それ以前に、就職に失敗することなく、審神者の道も選ばなかったに違いない。 恋を隠して、なかったことにしようと思うあまり、俺は過剰に鶴丸を避けるようになっていった。なるべく彼に近づくことを避けた。ローテーションの近侍も、理由をつけて他の刀剣に変更したりした。さすがに、こうなると他の刀剣たちも怪しみだす。 「――アンタ、鶴丸国永と何かあったのか?」 そう尋ねたのは、初期刀の山姥切国広だった。普通、審神者と初期刀というのは強い絆で結ばれているという。知り合いの審神者の話を聞いていても、初期刀とは親兄弟も同然という者が多い。 けれど、うちの本丸の場合は少し違う。俺が最初から刀剣男士と一定の距離を置こうとしているのを察してか、山姥切は無闇に俺に干渉してこない。ただじっと本丸の様子を見ていて、問題が起こりそうなときだけ俺に意見するのだった。そういう山姥切の態度は、非常にありがたかった。また、必要以上に親しく接することはないものの、誰よりも信頼している。 だから、山姥切の言葉を聞いたとき、俺は困ってしまった。 「鶴丸とは、別に何もないよ。どうしてそんなことを尋ねる?」 「アンタも分かっているはずだ。近頃のアンタは、どうも鶴丸を避けている節がある。皆も、鶴丸自身も、気にしているぞ」 「そうかい? 鶴丸は、普段どおりにしか見えないけど……?」 今日も鶴丸は元気に出陣していった。どこもおかしなところはない。しかし、山姥切が言うにはそうではないらしかった。鶴丸は普段どおりに振るまっているが、時折、焦るように敵に突っ込んでいくのだという。 「鶴丸が普段どおりに見えるのは、ただの空元気だ。このまま放っておけば、戦場で支障を来すだろう。その前に心配ごとを取り除かなくてはならない」 山姥切の言葉に、俺は首を傾げた。俺はただの人間だ。ただの人間ひとりに好かれようが、遠ざけられようが、付喪神たる鶴丸が本当に気にするだろうか? 彼らの長い刀生のうちから見れば、俺なんてあっという間に通り過ぎていく他人でしかないだろうに。 そう言うと、山姥切は難しい顔をした。 「……アンタは、自分を低く見すぎる。たしかにアンタはただの人間だが、俺たちにとっては唯一の主君なんだ。嫌われれば堪えるに決まってる」 「嫌っているわけじゃないよ。ただ……」俺は山姥切の真っ直ぐな視線から逃れるように、うつむいた。執務用の文机の上の書類を、見るともなく眺める。「――ただ、鶴丸が近くにいると、俺は自分で決めた境界線を越えたくなってしまうんだ」 「境界線? あぁ……あんたが、俺たちと不必要に馴れ合わないようにしていることか」 「そうだ。きちんと審神者の務めを果たすために、俺はだれかひと振に肩入れするわけにはいかない。皆と親しくなりすぎるのも駄目だ。……そう決めて、やってきたから」 「では……鶴丸を避けているのは、嫌いだからではなくて、特別に想っているからということなのか……?」 直接的な山姥切の言葉に、俺は返事ができなかった。口をつぐんで押し黙る。しかし、その沈黙がもはや回答に等しい。山姥切は驚いたようで、「主、アンタ……」と何か言いかけた。 そのときだ。 スパンとふすまが開く。俺は顔を上げて、呆気に取られた。開いたふすまの向こうに、話題の中心――鶴丸が立っていた。鶴丸はズンズンと部屋に入ってくる。山姥切が慌てて立ち上がり、彼の腕を掴んで制止しようとした。 「ま、待て、鶴丸……!」 「いや、待てん」 「約束が違う! 俺が主にアンタを遠ざける事情を尋ねるから、アンタは部屋の外で話を聞くだけと言っただろう!?」 「だから、外で話は聞かせてもらった。ここからは、俺が直に主と話したい。悪いが、山姥切、この件の当事者は俺だ」 鶴丸と山姥切は、数瞬の間、互いの目を見つめ合った。その有様は、さながら手合わせで相手の手を読み合うかのような緊張感に満ちている。やがて、諦めたように視線を外したのは、山姥切の方だった。 「……分かった。だが、俺もこの場に同席する。それだけは、初期刀として譲ることができない」 「あぁ、構わんさ」 山姥切が腕を離すと、鶴丸は俺の前まで来て、畳の上に胡座をかいた。執務机を挟んで、俺を見つめる。 「――きみ、俺のことを特別に想ってくれているのか? だから、俺を避けるのか?」 「――俺は……」 自分に惚れているのかと、好いた相手から直接的に尋ねられて、俺は返事に困った。しかし、この状況ではもはや誤魔化したり、嘘をついたりすることはできない。否、この場で出任せを言うことは容易いだが、その悪影響は計りしれない。山姥切が報告したように鶴丸が戦場で不調を示しているのなら、俺の嘘は自分の刀剣たちを傷つける刃にすらなり得るのだから。 審神者として、それは許されることではない。だから、俺は震えそうになる声を励まして、言葉を紡いだ。 「……たぶん、お前が好きなのだろうと思う。でも、それは……俺の主義に反することだ。人間である俺は、たぶん……付喪神たるお前たちを本当に理解することはできない。だから、ずっと距離を置いてきたんだから……」 「君がヒトで、俺たちが付喪神だから、親交を結んではならないと? そんなこと、誰が決めたんだ? 今の世ではもう伝説の類だが、かつてはヒトが妖に嫁したり、神がヒトと婚姻することはよくあった話だ。どうして君が我々と親しくすることが許されない?」 許されないということは、ないだろう。審神者の中には、刀剣男士と恋仲になった者も多いと聞く。また、刀剣男士と本物の家族のように親しくしている審神者も少なくないだろう。なぜ、俺はそれを拒むのかと言えば――単に、刀剣男士同士の絆の中に入り込めないと感じるからだ。同時に、俺のような異物は極力存在しない方が、彼らは楽しくやっていけるだろう、と。 そう説明すると、鶴丸は頭を振った。 「決まりきった日常や、顔見知りの相手ばかりでは、日々に何の驚きもない。どうして、現代で新たに出会った君を邪魔に思うことがあるだろうか。――なぁ、俺たちはもっと君と親しくしたいと思っているんだぞ?」 言われて、俺は驚いて山姥切へ目を向けた。視線で「本当に?」と尋ねれば、彼は困り顔で頷く。しかし、もっと困っているのは俺の方だった。刀剣男士と親しくすると言っても今更すぎる――。それでも、俺は頷かざるをえなかった。 「わ、分かった。皆と親しくするよう、善処する……」 「そうしてくれ」ニィと笑った鶴丸は、そこで表情を改めた。真剣な眼差しで俺を見つめる。「ところで、主、さっきの告白のことだが」 「え? えぇと……それは、うん、俺がなるべく早く、恋愛感情を忘れるようにするから――」 「そうじゃない。君はこれから刀剣男士と親しく接してみるつもりなんだろう? だったら、俺とのことも試してみないか?」 「は? 試す……?」 「あぁ。俺と君が恋仲になれるかどうか、試してみないか?」 鶴丸が言うには、刀剣男士は付喪神として長く生きているものの、肉体を得たことに関しては赤子同然らしい。実際、彼らは顕現当初、三大欲求を持たない。食事や眠りの必要性を知らないまま、顕現してくるのだ。確かに、そのことには俺も本丸を運営し始めた当初、手を焼いたものだった。 ものを食べることを知らない刀剣たちに食事をさせ、眠ることを教えて……。そういえば、性欲の方は誰も何も言わなかったので忘れていたが――それは彼らがそういった衝動に目覚めていないせいらしい。 「――無論、俺とて君たち人間のように、他者を切望する感情はよく分からない。だが、許されるならば、それを知ってみたいと思う」 鶴丸は俺の目を見ながら、熱っぽく訴えた。金色の瞳がキラキラ輝いている。まるで新たな玩具を見つけた子どものようだ。俺は彼のそんな様子を眩しく思った。 恋をするということは、決して幸せなだけじゃない。正直な話、コミュニケーションに問題のある俺が誰かを好きだと思ったのは、鶴丸が初めてだ。けれど、彼への想いに気づいてからこのひと月ほどの間に、恋の醜悪さをも知った。たとえば、鶴丸が誰かに笑いかけるとき、その笑顔を自分に向けたいと思う。自分だけを見ていてほしいと願う。自由な彼を自分に縛り付けたいと望んでしまうこんな感情、どこが楽しいものか。 けれど、そう言ったとしても、無邪気に感情を楽しもうとする鶴丸に届くとは思えない。仕方なく、俺は頷いた。 「分かった。だったら……しばらく試してみよう。鶴丸が俺に恋をしてくれるかどうか」 「決まりだな!」 鶴丸は文机の上の俺の手を取って、勝手に握手をした。握りしめた手を軽く振る。俺は苦笑したが――そこで、ふと静かに控える山姥切と目が合った。彼はこれで一部始終を見届けたというように視線を伏せると、静かに立ち上がる。そうして、開いたままのふすまからそっと廊下へ出ていった。 *** それから、俺はなるべく普段どおりに鶴丸に接するようにした。近侍を外すことはないし、用があれば傍へも行く。それでも、自分から用もなく近寄っていくことはできなかったけれど……。 対して、鶴丸の方も俺に歩み寄ろうとしているようだった。彼は時折、団子や茶を手に俺の私室を訪れることがあった。かと思えば、手を引いて俺を庭に連れ出すこともある。そういうときは、短刀たちの遊びに加わったり、台所をひやかしたり、何をするでもなく本丸をぶらついたりした。 ある日など、鶴丸は俺を連れて母屋の屋根に上ってみせた。そこからは広大な本丸が一望できる。絶景に感嘆する俺を、屋根から落ちないように手を掴んだまま、鶴丸は笑ったものだった。 「どうだ? 驚いたか!」 「あぁ……! 本丸の庭は美しいけど、屋根の上から見るとこんなだなんて……すごいな」 「俺の気に入りの場所だ。……とはいえ、いくら絶景だと言っても、君がひとりでここに来るのは危ない。俺と一緒のときだけにしてくれよ?」 「分かってるよ。お前が一緒じゃないと落ちそうだ。さっきも、何度、瓦で滑りそうになったことか――」 俺はおどけて、体勢を崩すジェスチャーをしてみせた。悪ふざけのつもりだった。が、そのとき東の方から強い風が吹いてくる。春を告げる東風。それに煽られて体勢が崩れ、ズルリと滑っていきそうになる。鶴丸が焦った顔で、つないだ手を痛いほどに引っ張った。 「わっ……!!」 鶴丸に手を引かれて、滑り落ちるのは免れたものの、今度は勢い余って彼の上に倒れ込む。鶴丸はキツく俺の身体を抱きしめて、ほぅと息を吐いた。 「君……。こういう驚きは勘弁してくれよ」 「すまない」 「いや、元はと言えばここへ連れてきたのは俺だからな。万が一、君が落ちるのを止められないときは、俺も一緒に飛び降りるさ」 そういう鶴丸の表情は、やけに真剣だった。そこで、ふと、俺はあまりに彼と近づきすぎていることに気づく。何しろ、俺は鶴丸の上に乗り上げていて、彼は俺の腰をしっかり抱きしめているのだ。 「い、一緒に落ちるのは駄目だ……」 そう言いながら、俺はさりげなく鶴丸から離れようと身動きした。が、彼は俺が落ちるのが心配なのか、いっそう強く腰を抱きしめてくる。離してくれ、と言おうとしたときだった。 「主! どこにいるの?」 「こんのすけが、政府の手紙を持ってきたそうですよー!」 俺を捜す短刀たちの声が聞こえてくる。行かなくちゃ、と俺が言うと、鶴丸はあっさり腕を解いてくれた。そこにいるのは、いつもの無邪気な彼だ。「さぁ、戻ろうか」と手を差し出す。俺は先ほどと同じように、鶴丸の手を取った。 そうするうちに、季節は次第に春に近づいていった。 鶴丸と、刀剣たちと親しくする日々は、楽しかった。けれど、俺はどこかで恐怖を感じてもいた。今の俺はあまりに浮かれすぎている。いつか戦の采配を間違うのではないか。重要な局面で、なすべき判断を行えないのではないかと、そんな風に思えて――。 懸念は、やがて現実になった。ある日のこと、新戦場へ出陣していた刀剣たちが、いずれも重傷で戻ってきたのだ。そこは夜の戦場で、『武家の記憶』――審神者の俗語で『五面』と呼ばれる――とはまったく異なる舞台だった。これまでの主戦力であった太刀、大太刀、薙刀など、いわゆる『火力の強い』刀は夜目が利かない。入り組んだ街中の戦場は狭く、リーチの長い刀を振り回すには動きが制限される。そんな場所だ。 戦場が解放されたとき、政府から新戦場の特性についての通知を受けてはいた。けれど、当時の俺は審神者に就任したてで、政府の通知の意味を理解してはいなかった。夜戦場である京都市中――いわゆる『六面』よりも、それ以前の戦場を駆け抜けることで精一杯だったのだ。ようやく『六面』にたどり着いたときには、夜戦場の特性をすっかり忘れてしまっていた。 審神者として、あまりに怠慢だった。 俺は、重傷の刀剣たちを、念入りに手入れした。それこそ、夜を徹して。自分の不甲斐なさに泣きたかったけれど、歯を食いしばってこらえた。泣くよりも先に、なすべきことがあったからだ。刀たちをすべて直しおえないうちに涙を流すのは、戦場に立ってくれる刀剣たちの働きに対して恥じるべき行為だと思った。 東の空が白む直前、最後の刀剣の手入れに掛かった。鶴丸だ。治療を終えた他の刀剣は皆、自室に返してある。手入れ部屋には俺と鶴丸のふたりきりだけだ。 「なぁ、君」 打ち粉をふる俺に、鶴丸が声を掛けてきた。顔を上げれば、まだ傷だらけの彼は心配そうな顔でこちらを見ていた。 「そんなに自分を責めるものじゃない。勝敗は時の運とおいうだろう。今回は、こうなる定めだったのさ」 「鶴丸、慰めてくれるのは嬉しいが、それは違う。今回のことは、俺の怠慢が招いたんだ。時の運とは、全力を尽くして挑んだ者だけが使うことのできる言葉だ」 「君は審神者としてよくやっている。ずっと気を張って。それでも、緊張は時には途切れるものさ。それが今回だったというだけのこと。そういう点も含めて、時の運と言うのさ」 鶴丸はこちらに手を伸ばした。俺の頬に触れてから、その指先を唇に滑らせる。「君は手入れの間中、ずっと唇を噛んでいたな。ほら、血が滲んでいる」噛むのをやめろ、と言うように鶴丸は俺の唇を指先でなぞった。けれど、俺は唇を噛むのをやめられない。 だって、噛むのをやめたら、この悔しさのやり場をどうしたらいい? 頑なに俺が口を堅く閉じていると、鶴丸はふっと苦笑した。それから、唇をなぞっていた右手を俺の首に回して、自分の方へ引き寄せる。体勢を崩して、半ば覆いかぶさる姿勢になった俺に顔を寄せ、鶴丸は俺の唇に彼自身のそれを重ねた。 春先の、ヒヤリと冷えた部屋の中、触れあった肌と唇にかかる呼気だけが温かい。鶴丸は唇の間から舌を出して、ゆっくりと俺の唇の合わせ目をなぞった。性感を呼び覚ますための愛撫ではない。獣が傷を癒そうとするかのような慰撫。温かく湿った舌先に唇の傷口をたどられて、堪えていた涙が溢れた。まだ、手入れを終えてしまっていないのに。 一度、涙を流してしまえば、もはや頑なではいられない。噛みしめていた唇が、力を失って開く。それでいいというように、鶴丸の舌が唇の傷口をいっそう優しくたどった。その温かく柔らかな感触に、俺ののどから嗚咽が漏れ始める。 この愛しい刀を、失うところだった。大切な仲間たちを、刀の残骸にするところだった。その恐怖が身体を貫く。俺は鶴丸に縋りついて泣いた。彼は唇を重ねて、俺の嗚咽をすべてそののどに呑み込んでしまった。 やっと、鶴丸の手入れを終えて帰した後、俺は手入れ部屋を片づけて外に出た。廊下には、山姥切が端座していた。 「アンタ、大丈夫か?」そう問う彼に俺はただ頷いた。そんな俺を見て、山姥切は心配そうな表情をする。それから、言葉を続けた。「……失敗は誰にでもある。次こそ、挽回すればいい」 もう一度、頷いて俺は彼の前を通り過ぎた。山姥切は追ってこない。彼はそういう性格だ。山姥切自身も本科に対するコンプレックスを持つ故か、俺の必要とする距離感を察してくれる。無用に踏み込んだりはしない。 俺は足早に廊下を進んで、離れの私室に入った。ふすまを閉めて、ずるずるとその場に座り込む。まだ暗い部屋の中で、俺はガタガタ震えながら、涙を流した。審神者としての怠慢を犯した自分が許せない。だが、それ以上に怖いのは、泣くまいと思ったのに、鶴丸にすがりついて嗚咽したことだった。 鶴丸のそばにいると、俺は弱くなってしまう。自分の意思を貫きとおせない愚かな男になる。こんなに愚かで弱い俺は、きっとまた審神者として致命的な間違いを犯すに違いない。そして、そのときは大事な仲間が破壊されて、取り返しのつかないことになるかもしれないのだ。 なんということだろう。鶴丸を好きだと想うだけで、どうして俺はこんなに弱くなってしまうんだろう。なぜなのか、自分でも分からなかった。ただ一つ、確かなのは――。 俺は震える手で、携帯端末を取った。メール画面を開いて、政府担当者へのメッセージを作成する。 ――審神者を辞任したい、と。 *** 辞任の手続きは、一週間で終わった。驚くほど早い。けれど、政府の担当者の話では、こういうことは珍しくないらしい。 審神者として徴収されるのは、基本的に、戦争のない現世で生まれ育った者ばかり。それが急に審神者として戦に関わるようになることで、ストレスのあまり精神的に病むケースが少なくないのだという。かつては、政府が審神者の辞任をなかなか認めなかった。そこから、精神を病んだ審神者が刀剣男士を虐待する――いわゆる『ブラック本丸』を作る場合が多々あったらしい。 刀剣男士たちは、そもそも、人間に厚意で力を貸してくれている付喪神だ。そんな彼らを人間の側が虐待するのでは、信頼関係を失っていつか協力してもらえなくなる。そうした懸念から、政府は次第に審神者のメンタルケアを強化した。と、同時に、審神者が精神的に消耗した場合の辞任希望を受け入れることにしたのだという。俺が一週間で辞任が受理されたのも、手続きの中で受けさせられたテストで精神的消耗の傾向が強かったためだそうだ。 俺が辞任すると知った俺の刀剣たちは、ひどく動揺したようだった。短刀や脇差には、本丸に残ってほしいと懇願された。打刀や太刀には、なぜ辞めるのかと言われた。大太刀や槍、薙刀には、本当に辞めて後悔はないかと尋ねられた。彼らの言葉のすべてに、俺は自分が審神者にふさわしくないのだと答えつづけた。裏で山姥切も皆をなだめてくれたようで――やがて、誰もが納得してくれたようだった。 辞任の前夜、鶴丸が俺の部屋を訪れた。酒を持ってやって来た彼は、静かに俺と酒を酌み交わした。 「なぁ、君、本当に本丸を去ってしまうんだな」 「あぁ」 「……寂しくなる」 「すぐに後任の審神者が来るさ」 「だが、それは君じゃない。俺は、君にここにいてほしいんだ」 鶴丸のその言葉を、俺はリップサービスだと解釈した。だって、俺は戦の采配が上手いわけじゃない。刀剣たちとも、結局、上手く接することができなかった。審神者の重責に堪えられずに逃げていく俺を、彼が慕ってくれるはずはない。 「俺はこの本丸で、空気のような存在だった。いても、いなくても、変わらない。……きっと、別の審神者が本丸を運営する方が、お前たちは幸せだ」 「きみ、それは違うぞ」酒に白い頬を染めた鶴丸は、金色の瞳でじっと俺を見つめた。「きみは風だ。春を告げる東風(こち)。当たり前のように俺たちの傍にいて、それでも、新たな変化を引き寄せる。きみが俺たちを呼び出して、過去の因縁を越えた結びつきを与えた」 「それは、買いかぶりすぎだよ」 俺が苦笑すると、鶴丸は恥ずかしげ笑った。もう眠るかと空の銚子を持って腰を上げる。それが、本丸最後の夜になった。 *** 翌日、俺は刀剣たちに別れを告げて、現世へ戻った。辞任したばかりの審神者は、しばらくの間、政府施設で暮らすことになる。審神者というのは機密の塊なので、現世の暮らしに戻るにしても、そう簡単な話ではないのだ。 現世へ戻ったその日は、書類手続きなどで一日が終わってしまった。割り当てられた宿舎に入って、就寝の準備を始めたときだった。コンコンとドアがノックされる。 「〈東風(とうふう)〉」と俺の審神者名を呼ぶのは、政府担当者の声だった。俺は慌てて、ドアを開けた。そこには、政府担当者に連れられた鶴丸と物吉の姿があった。「二人が、あなたに緊急の話があると」 「話?」 「内容は、あなたにしか言えないということです」 「分かりました。部屋で話を聞きます。二人を連れてきてくださって、ありがとうございます」 俺は政府担当者に礼を言って、彼を帰した。途端、鶴丸が口を開く。 「大変なんだ、主。うちの本丸から敵方に下ろうとする刀が出た」 「歴史修正主義者に……? でも、誰が?」 「鯰尾です」そう答えたのは、物吉だった。いつも穏やかな表情が、今は暗くかげっている。「主さまが審神者を辞任すると分かってから、どうも様子がおかしい気がしたのですが……。今日、彼は歴史修正主義者の元へ走ろうとして」 「行方不明なのか?」 「いや。物吉が注意してくれていたおかげで、鯰尾の寝返りは阻止できた。問題は、その後でな……」鶴丸はうなるように言葉を紡いだ。「鯰尾は、自分と一期一振が焼けるきっかけとなった、夏の陣での秀頼自刃を回避したかったらしい。それを知った一期が、激怒した」 「粟田口長兄として、裏切り者を許すわけにはいかぬとおっしゃって……。他の方の中にも、主が去ったばかりで敵方に寝返ろうとした鯰尾を厳しく糾弾する方が……」 物吉の言葉に、俺は呆然と目を見開いた。鯰尾が。あの明るい子が、敵方に身を投じようとするなんて。――だが、所詮、俺は刀剣たちに比べれば、ほんの赤子のようなものだ。刀剣たちが、俺には測り知れない思いを抱いていたとしたって無理はない。 それでも、そのことが俺には寂しかった。 そうか、と気づく。俺は刀剣男士たちを理解したかった。とはいえ、ヒトとヒトならざるものとで、完全な理解なんて不可能なのかもしれない。今までの俺はその困難さを予想したから、刀剣たちと距離を置いていた。けれど、今になって鯰尾の寝返りを伝え聞いて思う。 たとえ理解できなくたって、俺は彼らを知ろうとすることを諦めたくないのだろう。ヒトとヒトならざるものとで、別の存在であっても、傍にいたいと望むのだろう。だって、俺はあの本丸が好きだから。俺の刀たちが大好きだから。 「それで、今、本丸の状況は?」 「山姥切が鯰尾を保護して、一期をはじめ処罰を口にする刀剣たちをなだめている」俺の問いに鶴丸が答える。 「分かった。行こう」 「行くって、え? えぇ? 確かに僕らはあなたに説得をお願いしに来ましたけど……いいんですか?」 目を丸くする物吉に、俺は笑ってみせた。 「鯰尾も一期も他の皆も、俺の大事な刀たちだ。その刀を放り出して辞任した俺がこんなことを言って許されるのか分からないが……。喧嘩してるっていうなら、放ってはおけない」 早速、俺は鶴丸と物吉と本丸に戻った。時間外に転移装置を動かしてもらうのには、担当者にずいぶん迷惑をかけてしまったが――今回は仕方ない。 転移ゲートをくぐって、俺たちは本丸の正門にたどり着いた。門を開けて中に入ると、庭先に刀剣たちが集まっている。明々と焚かれた篝火に照らされて、刀剣たちの前に立つ山姥切がいた。その傍らには、鯰尾が地面に座り込んでいる。殴られたのか、彼の頬は腫れていた。 「――今、俺たちが鯰尾を罰するべきじゃない。審神者がこの本丸に入るまで待つべきだ」山姥切が声を張り上げている。 そのすぐ前には、一期一振が本体を手に立っていた。彼の表情は厳しいながらも、どこか泣き出しそうに見える。 「そこをおどきください、山姥切どの。裏切り者を出したとあっては、粟田口の名折れになります。この本丸に入る審神者がこのことを知る前に、どうか、この手で弟の処分を――」 そんな一期に、骨喰藤四郎や乱藤四郎が取りすがって、鯰尾にひどい罰を与えないでほしいと懇願していた。他の刀たちも、鯰尾を庇う者や様子を静観する者、一期に同意する者など、反応はさまざまだ。それぞれが歩いてきた刀生によるものなのだろう。 「――皆、そこまでだ。主が戻ったぞ!」 鶴丸が朗々と声を上げる。刀剣たちの目が一斉にこちらを向いた。幾つもの眼差しに射られて、俺は束の間、足が竦みそうになる。だって、俺はもうこの本丸の主ではない。刀剣男士にとっては、ただの人間。主従関係がない今、彼らは俺をどうにでもすることができるはずだ。 ――だが、それが何だ。 俺は歯を食いしばって、皆の視線を受け止めた。彼らにとって、俺は非力な人間かもしれない。それでも、俺にとって彼らは大事な俺の刀だ。ただの人間であっても、俺は俺のすべきだと思うことをする。 傍らを歩んでいた鶴丸と物吉が、ピタリと足を止める。俺は姿勢を正して、ひとり、山姥切と鯰尾の元へ歩いていった。地面に座り込んだ鯰尾の前に、膝を突く。 「――ごめんな、鯰尾」 そう言って、俺は鯰尾を抱きしめた。 「え? 主さん……? 俺、敵方に寝返ろうとしたのに……?」 「だから、ごめん。鯰尾がそんな道を選ぼうとしたのには、理由があるんだろう? 気づかなくて、ごめん。俺、審神者として本丸の皆のこと、きちんと見ているつもりだったのにできてなかった」 身を強ばらせていた鯰尾は、しばらくの間の後に俺にしがみついてきた。 「……俺、主さんが審神者を辞めてしまうのが嫌で……。ふと、前から思ってたことを実行したくなってしまったんです。……大阪城が焼けなかったら、俺は今頃どうしてるんだろうって……。ごめんなさい……!」 辺りはしんと静かだ。その中に鯰尾の啜り泣きだけが響く。やがて、彼は泣きやむと、俺の腕を外して立ち上がった。 「主さんにもう一度、会って許してもらえたから……俺、覚悟ができました。どんな罰でも受けます」そこで、鯰尾は一期一振をまっすぐに見つめた。「――刀解されても、破壊されても構いません。それがけじめだから」 「鯰尾……」一期一振が苦しげに呟く。 俺は立ち上がって、二人の間に割って入った。 「駄目だ。鯰尾は刀解も破壊もさせない。――迷うことも、間違うことも誰にだってある。戦国時代なんかは、間違いは即、死だったのかもしれないけど、現代はそうじゃないんだ。やり直す機会があってもいいだろう?」 「そうは言うが」と声を発したのは、山姥切だった。「アンタはもう、この本丸の審神者じゃない。次の審神者の心証を考えれば、鯰尾は処分しておくべきかもしれない」 俺は振り返って、山姥切の青い目を見つめた。いつも俺を見守ってくれた初期刀。俺が距離を必要としていると察して、ずっと付かず離れず助けてくれた。その彼が、今、厳粛な眼差しで俺に問うていた。その視線を真っ直ぐに見つめ返して、俺は口を開く。 「辞任は撤回する。皆が受け入れてくれるのなら、俺はこの本丸に戻ろう」 しんと静まり返った庭の中、俺は今度は集まった刀剣たちに顔を向けた。 「ずっと距離を置いていて、すまない。勝手に辞任してすまない。俺はこの本丸でたったひとり、ただの非力な人間で……皆と一緒にいていいのか不安だった。でも、分かったんだ」 ――ひとりきりの人間だろうと、俺は皆が好きだ。この本丸が好きなんだ。どうか、共に生きることを許してほしい。 刹那。刀剣たちが歓声を上げた。 *** ふた月ほど経った。季節は春が過ぎ、夏に向かおうとしている。俺の辞任騒動の余波も落ち着いて、『六面』の夜戦場は短刀・脇差・打刀が中心となって攻略を進めている。とりわけ、活躍しているのは鯰尾と山姥切だ。『皆に迷惑かけた分を挽回しますからね!』と鯰尾は張り切って出陣している。 対して、山姥切はといえば。『アンタの補佐は本当に疲れるんだ。ちょうど、他に世話役を任せられそうな奴もできたし、しばらく俺には戦場で憂さ晴らしさせてくれ』なんて、若干、スレた調子で言われてしまった。 今日は夜戦も含めた出陣を休みにした。それを見越してのことだろう。夜半、鶴丸が酒を片手に俺の部屋を訪ねてきた。彼が俺に構うのは早春の頃からだが、俺が本丸に出戻ってからはいっそう頻繁になった。山姥切が『新しい世話役』云々と言い出したのは、鶴丸のことである。俺も、鶴丸と過ごすことを楽しんでいた。 ただし、恋仲の件はあれから進展してない。でも、それでいいのではないかと思う。鶴丸に微笑みかけられるだけで、俺はひどい動悸に襲われるので。これで正式に恋仲になんてなった日には、正気でいられる気がしない。今の関係がいちばんだ。 なんて思っていたら。 「――なぁ、主」白い頬を酒精に染めた鶴丸が、とろりと溶けた眼差しをこちらに向けた。「俺たち、そろそろ恋仲にならないか?」 「――〜〜〜!!!?」 俺は思わず、酒にむせた。鶴丸が「大丈夫か?」と背中をさすってくれる。ひとしきり咳こんだ後に、俺はようやく身を起こした。 「……なんでいきなりそんなことを」 「ずっと考えていたことだ。俺は君に惹かれている。君がまだ俺を好いてくれているなら……ぜひ、もっと深い仲になりたい」 「ふ、ふ、ふ……深い仲って……」 「俺はまだ、人間が恋仲になってどう過ごすのか、完全には理解していないが……ともかく、君の特別になりたい」 「や……でも、何がきっかけで……?」 「さて、何だったかな」 鶴丸は首を傾げた。聞けば、彼は俺が審神者辞任を言い出す前から、俺に告白してくれようとしていたらしい。しかし、きっかけがつかめないまま、俺の辞任前夜が来る。覚悟を決めた鶴丸は、俺の部屋を訪れて精一杯、想いを告げた――つもりだったようだ。俺は気づかなかったけれど。 その後、俺が本丸に出戻って、ようやく落ち着いてきた頃に、鶴丸は山姥切からさっさと告白しろとせっつかれたそうだ。俺が苦労をかけたせいで、すっかりスレてしまった初期刀は鶴丸にこう訴えた。 『アンタ、さっさと恋仲になって、あのフワフワした主を繋ぎ留めておいてくれないか。でないと、いつまでも俺の負担が減らない』さらに、山姥切は、婉曲な表現では俺は気づかないから、想いははっきり伝えろと言ったらしい。 「俺の言っていることは伝わったか?」 「え? あ、えぇと……」 「もっとはっきり言う方がいいのか? きみと共寝したいと」 「ともね……」 「現世風に言うと……何だろうな。確かこの間、本で読んだんだが」しばらく首を捻っていた鶴丸は、はたと思いついた表情でポンと手を打った。「そうそう。思い出した。外つ国の言葉はどうも覚えにくいな。確か、共寝はせっ――」 俺は慌てて、鶴丸の口をふさいだ。頬が熱い。鼓動が激しく打っていて、死にそうだ。何てことを言うのか。何てことを――。恥ずかしくて死にそうな気分で鶴丸を見ると、彼はひどく優しい目を俺に向けていた。驚いて、俺は彼の口元から手を離す。 「その表情……きみは俺を好いていないわけじゃないんだな。俺の想いを受け入れてくれる余地はあるわけか」 早春の頃、ほしいと思った鶴丸の眼差しが、俺に向けられていた。だけど、いざ向けられてみると――彼の視線の破壊力に、俺は堪えられそうもない。 2016/01/24 |