同じ夜を分かつ1
1.審神者 初めて刀剣を折ったのは、審神者になって二年間目のことだった。折れたのは薬研藤四郎。彼は、僕にとって特別な刀だった。 僕が正式に審神者になったのは、十六のときだ。とはいえ、うちは神職の家柄の末席。両親そのものは少しばかり古風なだけの普通の人たちだった。けれど、ともかくも家柄のせいで、僕は幼い頃に審神者になることが決められていた。 そのことには、不思議なほど抵抗がなかった。審神者になると決められていたから、時が来たと言われて審神者になった。 初期刀は山姥切国広。初鍛刀で薬研が来た。僕はすぐに薬研と仲良くなった。外見の年頃が、いちばん近かったせいだろう。 もちろん、国広も僕を支えてくれて――僕らの本丸はじきに目覚ましい戦績を挙げるようになった。思いがけないことに鍛刀の運や刀剣の引き(審神者の間ではドロップ運と呼ばれる)が強かったらしく、本丸着任から一年で顕現可能な刀剣四十二口を揃えた。僕の本丸は政府から認められ、審神者の間で一躍、有名になった。そうはいっても、審神者は本丸に引きこもっているため、さほど実感はなかったが。 ときどき演練に出るたびに、薬研にはよく言われたものだ。 「もっと誇ってもいいんだぜ、大将」 しかし、僕は別に認められたくて審神者をしているわけではない。だから、いつも首を横に振った。 「主は名声には興味がないんだ」 国広が静かに取り成してくれる。その傍らにで、三日月宗近が優雅に笑ったものだった。 「我らが主はまことに無欲だな。すこし張り合いがないくらいだ」 もっとも、僕は何も望まないわけではなかった。皆そろって、誰も欠けることなく歴史修正主義者たちとの戦いを終わらせられればいい。そう願っていた。 思えばそれは、何にも増して困難な願いだったろう。だって、どれだけ日々が穏やかであろうとも、刀剣男士と審神者は戦争に参加しているのだから。 僕は何も分かっていなかった。 何ひとつとして。 審神者になって二年目。僕の本丸は多くの刀剣が練度上限に達していた。そのため、政府から課せられる任務はいずれも、歴史修正主義者との戦いの最前線ばかり。しかも、敵はどんどん力を増してゆく。僕の刀剣たちも、傷を負うことが多くなった。 そんなある日のこと。 第一部隊を送り出して、政府への報告書に取りかかっていた僕は端末の呼び出し音で我に返った。見れば、第一部隊の部隊長に渡してある携帯端末からのコールである。 第一部隊の隊長は、今日は薬研に任せてある。しかし、端末から聞こえてきたのは、同じ部隊の国広の声だった。 「――主、薬研が重傷を負った」 国広は手短に、事の次第を説明した。それによると、第一部隊が帰還のためにゲートを潜ろうとした際、敵が急襲してきたらしい。 敵がゲートを潜れば、本丸への侵攻を許すことになる。そればかりか、敵は侵攻先の本丸を足場に、別の本丸を攻撃することも可能だ。かつて、政府側は敵に本丸ひとつを落とされたがために、連鎖的に他の本丸への侵攻を許してしまった。多くの本丸と審神者の生命を失ったこの出来事は、第一次本丸襲撃事件として審神者の歴史に名を残している。このため、今では審神者と刀剣男士は、政府から決して本丸に敵を入れてはならないと言い含められるのが常だ。 しかし、このとき不意を突かれて、とっさに対応できたのは薬研ひとりだった。すでに戦いで中傷を負っていたが、それでも政府からの通達を守ろうと敵の大太刀に向かっていき、倒したという。しかし、大太刀を屠(ほふ)った直後、そばに控えていた敵の打刀や脇差が、薬研に斬りかかった。国広たちは体勢を立て直して敵を追い払ったが――薬研はひどい深手を負っていたという。 国広の言葉を聞きながら、僕は呆然としていた。端末を持つ手が震えて、力が入らない。それでも、端末からは国広の抑えた声が流れ続ける。 「聞いてくれ、主。今から薬研を連れて帰る。だが、かなりの深手だ……まだ人の姿を保っているのが不思議なくらいの。手入れ部屋へ運んでいる時間は、もう、ないかもしれない……。だから門の前で待っていてくれ。さいごに、一目なりともあんたの顔を見せてやりたい――」 僕は端末を握りしめて、執務室を飛び出した。足が汚れるのも構わず、裸足で庭へ降りる。庭を突っ切って、正門へと駆けた。走っている最中に低い枝や庭土に混じる小石で、足の皮膚が裂けていく。痛みを感じたが、構ってはいられなかった。 何度も転びそうになりながら、僕は正門へたどり着いた。そのとき、門が白く輝いて、光の中から第一部隊が現れる。国広、宗近、一期、堀川、太郎。皆、負傷している。薬研はといえば、一期に横抱きにされていた。短刀ながらも、太刀か大太刀かというほどに男気のある薬研である。普段ならば、兄に抱かれるなどという立場に甘んじるはずもない。しかし、今、薬研は一期の腕の中でぐったりしている。 僕が近づくと、一期は地面にひざまずいて、腕の中の薬研を見せた。血と泥と煤に汚れた白い面。「やげん」と小声で呟くと、その声が聞こえたのか彼はゆっくり目を開けた。 美しい藤色の瞳が、僕を映す。 「たい、しょ……。すまねぇ……へま、しちまった……」 弱々しく微笑む彼に、僕はぶんぶんと首を横に振った。「いま、手入れを」と震え声で言いながら、懐から道具を取りだそうとした。けれど。 「もう、手遅れ……だ」 「主、お願いがございます」一期がたまりかねたように言葉を挟んだ。「薬研を刀解してやってください。我らは折れれば死と同じです。魂が本神の元に戻ることはない。ですが、刀解ならば――」 「刀解も……ごめんだね……。俺が――この“薬研藤四郎”が、主といただくのは……大将が最後と決めてある。だから、大将……ひとつ、願いをきいてくれ」 何が願いかと尋ねれば、薬研は抱きしめてほしいと言う。僕は一期に支えられた彼の身体を、両腕に包むようにそっと抱いた。 この腕の中で、薬研は折れた短刀の姿に戻った。 それからどうなったのか、僕はあまり覚えていない。後で聞いた話によれば、まるで感情を失ったかのように淡々と第一部隊の負傷者を手入れしてから部屋に引きこもったという。それから僕は三日三晩、熱にうかされつづけて――目覚めたときには、薬研を看取ったときの記憶がすっかり消えていた。 *** 目覚めた僕は、薬研が折れたことだけを覚えていた。それで半狂乱になって、傍に控えていた国広に取り押さえられもした。僕は、もはや自分が審神者として戦っていける気がしなかった。 それでも、政府のノルマは容赦なく課せられる。戦績上位の本丸とあって、ノルマ外の出陣要請もされた。要請を受けての出陣は、たいてい他の審神者の部隊の救助や時空の歪みの調査だ。たとえ僕のコンディションが悪くとも、出陣しなければ救えない人やものがある。僕は、否が応にも審神者の業務に戻らなくてはならなかった。 刀剣たちも、仲間を失ったばかりなのに、文句ひとつなく戦いつづけてくれた。一度、和泉守にそのことをこぼしたら、当たり前のことだと返された。 「仲間を失ったら、そいつの分まで戦うのがもののふってモンだ。薬研を破壊されたからって泣き暮らすのは、本人だって望まねぇよ」 僕は聞き分けのいい顔を繕って、大人しく頷く。……それが刀剣たちの生きた時代の常識だというなら、僕は“もののふ”になんかなりたくない。そう思いながら。 そこからの本丸での日々は、ひどく色褪せている。毎日はまるで別世界の出来事のように、僕の前を素通りしていった。 そんな日々の中で、僕は毎日、鍛刀を行った。顕現可能な刀剣がすべてそろってからというもの、僕の本丸は鍛刀の日課が免除されていた。だから、しばらく鍛刀部屋へは炉の神の祭壇に祈祷するためにしか入っていなかった。けれど、薬研を失ってしばらくしてから、僕は鍛刀を始めた。近侍は持ち回りだったから、僕が鍛刀するときに付き添う刀剣は毎回、変わった。しかし、何度やっても結果は変わらなかった。鍛刀しても、しても、しても、出来上がるのはただの鉄屑。 「今のお前は気が乱れている。そんな有り様では、どんな刀剣も降ろせない」と国広は言った。 「主が鍛刀なさっても、薬研は――あなたのあの薬研は戻りません」一期は悲しげに頭を振った。 「たとえ薬研が顕現したとしても、それはそなたの知る薬研ではない。受け入れられるのか?」三日月は眉をひそめて僕を見た。 「稀少と言われるこの小狐丸の存在でも、主さまの心が満たされることはないのですね……」小狐丸はシュンと耳を伏せた。 僕は皆の言葉をただ聞き流して、鍛刀を行っていた。 やがて、奇跡が起きた。あるいは、地獄の始まりが。 鍛刀で薬研藤四郎が来たのだ。 二振目の薬研が来て、僕も粟田口の子らも喜んだ。しかし、僕にとってはつかの間の喜びだった。 薬研はあまりにも薬研そのもので――それでいて、僕の知る薬研ではなかったから。 以前の薬研と同じ声、態度。なのに、少しだけ違う。前の薬研と共有した記憶が、今の彼にはない。当たり前なのにそのことがつらくて、僕は次第に薬研を避けるようになった。これではいけない。そう思いながらも、どうすることもできなかった。薬研を含めて、本丸の全員が僕と薬研の仲がギクシャクしていることを知っていた。 皆は僕らを静観していたが、やはり粟田口の子らは特に思うところがあったのだろう。あるとき、平野藤四郎がひとりで審神者の執務室へやって来た。 「主、お話があります。せっかく薬研が戻ってきたのに、どうして薬研に辛く当たるのですか?」 僕は息を呑んで、身を強張らせた。いつかは誰かに諌められる気がしていたが、誰にも口出しされたくはなかったこと。 やめて、やめて、やめて。聞きたくない。それでも、彼らの主として、耳をふさぐことは許されない。 平野は言葉を続けた。 「薬研は泣き言ひとつこぼしませんが、かなり参っています。どうか薬研に情けを。主ならできるはずです。だって、前の薬研とはあれほど仲良く――」 前の薬研。 その言葉を聞いた瞬間、幾つかの映像がフラッシュバックした。ボロボロの薬研。弱々しい笑み。僕の手の中に残った、折れた刃。 胸が締め付けられるように痛む。ひどく苦しい。呼吸の仕方さえ忘れてしまったみたいだ。頭が真っ白になって、わけが分からなくなる。 パァーン。鋭い音。気がつけば、僕は平野を平手で殴っていた。平野は頬を押さえ、茫然と僕を見ている。 「あ……あぁ……」 僕は自分のしたことが信じられず、自分の右手を見る。そこには確かに人を殴った手応えが残っていた。何ということをしたのだろう。僕は仲間を不当に殴った。人間の戦いに力を貸してくれている神に、暴力を振るったのだ。 平野に謝ることもできないまま、僕は執務室を飛び出した。すぐ隣りの私室には戻らず、鍛刀部屋の横の資材倉庫に駆け込んだ。木炭の陰に座りこんで、震えながら涙を流す。平野にあんなことをするなんて。自分で自分のことが信じられない。膝を抱いて嗚咽しながら、薬研の名を呼んだ。彼が――以前の彼がまだいたならば、道を外れた僕を叱って連れ戻してくれただろう。いや、彼がいればそもそも、僕が壊れることはなかったのか。 刀剣男士は、刀剣を寄り代に審神者が分霊を降ろす。分霊は審神者の魂から意識を写し取って、分霊自身と混ぜ合わせて意識を形成する。審神者の霊力と自身の神気を用いて、肉の器を形づくる。核となるのは寄り代の刀剣だ。 ならば、人は? 肉体が器ならば、核は心か。寄り代が折れれば刀剣男士は存在していられない。死と同じだ。ならば、心が壊れた僕はどうしてバラバラにならないでいられる? どうして、存在していられる? 「……心が壊れても終われないなら……それなら、僕は――」 僕は震える手で、単衣の襟元を探った。首からかけたお守り袋。その口を解いて、中身を手のひらに取り出す。折れた“薬研藤四郎”の欠片がいくつか。大きなものは、人差し指の先くらいはあるだろうか。 砕けた刃でも、今の僕には十分だった。いちばん大きな欠片を右手でつまんで、左手の手首に持っていく。血管の浮き出た薄い手首の皮膚に、刃を触れさせようとした――そのときだった。 バンと大きな音と共に、資材倉庫の扉が開く。 「大将っ!」 中へ入ってきたのは、薬研だった。その姿に、一瞬、過去の記憶がフラッシュバックする。短刀たちとの隠れんぼで、この資材倉庫に隠れた僕。気配を殺した僕を短刀たちは探し出せず――最後に弟たちに頼まれた薬研がやっと見つけだしたのだった。どうして、と驚く僕に彼は笑ってみせたものだ。 『俺は守り刀だ。大将の居場所ならどこだって、駆けつけて守る。どこに隠れたって、大将のことなら見つけ出せるぜ』 僕は呆然として、倉庫に入ってきた薬研を見つめていた。彼は僕の手にあるものに気づいたらしく、恐ろしい顔でズンズン近づいてくる。刃をもぎ取るようにして、彼は叫んだ。 「平野が大将の様子がおかしいと言うから探しに来てみれば……あんた、何やってんだ! この砕けた刃で――“薬研藤四郎”の破片で、何をするつもりだった!?」 「やげ……ん……。どうして、ここが……」 「大将は俺の名を呼んだだろっ! だが、名を呼ばなくたって――言霊の力がなくたって、必要とあらばあんたを見つけだしてみせるさ。俺はあんたの守り刀だからな」 それを聞いた瞬間、目の前の薬研と以前の薬研が僕の中で重なった。そこから猛烈な罪悪感が襲ってくる。この薬研は折れた薬研とは違うのに、やはり薬研としか思えない部分があって――同一視してしまう自分が許せない。僕は震えながら、ズルズル後退して薬研と距離を置いた。薬研は傷ついた目で、それでも何も言わない。 そのとき、騒ぎを聞きつけた者の足音が聞こえてきた。戸口に現れたのは、国広だ。僕は立ち上がると、薬研の横を駆け抜けて国広に飛びついた。 「国広、くにひろ、くにひろ……!」 「主、落ち着け」 国広はそう言うが、僕はそれどころではない。 「もう、だめだ。僕はもう……。僕は……ぼくを――許して」 どうか、審神者をやめさせて。 2.薬研藤四郎 俺の大将は、俺のことをひどく悲しげな目で見る。 顕現して間もなく、俺はそのことに気づいた。兄の一期一振に聞けば、俺の前の“薬研藤四郎”が大将の腕の中で折れたせいだという。その“俺”の気持ちは分からないでもなかった。 薬研藤四郎は守り刀だ。主君と最期を共にするのではなく、主君の“次”を作るべく生命を護る刃。さらに、俺たちは道具だから、主君を守って壊れても、次のヤツが取ってかわるだけ。 きっと、大将に抱かれて折れたという俺は、彼のことを愛していたのだろう。守り刀としては、主君と最期を共にできない。代わりに、大将を自分の最期の主君したいと願ったに違いない。 だが、それが大将のやわい心をいたく傷つけてしまったのは、明らかだった。彼はおよそ戦に関わることのできる精神状態ではなくなってしまった。ところが、大将はそれまで非常に高い戦績を上げていたらしく、周囲は彼が立ち止まることを許さなかった。戦え、戦え、と追い立てられたという。俺が初めて顕現されたとき、大将の魂は今にも砕けそうに見えた。それを何とか継ぎはぎしながら、表面だけでも平静を装いつづけたのは、生来の精神の強さ故か。 それでも、限界はやってきた。 ある日、平野が慌てた様子で廊下を駆けてきた。聞けば、会話の最中に大将が急に苦しみだしたらしい。過呼吸かもしれない、と平野は言った。平野が助けようと近づくと、苦痛にもがく大将の手が頬を掠めた。大将はその音で我に返って――怯えたように執務室から飛び出していったという。 話を聞いて、ともかくも俺は大将を探した。私室、資料室、中庭の隅。見つからない。俺は大将との付き合いが短い。だから、彼の逃げ込みそうな場所なんて分からない。あぁ、ここにいるのが俺でなく、前の薬研だったなら、簡単に見つけ出せるのだろうか。だったら、なぜ俺はここにいるのだろう。大将を守るどころか、存在自体で傷つけている俺は。らしくもなく、目頭が熱を帯びてくる。これが泣きたい、という感情か。込み上げた絶望感に、自分が砕けそうな気さえした。 そのとき。 ――やげん。 声なき声が微かに届く。俺はハッとして立ち止まった。そのとき『薬研』ともう一度、呼ぶ声。 音はなく、魂に直に届くそれは、おそらく言霊。そこにこもる霊力は――確かに大将のものだった。 俺は声のする方を目掛けて、全速力で駆け出した。 もしかすると、大将は俺ではなく、前の薬研を呼んでいるのかもしれない。けれど、それでも構わなかった。あのひとが心底、追い詰められて助けを求めるのは、初期刀の国広でも、神格の高い三日月でもない。ひと薙ぎで複数を倒す大太刀でも、“レア”とされる太刀らでもない。主君が他のどの刀でもなく、俺に――“薬研藤四郎”すがるならば、この地上に顕現された意味はある。大将が俺をどう思おうと、何を敵に回そうと、俺はあの人の守り刀だ。 俺は迷いなく、言霊に導かれて資材倉庫へ駆け込んだ。そこでは大将が、砕けた刀の破片で手首を切ろうとしていた。短刀“薬研藤四郎”の破片だ。感じる気だけで分かる。 俺は彼を説得して、何とか自害を思い留まらせた。大将は茫然自失の態だった。そこへ、騒ぎを聞きつけたのか国広がやって来た瞬間。大将は国広にしがみついた。 自分はもう、審神者ではいられない、と泣きながら。 |