審神者はふたりいる3
1. 〈白銀〉にとって、審神者であることが自分の存在意義のすべてだ。とはいえ、〈白銀〉自身がそれを定めたわけではない。両親や一族が定めた存在意義を押しつけられて、審神者になるしかなかったのだ。 〈白銀〉は神職を輩出する一族に生まれた。親族の中には、すでに何人か審神者になった者もある。ただし〈白銀〉は彼らと比べて、霊力が少ない体質だった。本来ならば審神者になれるような人間ではない。にもかかわらず、〈白銀〉が審神者になったのは親族たちの意向だった。 二二〇五年現在、政府は審神者の選定水準をかなり落として、神職や陰陽師だけでなく民間人からも審神者を召集している。今ではむしろ、民間出身の審神者の方が多いと言える。だからこそ、〈白銀〉の血族は安定して審神者を輩出することができる血筋を誇りとしていた。にもかかわらず、〈白銀〉と近い世代の親族でパタリと審神者になる者が途切れた。いずれも霊力が引くかったり、病弱でとても審神者の任に耐えられる身体ではなかったり……。〈白銀〉の従兄に至っては自分の将来を他人に決められたくないと、身ひとつで外国に飛び出していってしまった。そんな中で、そこそこの霊力があり、健康な〈白銀〉は一族にとって『ちょうどいい』存在だった。 ちょうどいい。あの子を審神者として政府に差しだそう――。そんな風にして、〈白銀〉は時が来たら審神者になることが定められたのだ。 とはいえ、〈白銀〉の霊力はさほど高くない。一族の中で審神者になった者たちとは、遠く及ばない。本当のことを言えば、かろうじて刀剣男士を顕現して本丸を運営できるくらい。民間出身の審神者でも、〈白銀〉より高い霊力を持つ者はそこそこいるはずだ。 しかし、〈白銀〉がそんな風では審神者を輩出する血筋の面目が保てない。そこで〈白銀〉の一族は、〈白銀〉が審神者になると決まった高校生の時点で、俗世とのつながりを制限した。毎日、身を清め、食事は清められた料理のみ。異性と親しくなることも禁じられた。 そんな日々に〈白銀〉は反発を覚えた。けれど、あらがうことはなかった。優しかったわけではないし、何かを人質に取られていたわけでもない。ただ、反抗する気力がなかっただけだ。従兄のように身ひとつで家を飛び出すほどの覚悟も、審神者以外にどうしてもなりたいものもなかった。 だから、やがて時が来て、〈白銀〉は審神者になった。初期刀は蜂須賀虎徹。初の鍛刀は平野藤四郎。次に資材を多めに使った鍛刀でやってきたのは――鶯丸。しばらくは四人で本丸の仕事を回していた。たてつづけの顕現と鍛刀で、〈白銀〉の霊力が底をつきかけたせいだった。 あまりに早く恐れていた事態が起こって、〈白銀〉はパニックになった。ふがいない審神者だと刀剣たちに申し訳なくて、彼らに頭を下げた。そのとき、鶯丸が言ったのだ。 『仕事は休み休みやるものだ。そのくらいの方が俺には向いている。主がもう少し手を抜いてくれた方が、俺はありがたい』 蜂須賀は鶯丸の発言に、目を剥いた。平野も困り顔。それでも、〈白銀〉は嬉しかった。鶯丸に『のんびりすればいい』と言われて救われた思いだった。ずっと審神者になることに苦しめられてきたが、本丸でなら自由に呼吸ができる気がした。 そんな風に肩の力が抜けたのがよかったのだろうか。その後の〈白銀〉は霊力が尽きることなく、審神者として順調に戦績を上げつづけた。そうして、審神者になってから五年ほど経った頃。見習いを受け入れてほしいと、政府から要請が来た。何でも見習いとなる審神者は民間出身で、霊力がかなり低いらしい。かろうじて刀剣男士を顕現して、率いることができるかどうか――といったところなのだとか。 〈白銀〉とその見習いは、出身こそ神職の家と民間とと異なる。しかし、他の要素に共通点があった。審神者を続けていけるかどうかと言われながらも持ち直した〈白銀〉ならば、霊力の低いその見習いの気持ちをよく理解できるだろう。上手くすれば、少ない霊力でも本丸を管理していくコツのようなものを教えることができるかもしれない。政府はそう期待したようだった。 こうして、見習い審神者〈柚葉〉が〈白銀〉の本丸にやってきた。〈白銀〉は、自分と同じ問題に苦しむ〈柚葉〉に丁重に接して、審神者としての仕事を教え込んだ。〈柚葉〉とならば、見習い期間が終わった後も同じ苦労を抱える者同士として親しくできるのではないか――そんな希望を抱いて。 しかし、〈柚葉〉の一言がすべてをぶち壊しにした。 『――あなたが好きです』 そう告げた〈柚葉〉を、〈白銀〉は信じられない思いで見つめた。自分も〈柚葉〉も、審神者としては瀬戸際の位置に立っているのだ。もともと霊力が少なくて、努力しなければ本丸と刀剣男士を維持することもできない。身を清め、清浄な食べ物を食べ、恋をせず――そこまでしてようやく、霊力が保てるというのに。 〈柚葉〉は愛を告げることで、あっさりと〈白銀〉の努力を下らないと示してみせた。恋愛感情の前には、霊力を保努力なんか下らない、とでもいうように。 これまで犠牲にしてきたすべてを、〈柚葉〉にあっさり『つまらない』と言われた気がした。 夜更け、〈白銀〉の私室に山姥切が戻ってきた。二番目の本丸の運営を始めた直後から恋仲の彼は、基本的に〈白銀〉の部屋で寝起きしている。他の刀剣男士と同じように母屋に私室があるものの、そこはほとんど使用していなかった。 寝るための準備をしてた〈白銀〉は、山姥切を振り返って「おかえり、国広」と言った。しかし、彼はうつむいたまま。返事がない。様子がおかしいと感じた〈白銀〉は、立ち上がって山姥切の傍へ行った。顔をのぞきこむ。 「どうした?」 そう尋ねると、ようやく山姥切は顔を上げた。蒼天のような色の瞳には、暗い光が宿っている。彼は何か言いたげに口を開いたり、閉じたりした。けれど、結局、言葉を発さないままに首を横に振る。 「……いや、何でもない」 「何でもない、という顔には見えない」 「――鶯丸が捕虜を気に掛けている」 「それはそうだろう。僕が鶯丸に捕虜の世話を頼んだんだから」 ちがう、と山姥切は首を横に振った。 「そういうこととは違う。俺は刀だから、上手く言えないが……。鶯丸は捕虜と接触することで、心を育んでいるようだ」 「心を……?」 「ああ。鶯丸は出陣から戻った今日、捕虜に逢いたいと言った。また、捕虜に並ならぬ興味を抱いているようだ。……今夜、鶯丸はどうしても捕虜に逢いたいと言って、捕虜の元に向かった」 山姥切の報告に、〈白銀〉は目を丸くした。腹の底で、かつて抱いたことのある激情が顔を出す。三年前、〈白銀〉は鶯丸という刀に〈柚葉〉の元へ行きたいと言われた。そのときの屈辱感がよみがえってくる。〈白銀〉はキリリと唇を噛みしめた。 2. 重傷を負った日から、鶯丸はふたたび捕虜〈柚葉〉の元に通いはじめた。とはいえ、ふたりの関係が変化したわけではない。相変わらず茶飲み話などをしている。 話をしてみれば、〈柚葉〉は悪ぶった虚勢を張ってはいるものの、根はまともな男のようだった。少なくとも鶯丸はそう感じた。 何しろ己は平安の昔からこの世に存在してきているのである。そのほとんどの時間が人の姿でなく刀の身であったとはいえ、さまざまな人間を見てきた。価値のある刀を手に入れたがる、欲に駆られた人間のとんでもない行動も覚えがある。まあ、その辺りは三日月や鶴丸、源氏の重宝の兄弟辺りのしても同じだろうが。ともかく、そんな風にして人間の美しさも穢なさも目にしてきた鶯丸にとっては、〈柚葉〉の偽悪的な態度も幼子が意地悪をしている程度にしか受け取れないのだった。 ただ、気になることがあった。〈柚葉〉は〈白銀〉への恋情を拒まれ、本丸を乗っ取ろうと決意したことを打ち明けた。しかし、その先の乗っ取った本丸を捨てて、歴史修正主義者へと寝返った理由を話そうとはしないのだ。いったい、何があったのか。鶯丸がさりげなく促してみても、〈柚葉〉はその部分の過去を語ろうとはしなかった。だが、まぁ、いい――鶯丸はそう思う。己はそう性急な性格でもない。待つことは苦でも何でもなかった。 そんな風にして、鶯丸が重傷に陥ったあの日から一週間がすぎた。その日の夜、鶯丸は庭先で山姥切の姿を目にした。何か用があるのか、主から何か言われたのか、彼は〈柚葉〉のいる蔵に向かっているようだった。 ――どうしたのだろう? 鶯丸は不思議に思うと同時に、わけもなく胸さわぎを覚えた。山姥切の背を追って、自分も蔵へ向かう。気配を気取られぬように、十分な距離を置いて。よく見ていると、山姥切はまるで戦の奇襲を仕掛けるときのように、息を潜めているようだった。ピンと糸のように張りつめた緊張感が、背中から感じられる。 奇襲。そう、奇襲だ。不意に鶯丸は理解した。山姥切はこの本丸の中で、本物の奇襲を仕掛けようとしているのだ。そして、その相手は蔵の中にいる捕虜の〈柚葉〉でしかありえない。 〈柚葉〉を守らなくては。反射的に駆けだそうとした鶯丸は、あることに気づいて息を呑んだ。 普通、刀剣男士が清浄に保たれている本丸を血で穢そうとするとは考えにくい。刀剣男士も末席とはいえ、一種の神。他の神々と同じように清らかな場を好ましいと感じるからだ。だとすれば、山姥切の行動は主君たる〈白銀〉の望んだものではないだろうか。 山姥切が本当に〈白銀〉の命令によって捕虜を殺そうとしているのなら、鶯丸はどうすることもできない。〈柚葉〉を守ろうとすれば、それは主君の命に逆らう行為となってしまう。主君を裏切る行為は、“武士の魂”の化身であり、武士道の精神を強く持つ刀剣男士にとってもっとも恥ずべきことのひとつだった。 本当に本丸の乗っ取りということがあるとしたら、審神者を裏切った刀剣男士たちはひどい嘲笑を受けるだろう。“武士の魂”の化身たる誇りを忘れた、愚か者として。だから、己の矜持を踏みにじらぬためにも、刀剣男士たちは審神者に忠義を尽くす。 今、山姥切を止めようとすれば、審神者の命に反する可能性が高かった。そうなれば、鶯丸は背信者と言われかねない――。 鶯丸は〈柚葉〉を守りたい欲求と、主への忠義との板挟みになりながら、なおも山姥切の後をつけていく。蔵に入った山姥切は、部屋の片隅で眠る〈柚葉〉に近づいて刀を抜いた。 世に伝わる美しい刃が、蔵の細い窓から差し込む月明かりに輝く。あの刃が〈柚葉〉に突き立てられれば、彼の生命は終わる。温かな身体から温もりが失われ、唇は言葉を紡がなくなる。体調不良のせいか、いつも少し熱に潤んだような目も、永遠に開くことはない。 そうして、〈柚葉〉を失った鶯丸は普段の静かな生活に戻るのだ。審神者に疎まれながら、出陣や遠征、内番をこなす日々。 ――それでいいのか? 己の奥底から、声が聞こえた。 審神者への忠義を尽くして、すべてを失う。鶯丸だけに向けられる〈柚葉〉の目も、笑顔も、わずかに触れ合た肌の温もりもぜんぶ。それでいいのか? ドクンと己の内側で、鼓動が強く打つ。その瞬間、鶯丸は山姥切に飛びかかっていた。 「なっ……! 誰だ……!」 不意を突かれる形となった山姥切が叫ぶ。鶯丸は夢中で、彼から刀を奪おうとした。蔵の暗がりの中では、刀が使えず夜目も利かない太刀の鶯丸が圧倒的に不利だ。まともに戦うことはできない。できるとすれば、刀剣を奪うことくらいだ。 刀剣男士ながら刀も抜かないままに、鶯丸は必死に山姥切に組みついていった。この夜戦じみた状況で、唯一、太刀の鶯丸にとって有利なのは力だけだ。腕力で山姥切を押さえつけて、必死の思いで刀を奪った。 ふーふーふー。 荒い呼吸を繰り返しながら、山姥切がもがく。 「はなせ……! なぜ、俺の邪魔をする……!」 「駄目だ。本丸を血で穢すわけにはいかない。主はこのことを知っているのか?」 「主が殺人を承諾するはずないだろう!?」鶯丸の問いに山姥切が叫んだ。「……すべては俺の独断だ。この捕虜は主の害になる。だから、殺すつもりだった」 「〈白銀〉のために俺を殺そうとしたのか……」 ぽつりと声がする。見れば、起きあがった〈柚葉〉がこちらを見ていた。弱い月明かりを受けて、彼の表情が歪む。「殺せばいいのに」ぽつりと〈柚葉〉はそう言った。 「俺を、殺せばいい。そして、山姥切が闇に堕ちればいい。……そうしたら、〈白銀〉は俺と同じ。刀剣男士にとって害となる者になる。被害者であるはずのあいつが、加害者である俺と同じになるんだ……!」 狂ったように〈柚葉〉が嗤う。鶯丸はなぜか、それを嗚咽のようだと感じた。 しかし、山姥切は違った。〈柚葉〉の言葉を挑発と受け取ったのだろう。彼はものすごい力で鶯丸を押し退けた。刀も持たないまま、もはや形振り構わずに〈柚葉〉へ襲いかかろうとする。 「貴様のせいで、主がどれほど苦しんだか分かっているのかっ!?」山姥切は〈柚葉〉につかみかかって吠えた。「何の苦労もせずに主から本丸を奪って、貴様はそれでよかっただろう! 何の苦労もせずに得たものだから、捨てたところで何も感じなかっただろう! だが、主はどうなる……!? 貴様にすべてを奪われて傷ついた主は……!」 鶯丸は拳で山姥切を殴った。手加減なしの拳の威力に、人型は青年の線の細さを残す山姥切は、吹っ飛んだ。ガタンと派手な音を立てて、そこに積まれていた箱の中に突っ込む。 うぅ……と小さくうめきながら、山姥切は起きあがった。鶯丸はその彼の元へ歩いていく。倒れたまま、山姥切はキツい目で鶯丸をにらんだ。 「捕虜を庇って俺を倒すつもりか、鶯丸? 本丸内での同士討ちは禁じられている。それを破ればお前もただでは済まないぞ?」 「構わない。俺は〈柚葉〉を害そうとするお前を見過ごすことはできない。……だが、戦うならば外へ出ろ。刀剣男士らしく、刀で立ち合いと行こうじゃないか」 「……上等」 山姥切は低く答えて立ち上がった。殴られた衝撃が残っているのか、わずかにふらつきながらも蔵の出口に向かう。途中、鶯丸が奪って投げすてた本体を拾い上げるのも忘れない。鶯丸は彼の後に続いて蔵から出た。 月明かりの下、対峙した山姥切は手負いの獣のような有様だった。普段の刀剣男士としての端然とした構えは、見る影もない。戦う意思のみが先走った様子で、やや崩れた構えをしている。 鶯丸も刀を鞘から抜いた。 そのとき。蔵の入り口にゆらりと〈柚葉〉が現れた。青白い顔で、彼は山姥切と鶯丸を見つめている。今なら隙もあるはずだが、逃げだす素振りはなかった。 鶯丸は〈柚葉〉から山姥切へ、視線を戻す。先に仕掛けたのは山姥切だった。ためらいもなく地を蹴って、鶯丸に向かってくる。速い。打刀の中でもっとも軌道性に優れるのは長谷部だが、刀装次第では山姥切も高速の槍に先制するという。本丸でもっとも高練度の初期刀は伊達ではない。 チッと舌打ちしながら、鶯丸はわずかに後ずさった。のけぞりながらも自分の刀身で山姥切の一撃を受け止める。山姥切は、即座に背後に飛びのいた。太刀と力比べをするのは不利と判断して、手数で勝負することにしたのだろう。細かく鋭い剣撃がいくつも飛んでくる。 防ぎきれない。 これが日中ならば、鶯丸は相手の剣筋を読んで対応することができただろう。ところが、今は夜。夜目が利かない上に夜戦を不得意とする刀種では、手も足も出ない。だが、引くわけにはいかない。 鶯丸は歯を食いしばって、山姥切めがけて突きを繰り出した。まともに急所の首を狙った刃は、しかし、読まれていたらしくかわされてしまう。直後、山姥切の刀が一閃した。 あっと思ってとびのきかけるが、間に合わない。刃が浅く鶯丸の胸元を斬りさいていく。鶯丸は刃を避けた拍子に、地面に尻餅をついた。手合わせならば、ここで終わり。だが、真剣勝負がここで止まるはずがない。山姥切が刃を高く振りあげる。そのときだった。目の前がふわっと影に覆われる。何かがどしっと体当たりするように覆いかぶさってきて、鶯丸はとっさにそれを抱き止めた。 驚いたことに、鶯丸に覆いかぶさっているのは、〈柚葉〉だった。 「離れろ」鶯丸は短く言う。 「嫌だ」と〈柚葉〉は答えた。呆然としたその顔には、自分がなぜ鶯丸を庇っているのか分からないと書いてある。 「なぜ俺を庇う? 離れろ」 「分からない……。でも、お前は生きている。……そう教えてくれたのは、お前自身だろ?」 答える〈柚葉〉の向こう、山姥切が刃を振りおろそうとしているのが見えた。「主に仇為す者は殺す」低く殺気のこもった声が響く。山姥切を止めなくては――そう思ったときだ。 「国広っ……!」 〈白銀〉の声が響きわたった。 いつしか縁側に出てきていた〈白銀〉が飛び降りる。彼は矢のように山姥切に駆け寄った。そのまま、体当たりするかのように山姥切に抱きつく。「やめろ、国広……。やめてくれ」山姥切をきつく腕に抱きしてめて、肩口に顔を押しつけるようにしながら、〈白銀〉は懇願した。 その切実な声に、山姥切の手が次第に力を失う。カランと乾いた音を立てて、彼の本体が地面に落ちた。〈柚葉〉の肩越しに、鶯丸は主の裸足の足が泥に汚れているのを見て取った。意外だった。〈白銀〉はそんな風に誰かのために汚れることを、よしとしない気がしていたのだ。 見れば〈柚葉〉も鶯丸を庇う体勢のまま振り返って、山姥切と〈白銀〉を見ていた。さっき蔵の中で〈白銀〉を嘲笑してみた癖に、二人へ向けられた〈柚葉〉の眼差しはやけに寂しそうだ。鶯丸は〈柚葉〉の表情に、胸がわずかに焦げるような感覚を覚えた。それは今まで経験のない感じだった。 ――もしかして、〈柚葉〉はいまだ主に情を残しているのだろうか……? 常識的に考えれば、そんなことあるはずはなかった。〈柚葉〉と主〈白銀〉は、本丸を乗っ取りの加害者と被害者なのだ。二人の間には憎悪こそあれ、恋や愛が残っているとは思えない。 だが、だとしたらどうして〈柚葉〉はこんな顔をする? 〈白銀〉は魂を穢すと知りながら、なおも〈柚葉〉にこだわりつづける? 山姥切もそうだ。人を殺せば穢れのせいで闇に堕ちると知りながら、主のために〈柚葉〉を殺そうとしている。理屈に合わないことばかり。彼らをつき動かしているものは何だ? 今、己の胸を焦がしているものは何だ? ――俺は今、何を見ている? ――何と対峙している? 不意に鶯丸は怖いと思った。己が今、かいま見た感情というものの大きなうねり。〈白銀〉や〈柚葉〉が当然のように持っているもの。山姥切も、恐れずに身を委ねているらしいそれが、どうしようもなく怖い。ただの刀であった頃には、持ちえなかった感情。それに呑み込まれ、押し流されそうになっている己を自覚した。 3. 山姥切をなだめて、〈柚葉〉を蔵に戻して。〈白銀〉がようやく自室に戻ったのは、かなり夜もふけた時刻のことだった。その場にいた鶯丸は、何か呆然とした様子で自室に戻っていったし、山姥切はシュンとして〈白銀〉の居室に帰ってきた。しおらしい山姥切の有様は、雨上がりの湿ったてるてる坊主みたいだ。 「騒ぎを起こしてすまない、主……」 そう呟く山姥切に、〈白銀〉は苦笑してみせた。 「山姥切のことだ。騒ぎを起こしたことを謝ったけど、本当は自分のしたことを間違いと思っていないんだろう?」 「あぁ……。そうだ。顕現してすぐに、俺は主のためなら何でもすると誓った。たとえ闇に堕ちることになるとしても、主のためなら俺は喜んでそうしよう」 山姥切は蒼天に似た色の瞳で、まっすぐに〈白銀〉を見つめた。普段は布で顔を隠すこともある癖に、いざとなると危ういほど真っ直ぐな視線を向けてくる恋人。彼のことを、〈白銀〉はひどく好ましく思っていた。だからこそ、嘘をつけなくなる。 「……僕にそんな価値はないのに」 「俺にとって、主はその価値のある相手だ」 「本当に、僕はお前にそんな風に想ってもらえるような人間じゃないんだ――」 〈白銀〉はそう呟いた。なおも納得しないという表情の山姥切から視線をそらして、閉じていた胸を開くようにそっと自分の罪を打ち明けはじめた。 『あなたが好きです』 三年前、見習い審神者の〈柚葉〉にそう告白されたとき、〈白銀〉が真っ先に感じたのは嬉しさでなければ、嫌悪感や戸惑いでもなかった。いちばん最初に感じたのは、激しい嫉妬だった。 審神者になるため、審神者としてギリギリの力を保つため、〈白銀〉は普通の子がすることの多くを奪われてきた。恋愛もそのひとつだ。それゆえ、ごく自然に恋をしてみせた〈柚葉〉に苛立ちと嫉妬を覚えた。 同時に、恐ろしくもあった。 恋愛は俗世に属する事柄だ。ヒトと恋をして交われば、気が乱れてただでさえギリギリの審神者としての力が失われかねない。そのため、〈白銀〉の意識の中には恋愛とは己の力を脅かすものという図式ができあがっていた。ところが、〈柚葉〉はそこに踏み込んできたのである。 告白された瞬間、〈白銀〉には〈柚葉〉が己を審神者から引きずり落とそうとする亡者のように思えた。怖かった。審神者になるように育てられてきたのに、審神者でなくなったら、己はいったいどうなるのだろう? 何のために生きていけばいいのだろう? ――審神者でなくなったら、本丸を失ってしまう。 力が底をつきたとき、『のんびりすればいい』と笑ってくれた鶯丸。彼とも別れることになる。彼のおかげで、ようやくこの本丸で息ができると感じられたのに。 恐怖の分だけ、〈白銀〉は強く〈柚葉〉を拒絶した。審神者失格だと責めれば、〈柚葉〉はひどく傷ついた顔をした。翌日、彼は姿を消したけれど、〈白銀〉は申し訳なく思うよりもひどく安堵していた。自分を脅かそうとした者が目の前から消える――こんなに嬉しいことがあるだろうか。 だから、〈柚葉〉が本丸に戻ったと鶯丸が告げたとき、どれほど驚いたことか。 『主……。戻ってきた〈柚葉〉は呪具を持っていた』 『呪具? 何の?』 『〈柚葉〉が何と言われてそれを渡されたのかは、分からない。だか、その呪具には〈柚葉〉の魂を穢し、絡めとる呪いが掛けられているようだ』 『そうか。〈柚葉〉が……』 〈白銀〉は苛立ちを覚えた。本丸に穢れを持ち込むとは、本当に〈柚葉〉は愚かな男だと思う。やはり、審神者不適格という自分の判断は間違いではない――。 けれど、鶯丸の意見は違うようだった。 『主。俺は戻ってきた〈柚葉〉から話を聞いた。確かに彼は不適格なのかもしれない。だが、まだ本丸も持たない見習いの時点でそれを決めるのはかわいそうだ』 『何を言うんだ。僕らは戦争をしているんだぞ? 能力の満たない者が戦線に立つことが、どれだけ他に迷惑を掛けるか。お前だって戦う者なら、それは分かっているだろう?』 『ああ、もちろん。だが、それでも〈柚葉〉を切り捨てるのには反対だ。……違うな。これは俺の武人としての合理的な判断ではない。ただ俺の心情として、最後の最後まで何かを切り捨てたくはないだけなんだ』 鶯丸は目を伏せた。武人らしい骨張った手を持ち上げて顔の右側を覆う。痛みの在処を確かめるような仕草だった。 『かつて、俺……鶯丸という刀は“ふくれ”のために、刀剣としての価値を失いかけたことがある。それでも、そんな俺を小笠原家は見捨てずに保管しつづけたし、献上の前には修復してくれた』 あのとき、人間が鶯丸という刀を早々に諦めていたら、刀剣男士・鶯丸は今頃、存在しなかっただろう。そんな奇跡を受けて、鶯丸は残ってきた。同じように、自分も誰かのことを最後まで諦めたくはない。――鶯丸はそう語った。 〈白銀〉はとっさに言葉が出なかった。息も詰まるほどの嫉妬と苛立ちが、胸の中で渦巻いていたのだ。と、同時に〈白銀〉は悟った。 自分はきっと、鶯丸のことを好いていた。のんびりやればいいと慰めてくれたあのときから、無意識のうちに恋をしていたのだ。しかし、その気持ちを押し殺してきた。恋愛は審神者としての〈白銀〉を脅かすものであったから。ずっと想いを告げずにいたのに、〈柚葉〉はあっさりと自分に好きだと言ってみせた。だから、〈柚葉〉が許せなかったのだろう。 同時に、〈柚葉〉を案じるようなことを言う鶯丸にも腹が立った。僕がお前の主だ。しかも、僕がずっとお前のことを好いてきたのに――。 しかし、そんな〈柚葉〉の気持ちとは裏腹に、鶯丸はさらに言った。 『未熟な〈柚葉〉を審神者にすることの危険性は、よく分かる。戦の最中に戦力を落とすことになるという主の心配も。……だから、俺が〈柚葉〉について行こう』 『え……?』 『〈柚葉〉が審神者として十分戦えるように。もし、審神者を続けていられないなら、引導を渡せるように。俺がついて行きたい。……どうか、許してはくれないだろうか?』 鶯丸の言葉に、〈白銀〉は足下が崩れ落ちていく気がした。お前は僕が顕現した、僕の刀だ。僕のものだ。心がそう絶叫している。その一方で、〈白銀〉は理解していた。鶯丸を手放したくないと思うのは、自分が彼に恋心を抱いているからだ。審神者としてのプライドにかけて、〈白銀〉は私情で刀剣男士を自分のものだと主張するわけにはいかなかった。 だから、こう言った。 『ならば、鶯丸のみならず、他の刀剣男士もすべて〈柚葉〉にくれてやる』 『主……? 俺はそこまでは言っていないが……』 鶯丸が困惑したように眉をひそめる。その彼に向かって、〈白銀〉はきっぱりと言った。 『この本丸を丸ごと、〈柚葉〉にくれてやる。主である僕よりも〈柚葉〉につきたいという刀剣男士なんか、信用できない。彼がどうしても審神者になるというなら、今の僕のすべてをくれてやる……!』 言うが早いか、〈白銀〉はその場を立ち上がった。ほとんど衝動的に、正門のゲートへ走っていく。途中、出遭った五虎退や蜂須賀たちが声をかけてきたが、〈白銀〉は聞かなかった。 身ひとつで真っ直ぐにゲートへ飛び込んで、現世の政府施設へ。その日のうちに、本丸譲渡の手続きは速やかに完了した。そして、〈白銀〉は新たな本丸へ向かうことになる――。 語りおえた〈白銀〉は、自嘲の笑みと共に山姥切を見つめた。 「正確に言えば、前の本丸は乗っ取られたんじゃない。僕が本丸を捨てて、逃げたんだ。そうして、次の本丸を得るとき、僕はぜったいに僕を裏切らない者がほしいと思った」 「ぜったい、主を裏切らない者……?」 目を見開く山姥切に〈白銀〉は罪悪感を覚える。けれど、ここまで話してしまった今、もう隠しておくことはできないだろう。そう腹を括る。 「忠義だけでなく、愛情で縛ってしまえば、少なくともひと振の刀剣男士は永遠に僕の味方だ。そう思って、お前に恋人になれと迫った。……本当は、僕は守ってもらう価値もない」 真っ直ぐな性格の山姥切は、きっと自分を許さないだろう。〈白銀〉はそう思った。すべてを打ち明けて、罵倒される瞬間を待った。 山姥切が立ち上がって、〈白銀〉の傍へ来る。殴られるのではないか、と〈白銀〉は犯射的に身をすくめた。しかし、そうではなかった。ふわりと白い布がはためいて、山姥切が座っている〈白銀〉の前に膝をつく。目の高さを合わせて、山姥切は真っ直ぐに〈白銀〉の瞳をのぞき込んできた。 「すまないが、主」 「ん……?」 「俺はそんなこと、どうでもいいんだ」 「国広……?」 「顕現した瞬間に、主を見て『このひとを守らなくては』と感じた。俺が主を守る理由は、本当にそれだけなんだ。恋人にと俺を選んでくれたのは、無上の喜びだが……そうでなくとも、俺は主だけを守っただろう。誰が何と言おうと」 目を見開く〈白銀〉に、山姥切がまじめな顔を崩してへにゃりと笑う。泣き笑いの表情で「わけのわからないものだな。この、感情というのは」と彼は囁いた。〈白銀〉は何も言えないまま、ただしがみつくように目の前の恋人を抱きしめた。 4. 翌日、鶯丸は〈柚葉〉の元を訪れた。〈柚葉〉の態度は昨日までと変わらない。しかし、身体の具合は以前にも増して悪そうだった。死期が迫っているのかもしれない。 鶯丸は何気ないやりとりをしながら〈柚葉〉を観察する。昨夜、山姥切は彼を殺そうとした。だが、もし山姥切が手出ししなくても、〈柚葉〉が死ぬときが来るとしたら。自然に鼓動が止まって、体温が失われて、彼の魂が肉体から離れるとしたら。 〈柚葉〉の魂は穢れが染み着いて、歪んでしまっている。普通の人間のように、彼が黄泉で過ごした末に輪廻するとは思えない。おそらく、黄泉路を下る前に魂の穢れのせいで化け物と化すか、穢れが黄泉路に耐えきれず魂が砕けるか。そのいずれかだろう。 鶯丸が守ることもできないまま〈柚葉〉が死に、魂さえも追いかけていけないとしたら。そこまで考えて、鶯丸は怖くなった。このまま時が過ぎれば、己はどうしても手に入れたいものを手にできないまま、永遠に失うことになってしまう。それでいいのだろうか? もちろん、〈柚葉〉を手に入れるということは、本人の承諾なしにはできない。仮に〈柚葉〉が同意したとしても、鶯丸がひどく魂の穢れた彼と結びつけば主君である〈白銀〉にまで影響が出るだろう。〈柚葉〉を望むのならば、〈白銀〉と主従の縁を断たなくてはならない。 それは、刀剣男士にとってもっとも恥ずべきとも言える背信行為だ。背信は鶯丸の名誉をひどく傷つける。本霊もまた、主君を裏切った分霊が還ことを赦しはしないだろう。 失うものが多すぎる。 「……る……。鶯丸」 〈柚葉〉の声で、鶯丸は我に返った。布団から上半身を起こした彼は、青白い顔色をしている。時折、顔がひきつるのは、痛みの波が襲ってくるせいのようだった。 「どうした、〈柚葉〉? 痛むのか?」 「違う……。お前、もう、帰れ……。それで、ここには来るな」 「なぜだ。俺はお前の世話を任された」 「頼むから……もう、来るな。俺はもうじき死ぬ……。何なら、それより先に餓死したっていい……」 「何を」 「……もうすぐ死ぬから、きっと、俺は心が弱くなってる……。お前といると、ときどき、すがりつきたくなるんだ。俺にはそんなこと、許されないのに。……もう、ひとりにしてくれ。ひとりで死なせてくれないか……」 うわごとのように、〈柚葉〉が言いつのる。その言葉を聞いたとき、鶯丸は思った。滅びの直前の刹那であってもいい、この魂を手に入れたい――それは理屈を超えた衝動だった。けれど、その衝動のために、すべてを捨ててもいいと感じる。 鶯丸は〈柚葉〉の左手を取った。ぼんやりした瞳を、真っ直ぐに見つめる。 「ならば、俺は正反対のことを言おう」 「……え……?」 「お前に、俺の妻になってほしい」 「何をばかなことを……」 「俺は本気だ。……むろん、俺の妻になったとしても、お前の魂の穢れは消えない。死期も変わらない。俺にはお前が滅びるのを、見ていることしかできない、それでも」 ――お前の最期の刹那のときを、俺に与えてはくれないか。 |