審神者はふたりいる4







1.

 ――俺の妻になってほしい。
 そう言った鶯丸が信じられなくて、俺は呆然と彼の顔を見つめた。だって、そうだろう? 俺は彼の審神者じゃない。赤の他人どころか、彼の主君の本丸を乗っ取った末に捨てた男だ。主の恨みを晴らすために殺すと言われるならまだしも、妻にと願われるなんて尋常じゃない。
「……本当に俺を妻にと望むのか……?」
 俺の問いに、鶯丸はしっかりと頷いた。どうやら冗談ではないらしい。俺は信じられなかった。もうじき最期というときに、他に相手もあろうに、よりにもよって鶯丸に求婚されるなんて。つくづく俺は古備前の鶯丸という太刀と因縁で結ばれているようだ。


 三年前。〈白銀〉の本丸が自分のものになってからというもの、俺はしばらく信じられなかった。こんなに簡単に本丸を奪ってしまえるとは。しかも、審神者が変わっても、刀剣男士たちの様子には変わったところがなかった。もしかしたら、俺には見せないようにしていたのかもしれない。だが、とにかく彼らは普段どおりだった。
 俺はしばらくの間、審神者としての仕事をした。見習いの頃にも教わったが、審神者の業務はとにかく同じことの繰り返しだ。敵と戦うのは刀剣男士の仕事。審神者はひたすら政府に提出する書類を作りつづける。
 刀剣男士たちを出陣や遠征に送り出して、本丸でひとり書類仕事をしていると、ときどき自分の内側で小さな声が聞こえることがあった。
 ――コレデイイノカ?
 惚れた相手からすべてを奪って、奪い取った環境になじもうとしている。あのとき、〈白銀〉につけた傷も、自分が受けた痛みも、日常に飲み込まれてなかったことになりはじめている。不意にそのことが怖くなるときがあった。刀剣たちと畑で作業をしているとき、共に食事をしているとき、笑い合うとき。俺の半分は薄いガラスを隔てた世界にいて、「こんなのは嘘だ」と吐き捨てた。
 この本丸は俺が得たものじゃない。刀剣男士を顕現したのだって、俺じゃない。いつか誰かがやってきて、俺のしたことを非難して、ぜんぶ壊していくのではないか。
 俺の恐怖は、次第に俺を絡めとっていった。
 そんなあるときのことだ。縁側を通りかかったとき、そこで茶を飲んでいた鶯丸が俺を呼び止めた。
 普通の審神者は皆、五振のうちひと振を初期刀として選んでいる。けれども、俺は普通の手続きを経た審神者ではない。〈白銀〉の本丸を譲り受けた形になっている。このため、普通の審神者と同じ意味での初期刀は持っていない。公式文書の上では、俺の初期刀とされているのは鶯丸だ。彼自身も、それなりに初期刀としての役目を意識している部分があるようだった。
「……主、もういいのではないか?」
 ぽつりと鶯丸は言った。最初、俺は彼が何を言っているのか理解できなかった。
「もういいって、何が?」
「主はずっと、この本丸の審神者になったことに良心の呵責を感じているように思う。俺たちの間で過ごすときも、常に自分がここにいていいのかと問いつづけているかのように……」
「気のせいだ」
 鶯丸の言葉は、真実を突いていた。けれど、努めて何気ない風に答える。
「俺の取り越し苦労ならばいい。……とにかく、数奇な運命だが、主はこの本丸の審神者となった。そして、霊力が少ないながらもよくやっている。そろそろ、心を開いて俺たちの主君となってもいい頃だ」
「心を、開いて……」
 俺は鶯丸の金の瞳を見つめた。何のためらいも恐れもなく、鶯丸たちと過ごす自分を想像してみる。
 無理だと思った。
 心底、傷ついた顔をして、ここを去っていった〈白銀〉――俺の恋した彼を思い出す。俺の初恋が、ただの失恋として終わっていたならば、今頃は忘れようとできただろう。けれど、〈白銀〉への恋は奇妙にねじ曲がって、俺と彼のふたりに深手を負わせる結果となった。俺は今も〈白銀〉と、心に負った傷でつながっているのだろう。だから、〈白銀〉を過去にすることはできない。
 初恋が過去のものにできないから、俺は自分の罪から逃げられない。――そう、俺が幸せになるわけにはいかないのだ。
「……できない」俺は掠れた声で言った。
「だが、過去は過去として、現在を受け入れなくては。過去にとらわれて留まることは簡単だ。だが、それは自己満足に過ぎない。難しいからこそ、現在を生きなくて」
 鶯丸が言った。何かを思い出すように伏せられた瞳が、庭へ向けられる。もしかすると、彼も前の主〈白銀〉のことを考えているのかもしれない。過去に罪悪感を覚えているのは、きっと俺だけではないのだろう。
 そう。過去の痛みは俺だけじゃない。分かっている。分かっているけれど――俺の心は『前へ進みたくない』と叫んでいる。ほしいのは、忠告でも常識的な言葉でもなかった。俺は亡霊のような初恋を手放すことができない。あるのはその事実だけ。だから、俺は鶯丸の言葉に耳を閉ざした。
 自分の内側の声だけを聴くことを選んだ。
 夜半、ひとりで本丸を出て、万屋地区へ。
 万屋地区には江戸時代の吉原を再現した歓楽街がある。とはいえ、本当の花街もあるにはあるが、簡単には行けない。申請制だ。万屋地区の歓楽街は、誰でも雰囲気を楽しめるようにと造られているだけの安全な場所である。
 安全に楽しもうとするならば。しかし、危険に足を踏み入れようとすれば、できないことはない。
 久しぶりに酒を飲みに行くのだと言えば、刀剣男士たちは誰も疑わなかった。鶯丸でさえ、気晴らしをしてこいと送り出してくれる。万屋地区へ飛んだ俺は、朱塗りの格子(ただし、中に遊女がいるわけではない)の並ぶ表通りから、裏通りへ入った。
 以前、刀剣男士を味方につけられるという呪具をもらったのは、どこのどの辺りだったか。細い路地をたどって、奥へ、奥へ。いつまで経っても道は尽きない。歩くうちに、俺は自分が江戸の遊郭風の町並みを再現した迷路に閉じこめられたような気がしてきた。
 実際、そうなのかもしれない。万屋地区もまた、本丸サーバーネットワーク上に築かれた異空間だ。構造は違えども、一種の大きな本丸のようなもの。現世の普通の場所とは違う。どこかで現世の物理法則がねじ曲がっていても、おかしくはない気がする。
 そんなことを考えていたときだった。路地の暗がりの中から伸びてきた腕が、ガシッと俺の手を掴んで闇へと引き込んだ。闇の中にいたのは、フードを目深に被った男だった。見覚えがあるような、ないような。ただ、普通の人間とはどこか違う――敵の刀から感じるのに似た気配を発しているのが分かる。
『あんたは……』
『お前からは、同じニオイを感じる。落ちそうな魂を……』
『言ってる意味が分からない。――昔、俺はここで呪具をもらったんだ。その呪具をくれた奴に会いたい』
『俺が用件を聞こう』
 そこで、俺は男に言った。本丸から逃げ出したいのだと。
 もちろん、逃げたいのなら審神者を辞めればいい。けれど、そういうことではなかった。俺を取り巻いて、『こちら側』に踏みとどまらせようとするものを振り切って、自分自身をも捨てて。誰も俺を救おうとは思わない場所へ行ってしまいたい。そういう衝動を言葉にしたら、『本丸から逃げ出したい』と言うことしかできなかった。
 しかし、それでも男は分かったと頷いた。闇を望むというのなら、その闇を与えようと。男は俺を歴史修正主義者たちのアジトへと連れていった。その夜、俺は自らの決意を示すために、歴史修正主義者たちの前で穢れた刀に身を与えた。

 初めて胎に受け止めた穢れた刀たちの精は、ジリリと俺の身を灼いた。


***


 ――どうだ? 俺は最低だろ?
 引き継いだ本丸を捨てた経緯を打ち明けて、そう自嘲の笑みを浮かべる。同意を求めた俺に、しかし、鶯丸は首を傾げてみせた。
 考えていたのと反応が違う。俺は途方に暮れてしまった。何をどう盛大に間違えたのか、鶯丸は俺に妻問いをしてきた。それを考え直させようと過去の話をしたのに、この打っても響かない反応ぶりは何だ。
 もはや何をどうしたら、自身の愚かな考えに気づいてくれるのだろう。俺はため息を吐きながら尋ねた。
「――っていうかさ、本当に俺に妻問いとか、考え直した方がいいぞ」
「俺にはなぜ、お前が考え直した方がいいと思うのかが分からないが」
 鶯丸は至極、優雅に茶をすすった。そういえば、埃だらけの蔵の中でもくつろいで、それでいて上品にお茶をしてみせるこいつも変な奴だと改めて思う。それを伝えると、彼は穏やかに笑ってみせた。
 まったく、笑い話じゃないんだが。
「俺にはどうして鶯丸が考え直さないのか、そっちの方が分からない」
「なぜ?」
「……俺はお前の主の本丸を乗っ取ったし、乗っ取った本丸を捨てた最低最悪な奴なんだぞ? その本丸の刀剣男士は、敵に破壊させた。顔だってイマイチだし、穢れた刀とヤったことあるし、そもそも歴史修正主義者だ」
「それはもう知っている」
「知ってるなら考え直せよ。俺の持つ要素、どれひとつ取ったって好意を持つきっかけにはならないだろ」
 俺は懸命に言い募った。けれど、身を乗り出す俺に、鶯丸は笑って頭を撫でる。
「好意を持つ、持たないを決めるのは俺だ。……お前にはきっと分かるまい。俺はこの本丸で主に疎まれていた。お前が来るまで、人間と接するのがどういうことか、よく分かっていなかったんだ」
「そんな大袈裟な」
「人間には分からぬだろう。俺たち刀は道具だ。人の手に触れられ、使われたいと願うのは、俺たちの本能に刻みつけられた望み」
「……そんなの、俺じゃなくてもいいだろ。〈白銀〉がお前のことを嫌いだとしても、恋をするなら誰か他の人間を探せばいい。何も、穢れてて、死期も近い俺なんか選ばなくても」
「確かに、俺たちの欲求を満たす『条件』の人間は、多いだろう。誰でもいいと言えるかもしれない――」
「ほら」
 俺は言う。鶯丸は俺の頭を撫でていた手を顎に滑らせて、そっと俺の目を自分に向けさせた。かすかに、けれど熱っぽい金の眼差しが俺をとらえている。
「それでも、俺に人の手に触れられる喜びを教えたのは、他ならぬお前だ。誰でもいいとしても……否、誰でもいいのなら、俺はお前しか選びたくない」
 彼の真剣な眼差しを受けても、俺は鶯丸に頷くことができなかった。
「鶯丸、俺はお前に恋をしてない。だから、妻問いを受けるのは――」
「お前の想いが俺にないのは、承知の上だ。それでも、俺は最期までのひととき、お前の魂を己がものとしたい。……ただ、それだけなんだ」
 ばかな奴。
 俺は小さくつぶやいた。


2.


「主、少しいいだろうか?」
 鶯丸が〈柚葉〉をめとるつもりだと主に伝えたのは、ある日の朝食の席でのことだった。〈白銀〉本丸では、全員、そろって朝食を取るのが決まりである。当然ながら、その場には他の刀剣男士たちもいた。
 夜戦に出ていた第四部隊の短刀たちは、朝を食べてからの就寝になるため、早くも船をこいでいる。加州や大和守、堀川らがしきりにそんな短刀たちの世話を焼いていた。縁の深い幕末の京に出陣する子らに、構わずにはいられないらしい。そのそばでは、脇差たちが畑に新しい花を植えたいと話している。別の卓についている一期一振が振り返って、植えてもいいが馬糞で遊んではいけない、と鯰尾に言った。その少し離れた席では、前夜に飲み過ぎた次郎と日本号がぐったりしている。蛍丸と愛染、それに博多が箸の進まない彼らの膳から、デザートのみかんを奪っていた。
 皆ががやがやと話していた大広間は、鶯丸が発言をした瞬間、静まりかえった。パタッ、ポトッ。あちこちで箸を取り落とす音が上がる。鶯丸の前に座っていた三日月などは、味噌汁のお椀を傾けたまま、こぼしていた。
「三日月、こぼしているぞ」
「あなや!」
 中身を膝にこぼしていたらしく、三日月が飛び上がった。ぱっと駆けつけた長谷部が、「何をしている」と三日月を叱りながら膝を拭いていく。
「仕方がないな、三日月は」鶯丸は肩をすくめた。
「いや、そうじゃないだろ?原因は君だ。捕虜をめとりたいとは、いったいどういうつもりだ?」鶴丸が顔をしかめる。
「どうもこうも。俺は〈柚葉〉を好いている。しかし、〈柚葉〉は死期が近いのでな。手っ取り早く婚姻することにした」
「ですが、婚姻というからには、相手の同意が必要ですぞ?」一期一振がおそるおそる言う。
「もちろんだ。〈柚葉〉は頷いてくれた」きっぱりとそう答えた鶯丸は、そこで上座を仰いだ。上座では、食事しながら今日の予定を確認していた〈白銀〉と山姥切が、目を見開いて固まっている。その主に向かって、鶯丸は尋ねた。「――ということなのだが、主。ひとつ頼みがある」
「――……たのみ……?」〈白銀〉が掠れた声で尋ねた。
「そうだ。俺との主従契約を切ってはくれないだろうか?」鶯丸の言葉で辺りがふたたびざわつく。それには構わず、鶯丸は言葉を続けた。「〈柚葉〉と婚姻するからには、俺もけじめを付けなければならない。自らの主たる審神者がいるのに、それを差し置いて婚姻して、審神者とは別に守るべき者を作るのは、刀剣男士としての信義にもとる。……どうか、俺との契約を切ってほしい」
 ざわざわしていた周囲が、鶯丸が言葉を終えた瞬間、ピタリと止まる。皆が〈白銀〉に注目していた。〈白銀は〉わなわなと震えていたが――。
 不意に手にしていた箸を、鶯丸に投げつけた。鶯丸は驚きながらも、頭を傾けてひょいと箸を避ける。そのまま箸は縁側に落ちて転がり、ぽとりと庭へと落ちたようだった。
「ぬしさま……?」
「主……?」
 怯えたような小狐丸と長谷部の声が重なる。しかし、〈白銀〉は止まらなかった。今度は空の汁椀が飛んできた。次は食べ終えた後の小鉢や、茶碗が。さらに、〈白銀〉がまだ中身の入った別の器に手を掛けようとしたとき、小夜左文字が動いた。サッと〈白銀〉の手首をつかんで、首を横に振る。
「食べ物を粗末にしてはだめだよ……」
「そうだな、小夜。そのとおりだ」
 穏やかな笑顔で頷いた〈白銀〉は、ゆっくりと立ち上がった。その手にはいつの間にか刀が握られている。傍らの山姥切の本体を持って立ったらしい。本体を奪われた本人は、ポカンと口を開けている。
〈白銀〉はずんずんと鶯丸に向かって歩いてきた。その途中、山姥切国広の鞘を払って、そこにいた山伏国広に渡した。山伏が呆然としたまま鞘を受け取るのに見向きもせず、〈白銀〉は刀を振り上げ――危うい動作で鶯丸に斬りかかってきた。
 ふらふらとした銀色の軌跡が、落ちてくる。さすがに危ないかと思った鶯丸はさっさと身をかわした。〈白銀〉の刃は鶯丸がいた畳を切りつける。
「避けるな……!」〈白銀〉が憎々しげに言う。
「無茶を言う。身の危険は避けるものだろう」
 鶯丸が反論すると、こちらを見る〈白銀〉の眼差しがキッときつくなった。
「お前が悪いんだろう! 主従契約の解消だと……? ふざけるな!」
「だが、主、主の臣下のまま別の人間と婚姻するのは、刀剣男士として……」
「うるさい! だいたい、何で〈柚葉〉なんかと一緒になるんだ。あんなやつと……!」
 そのときだった。再び刃を振り上げた〈白銀〉を、そばへきた山姥切が抱き止めて止めた。落ち着け、主。そう繰り返す。間もなく、主は山姥切に付き添われて別室へ戻っていった。


 朝餉の後、鶯丸は〈柚葉〉に食事を持っていってから、本日の割り当てである畑当番に行こうとしていた。そのときだ。山姥切が現れて、鶯丸を呼び止めた。
「鶯丸、主が呼んでいる」
「主が……?」
「ついて来い。畑当番の方は、脇差たちが替わると言っているので任せた」
「それは申し訳ないな」
「どうせ、新しく畑に向日葵を植えたいと言っていた連中だ。ちょうどいいと早速、畑に行ったぞ」
「向日葵畑か。それはいいな」
 他愛もない会話を交わしながら、鶯丸は山姥切の後をついていった。離れの執務室には、朝食のときとは打って変わって落ち着いた顔の〈白銀〉が待っていた。おそらく、山姥切がだいぶ彼を宥めたのだろう。
「主。鶯丸、参上した」
「ああ」主は鷹揚に頷いてみせた。「朝の件だが、僕と主従契約を解消したいというのは、本気なんだな? 一度、契約を切ったら、僕はもう二度とお前と契約を結ばないぞ」
「むろんのこと」
「あんたは主との主従関係を解消して、〈柚葉〉の刀剣になるつもりなんだろう。だが、本当にそれでいいのか?」横から山姥切が口を挟んだ。どこか心配そうな面もちをしている。「仮に〈柚葉〉が死ねば、あんたは霊力供給源を失うことになるんだぞ?」
 山姥切の問いに鶯丸は微笑した。
「構わないさ。霊力供給源を失って顕現が保てなくなる前に、おそらく俺もカタがつく。主にも、この本丸にも迷惑を掛けないと誓う」
「そこまで言うなら、いいだろう」
〈白銀〉は言った。彼の手が、虚空でヒラリと動く。まるで自分と鶯丸の間にある糸を、断ち切ろうとするかのようだった。鶯丸は己を縛っていた糸のようなものが、すっと消えるのを感じた。
「――行け、鶯丸。もうお前は僕の刀じゃない。今日の内番も、これ以降の出陣やその他の義務も、お前は負わない。お前は……自由だ」
「申し訳ない、主……いや、〈白銀〉。あなたの恩は、この存在ある限り忘れない」
「いいから行け。客用の東棟を使っていい。婚姻の支度をしろ。〈柚葉〉には、もう残された時がわずかしかないはずだ」
〈白銀〉が小声で呟く。
 鶯丸は深々と礼をしてから、立ち上がった。廊下をしばらく歩いていくと、庭に鶴丸が立っていた。
「……主は承諾してくれたんだな。こいつは驚きだ。これからどうするつもりだ?」
「どう、とは?」
「〈柚葉〉どのはもう長くない。俺も一度は彼の姿を見たが、穢れをあれだけ身にため込んだんだ。今もまだ生きているのが不思議なくらいだ。その〈柚葉〉どのの刀になって、どうする? 彼が死んだら、お前さん、〈柚葉〉どのの墓を守るのかい?」
「お前のように、か?」鶯丸は肩をすくめた。「それは御免だな。掘り返されて、引き離されてはたまったものじゃない。だが、その心配はない」
 鶯丸の言葉に、鶴丸は思慮深げな眼差しを向けた。見透かすように鶯丸を見て、彼は「そうか」と呟く。

 ――ならば、これが君と俺たちとの別れになるか。




3.

「〈白銀〉が婚姻の許可をくれた」
 鶯丸が、そう言いながら蔵の中へ入ってきた。眠っていた俺は、目を開けてぼんやりと彼を見つめる。鶯丸からは、〈白銀〉の霊力の気配が感じられなかった。
「……お前、〈白銀〉との契約は?」
「お前をめとるのに、他に守るものを持つわけにはいかない。〈白銀〉に頼んで、主従の契約を切ってもらった」
「お前、本気で……」
 鶯丸の熱意に負けて求婚を受けたのは確かに俺だ。しかし、婚姻に同意したものの、具体的にそこから何が起きるのかはあまり考えていなかった。俺は呆然として、鶯丸を見つめる。
 彼は俺に微笑んでみせてから、優雅に片膝をついた。恭しく右手を取って、頭を垂れる。
「婚姻に先だって頼む。俺をお前の刀としてほしい」
「だけど……」
「刀剣男士には主従契約が必要だ。そして、俺と〈白銀〉との契約は切れている。お前が、俺の主にならなくては。それに――」鶯丸は顔を上げた。金の目に熱っぽい光を宿して言う。「俺はぜんぶ、お前のものになりたい」
 あぁ、と俺は思った。どうして鶯丸は――否、刀剣男士は皆、勇敢でひたむきなのだろう。
 かつて、俺が歴史修正主義者となって自分の本丸を襲撃したときも。刀剣男士は誰ひとり恨みごとを言わなかった。戦って、ただ静かに、或いは『主を救えなくてすまない』と謝りながら、破壊されていった。彼らが怖かった。俺はただの卑怯者なのに、それでも忠誠を捧げてくれるのが怖かった。今の鶯丸にしても、俺にそこまでする価値はないのに最大限の愛情を向けてくれる。そのことに怯んでいる自分がいる。
 きっと、元気だったなら、俺はまた『この』鶯丸の前から逃げ出していただろう。けれど、穢れに蝕まれ、最期のときが迫る今は、そんな気力どこにもない。身に余る好意を差し出されて、怯えながらそれを受け取るしかないのだ。
 俺は鶯丸の手の中から、右手を持ち上げた。ためらいに震える指先で、彼の額に触れる。刹那、互いの間に細い霊力の糸が張られたことが分かった。
「ありがとう」鶯丸が微笑する。

 そのときだ。

「さぁ! 婚姻の準備をするよ!」
 計ったかのようなタイミングで、燭台切光忠が蔵に入ってくる。その後ろから蔵に駆け込んできた鶴丸が、「さぁ、お前が指図しないと準備が始まらんぞ」と鶯丸を引っ張っていった。その直後、猫のようにいつの間にか忍びよってきていた大倶利伽羅が、ヒョイと俺を担ぎ上げる。
「なっ……何するんだ……!」
「東棟に移動するだけだ」
 大倶利伽羅は簡潔に答えた。だが、それだけでは、なぜ俺が移動しなければならないのかよく分からない。目を白黒させていると、燭台切が気づいて捕捉してくれた。
「主がね、君たちの仮の新居にって、お客さん用の東棟を提供してくれたんだ」
「新居? 俺はもう長くない。新居なんか要らない」
「いいから、いいから」
 言い含められて、東棟に連れていかれる。近づくと、わいわい言いながら廊下の雑巾掛けをしている短刀たちに遭遇した。大倶利伽羅たちはそこを通り過ぎて、いくつかの部屋の前を通過していく。途中、行きすぎようとした部屋の中で、小狐と三日月が生け花をしているのを見かけた。
 季節が初夏だからだろうか。桔梗や葵の他に、小ぶりの向日葵の花がある。珍しげにそれを見ていると、燭台切が微笑んで言った。
「あれは床の間に飾る花だよ。ほとんどは花畑や庭で咲いた花だけど、向日葵だけは間に合わなかったから、三日月さんと小狐に神気を込めて咲かせてもらったんだ」
「へぇ」
 そのまま鶯丸のところへ連れて行かれるのかと思いきや、燭台切と大倶利伽羅が向かったのは同じ東棟の中にある浴室だった。ひとりで入る力はあるかと尋ねられ、慌てて頷く。さすがにそこまで世話してもらうほどではない。
 浴室に入ると、本丸の大浴場よりは小さな風呂の中に湯が満たしてあった。湯船には色とりどりの花弁が浮いている。「誰がこれを……」びっくりして呟くと、窓の外から声が返ってきた。
「脇差たちが摘んで来たんだぜ」同田貫らしい声だ。外で風呂釜の火を見ているらしく、湯加減はどうだ? と尋ねてくる。
「……あぁ、ちょうどいいくらいだ」
「そうかぁ? こいつサボってるし、ちょっと温いんじゃねぇの?」とのんびりツッコミを入れたのは、御手杵のようだった。
 風呂に入って、身体を洗ってから外に出ると、加州清光と乱藤四郎が真新しい寝間着を手に待っていた。俺が戸惑う間にも、二人はてきぱきとそれを着付けていく。
「この着物はね、長谷部が万屋まで走って買いに行ってくれたんだよ。白無垢着せる? って聞いたら、鶯丸がアンタが疲れるから要らないって答えたからせめて寝間着だけでもって」と加州は俺の帯を結びながら言った。
「そんなの、申し訳ないな」
「申し訳ないことないよ」乱が微笑む。「だって、鶯丸のお嫁さんになる人だもん。精一杯おもてなししようって、皆で決めたから」
「皆で?」
「そーそ。鶯丸はアンタの刀になったから、いずれこの本丸からはいなくなる。だから、仲間の門出をお祝いしようってことになったんだよ」加州が乱の言葉を補足した。
 次に通された間では次郎太刀が待っていて、俺に薄く化粧を施してくれた。そうして乱に手を引かれて、連れて行かれた間では、石切丸や太郎太刀が待っていた。きっちりと戦装束をまとった鶯丸もそこにいる。
 向日葵や色とりどりの花が生けられた床の間の前で、石切丸がごく短く簡単な婚礼の儀式を行った。それが終わると、その場にいた数名の刀剣男士たちは去って、鶯丸と二人になる。
「……俺たちも行くか」
 鶯丸はそう言って、俺を抱き上げた。真夜中の静かな廊下を進んで、寝室へ。今度は床の間には、向日葵だけが生けられている。その前の畳に延べられた布団に、鶯丸は俺を横たえた。彼も寝間着に着替えて、同じ布団に滑り込んでくる。鶯丸は俺を抱き寄せて、安堵したように息を吐いた。
 その安らいだ雰囲気がどうも落ち着かない。いっそ、抱いてわけも分からないくらいに乱してくれたら、こちらも気楽だったろうに。そんな思いが言葉となってこぼれ落ちた。
「――俺を抱かないのか?」
 すると、彼の手が俺の腰を緩く撫でた。
「そうだなぁ。お前をほしいとは、思う」
「じゃあ」
「だが、交合とは俺の神気を大量にお前に注ぐこと。神気を注げば、お前の魂や身体に染み着いた穢れと反発が起きる」
「反発するとどうなるんだ?」
「神気と穢れが反発しあえば、お前の魂は硝子細工のように砕けるだろう。そうなれば、魂と結びついている身体も塵に還る。二度と輪廻することがない」
「へぇ」
 俺は軽く頷いた。
 思ったより、神気と穢れの反発というのは、たいした事態ではなかった。俺が死ぬのなんて、もう分かりきっている。生まれ変わることができないと言われたって、人間である俺には死後も輪廻も見通せない。現在しかない。何も怖くはなかった。鶯丸や刀剣男士たちから、身に余るほどの好意と厚意を示されることに比べたら、どうってことない――。
「――じゃあ、俺を抱けよ」俺は鶯丸の頬に手を添えてねだった。「終わりを先延ばしにするのは好みじゃない。せっかく俺をめとったんだろ? 抱けよ」
 鶯丸は闇の中で目を見開いた。ごろりと体勢を変えて、俺の肩を押してくる。仰向けになった俺の上に覆いかぶさって、彼は唇を押しつけた。
 舌が唇の間から入ってきて、口内をまさぐる。俺は自分から舌を差し出して、彼の舌に絡めた。れろ、と舌の表面を舐められて、ぞくぞくする感覚が腰に落ちていく。俺は手を伸ばして、鶯丸の股間に触れた。煽ってやろうと思った――のだが。
「あれ?」
 唇を離して、俺は首を傾げた。鶯丸のそこはまだ反応していない。腑に落ちない思いで裾を割って、彼の下着の中に手を突っ込む。そこはやはりまだ反応していなかった。試しにしごいて見れば、鶯丸はくすぐったそうに身を竦める。
「……〈柚葉〉、そこに触れられると、何だか妙な感覚がある」
「妙な感覚も何も。ここが勃たなきゃできないんだぞ……?」
「そうなのか? だか、顕現してからそこがそんな風になったことは一度もないな」
「……待て。じゃあ、妻問いとか俺をめとるっていうのは、お前、いったいどういう意味で言ってたんだ?」
「言葉どおりの意味だが」
 けろっとして言う鶯丸に、俺は頭を抱えたくなった。
 そういえば、昔、審神者のテキストに刀剣男士は最初は三大欲求を持たないと書いてあるのを見た気がする。彼らは人間である審神者と暮らすうちに、食欲や睡眠欲を知るのだとか。俺は自分で一から刀剣男士を顕現したことがないので、テキストの内容をあまり覚えていなかったのだ。
 だが、ここに来て、いざヤるぞという状況で、相手が何も知らないからやめましょうという気にはなれない。
 仕方ない、と俺はため息を吐いた。
「じゃあ、とりあえず俺がどうするか見てろよ」
 立ち上がって、行灯に火を入れてから、寝間着を畳の上に脱ぎ落とす。下着も取り払うと、すでに少し反応している俺の性器に鶯丸は目を丸くした。
「そこはそうなるのか」
「――これはまだ半分もいってない。もっと反応しないと……」
 俺は枕元に用意してあった丁子油の瓶を手に取った。中身を掌に少し落としてから、両手をすりあわせて馴染ませる。俺は鶯丸に見せつけるように足を開いて座り、性器を握りしめた。左掌で先端を擦りながら、右手で竿をしごく。
「あっ……は、ぁ……」
 きもちいい。快感に足先が丸くなる。けれど、受け入れることに馴れた身体はそれだけでは物足りなくて、誘うように腰が揺れた。
 鶯丸が食い入るように見つめている。彼を誘うように、俺は右手を後孔へすべらせた。指を一本そこに飲み込ませる。途端、内部が歓喜するように自分の指を締め付けた。
「……くっ……!」
「……――痛くはないのか?」鶯丸が荒い息と共に尋ねた。興奮しきっているくせに、見当外れの問いを投げてくる。「そんなところに指を入れて……痛くないのか」
「……はっ……。ばぁか……ここにお前のを挿れるんだぞ……? 指どころの話じゃない……。もっとも……お前のが勃たなきゃそれ以前の話だけど」
「勃つ……というか、……確かに変化はしてきたが……」
 鶯丸は戸惑いがちに自分の足の間に視線を落とした。着物の裾があるので、どれくらい兆しているのかは分からない。けれど、反応するなら何とかなるだろう。
 もういいか、と判断して俺は鶯丸を手招きした。覆いかぶさって来る彼を引き寄せて、口づけをする。そうしながら、ふたたび手で股間をまさぐった。確かに勃っている。さっさと繋がってしまおうと、俺は鶯丸の下着を取りにかかった。
 しかし、鶯丸はそれを許さない。
「まだだ」
 熱っぽく囁いて、彼はぐるりと俺を反転させた。うつぶせになった俺の背中に、鶯丸がのしかかってくる。チュッ、チュと軽くついばむように何度も口づけされて、その微かな感覚に俺は背筋を震わせた。
 穢れた刀たちとの交合は、とにかく快感を暴きたてるものばかり。こんな風に微かな感覚を楽しむ機会などなかった。そのせいか、鶯丸の丁寧な愛撫が妙に気恥ずかしい。
「……それ、恥ずかしいんだけど」
「なぜだ?」
「なんでって……」
「人の身体は面白い。皆ちがう。隅々までお前に触れて、形や温もりや手触り知りたい。そう思うのは悪いことか?」
「や、悪くは……ないと思う、けど……」
 鶯丸の言い方が甘くて、いっそう恥ずかしくなる。羞恥心をやりすごそうと布団に顔を埋めたとき、腰に唇を触れさせていた彼がさらに下へと顔を下げた。
 双丘を押し広げて、ピチャリと舌が後孔に触れる。「あ……それ、やめ……」慌てて暴れようとするが、鶯丸がガッチリ腰を押さえていて動けない。さっき自分で指を挿入したそこは緩んでいて、あっさりと鶯丸の舌の侵入を許してしまった。
「あっ……あぁ……、だめ、だってぇ……」
 抵抗の言葉を吐くものの、身体は興奮しきっている。前を刺激していないのに、勃ちあがった性器が敷布に擦れてたまらない。
 鶯丸が顔を上げて笑った。「だめ? とてもそんな風には見えないが……?」そう囁いて、俺の双丘を押し開く。ぐずぐずになっているであろう後孔に再び舌を挿入されて、その感覚だけで俺は軽く達してしまった。
 とろとろと吐き出した精液が敷布を濡らす。余韻の荒い息を整えた俺は、手を伸ばして自分から後孔を広げてみせた。軽く腰を揺らして、鶯丸を誘う。
「も……いいだろ……。あんまりイくと……俺が付き合えなくなる……。早くお前のをくれよ……」
「その誘い方はなかなかイイな」鶯丸は目を細めて笑った。「だが……どうせなら、こっちがいい」
 そう言うが早いか、鶯丸はくるりと俺の身体をひっくり返した。仰向けになった俺の足を、丁寧な、けれども有無を言わせぬ所作で押し開く。寝間着を肩から落として、下着を取り払って、鶯丸は俺の後孔に昴った性器を押しつけてきた。
 熱い。舌よりも熱い塊が身体を拓いて入ってくる。
「っあ……あ……!」
「は、ぁ……」
 すべてを納めた鶯丸が、熱っぽい息を吐く。ただの抱擁よりもなお間近で、俺は鶯丸と見つめ合った。金の瞳が行灯の明かりを映して、赤金に見える。それがまるで溶けだした金のようで、ひどく美しかった。
「熱いな……」ぽつりと鶯丸が呟く。
「……あぁ、熱い」俺は小さく頷いた。「抱き合うって、こんなに熱いんだな……。初めて知った……」
「俺もお前も鉄だったら、溶けてしまっていたかもしれない。お前が人で、俺が仮初めの人の身で、よかった」
 真面目な顔で、鶯丸が言う。あどけない、奇妙なもの言いに、俺は思わず笑った。腕を彼の背中に回して、ぴたりとこれ以上ないくらいに肌を密着させる。
「鉄だったら、よかったのかもな……。溶けあって、ひとつになるなら」
 そうしたら、俺は別のものになれる。鶯丸と混じりあって別のものになれるなら、〈白銀〉を傷つけたことも、刀剣男士を捨てたこともない、無垢な人間に生まれ変わることができる。
 きっとソイツは優しい人間だろう。最後の最後まで、こんな俺を想ってくれる鶯丸に似て。そいつはきっと、この世の片隅でひとりで自分の罪を負って死のうとする、俺みたいなロクデナシを救うだろう。
 けれど。
 もしも、ソイツに生まれ変わったら、俺が〈白銀〉を愛したことも、鶯丸に救われたことも、消えてしまう。だから、これでいい。俺は最期まで俺のままで。


4.

 鶯丸が生まれた平安の風習では、婚姻には男が女の元へ三日通うことになっている。三日目の夜が明けて、初めて婚礼の儀式をして夫婦となるのだ。しかし、神気を受け入れた〈柚葉〉は、三日と保たないだろう。最初から、それは予感していたことだった。
 東棟で過ごして二日目の明け方。鶯丸はまだ暗い部屋の中で目を醒ました。腕の中に抱いて眠ったはずの〈柚葉〉は、姿を消している。
 しかし、鶯丸は慌てなかった。主従の絆を通して、まだ彼が生きていることが分かったからだ。鶯丸は簡単に身なりを整えて、部屋を出た。ふすまを開けた縁側に、〈柚葉〉は座っていた。
「何をしている?」鶯丸が尋ねた。
「夜明けを待ってる」と〈柚葉〉が答える。神気を身に受けたために、穢れが身体を蝕む痛みは消えたらしい。それでも、今日の彼はそこにいるのにまるで消え入りそうだった。最期のときが近いのだと、互いに感じていた。
「なぜ夜明けを?」
「歴史修正主義者になってから、ずっと暗いところにいた。夜や昼間でも光の射さない場所に。だから、太陽を見たいんだ」
「そうか……。太陽もいいが、俺はお前に見せたいものがある。一緒に行こう」
 鶯丸は〈柚葉〉を抱き上げた。裸足のまま、朝に向けて次第に明るくなっていく庭に降りる。そのまま土を踏んで南へと向かった。
 本丸の南側には、それなりに広い畑が広がっている。その畑の一角に、色とりどりの花が咲く花畑があった。赤や黄、桃色の花の間を抜けて、鶯丸は向日葵の並ぶ場所へとやってきた。
 背の高い青々とした茎の間に、鶯丸は腰を下ろす。膝には〈柚葉〉を座らせて、後ろから抱える姿勢になった。そうして、二人で夜明けを待つ向日葵の花を見上げる。涼しい初夏の朝の風が、草の匂いを含んで吹き抜けていった。
「向日葵……ちゃんと咲いたんだな」ぽつりと〈柚葉〉が言う。
「ああ。〈白銀〉が、皆が喜ぶならと、特別に畑に霊力を多く与えたらしい。昨日の昼、咲いたんだ。お前に切り花を持っていってもいいと言われたが……見せたかった」
「そうだな。切り花もいいけど、本物が見られてよかった……」
 そう話す間にも、夜が明けていく。ピシリと鶯丸は腕の中で音がするのを感じた。〈柚葉〉も自分の魂にヒビが入り始めたのを理解したらしい。わずかに目を見張ってから、すぐに笑う。
「……そろそろ、みたいだ」
「ああ……」
「今までありがとう」
〈柚葉〉は鶯丸の膝の上で、身体を反転させた。鶯丸に向き合う格好で、抱きついてくる。その彼を抱きとめながら、鶯丸は言った。
「……これが最期なんだ。嘘でも、せめて、俺を愛していると言ってはくれないか?」
「鶯丸、ありがとう。愛している」〈柚葉〉はギュッと鶯丸に抱きついて言った。が、すぐに身を離して、困ったように笑う。「――なんて、嘘。けっきょく、俺はお前のこと好きなのか分からないんだ」
「そうか」正直な言葉に、鶯丸は苦笑した。
「だけど……最期にお前がそばにいて、幸せだった。〈白銀〉をひどく傷つけたし、あいつの刀剣男士たちを破壊したことは俺の罪だけど……俺は、この生を生きたこと、後悔してない」
 ――俺が俺でなきゃ、お前とは逢えなかっただろうから。
 そう言う〈柚葉〉の胸の内側で、パラパラと魂が砕けていくのが視える。鶯丸たただそれを見ていた。どうすることもできなかった。
「……世間では、きっとそういうのを愛していると言うんだろう」
「そういうものかな?」〈柚葉〉は淡く笑う。
「お前が愛という言葉を使いたくないのなら、それでも構わないが……」
 やがて、ヒビは〈柚葉〉の身体まで達した。さらさらと腕の中の肉体が塵になって崩れていく。最後に鶯丸の腕の中には白い寝間着だけが残された。
 東の空が白みはじめ、向日葵の茎が風に揺れてさわさわと音を立てる。辺りは初夏の緑の生命力に溢れて、〈柚葉〉のまとっていた死の気配は霧散していた。鶯丸の腕の中の寝間着だけが、彼の名残を留めていた。





5.

 夜明け。〈白銀〉は自分を呼ぶ声で目を覚ました。声の主は鶯丸のようだ。立ち上がろうとする〈白銀〉を制して、同じ床にいた山姥切がすっと立ち上がった。
 つかつかと歩いていって、縁側のふすまを開く。
 縁側では、鶯丸が正座していた。
「〈白銀〉、最後の挨拶に来た」
「最後の挨拶って……。〈柚葉〉は?」
「先ほど逝った。あなたが咲かせてくれた向日葵の間で。我が妻は向日葵にひどく喜んでいた。礼を言わせてほしい」
「お前はこれからどうするつもりだ?」
「俺は――」
 鶯丸は顔を上げた。寝間着からのぞくその首筋が、黒く変色し始めている。〈白銀〉が見守る間にも、肌の黒い部分は広がっていくようだった。
「鶯丸、それはいったい……?」
「これは主殺しの穢れだ」平然と鶯丸は答えた。「俺は〈柚葉〉を主とした。その〈柚葉〉は俺の神気を注がれて、神気と魂や肉体に染み着いた穢れとの反発のせいで死期を早めた。……ゆえに、俺は自分の主を殺した穢れによって折れることになる」
「そんな……最初からそのつもりで、僕に主従契約を解消しろと言ったのか……!?」
〈白銀〉は立ち上がった。思わず鶯丸に迫ろうとする。そんな〈白銀〉を山姥切が抱きしめて止めた。
「よせ、主。主君の他に守るべきものを作ることは、刀剣男士にとっての背信。鶯丸は自分で、そのけじめを付けたんだ」
「そんな」
 呆然とする〈白銀〉に鶯丸は微笑してみせた。
「悲しまないでくれ。これは……俺のわがままだ。〈柚葉〉の魂は砕けて、もはや輪廻に還ることはない。それゆえ、俺もここで折れて、彼と共に現世の塵に還りたい……だから、こうした」
「――本当に、わがままだ」唸るように〈白銀〉は言った。視界がじわりと滲んでいたが、構わずに鶯丸をにらみ付けた。「〈柚葉〉もお前も、本当に図々しい。お前らなんか、夫婦そろって大嫌いだ。輪廻しても二度と会わないと思うと、清々する」
「それはよかった。あなたが寂しがったらと、心配していた」
 じわじわと黒い錆のようなものに浸食されながらも、鶯丸は穏やかに言った。こいつのこういうところが嫌いだ、と〈白銀〉は内心で思う。そして、叩きつけるように宣言した。
「いいか。金輪際、太刀・鶯丸はこの本丸には迎えない。ぜったいにだ」
「――本霊も肝に命じるだろう。あなたの元に、太刀・鶯丸が降りることは二度とない」
 これにて、別れだ。
 そう微笑んで、鶯丸は真っ黒な影のような人型になり――次の瞬間、パリンと粉々に砕けてしまう。〈白銀〉は茫然とその様子を見ていたが、やがて声を上げて嗚咽しだした。山姥切をこの場に繋ぎ止めるように、きつく抱きしめてくれる。その腕にすがりながら、〈白銀〉はただただ涙を流しつづけた。





2016/05/28-06/26

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