同じ夜を分かつ2






 本丸はしんと静まり返っていた。大広間から続く縁側に、三日月は腰を降ろしている。一期一振は大広間で正座して、祈るように目を閉じていた。他にも、大広間には太刀や大太刀、打刀らがポツポツ集まっている。
 抑えた足音と共に、国広が戻ってきた。
「国広、主さまのご様子はどうじゃ?」小狐丸が尋ねる。
「自害しようとはしないが、不安定だ。今、主は眠っていて、光忠がついている」
「そうか……」三日月は呟いた。
 国広は頭から被っていた布を取って、皆を見回した。おもむろに口を開く。
「主の初期刀として、言わせてもらう。主はもう限界だ。本人の言うとおりにな。これ以上、続ければ心が死んでしまう」
「潮時、か」
 和泉守はぽつりとこぼした。それを拾い上げて、一期一振が頷く。
「折れた弟と同じく、我々も主の刀でありたかった。ゆえに、心を壊しかけた主を案じながらも、ここまで来てしまいましたが――」
「主はガキだ」庭で素振りをしていた同田貫が加わった。「俺たちの前の主の時代なら考えられんことだが、主はまだ元服すらしてねぇらしい。……結局、ガキはガキらしく、ただ遊んで、飯食って、呑気にしてりゃあいいんだよ」
 賛成、と加州は声を上げた。
「俺、主にはまた笑えるようになってほしい。戦だから甘いことを言ってられないのは分かるけど……主はもう十分、自分を犠牲にしてきたよ」
「皆の意見はだいたい同じのようだな。主を現世に帰す――異論ある者はおるか? 」
 三日月が庭と大広間を見渡して、静かな声で尋ねた。誰も声を発さない。ならば、と三日月は言葉を続けた。
「かねてより話し合っていた通りに事を運ぶ。主と薬研、いずれにとってもかなりの荒療治となるだろうが、避けては通れぬことゆえ」
「……主は、きっと乗り切る。主は弱いように見えて、毅(つよ)い男だ」
 国広が言葉を紡いだ。それに続くように一期一振も口を開く。
「弟――薬研も、必ずや耐えるでしょう。あれは粟田口の名を知らしめるほどの守り刀ですので」
「分かっておるよ。皆、二人を信じておる。――なればこそ、我らはしばらく憎まれ役に徹そうぞ」
 三日月はそっと目を閉じる。主たる幼子が、己よりずっと年若い短刀が、これから起こる出来事を乗り越えられるように祈った。






1.薬研藤四郎



 大将が審神者を辞めることになった。

 大将の意思は初期刀の国広から、こんのすけを通じて政府に伝えられた。結果、政府は大騒ぎになった――らしい。というのも、大将は若い上に優秀なため、ある種、歴史修正主義者との戦いの旗手のように扱われている面があったからだ。旗手たる若者が心を壊して戦いから去ったとなると、いかにも体裁が悪い。政府側は大将の辞職に難色を示したそうだ。国広と共に本丸の代表として、政府の担当者と言葉を交わした兄と三日月が言っていた。
 俺はそのとき、本丸にいなかった。第一部隊の隊長として、墨俣にいたのだ。大将は精神的に混乱していて、出陣の指示ができる状況ではない。それでも、まだ辞職していない以上はノルマが課せられる。そこで、太刀以上が相談して部隊構成と出陣先を決めた。
 その結果がこれだ。
 俺は顕現したばかりで、練度はやっと二十。正直、通称『武家の記憶』と呼ばれる時代でまともに戦えるような練度ではない。ましてや、練度上限に達している他の刀剣たちを率いられるような立場ではない。しかし、三日月は涼しい顔をして言ったのだ。
「薬研を貫くというそなたなら、この程度は容易いであろう? 」
 そう言われれば、「できる」と答えるしかなかった。きっとそういう見栄を張るのは、俺だけではない。他の刀種は分からないが、短刀なら俺と同じように答えるだろう。たとえば泣き虫の五虎退だって、半泣きになりながらでも己の手に余る戦に挑むはずだ。同じ短刀、同じ粟田口だから、よく分かる。短刀は他の刀種より間合いが狭く、殺傷能力も低い。敵の懐に飛び込まねば仕留められない。それは利点になる場合もあるが、他の刀に力で劣ることは変えられない。主の守り刀であるという矜持と意地で不利を埋めて、俺たちは戦場に立つのだ。
 俺はまだ不慣れなので、補佐にはへし切長谷部がついてくれた。部隊長は自らの戦闘のみならず、戦全体の状況を考慮して部隊を動かし、指示せねばならない。長谷部は俺について、丁寧に戦術を教えていく。かつて織田で一緒だったこともある長谷部だが、ものの考え方はその後に身を託された黒田に近いようだ。あくまで理詰めに、精緻に戦場を分析し――積み上げた情報で以て、一息に戦の流れを引き寄せる様は見事というより外にない。
 しかし、大将が審神者を辞すると分かっている今、俺に戦術を教えこんで何になるというのか。戦闘の合間に尋ねてみると、長谷部はこともなげに答えた。
「もちろん、次のためだ」
「次?」
「あぁ。主が審神者を辞するとき、俺たちは別の審神者の元へ行くことになる。そのとき、我が本丸に未熟な者がいては、主の名折れだからな」
 俺は驚いて長谷部を見た。まさか自分たちが他の審神者に譲渡されるなんて。しかも、織田から黒田へさげ渡されたことに未だわだかまりを持つ長谷部が、それを受け入れていることも意外だった。
 長谷部はそれでいいのか問えば、「仕方のないことだ」と返ってくる。大将が前の薬研藤四郎を失ったことで深く傷ついているからには、刀解や自らの破壊は御法度だ。今以上に大将の心を壊しかねない。それゆえ、本丸の刀剣たちは他の審神者に譲られていくことになるだろう、という。
「――引退する審神者の護衛として、ひと振だけ刀剣が審神者と共に行けることになっているが、これはおそらく山姥切国広になるだろう。特に意向がなければ、初期刀ということになっているらしいのでな」
「長谷部は……本当にそれでいいのか?」
 納得できるのか? 俺は言下にそう尋ねた。長谷部は遠い目をして、目の前に広がる荒野を見つめた。
「構わないと言っているだろう。……それで、主の心が守られるのならば、俺はさげ渡されることも辞さない」
 織田から黒田への一件を根に持っている長谷部からすれば、それはどれほどの覚悟を以て出てきた言葉だっただろう。俺は長谷部のように、素直に譲渡を受け入れられそうにない自分の不忠を恥じて、黙っていた。
 それから毎日、幾度も俺は部隊長として出陣した。補佐は長谷部のこともあれば、いち兄や鶴丸、三日月のこともあった。というか、毎回、別の補佐がついて様々な戦略と戦術を俺に教え込んだ。長く生きているだけに戦の知識の豊富な三日月。豊臣秀吉ゆずりらしい正当派の策で、危うげもなく勝ついち兄。家風なのか、奇策を用いて不利を有利に変える伊達の縁の刀たち。鉄砲が普及して以降の戦の仕方に詳しい幕末の刀たち――。
 また、本丸内での手合わせでは、大太刀や槍、薙刀など短刀の苦手とする間合いの相手と積極的に当てられた。加えて、同田貫や沖田総司の縁の刀との手合わせで、剣技の最高峰の技術をたたき込まれる。
 低練度で強敵のいる戦場へ赴けば、当然ながら負傷する。皆はなるべく庇ってくれたが、短刀は装備できる刀装が少ない。すぐに刀装が溶けて、直に攻撃を受けてしまう。
 大将はもう審神者としての一部の業務を停止していた。が、手入れと刀装造りは続けていた。俺たちが出陣するからだ。
 だいたい負傷するのは低練度の俺ばかり。刀装造りも、慣れていないのは俺ひとり。従って、手入れと刀装造りのときは、たいてい俺と大将と二人きりだ。
 大将は審神者を辞めると泣いたあの日から、いつも少しぼんやりしている。手入れのときも、刀装造りでも、目の前にいる俺がろくに見えていないかのようだった――最初のうちは。それが変わり始めたのは、俺が幾度目かの重傷を負ったときのことだ。
 慣れた手つきで俺の本体を手入れしていた大将は、ふと顔を上げて俺を見た。少しぼんやりした視線が、俺を捉える。薄い紗を隔てたような曖昧な目差し。だが、それでも俺を見てくれたことには変わりない。俺は思わず息を呑んだ。わずかな呼吸の音ですら、大将を驚かすのを恐れていた。
「――最近、薬研ばかり怪我をしてるな」大将はぽつりと呟いた。「大丈夫か? ……その……僕が言えることじゃないけど……皆と、上手くいってる……?」
 どうやら大将は、いち兄や三日月たちが俺を強敵のいる戦場へ連れ出すのは、嫌がらせの類ではないかと案じているらしい。
 この人は、ひどく追い詰められて、自分の心が壊れかけていてもなお、他者を案じることができるのか。それは、俺たち刀剣とはまったく異なる種類の――けれど、確かな強さだった。
 俺は胸の辺りが熱くなるのを感じた。なぜか、ひどく大将を抱き締めたいと思う。しかし、そんなことをすれば大将を怖がらせてしまうに違いない。俺にできたのは、ただ「大丈夫だ」と笑ってみせることだけだった。
「分かった。それなら、いい。……でも、何かあったら言ってほしい。……本丸を去るまでは、僕は――お前たちに仕える審神者だから」
 それ以来、大将は二人でいるときに少しずつ話すようになっていった。天気がどうとか、畑のこととか、好きな食べ物だとか、他愛もない話ばかりだったけれど、俺にはそれで十分だった。大将の傍にいられるなら、何だってよかった。
 そんな日々が三ヶ月ほど続いて、気づけば俺は練度上限に達していた。ちょうど大将の審神者辞職の準備も終わって、明後日には皆、本丸を去ることになる。その日、俺たちは皆、総出で本丸の掃除をした。次の審神者に明け渡すためだ。
 日中に何とか掃除を終えて、皆が寝静まった夜更け。俺は寝室を抜け出した。戦装束をまとい、本体を腰に提げて正門へと向かう。夜空には丸い月が浮かんでいる。月の明るい晩で、庭も門前もはっきり見えた。俺は正門の柱に近づいていった。正門の柱には時空転移のための装置が埋め込まれている。使用するには符丁が必要だが、部隊長を務めてきたから把握済みだ。
 俺は装置に触れようと、手を伸ばした。そのときだ。
「いい夜だな……薬研藤四郎よ」
 ゆったりした声と共に、三日月宗近が庭先から現れる。きっちり着込んだ戦装束から、彼がこの事態を予測していたことがうかがえた。
「このような夜中に単騎出陣か? どこへ行くつもりだ? 厚樫山か? あるいは池田屋か」
「池田屋さ。思いきり暴れたい気分だったんでね」
「そのまま、戦場で折れる気だろう? やれやれ、若者は短気でいかんな」
「もし邪魔しに来る奴がいるとしたら、あんたかいち兄だと思ってたぜ、三日月の旦那」
「ふむ、いい勘をしているな。……ならば、俺が何と言うかも予想がつくはずだ」
「あぁ」俺は頷いて、腰の本体に手を伸ばした。柄を掴んで鞘から抜く。「俺を行かせちゃくれねぇんだろ。そんなことは承知の上さ。力ずくでも通してもらうぜ」
「面白い。今宵は俺も血が騒いでいた。相手をさせてもらおうか」
 ゆったりとした、しかし、好戦的な笑みと共に三日月が腰の太刀を抜く。月の名を号に持つ刃が、月光の中で青く輝いていた。美しい太刀だ、と同じ刀の目から見ても思う。前の主と共に炎に包まれて、溶け落ちた己の本体とは比べものにならないほどの。改めて目にする太刀“三日月宗近”の神々しさに戦意を挫かれそうになって、しかし、俺は唇を噛んで柄を握りなおした。
 俺は短刀だ。太刀のような優雅な戦いはできない。本体の大きさから、備蓄可能な神気の量も少ない。だが――だから何だっていうんだ。
 地を蹴って、俺は宗近へ飛びかかっていった。喉元をねらって、刃を突き出す。三日月は舞うような動作で、一歩、身を引いた。喉元を狙った俺の刃が空を切って、俺は体勢を崩す。すかさず、三日月は蹴りを繰り出してきた。それを腹に受けて、俺はその場にうずくまる。痛みに数瞬、呼吸ができなかった。が。
 ――こっちは戦場育ちなんだ。これしきのことで、怯むかよ。
 俺は痛みに歯を食いしばって、地を這うような回し蹴りを繰り出す。三日月はそれを避けたが、予想外だったらしくわずかに動きが乱れた。もちろん、その隙をのがすはずもない。俺はバネのように跳び起きて、短刀を閃かせた。三日月はそれを自身の太刀で受ける。
 ガキン。刃同士がぶつかり合って、甲高い音が響いた。
 そのときだ。
「――両者、そこまで」
 高らかな声と共に、三日月が現れたのと反対側の庭から、いち兄が現れる。お目付け役は三日月かと思っていたが、いち兄もだったらしい。三日月だけでも正直、荷が重いのに、いち兄も出し抜いて本丸を抜け出すのは到底、無理だろう。
 俺はため息を吐いて、短刀を下ろした。三日月もすぐに太刀を鞘に仕舞う。
「薬研、お前なら今宵、戦場へ赴こうとするのではないかと見張っていましたが、予想どおりでしたな。三日月どのも、制止役が本気で戦ってどうするのです」
「すまぬ。今宵が最後かと思うと、どうにも血が騒いでな。それにしても、薬研の戦の運びは見事であった。皆で仕込んだだけのことはある」
「三日月どの。あまり弟をおだてないでいただきたい。薬研はただでさえ反骨で、扱いに難儀することもあるのですから」
「俺が反骨なのは、室町の昔からだぜ、いち兄」
「えぇ。主命に背いても、主の腹は切らぬが、薬研は貫いてみせる守り刀“薬研藤四郎”。粟田口の名を世に知らしめた反骨の心。――お前は我らの誇りです」
「なら、分かってくれや。俺は、今の大将以外の人間の手には渡りたくない。大将の刀のままで最後までいたいんだ。その主が審神者を辞めるとあらば、俺は戦場で折れたい」
 俺はいち兄の目をじっと見つめた。いち兄は俺を見て優しく微笑し――拳骨で俺の頭を殴った。「痛ぅ……!」俺は思わず頭を押さえて呻いた。戦場での苦痛は比較的、我慢できるのだが、こういう日常的な痛みは些細であってもかなり痛みを感じるのが不思議だ。
「痛いでしょうな。痛くしましたからな。まったく、お前の悪いところは短気なところです。やはり、織田信長の影響か」いち兄はいい笑顔で言った。
「だって、明日になったら、俺たちは別の審神者に譲渡されちまうんだぜ!?」
「そなたは誰にも譲渡されんよ」三日月が言う。
「え? じゃあ、俺は刀解してもらえるのかい?」
 俺はびっくりして尋ねた。と。

「違う」

 母屋の方から声がした。見れば、戦装束を着たままの国広が出てきていた。そういえば今日の不寝番は彼だったと思い出す。国広の背後には、白い寝間着姿の大将が不安そうな顔で立っていた。
「違うって、どういうことだ?」俺は国広に尋ねた。
「薬研藤四郎、お前は主が審神者を辞するときに、主の護身刀として共に現世に赴くことになっている」
「護身刀? 俺が……? だって、そういうのは初期刀がするもんだって聞いたぜ」
「そうだな。だが、俺は政府の担当者に、お前が適任だと推薦しておいた。担当者は了承してくれたぞ」
 あまりの急展開に、俺は呆然としてしまう。しかも、この話が寝耳に水なのは大将も同じらしかった。国広に自分も何も聞いていない、と弱々しく抗議する。それを聞いたら、なんだか腹が立ってきた。俺が蚊帳の外なのは構わない。だがいくら何でも大将に言わないのは。
「おいおい、こりゃあないんじゃねぇか? 大将に黙って、護身刀を変更しちまうなんて。――……だいたい、大将は……俺が護身刀じゃ、困るだろ……」
 俺がそう言うと、大将は弾かれたように顔を上げた。俺へ向けられた視線がグラグラと揺れる。俯こうとして、それでも努力して俺を視界に入れようとしているようだ。
「僕、は……」迷いの残る声で、大将は訥々と言葉を紡ぐ。「――……薬研が、嫌いなわけじゃ……なくて……その……」
 必死に声を出そうとする大将の傍へ寄って、国広は痩せて細くなった肩を抱いた。慰めるように背中をさすってやりながら、それでも、きっぱりと言う。
「主、辛いことから逃げても、無駄だ。俺も……ずっと写しだという真実から逃れたかったから、分かる。辛いことは、逃げたとしても、何度でも追ってくるんだ。立ち止まって、向き合って、受け入れないと、ずっとずっと逃げることになる」
「主よ」三日月が穏やかな声で呼びかけた。「俺たちはな、主にまた笑えるようになってほしいのだ。審神者でなくてもよい。現世に戻ったなら、笑って、ごく当たり前の生を生きてほしい。そのために――その傷を乗り越えねばならぬ」
「お願いでございます、主。我が弟と向き合ってやってください」いち兄は深々と大将に向かって頭を下げた。「弟は比類なき忠義の刀です。からなずやあなたをお守りいたします故」
 大将は言葉を紡ごうと口を開きかけて――そこで、何か思い出したようにビクリと身体を揺らした。
「待ってくれ……。そういえば、僕はお前たちが譲渡されて行く先を知らない。国広が処理してくれていると思って、任せきりだったから――」
「そのことなら、心配はない」三日月はにこやかに答えた。

「俺たち四十一振は、明日、政府が派遣する者によって刀解される」

 許せよ、主。これはそなた以外の審神者を主と頂く気のない俺たちの、最後のわがままゆえ。大人しく聞き入れてくれ。――三日月が穏やかに言うのを、すっかり蚊帳の外だった俺と大将は呆然と聞いていた。





2.審神者



 僕は一睡もできないまま、夜を明かした。まさか皆が刀解を望んでいると――しかも、それが今日、行われるとは知らなくて、どうしたらいいのか分からない。今日が別れの日なら、きちんと挨拶しなければならないのに、僕は朝食にさえ顔を出すことができなかった。とてもではないが、ものを食べられそうにない。
 様子を見に来た光忠は、僕の状態を予想していたようだった。困った、けれど優しい目で笑って、剥いたリンゴの乗った皿とジュースの入った湯飲みを差し出す。
「食べられなくても、少し食べておかないと。倒れちゃうよ」
 そう言われて、僕は何とか器のリンゴを食べた。ジュースも飲むが、甘いということ以外ろくに味が分からない。それでも何とか食べてしまうと、「よくできました」と頭を撫でてから退っていった。
 僕は私室のある離れの洗面所で、顔を洗った。鏡に映る僕は、幽鬼みたいにひどい顔をしている。今日が別れの日だとしたら、こんなひどい有り様で皆を送るわけにはいかない。せめて、一日。今日だけ。前の自分がどうだったかなんて、もう思い出せないけれど、皆に仕える審神者として振舞わねばならない。それが審神者としての僕の、最後の仕事だ。そう自分に言い聞かせて、ありったけの気力をかき集める。ひび割れた心を意地でつなぎ合わせて、僕は背筋を伸ばした。
 部屋に戻ると、加州が待っていた。どうしたのかと問えば、掌大の丸い容器を見せられる。
「これは?」
「白粉だよ。今日はお客が来るでしょ? 燭台切が、主の顔色が悪いから少し化粧をしてやってって」
 さ、座って、と加州に促されて、僕は畳に正座する。加州が白粉をつけた刷毛で、僕の顔を撫で始めた。女の子なら、あるいは演劇でもしていれば、僕の年齢では化粧をした経験もあるのだろう。しかし、僕はそのいずれでもないから、何だか緊張してしまう。
 加州の爪紅や太郎と次郎の目元の紅が、装いというより魔除けの意味なのだと聞いてはいた。そういう意味合いの化粧があるのだと。が、それでも化粧への抵抗感は根強い。
「大丈夫だよ、主」加州は上機嫌で、唄うように言った。「こんなの、お客を迎える間くらいしか保たないから」
「うん。……それはいいけど、加州は何でそんなに機嫌がいいの? 今日は――」
「だって、主とちゃんと一緒に過ごしたの、久しぶりだから」嬉しげに笑った加州は、そこでふと優しい目をした。「あのね、主。刀解は人間の死とは違う。俺たちは顕現している今も、薄く本神の意識とつながっていて、そこに還るってだけだから。別れは寂しいけど、恐れることはないんだよ」
 そう言う加州には、もはや「可愛がって」としきりにねだる子どもっぽさはなかった。むしろ、どこか超然としている。彼が刀解を恐れないという理屈は、僕には理解できなかった。自分の意識から個が剥がれ落ちて根本へ還っていく――そんな状態は想像もつかない。人間が、個として生まれて、個として死んでいくものだからだろう。
 僕は刀剣男士とは違う。どれだけ親しくしていても、彼らが家族のように思えても。僕と彼らの根本は別なのだ。あぁ、そして皆、去っていくのか、と嘆き疲れた心にふと納得が降ってきた。
 やがて、政府から刀解を行う担当者が訪ねてくる時間になった。端末から相手方の到着が知らされ、僕は国広と共に正門で出迎える。
 正門から出てきたのは、単に水色の袴姿の男だった。年齢は二十代半ばくらいだろうか。けれど、年齢よりも妙に落ち着いた様子のせいで、もっと歳上のようにも思える。彼の傍らには、刀剣男士――鶴丸国永がつき従っていた。
 男は、鍛刀師“六条の君”と呼ばれる人物らしい。普段は政府から派遣され、他者の本丸で鍛刀を行っているという。
「鍛刀を、お仕事に……?」
「審神者どの、案ずることはない」と“六条の君”の鶴丸国永が言った。「鍛刀と刀解は同じ行為を逆に行うだけのこと。鍛刀の名手であれば、立派に刀解もしてみせるさ」
 果たして、鶴丸国永の言は真実だった。
 僕は国広に請われて、刀解に立ち合うことになっていた。刀解はどこでも可能だが、鍛刀部屋の炉の神の祭壇前で行うのが正式である。僕は祭壇の脇に座り、“六条の君”が刀解の儀式を始めるのを見守っていた。
 最初は、僕の初期刀の国広と、その兄弟刀である山伏だった。国広は最後だろうとなぜか勝手に思い込んでいた僕は、山伏と共に入ってきた国広を見て、動揺した。国広は普段、ずっと被っている布を取り、姿をさらしていた。しかも、以前のように顔を見せることをためらう素振りもない。堂々とした態度だ。
“六条の君”が刀解を始める前に、国広は僕に言った。
「俺は初期刀のくせに、主を支えられなかった。そのことを申し訳なく思う」
「そんな……国広はちゃんと僕を助けてくれたよ。僕が弱かったばかりに、こんなことに……」
「何が悪かったのかと、気に病むのは止そう、主。俺もそうする――そういう気持ちを本神の元へ持って還るつもりだ」
 還る――そう。別れは避けられないのだ。悲しみが鉛のように僕の心にのしかかる。僕は泣きそうになりながら、「皆と別れたくない」と呟く。
「無理だ」国広は頭を振った。「もう戦えないと、主も言っただろう? 俺も同じ見解だ。あんたは、今は戦から退け。それがいい」
 それを聞いている山伏は、優しい顔をしていた。
「主よ。国広はこの本丸で過ごすうちに、強くなった。写しであることに囚われず、己は己であると振舞えるようになった」
「僕は……何もしてないよ」刀剣たちのために、何もできなかった。
 しかし、山伏は「それは違う」ときっぱり言う。
「我々は付喪神。神は永遠、ゆえによくも悪くも変われない。変化はな、儚き宿命の人の子の領分なのだ」
 ――主は、俺たちと共に過ごすことで、変化なき俺たちに変化をくれた。礼を言う、と山伏は笑い、鍛刀師を振り返った。
「さて、そろそろお願いつかまつる」
「承知しました」
“六条の君”は静かに答えて、祭壇の前で立ち上がった。国広と山伏に相対して、祝詞を唱える。
 と。
 次の瞬間、“六条の君”から溢れ出した霊力が、炎となって国広と山伏を包む。それは、朱金の美しい炎だった。傍に座る僕にまでその温かさが伝わってくる。
 炎の中で国広と山伏は僕に一礼し――その姿が燃えつきるようにかき消えた。二人のいた場所には白く丸い光が二つ。分霊の核らしきそれは、燃え上がる炎に運ばれるように天井へと上り、ふっと消える。同時に炎もなくなっていた。
 見れば、炎の触れたはずの床はまったく焼け跡もない。ただ、祭壇に設置された空だった木製の三宝に玉鋼や木炭などの資材の欠片らしきものが載っているのが、変化といえば変化だろう。
 これが刀解か。僕は刀解が嫌で、同じ刀が来ると練結していた。刀解を目の当たりにしたのは、始めてのことだった。
 次にやって来たのは、一期と五虎退だった。ここは楽しかった、薬研を頼むと言って、彼らも還っていく。その後続いた他の粟田口も恨み言を告げることなく、刀解されていく。さらに愛染と蛍丸がバイバイと手を振り、左文字三兄弟はありがとうと笑った。鶴丸は「息災でな」と片手を上げ、長谷部は「叶うならば俺が護身刀になりたかった」と苦笑して。みんなみんな、空へ還った。


 半数ほど刀解したところで、“六条の君”がふらつき、倒れそうになった。鍛刀部屋の入り口近くに控えていた薬研が気を利かせ、休息をと勧める。そこで、半刻ほど儀式を中断することになった。
“六条の君”と彼の鶴丸国永は、休息のため客間に入っていった。僕は茶を出さなくてはと思い立つ。茶を淹れた急須と茶碗を盆に載せて、客間へ向かった。客間は縁側の襖が開け放してあった。僕はそこから中へ入ろうとして――ギョッとして立ち止まった。“六条の君”が鶴丸国永と唇を重ねていたのだ。短い間の後に、二人は口づけを解いた。そのまま、鶴丸国永が“六条の君”を抱きよせて耳元に唇を寄せる。
「少し眠れ、“     ”よ」
 鶴丸国永は“六条の君”の真名を使ったらしかった。コトリと眠りに落ちた彼を横たえる。その上に羽織を掛けてやってから、鶴丸国永は庭を――というか、戸の陰にいる僕を振り返った。
「すまないな、審神者どの。お恥ずかしいところをお見せした」と、さして恥じらう様子もなく言う。
 僕はおずおずと部屋へ入っていった。眠る“六条の君”は、最初の落ち着いた印象に反してどこかあどけない様子だった。鶴丸国永が傍にいるからか、安堵しきっているのが感じられる。
「お……お茶をお持ちしました」僕は言った。が、動揺のせいか少し声が裏返ってしまう。
「ははは、審神者どののような若人には、刺激が強かったか。――だが、あれは別にいちゃついてたわけではないんだ。不足した主の気を、俺の気で補ったのさ」
「は、はぁ……」
 どう相槌を打つべきか分からず、僕は曖昧に頷く。その反応に鶴丸国永は苦笑して、眠る彼の主に目を向けた。優しい、それでいて、どこか熱を帯びた――まるで“六条の君”が生み出す炎のような眼差しだった。
 ――あぁ、恋をしているのか。
 ストンと鶴丸国永の態度を納得する。他人の恋をそうと悟るのは、妙な感じだった。いつか、自分が誰かをあんな眼差しで見ることがあるのだろうか、とぼんやり思う。そんな自分は想像もつかなかった。
 審神者の仕事に耐えきれず、心を壊して逃げ出したのだ。壊れた心では、恋などする余裕があるはずもない。
 そう思った僕の前で、鶴丸国永は言葉を続けた。
「審神者というのは、大半が刀解を苦手とするらしい。刀解は俺たちにとって死ではないが、人はどうしても死を連想してしまうのだろうな」
「ええ……」
「実は、うちの主も刀解が苦手でな。本丸を持っていた時代は、絶対に刀解だけはしなかったものだ」
「え? “六条の君”が?」
 僕は思わず、眠る彼を見た。刀解の儀式のとき、彼は堂々として落ち着いていた。まさか刀解が苦手なんて、誰が気づくだろう?
「驚いたか? 主は本当に刀解を嫌がるんだ。――あるとき、本丸を襲撃されて、俺以外の刀剣がすべて折れるか、闇に落ちかけた」
「――それで、どうなったんです? 」
「本来、そうした場合には形式的にでも刀解を行う必要がある。刀解というのは、分霊を本神に還すためのものだからな。だが――主は刀解ができず、さりとて、皆を闇落ちさせるわけにもいかず……自らの魂に練結した」
「できるのですか? そんなことが」
「理論的にはな。だが、そんなことをすれば、人間にはどんな影響が出るか分からん」
「もちろん、するつもりはありません……。それにしても、意外でした。“六条の君”も僕と状況は違っても、自分の刀剣を失っていたなんて」
 僕の言葉に、鶴丸国永は目を細めて笑った。
「皆、そんなものだ。最初からできる奴はいないし、後悔を繰り返しながら、進んでいく。俺の主だって、今じゃ済ました顔をしちゃいるが、仲間を失ったことを長い間、受け入れられずにいた」
 ここの刀解の依頼は、主にとっては心の整理になったのだろう。そうであるが故に、刀解の儀式には気合いを入れて挑んでいる。この依頼をいただけたこと、主に代わって礼を言う、と鶴丸国永は頭を下げた。



 やがて休憩が終り、儀式が再開された。清光と安定が連れ立ってきて、「可愛がってくれて嬉しかった」と還っていった。同田貫はもっと共に闘いたかったと言って、ニヤリと笑った。残りの刀剣たちが順にやってきて、最後が三日月だった。それまで、鍛刀部屋の入口に控えて儀式に赴く刀剣たちの呼び出しをしていた薬研も、中へ入っていて僕の傍らに立つ。
 三日月は僕に「楽しかった」と告げた。
「そなたと過ごす日々は楽しすぎてな……それで、皆、なかなかそなたを審神者の重責から解放してやれなんだ。許してくれ」
「そんな……悪いのは、僕なのに」
「そなたは精一杯やった。俺たちは皆、そう思っている」それから、三日月は薬研へ目を向けた。「薬研、そなたもだ。そなたを護身刀とするために厳しく仕込んだが、そなたは見事に我らの期待に応えた。よく耐えてくれた」
 三日月は僕の頭を撫で、次いで薬研の肩を励ますように叩いた。それから、ゆったりとした足取りで“六条の君”の前に立つ。彼の生み出した霊力の炎が、三日月を包み込んだ。炎の中で、三日月が振り返って笑う。
「主……俺はそなたに幸せに生きてほしい。そう願っているのは本当だ。――だが、願わくば、また再びこの戦場で共に戦いたい。皆で言わないでおこうと決めたが、我ら四十一振、皆、同じ思いなのだ」
「三日月……あなたは僕を許してくれるのか。不甲斐ない僕を」
「不甲斐ないも何も。そなたは俺の――俺たちの大切な主だ。今も、これからも。次に相見えることがあるとすれば、俺は今の俺とは異なっているだろう。他の皆もな。だが、そなたが求めるならば、きっと力を貸すだろう」
 炎の中で、三日月の姿が白い球状の光に変わる。分霊が天井付近に消えるのを目にしたら、ほんとうにすべてが終わってしまったのだという気がした。僕は堪えきれず、その場にくずおれて嗚咽する。傍にひざまずいた薬研が背中を撫でてくれる手が、ひどく頼もしく思えた。





3.薬研藤四郎




 鍛刀師たちが去ると、俺と大将は本丸に二人きりになった。本丸の明け渡しは明日。今日はまだこの本丸にいなければならない。大人数での生活に慣れてしまったため、俺と大将だけの本丸はがらんとして妙に虚ろだ。弟に囲まれていることが多かった俺は、こうも静かすぎると逆に身の置き所が分からないような気さえした。大将は、すべての刀解が終わったときに泣き崩れはしたが、すぐに立ち直った。数時間経った今は、こちらが不安に思うほどに落ち着いている。俺と共に台所に立ち、料理をして、共に食べる。食器の片付けも手際よかった。というより、何かにつけて淡々としていた。
 夜はふたりして離れで寝た。大将はこれまでの私室で。俺は近侍の部屋を使う。不寝番はもういいと言われたが、ここは本丸。ときには歴史修正主義者たちが攻め込んでくることもある。そこで、俺は大将には内緒で近侍の部屋で起きていることにした。
 大将の私室からはもの音ひとつ聞こえない。本当に静かな夜だ。大将は、ひとりで思い詰めていないだろうか。一度、声をかけておくべきだろうか、と思うが、大将が迷惑に思ったらと怖くてできない。
 ――こんな風で、俺はこれから大将の護身刀でいられるのだろうか。皆の期待に応えられるだろうか。
 胸の中で渦巻く不安を散らそうと、俺は外へ出た。ゆっくりと静かな庭を歩いていく。と。
「あ……やげん……」
 私室の縁側に座る大将が声を上げた。どうやら、眠っていなかったらしい。大将は縁側へ膝を抱えていて、声には涙の気配があった。やはり、ひとりきりで泣いていたらしい。傍にいたいと思ったけれど、嫌だと拒絶されたらと考えてしまう。
「たいしょ、も……眠れない、のか?」
 そう言った声は、みっともなく掠れていた。それに気づいてか気付かずか、大将は夜空を仰ぐ。
「眠れないよ……。でも、こんなことには、もう慣れっこなんだ。最初の薬研を失ったときから、ずっと……僕はずっと黒いもやの中にいるみたいな気がする」
 その声には、嘆くことに疲れ果てたような響きがあった。
 あぁ、と俺は思った。大将が俺を受け入れるとか、受け入れないとか、たぶんそんな話ではない。大将はずっと薄い紗の中にいるような状態で、世界と隔てられているのだろう。皆、大将をそこから助け出したいと思ってきたし、俺もそれを願っていた。だけど、外から手を伸ばすのでは、今の大将には見えないのだろう。
 だったら、俺は。
「……俺も、眠れないんだ」
 胸を切り開くような気分で、そう弱音を吐いた。大将は空から俺へ目を向けて、首を傾げる。
「薬研も?」
「あぁ。俺はここへ来てからずっと、いち兄や弟たちが傍にいたから……こんなに静かなのは初めてだ。仲間も誰もいないなんて……こんなに静かだなんて、どうしていいのか分からねぇ」
「そっか……。そう、なんだ……」大将はしばらく黙っていたが、再び口を開いた。「だったら……眠れないのなら……――一緒に寝るか?」
「……大将が許してくれるのなら」
 答えると、大将は俺を手招きした。彼に手を引かれて、縁側から大将の私室に上がり込む。延べられたまま、寝た形跡のないひとつ布団に、ふたりして潜り込んだ。互いに身を寄せ合い、ぴたりと抱き合う。
「皆がいないから、寂しいな。――……ごめん、薬研。お前が兄弟を失ったのは、僕のせいだ」
 大将がそう呟くのを、俺はとっさに自分の唇で封じた。彼に欲情していたわけではない。ただ、大将が自分を責めるのを辞めさせたくて、慰めたくて、そうしただけ。色も熱もない幼い口づけだった。
 すぐに唇を離すと、窓から差し込む月明かりの中で大将と目が合った。大将はじっと俺を見ていた――俺の目を。紗のかからない、はっきりした眼差しを向けられて、頭の芯が痺れるほど驚く。たぶん、大将が俺をまともに見たのは、俺が顕現してから初めてのことだ。
「やげん」
 小さく呼ばれる。大将の眼差しが今のは何だと問うていた。
「何でもねぇよ、大将。親猫が子猫を毛づくろいするようなもんだ。あるいは、赤ん坊が母親の乳を求めるのと同じだ。何でもねぇ」
 そう答えると、今度は大将が顔を近づけてきた。唇を触れ合わせ、甘噛みのようにやんわり食まれる。柔らかな感触が心地よくて、ひどく安堵する自分がいた。抱き合い、時折、口づけあいながら、ふと気づく。たぶん、今、俺は大将と現実の世界を隔てる紗の内側にいるのだろう。そうして、ほんものの大将に触れているのだろう――と。










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