審神者はふたりいる2









1.

 世話係になったという言葉どおり、鶯丸はたびたび俺の元を訪れた。蔵は寒いだろうと俺のための布団を持ち込み、出陣や遠征で不在にしていなければ食事を運んでくる。ばかりか、暇だと言っては急須と湯呑みを携えてきて、俺に茶を振る舞った。完全に茶飲み友達のノリである。
 俺は体調不良のため、鶯丸に抗う元気もなく、彼のいいようにさせるしかない。
 監禁三日目。俺は茶と茶菓子のよもぎ餅を運んできた鶯丸を見ながら、小さくため息を吐いた。
「なぁ、鶯丸。お前、こんな風に捕虜を持てなしていいのか?」
「持てなす?」鶯丸は首を傾げた。「俺はただ捕虜の世話をしているだけだが?」
「普通はな、捕虜とは茶飲み話をしたりしないんだ」
「では、普通、捕虜とは何の話をするんだ?」
「……尋問したり、とかだろうな」
「尋問なんかしても、お前は答えないだろう?  だったら、話すだけ時間の無駄じゃないか。主もお前を尋問しろと俺に命じなかったぞ」
 それはそうだろう、と俺は思った。師匠であった〈白銀〉は、昔の俺のことをよく知っている。審神者としての能力や霊力の質、それに性格まで。今更、その部分を俺に尋問する必要はないわけだ。
 それにしても、鶯丸というのはおかしな刀である。飄々として、何を考えているのかよく分からない。ただ、俺は〈鶯丸〉という太刀に、特別な縁があるように思う。
 そう。あのときも――。


***


 俺は恋というものを知らずに成長した。
 といっても、何か特別な事情があったわけではない。単純に、多くの人間が小学生か中学生で経験する初恋を、する機会がなかっただけだ。子どもの頃の俺は、性への興味は人並みにあったけれど、恋愛はピンと来なかった。友達との遊びや新作のマンガやゲーム、受験、それにクラブ活動。優先すべきことは多々あるのに、恋愛なんてわけの分からないことはしていられない、というのが当時の俺の心境だったように思う。
 そうやって、子どもの頃に初恋を済ませなかった俺は、長じても恋愛感情というものがあまり理解できなかった。恋愛を描いたマンガや小説を読んでみても、二人の登場人物がなぜ互いに好き合ったのかよく分からない。あまりに理解不能なため、十代後半から二十代始めの間、俺は真剣に疑っていたものだった。もしかして、この世の全員が俺をだますため、ありもしない『恋愛』という現象を実在するものだと言っているのではないだろうか、と。
 もしかすると一生、恋愛感情というものが理解できないのかもしれない。何となくそう考えていた矢先、俺は恋を知ることになった。二十代も半ばに差しかかるかという、遅い初恋である。
 大学を卒業して後、しばらく会社勤めをしていた俺は、会社の健康診断で審神者適性を見いだされた。歴史修正主義者と戦う刀剣男士――その彼らを率いる『審神者』という職務には、特別な適性が必要だとされる。すなわち、《モノの声なき声を聞き、励起させる力》が。
 俺の適性はごくわずかだった。だが、万人にある適性ではない。すぐに政府から審神者にならないかという誘いが送られてきた。
  審神者になることは、何も強制ではない。政府からの誘いを断ることも可能だ。ただ、世間の雰囲気から言えば、審神者適性が現れた者は、審神者になるべきだという風潮があった。俺も適性が現れたからには、審神者にならざるえないというところだった。
 当時の仕事がどうしても好きだというわけでなかったから、会社を辞めて審神者の養成所に入った。しばらくして卒業した俺は、実際の本丸へ研修に行かされることになった。というのも、審神者適性こそあるが、霊力や他のさまざまな能力の点で審神者として難しいと言われていたからだ。
 研修先は、神職の血を引く審神者〈白銀〉の本丸。そこで、俺は運命に出逢った。師となる〈白銀〉に惹かれたのだ。
 当時、〈白銀〉は俺と同年代の二十代始め。けれど、十代の半ばで審神者になったという彼は、異空間である本丸で何年も過ごしてきたせいで、時の流れの影響をさほど受けていなかった。十代後半といっても十分に通用するような線の細い外見。潔癖というのか、簡単に人には馴染まないようなどこか冷たい、雪のような雰囲気。〈白銀〉は明らかに人付き合いが苦手そうだった。けれど、俺が彼の受け入れた初めての見習いだったからだろうか。俺には丁寧に、親切に接してくれた。
 人馴れない想い人が、俺には多少、心を開いてくれる。たぶん、だから惹かれたのだろう。
 見習い期間が終わりに近づく頃、俺は〈白銀〉に告白しようと思った。もちろん、言ってどうなるものでもない。〈白銀〉には俺より審神者としての役目の方が重要だろうということは、分かっていた。想いを受け入れるはずがない。まして、俺も見習い期間を終えて正式な審神者になれば、本丸に掛かりきりで恋人どころではないだろう。それでも、初めて惚れた相手だから、せめて想いを告げておきたかった。


***


「――それで、想いを告げたのか?」
 鶯丸が尋ねた。茶を呑む手を止めて、真剣な面もちでこちらを見ている。
「おいおい。俺の恋愛は茶菓子じゃないんだぞ。なんでそこまで言わなきゃならないんだ」俺は渋い顔をしてみせた。
「いいじゃないか。そこまで話したんだ。どうせお前も顛末まで教えてくれるつもりだったんだろう? 早く続きを聞かせてくれ」
「――確かに、俺は〈白銀〉に好きだと言った。愛していると」
 そのときだった。庭から、微かに鶯丸を呼ぶ声が聞こえてきた。呼び声の内容から察するに、どうやら出陣の時刻が迫っているようだ。「ほら、お呼びだぞ。さっさと出陣してこい」と俺は鶯丸を促した。
「あぁ……。もう、そんな時間か。お前といると、時を忘れてしまうようだ。帰ったら続きを聞かせてくれ」
 鶯丸は自分の分の湯呑みを持って、腰を上げる。俺のそばにある湯呑みと水差しは、いつでも水分補給ができるように残していってくれるようだ。
「別に続きなんかないさ。フられておしまい、それだけだ」
「ダメだ。お前の口からその部分もちゃんと聞きたい。……お前の話を聞いていて、人間の恋愛というものに興味がわいたんだ」
「そんなにいいものじゃないさ」
 俺は呟いた。
 恋を知らない頃に読んだ小説は、恋愛を素晴らしいと、愛を美しいと書いていた。でも、実物はそんなシロモノじゃなかった。俺にとって恋愛は、強欲で、グロテスクで、卑怯で醜い。けれど、心を捕らえて離さない化け物。恋愛に比べたら、俺が呪力で顕現させた穢れた刀たちの方が何倍も、ひたむきで忠実でかわいらしい。
 鶯丸は何も知らない。だから、昔の俺と同じように、恋愛を興味深いと思えるのだろう。哀れむように、俺は鶯丸を見つめた。彼は深い金の瞳で、俺の視線を絡めとる。
「お前は〈白銀〉に出逢ったことを、『運命』と言っただろう?」
「言葉の綾さ」
 鶯丸の言葉に、俺は肩をすくめた。けれど、鶯丸は相変わらず、飲み込まれそうな深い目で俺を見ることを止めない。
「……人にしろ、刀にしろ――どんなモノにしろ、己が何を為すべきかを知らずにこの世から消えていくものは多い。善きにつけ、悪しきにつけ、『運命』に触れたお前は幸せだ」
 馬鹿な。それが元で、俺は歴史修正主義者に身を堕としたのに。……そう笑おうとしたけれど、鶯丸の深い眼差しに呑まれて失敗する。俺が何も言えないでいるうちに、彼は蔵から出ていった。


2.


 蔵の中は案外、快適だ。いや、厳密に言うと一般的な基準の快適性とはかなり違う。鶯丸が布団を持ち込んで、水や茶や食べものを運んできてくれるから、ましだということ。
 少なくとも、審神者が歴史修正主義者に捕まったらこんな好待遇はありえない。クスリや暗示で正気を奪って、穢れた刀たちの群れの中に放り込む。身と魂を穢された審神者はあっという間に呪力供給装置に早変わり、という寸法だ。まぁ、言ってみれば俺とさほど立場は変わらない。自らの意思で闇に堕ちるか、堕とされるかの違いだけで。
 ぼんやりと、俺は蔵の天井の梁を見上げた。縦横に伸びる梁を視線でたどる。〈白銀〉はいったい俺をどうしたいのだろう? ここに閉じこめただけで、こんなに温い扱いをするだけで、彼の恨みは晴れるのだろうか。
 ――いや、そんなはずはない。
 俺は内心、自分の考えを否定した。俺が〈白銀〉に残したものは、そんなに軽くはないはずだ。
 そんな風にして、俺は時間を過ごした。蔵の中では時間の感覚が曖昧だ。起きて、眠って、また起きて、眠って。短い睡眠を繰り返して、幾度目のことだろう。カタンと物音が聞こえた。蔵の高い位置にある窓からは、月の光が射し込んでいる。
 俺はそっと身を起こした。
「鶯丸?」
 蔵の中に入ってきたシルエットに、そう呼びかける。鶯丸と呼びかけたのは、姿が見えていたからではない。俺を尋ねて来るのは、この本丸では彼だけだろうと思っていたからだ。
 けれど、近づいてきたシルエットは鶯丸のそれとは違うようだった。そのことに気づいて、俺はハッと息を呑む。見れば、俺が鶯丸と思いこんでいたのは、山姥切国広のようだった。目深に被った布の下から、抜けるように蒼い瞳が俺を捉えていた。
「お前は〈白銀〉の」
「山姥切国広だ。大和国審神者〈白銀〉の近侍を務めている」
「ハッ……! 〈白銀〉の『二振目』の山姥切か。俺に何の用だ?」
 俺が尋ねると、山姥切は目を細めた。それから、布の間から手を差し出す。その手には、ステンレスの水筒とラップに包んだ握り飯を入れた藤の籠が握られていた。夕飯だということらしい。俺はそれを受け取った。
「鶯丸は?」もう一度、尋ねる。
「出陣で負傷した。今夜は手入れ部屋だ」
「ひと晩も? ……傷が深いのか?」
「重傷だ。予定外の場所で検非違使に遭遇したらしい。敵の槍から練度の低い刀を庇ったそうだ」
 そう言って、山姥切は俺に背を向けた。蔵を出ていこうとする彼に向かって、俺は声を掛ける。
「俺を殺さなくていいのか?」
 途端に山姥切はその場に立ち止まった。肩越しに俺を振りかえる彼に、微笑んでみせる。
「布の下で、お前の右手はずっと柄に掛かってた。本当は俺を殺すつもりで、俺に食事を運ぶ役目を引き受けたんじゃないのか? 俺を生かしたまま去っていいのか?」
「気づいていたのか」山姥切は身体の角度を変えた。見せつけるように、右手で本体の柄頭を握りしめているところをさらす。彼はゆっくりと柄から手を外した。「お前に危害を加えるつもりはない。……今のところは」
 山姥切はそう答えて蔵を出ていった。


***


 ――好きです。
 俺がそう告げたとき、〈白銀〉は呆然とした顔をしていた。もちろん、俺だって〈白銀〉が万にひとつも俺の告白を喜ぶだろうとは考えていなかった。だが、さすがに彼の顔が大きく嫌悪に歪んだのは予想外だった。
 二二〇五年現在、人工子宮の普及のために人口問題は解決した。結果、同性婚も認められて久しい。同性から好意を持たれたり、同性を好きになったりということも珍しくない環境だ。だから、俺が同性だからというだけで〈白銀〉がそこまで嫌悪感を露わにするとは思っていなかった。
 ところが、〈白銀〉は顔を歪めた次の瞬間、後じさって俺から距離を置いた。
「〈白銀〉さま、あの――」
 俺は思わず手を伸ばした。その手をパシッと鋭くはねのけて、〈白銀〉が俺をにらむ。
「触れるな、穢らわしい」
「申し訳ございません。俺はただ、気持ちを伝えたかっただけで、疚しい思いはありませんでした」
「僕を恋愛対象として見ていた、それだけでも穢らわしい。お前のような者は審神者にふさわしくない。政府にはお前は不適格だと伝えておく」
「そんな……俺はただ想いを口にしただけだ……!」
「『審神者』の本来の意味は、神と対話する者。現在では、その意が転じてモノの声なき声を聞き、そこに宿る心を励起こす役目の者を言う。いずれにせよ、人ならざる者と対峙するお役目だ」
「もちろん、承知しています。お役目を疎かにするつもりは、決してありません」
 俺は必死に言った。けれど、〈白銀〉は嫌悪感を露わにしたまま、首を横に振る。「お前は分かっていない。何ひとつ、分かっていない」〈白銀〉が言うには、人ならざる者と対峙するには代償が必要だという。神職は人ならざる者と接するために、身を清めて儀式を行う。そうして初めて、人間よりも強い力を持つ人外と向き合うことができるのだ、と。
 対して、霊力も少ない、世俗の中で生きてきた俺のような者が人ならざる者と対峙するには、ただ儀式にのっとるだけでは不十分だという。
「いいか。力のない者は、身を捧げるくらいの覚悟がなければ人ならざる者を降ろす力を持つことはできない。恋愛にうつつを抜かそうとするお前は、そもそも審神者に不適格なんだ」
「違う! うつつを抜かしていたわけじゃない。俺はただ、あなたのことが――」
「聞きたくない! 穢らわしい」ピシリと〈白銀〉は言った。取り付く島もない態度だった。「お前は現世でそうやって楽しく過ごしてきたのかもしれないが、ここは戦場だ。僕らは戦に関わっているんだ。お前の生き方に僕を巻き込むんじゃない」
 それは完璧な拒絶だった。これ以上ないくらいの。しかも、〈白銀〉は俺の恋情を拒んだばかりではなかった。どうやら、俺の見習い期間終了時に審神者不適格の評価をつけると決めたらしい。
 俺はあまりに衝撃を受けて、どうやってその場を去ったのか覚えていない。気がついたときには、与えられた客間で呆然としていた。俺はただ、想いを告げただけだ。ただそれだけで、審神者としての適性の有無まで決めつけられてしまうとは。こんな理不尽があっていいのか。
 夕餉の時間が近づいていたが、俺は〈白銀〉や刀剣男士たちの前に出る勇気がなかった。何もかもが怖くて、全部から逃げ出したくて。俺はひとり、こっそりと転移ゲートを使って本丸から逃げ出した。
 転移先に万屋地区を選んだのは、決心がつかなかったからだ。現世の政府に行って「もう見習いを終わりにして審神者になることも辞退したい」と告げる勇気が出なかった。だから、決断のときを先延ばしにするために、万屋地区へと飛んだのだった。
 夜の万屋地区は、通りを一本奥に入ると妖しい雰囲気が漂う。クラブや居酒屋などが集まっている。俺はそのうちの一件に入って、自棄酒を飲んだ。泥酔して正体を失えば、次に目が覚めたときには何事もなかった状態になっているのではないか――そう期待していたのかもしれない。
 やがて閉店時間がやってきて、店を放り出されて。行くあてもなくさまよう俺の袖を、誰かが引いた。それは老人のような、まだ若いような、年齢不明の男だった。審神者なのだろうか。着物を着ている。
「あんた、〈白銀〉本丸の見習いだろう?」
 男はそう言った。どうして俺のことを知っているのか、初対面なのに奇妙な話だ。しかし、そのとき泥酔していた俺は何も疑問を持たなかった。
「ずいぶんと飲んでいるな。あの本丸で嫌なことがあったのか?」
 そう問われて、俺は堰を切ったようにすべてを話した。すべてを聞いた男は、同情したような顔をして懐からお守り袋のような小袋を取り出した。ふわりと重みのある甘ったるい匂いが嗅覚に触れた。
「あんたにいいものをやろう。これがあれば、刀剣男士が味方になってくれる。刀剣男士さえ味方につけてしまえば、審神者ひとりではどうしようもないさ」
「……〈白銀〉は、俺を不適格と言わないだろうか……?」
「刀剣男士たちがあんたに味方すれば、審神者も考えを変えるだろうさ。あんたには、刀剣男士を率いるだけの力があると」
 さぁ、と男が小袋を差し出す。俺はそれを手に取った。



3.

 山姥切国広には、心配ごとがあった。主君にして恋仲たる審神者〈白銀〉のことだ。
 鶯丸が歴史修正主義者の男を連れ帰ってからというもの、主の様子がおかしい。主が捕虜を政府に渡さず、本丸に幽閉するという決断を下したことがまず、心配の種だ。しかも、主は時折、庭の片隅に立つ蔵をにらんでは恐ろしい顔をしている。山姥切がさらに懸念しているのは、〈白銀〉の中でしばしば憎悪らしき感情が渦巻いているのが感じられるせいだった。
 もちろん、主とて人間であるから、感情の起伏があってしかるべきである。けれども、最近、主の中に宿るのは普通の怒りや悲しみではない。何か昏(くら)い――端的に言うならば闇を引き寄せそうな感情の種子の気配が感じられるのだ。
 本来ならば、山姥切は〈白銀〉の初期刀として、近侍として、恋人として、主から闇の種子を取りのぞくよう、努力しなくてはならない。しかし、そうする気にはなれなかった。かつて、最初の本丸を奪われて逃げてきた〈白銀〉の怒りや悲しみを知っているのは、誰よりも山姥切だったからだ。
 現在の〈白銀〉は誰が見ても立派で、文句の付けどころのない審神者である。本丸の刀剣たちも、〈白銀〉を自慢の審神者だと考えている。だが、山姥切が初めて会ったときの主は、ひどく傷ついて疲れはてていた。正直、審神者としてやっていけるのかと山姥切が疑うほどに――。


 三年前、山姥切が現世に降ろされて最初に目にしたのは、審神者の泣き顔だった。少年のようなあどけなさを残した〈白銀〉は、がらんとした本丸の大広間に突っ立って、嗚咽していた。初期刀として渡された山姥切の寄代を握りしめて。
 人の姿に顕現したばかりの山姥切にとって、それはあまりに衝撃的な光景だった。驚きすぎて、あらかじめ用意していた口上も頭から吹っ飛んでしまったほどだ。ともかく、顕現した瞬間から動転した山姥切が名乗るよりも先にしたのは、審神者を慰めることだった。
『おい、あんた、なぜ泣いている? 大丈夫か? どこか痛いのか?』
 必死に問うが、審神者は泣くばかりで何も答えない。山姥切はいっそう慌てて、己が頭から被っている布の裾で審神者の涙を拭ってやった。彼としては精一杯慰めたつもりだったが、そうすると審神者はいっそう涙を流す。
『なぁ、あんたはどうやったら泣きやんでくれるんだ? あんたが悲しまないためなら、何だってする。俺があんたに害を為すモノを断つ、あんただけの護身刀になるから、泣きやんでくれないか……』
 懸命にそう言うと、審神者は幼子のように山姥切に抱きついてきた。初めて腕の中に受け止めた人間の身体は温かく、当然ながら鋼よりもずっと柔らかい。山姥切は不意に、審神者は『生きている』のだと思った。モノである刀剣とも、仮初めである人型とも違う。今、腕の中にいるのは、本物の生命なのだと。
 山姥切はおそるおそる、審神者の背に腕を回した。嗚咽に震えるその背中をおっかなびっくり、そろりと撫でる。そうするうちに、審神者は次第に泣きやんでいった。やがて、審神者が泣きはらした顔を上げる。山姥切は名を名乗った。
『名乗りが遅くなったが、俺は山姥切国広だ』
『知ってる』
『えっ……?』
『知ってるんだ。……前の本丸にも山姥切国広はいた。顕現可能な刀剣はすべてそろっていた』
『どういうことだ? もしそうだとしたら、なぜ、主はこの新しい本丸にいる? 前の本丸の刀剣男士はどうした?』
 尋ねると、主はしばらくの間の後に、最初の本丸を出てきたのだと告白した。最初の本丸と刀剣男士は、今では見習いだった男のものになっているだろう、と。本丸と刀剣の譲渡が決まったため、主は新たな本丸と初期刀をもらうことになったのだという。
 話を聞いた山姥切は猛烈な怒りを覚えた。刀剣男士が、己の忠誠を誓った審神者を放り出して新たな主君を迎えるなんて。そんなことがあっていいのだろうか。
『……その本丸はどこだ? 俺が行って、話をしてくる』
『だめだよ、山姥切。前の本丸の刀剣たちは悪くない。本当は見習いだって悪くないんだ。分かってる。分かってるんだ……いちばんひどいことをしたのは、きっと僕だ』
『何……?』
 目を見開く山姥切に、〈白銀〉はそっと自分の非を打ち明けた。その囁きを聞いて――山姥切は、それでもやはり、前の本丸の刀剣男士たちを恨みに思った。〈白銀〉の前にひざまずき、彼の右手を取る。下から真っ直ぐに主の顔を見上げた。ほとんど衝動的な行動だった。
『俺をずっと傍においてくれ。あんたのいちばんの刀にしてくれ。さっき言った誓いに嘘はない。何があっても、どんなことがあっても、俺はあんただけの刀でいると誓う』
〈白銀〉は目を丸くして山姥切を見つめていたが、やがて、顔を歪めるようにして泣き笑いの表情を作った。
『僕は臆病なんだ。一度つまずいてたから、もう、忠誠心だけですべてを信じることはできない』
『どうすればいい? どうすればあんたは俺を信じてくれる?』
 山姥切の問いに、〈白銀〉は目を伏せる。そうしながら、試すように尋ねた。美しい刀の付喪神。お前に神性を捨てる覚悟はあるか? モノとしての純粋さを、美しさをなげうって、人間の心が持つ混沌に沈む覚悟はあるか。
 ――お前に、僕と愛し合う覚悟はあるのか。


 感情というのは、心というのは厄介なものだと山姥切は思う。三年前、主は山姥切に人間と等しい心を持つ覚悟はあるのかと尋ねた。主の〈白銀〉を救いたい一心で山姥切は『ある』と答えた、けれど。
 おそらく、あのときの自分は何も分かっていなかった。
 刀剣男士は、現世で人の子に力を貸すために、仮初めの人の姿を取る。仮初めとはいえ、肉体は本物だ。体温があり、傷つけば血を流し、腹が減る。刀剣であった頃と違って、泣いたり笑ったり、怒ったりする感情もある。だから、三年前の顕現したばかりの山姥切は、主の要求など最初から叶っているも同然だと思いこんでいたのだ。
 けれど、そうではなかった。心があるというのは、ただ感情があるのとはまた違うのだ。主と恋仲になってからは、些細なことで喜んだり、舞い上がったりすることもあった。喧嘩をしたときなどは、別に体調が悪いわけでもないのに、なぜか戦闘でもうまく動けなかったりもした。それだけではない。大人げないと知りつつも、主に甘えてみせる童姿の短刀たちに嫉妬したりもした。
 心は、理屈ではなく浮き沈みするものなのだ。
 今も――。
 負傷した鶯丸の代わりに、山姥切は捕虜に食事を運んだ。これが初めて、山姥切がひとりで捕虜に対面した機会だった。捕虜のことは、〈白銀〉の態度や彼の話で知っていた。あの歴史修正主義者が、主〈白銀〉の前の本丸を引き継いだ男だと。山姥切は、〈白銀〉から前の本丸を奪った男〈柚葉〉に憤りを覚えていた。
 しかし、今日、〈柚葉〉本人を目の前にして感じたのは、単純な憤りだけではない。主を傷つけた男への憎悪だった。どうして〈白銀〉は〈柚葉〉を捕虜にして放置しているのだろう。政府へ引き渡せばいい――否、いっそのこと、殺してしまえばいいのに。
 もちろん、そんなことをすれば主も自分も心の穢れのため、闇に堕ちてしまうだろう。しかし、山姥切はそれでもいいとさえ思った。〈白銀〉が望むのなら、本霊へ還る道を捨てて、この本丸を捨ててでも、闇へ堕ちてもいいと。
 ――いや……こんな風に考えるなんて、俺はどうかしている。
 頭を振った山姥切は、手入れ部屋へ向かった。そこでは負傷した鶯丸の手入れが、もう終わるところだった。しとねに横たわった鶯丸の裸の肩から胸の辺りが、淡く輝いている。その部分の傷が修復されているのだ。
 間もなく、修復が終わった鶯丸はゆっくりと起きあがった。枕元に手を伸ばして、当番の者が持ってきていた彼の着物をまとう。この本丸には手入れ部屋当番というのがあって、掃除や手入時の負傷者の着替えの用意などを担当することになっているのだ。
 渋い鼠色の着物をまとって、鴬丸は山姥切を振り返った。
「山姥切、頼んでおいた捕虜への食事は持っていってくれたか?」
「ああ、間違いなく」
「ありがとう。〈柚葉〉の様子はどうだった? 体調はつらそうではなかったか?」
 しきりに捕虜の様子を知りたがる鶯丸に、山姥切は目を丸くした。彼がまさか捕虜に執着するとは思わなかったのだ。鶯丸の様子ときたら、捕虜に対するものというよりは、まるで飼い犬を気にかける飼い主ではないか――。
 山姥切の知る鶯丸という刀は飄々としていて、あまり人恋しくなる性質ではない印象だった。〈白銀〉はどういうわけか鶯丸を苦手として寄せ付けなかったが、それでも当の鶯丸は気にする風ではなかった。淡々と日々を過ごしていたものだ。
 けれど、もしかしたら、それは鶯丸の一面に過ぎなかったのかもしれない。そういえば彼は、しきりに親友の大包平の話をしていた。一度、懐に入れてしまった相手はとことん気にかける、情に厚い性格なのかもしれない。それにしても、自分が殺してしまいたいと思う相手を、こうまで気にかける仲間がいるというのは、何か妙な気分だ――。
 そんなことを考えながら、山姥切はぽつぽつと捕虜の様子を話した。
「……捕虜はさほど苦しげではなかった。お前が負傷したという話をしたら、気にする風だった……」
「そうか」
 頷いた鶯丸がやおら手入れ部屋を出ていこうとする。しかも、自室があるのとは反対の方向へ向かっているのを見て、山姥切はびっくりした。
「おい、今は夜だぞ? どこへ行く?」
「〈柚葉〉の様子を見に」
「は?」
「俺を心配していたのだろう? 顔を見せにいく」
「眠っているかもしれないぞ」
「〈柚葉〉は昼間が眠っていることが多いようだし、起きているかもしれない」それに、と鶯丸は目を細めた。わずかに微笑んだようだった。「俺が、顔を見たい」
「は? あいつは歴史修正主義者だ。お前が倒してきた敵と同じものなんだぞ……?」
 山姥切の言葉に、鶯丸はひたと金の瞳を向けてきた。平安の昔に生まれた、刀剣男士の中でもいちばん古い部類の刀剣の眼差し。そこには、山姥切には計り知れない年月の密度のようなものが感じられた。
「――それでも、〈柚葉〉は俺に関心を向けてくれる唯一の人間だ。その関心がどんな種類のものであれ」
 刀剣男士の本性は刀だ。刀は人に触れられ、振るわれてこそ真価を発揮する。どんな形であれ人間に必要とされることは、刀剣男士にとってはこの上なく重要なことだ。普通の刀剣男士は、審神者のために戦うことで、人間に必要とされたいという刀剣特有の欲求を満たす。しかし、審神者に疎まれた鶯丸にとってその欲求は長らく満たされないものだった。
 ところが、捕虜が現れて、鶯丸に世話されることになったとき、はじめて鶯丸は人間から必要とされる欲求を満たすことができたのだろう。山姥切はそのことに気づいて、愕然とした。
 鶯丸の中で、何かが目覚めようとしているのが感じられた。けれど、山姥切にはどうしようもない。感情も、心も、審神者〈白銀〉の近侍・山姥切国広にとってはいまだに手におえないシロモノなのだから。





4.

 かすかな気配を感じて、俺は目を開けた。とうとう〈白銀〉が俺を殺しに誰か差し向けたのだろうか。そんなことを考えながら、身を起こす。相変わらず、頭痛は弱いながらも続いていて、腹のあたりにも鈍い痛みがあった。これが、穢れを取り込みつづけた代償。いずれ代償によって死に至るのだから、今更、刺客が怖いはずもない。
 と、思ったが、俺に忍び寄ってきた相手の動きがどうもおかしい。刺客にしてはのんびりしている。よく目をこらすと、そこにいるのは鶯丸だった。普段と違って着流し姿だから、誰だか分からなかったのだ。
「……お前、負傷して手入れ部屋なんじゃ……」
 俺が言うと、窓から差し込む月明かりの中で立ち止まった鶯丸はひっそり笑った。
「もう手入れは終わった」
「重傷だって聞いた」
「確かに重傷だった。だが、手入れをすれば元通りになる。俺たちは刀だからな。……審神者だったなら、知っているだろう?」
 鶯丸は傍へ来て、俺の前にひざまづいた。忘れてしまったのなら、触れて確かめてみるか? そう言って、俺の手を取る。俺が答える暇もなく、鶯丸は俺の手を自身の着流しの合わせ目に突っ込んだ。掌が思いの外、温かくて柔らかい人肌に触れる。穏やかな鼓動が微かに伝わってきて、俺は思わず息を吐いた。
「……生きてる」
 俺の呟きを聞いた鶯丸が、ひっそりと笑う。
「俺は刀だ。本当に生きているわけじゃない」
「だけど……鼓動が」
「そうだな。確かに、この仮初めの身体はまるで本物の人間のようだ。温もりがあり、血を流す。腹も減る」
「俺は生きながらに死にかけているのに、刀のお前が生きているなんて、変な話……」
 和んで話すような相手でもないのに、何だかおかしくて俺は少し笑った。途端、ツキンと腹部に強い痛みが走る。思わず顔をしかめた。
「痛むのか?」鶯丸が尋ねる。
「そりゃあな……死にかけてるんだから、痛みくらいあるだろうさ」
「そうか」しばらく考え込んでから、鶯丸は口を開いた。「俺の気で、その痛みを和らげてられるかもしれない」
「いらない。死にかけてるのは、俺が自分で選択したことの結果だ。俺は自分のしてきたことから、逃げる気はない」
「もちろんだ。仮に穢れを祓うほどの気を注げば、すでに穢れと結びついているお前の魂は壊れてしまう。俺にできるのは、ただ、俺の気を少しだけ吹き込んで、お前の苦痛をごまかすことくらいだろう」
 いらない、となおも俺は言おうとした。けれど、それより早く鶯丸が俺の肩をつかんで、引き寄せる。唇が触れ合って、そこから微かな苦みのある爽やかな気がのどに滑り込んできた。
 途端、ふっと意識が遠くなる。
「……なんで、そこまで……」
「すまない。俺は……俺を必要としてくれる人間を、できるだけ救いたいようだ」
 許せ、と赦しなど必要なさそうな、穏やかな笑みで鶯丸が呟く。なんで、と俺は再び思った。なんで〈鶯丸〉という刀は、こうも俺に関わろうとするのだろう。

 あのときも。

 三年前、〈白銀〉に拒絶されて逃げ出した万屋地区で、呪具を掴まされた俺が本丸に戻ったとき。真夜中の本丸で俺を待っていたのは、鶯丸だった。お前、鳥目じゃないのか。そんな冗談を言った俺を彼は厳しい面持ちで見つめていたものだ。
『〈柚葉〉、それは何だ? お前が持っている、その道具は?』
 答えられない俺に、鶯丸はなぜか痛ましげな顔で目を伏せた。
『……そんなものを使うつもりなのか。そこまでお前は追いつめられているというのか。ならば、俺は――』
 その翌朝、鶯丸は〈白銀〉に俺の刀になりたいと告げた。







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