同じ夜を分かつ3


※途中、男審神者×脇女性キャラになりかかる描写があります。



1.薬研藤四郎




 現世に戻った大将は、もう泣かなかった。

 本丸の仲間が刀解された翌日、政府の担当者が大将を迎えに来た。担当どのは三十代になるかならぬかという男だ。ひょろりとして、生白い青瓢箪みたいな風貌だが、三日月やいち兄たちの話では頼りになるということだった。何でも、上層部が戦績な大将の審神者辞任を渋ったとき、担当どのが奔走して上の承認を勝ち取ってくれたらしい。ばかりか、心を壊した大将が現世で『かうんせりんぐ』を受けるのに付き添ってくれたり、何かとよくしてくれたという。
 担当どのの傍らには、へし切長谷部が従っていた。担当どのは審神者ではない。それに、この前に見たときは長谷部はいなかったはずだ。どうしたのかと尋ねると、担当どのは困った顔で笑った。ちょっと大人の事情でと言葉を濁すから、俺たちには言えないのだろう。
 俺は大将に従って、初めて現世へ渡った。現世は俺の本神の記憶にあるどの時代とも、まったく異なる世界だった。本神に還った分霊の中には、もちろん、現世での体験を持つ者もあった。が、それは本神の記憶とは違って、俺自身の体験という実感がまったくない。だから、現世は理解できるようで、しかし、理解できていない場所ということになる。
 政府はといえば、現世で暮らすことになる護身刀たちの、そうした戸惑いを把握しているようだった。現世に戻って一週間、大将が健康状態を調べるための検査を受ける間、俺は別の場所で研修を受けさせられた。現世の概要や歴史、暮らし、護身刀としての心構え――。
 中でも最も時間が割かれたのは、意外なことに護身刀としての在り方についてだった。現世につき従う護身刀は、ただ主の身を護ればいいわけではないらしい。
「本丸での審神者は、あなた方、刀剣男士の主であり、あなた方に仕える巫子です。しかし、戦いから退いた彼らはただの人の子なのです。どうか、人の子が己の幸せを選ぶことを、許してやってください」
 講師としてそう説いた老女は、神職の血筋らしかった。よく視れば、ある刀剣の神気が彼女を緩く取り巻いている。その加護はさり気なく、彼女が本来、繋がるべき縁の糸をねじ曲げ、あるいは逸らしているようだった。
 これは、と俺は内心、ヒヤリとした。
 おそらく、老女は審神者だったことがあるのだろう。あるとき、職を辞して現世に戻ったが、彼女の護身刀は本当の意味で世俗に戻そうとはしなかったらしい。きっと、老女は人間の夫や恋人を得ることはできなかったに違いない。下手をすると、親しい友人も。
 俺たち刀剣男士は付喪神――末端とはいえ、神だ。初期の頃はいざ知らず、今、世に顕現する分霊の力では、神隠しはできない。しかし、縁をねじ曲げたり、人の子を世俗の理から外したりすることは、簡単にできる。今更ながらに、そう気づかされた。
 それは強烈な誘惑だった。大将の世俗の縁をすべて断ち切って、自分だけのものにできる。――あぁ、でも刀解されていった皆はそんなこと、望んでいなかった。皆、大将が人として幸せになることを祈って還っていった。俺にはその祈りを無下にするような真似はできない――許されない。
 考えこんでいるうちに時が過ぎて、講義は終わっていた。一緒に話を聞いていた他の護身刀たちは出ていき、部屋には俺と片付けをする老女のみ。ふと目が合うと、老女はにっこり微笑した。
「どうかなさいましたか、薬研藤四郎さま――」
 と、そのときだった。部屋の扉が開いて、背の高い刀剣男士が入ってきた。現代風の服装だが、間違いない、大太刀の石切丸である。「迎えに来たよ、主」というからには、老女の護身刀なのだろう。彼女を取り巻く加護は、この温和そうな大太刀のもののようだった。
「ありがとうございます、石切丸さま」
 老女は穏やかに笑って言った。見れば彼女の霊力は、やや過剰な加護を水のようにゆったりと受け入れているらしい。その加護が束縛も同然だと、彼女ほどの人なら気づいていそうなものだが――嫌ではないのだろうか。薬研は何だか不思議に思いながら、老女と石切丸を見つめていた。
「おや、受講生かい?」石切丸は薬研に目を留めて言った。「すまない。うちの主に質問でもするつもりだったんだろう? 邪魔をしてしまったね」
「いや、質問というか……あんた方は――」
「あぁ、主の講義の後に僕らの様子を見ると、受講生はたいてい不思議そうな顔をするね」
「まぁ、そういう意図で私がこの講義を任されているのですからね」老女は澄ました顔で笑った。
「あんた、恨んではいないのかい?」薬研は老女に尋ねた。「加護のせいで、あんたは現世の縁を……」
「昔は恨みましたよ。どうして私を世俗に戻してくれぬのか、と。――でも、共に過ごしていると、どうしてもそのうち絆(ほだ)されてしまって。許さぬわけにはいきませんでした」
「おっと、薬研藤四郎。主の言を丸呑みにしてはならないよ」石切丸は渋い表情で言った。「私が正式に妻問いして、やっと頷いてくれたと思ったら、死んで魂になってから嫁すという」
「あらあら、それを承知なさったのはどこのどなたさまやら。恨み言はなしですよ」
 老女は微笑した。途端、勝ち気な印象が前面に表れる。彼女が数十年前はどのようであったのか、目に浮かぶようだ。石切丸は苦笑して、肩を竦めてみせた。
「人間というのは、案外、強かなものだよ。結局のところ、彼らは自らの心に従って生きる。我々が彼らに強制しようとしても、まったく本意でなければ、限りある生命を逆に人質にして、黄泉の女神の元へ逃げ込もうとさえするくらいだ」
「なんだか分からんが、苦労してるんだな、石切丸の旦那」
「惚れた弱味という奴さ」石切丸は迷いのない口調で言った。「我々は刀剣だ。その我々が気に入る人間が、果たしてひ弱なだけだと思うかい?」
 言われてみて、俺は納得した。もともと、刀剣男士は自らを降ろした審神者への敬愛と庇護欲が強い。必要とされれば、悪い気はしない。
 けれど、どうしようもないほどに大将に惹かれていると感じたのは、彼の弱さに触れたときではなかった。大将が、自らも傷ついているのに、それでも俺を気遣ったとき、想いを自覚したのだった。
「……確かに、そうだな」
「あぁ。気に入るということは、その人間に己の所有者たる資格があるということ。実際に刀を振るえるかは別としても、強い意思を持つことには変わりない。こちらは神といえども、そうそう相手を意のままにはできぬのさ」
 まさに惚れた弱味だろう? と石切丸は言葉を結んだ。


 一週間の検査が終わって、大将は実家に戻った。もちろん、俺も一緒だ。大将のご両親にきちんと挨拶しなければ、と身構えていた俺は、しかし、家の様子に目を丸くすることになる。大将が帰宅した途端、親父どのが大将を怒鳴りつけたのだ。
 ――政府からいただいたお役目を途中で投げ出すとは何事か。本家に申し訳が立たぬ。
 大将は殊勝な面持ちで叱られていたが、やがて解放されて自室へ向かった。大将の自室は審神者のときのそれとはまったく異なって――現世の講義の中で見た『子ども部屋』という感じだった。子ども用の机の上に、ぷらすちっく素材の人形のようなものが三体、置いてある。何かと問えば、『プラモデル』だと答えが返ってきた。
「それはロボットのプラモデルだな。審神者になる前、そういうのを集めてたんだ」
 と笑った大将は、父上に叱られたことがさほど堪えた風でもなかった。現世の親子関係というのは、そういうものなのだろうか。室町の頃は家長の言はなかなかに絶対的だったものだが。
 大将は数日、実家に滞在したが、間もなくそこを後にして、余所の住み処へ引っ越してしまった。審神者時代に通信教育で受講していた大学に通うことになるので、より近い『アパート』にしたのだという。せっかく現世に戻ったのに家族の元にいないのか。そう尋ねてみたら、大将は少し困った顔をした。
「実家に帰ったとき、うちの父は怒ってただろ?」
「あぁ……。俺たち刀剣が現役だった頃は、確かに親父どののような考え方が普通だったな。お役目が果たせなければ、己どころか一族にまで類が及ぶことがある。だから、侍は命懸けで主君に仕えたもんだ。だが、今はそうじゃない、だろ?」
「なんというか、うちの親の頭は江戸時代で止まってるんだよね。親というか、本家のせいだろうけど」
「本家?」
「うちは分家なんだ。本家は神職。僕が審神者になったのも、本家の意向だよ。まぁ、そこが家とか血筋とかに煩いんだけど――」
 大将はふと表情を消した。その眼差しは、ここではないどこかを見ているよう。俺は彼が消えてしまいそうな気がして、彼の手を握った。
 新しい住まいの同じ『ベッド』の中でのこと。大将は俺の行動に不審がるでもなく、無邪気に手を緩く握りかえしてくる。
「僕自身はもう、家とか血筋にあまり価値を見出だせなくなってしまった。だって、そんなもの審神者としての役目の中で、役に立たなかった。家が、血筋が、前の薬研を破壊から守ってはくれなかった」
「たいしょう、言わなくていいよ。なぁ、たいしょ」俺は大将を抱き締めて、弟をあやすときのように囁いた。背中を軽く叩いてやる。
 それでも、大将は言葉を止めなかった。
「血筋や家柄では、審神者を続ける心の支えにはならなかった。仲間を刀解することになったのも、僕のせいだ。ねぇ、薬研――」
 大将はやんわりと俺の腕を掴んで、抱擁を解いた。口吸いのときみたいに顔を寄せて、コツリと額を触れあわせる。本丸での最後の夜のように大将は不安定になっているのだろう――そう思っていたが、違った。暗い部屋の、外の明かりがわずかに差し込む中で見た大将は毅(つよ)い目をしていた。
「たいしょう……」
「薬研、僕は強くなるよ。お前みたいに敵は倒せないかもしれないけど……大切なものを守れるように、強くなる。そのために、家柄や血筋は余計なんだ、僕にとってはね」
 そのために、大将は現世の繋がりから外れていこうとしている。人は儚いがゆえに、己に続くものを望んで一族の繁栄を祈るというのに。
 俺は分からなかった。ここで大将の意思に反対しても、家族と共にいた方がいいと言うべきなのか。けれど、そうして世俗に戻れば大将は俺から遠ざかってしまうかもしれない。俺たちの愛した魂の美しさを失ってしまうかもしれない。そう思うと、何も言えなくて。

 ――俺にできるのは、何があろうと大将のそばにいること。この人の守り刀であること。

 そう、己に言い聞かせる。けれど、それは大将にとっての最良を共に選んでやれないことへの免罪符みたいでもあった。




2.審神者





 現世での日々は、呆気ないほど穏やかに過ぎていった。

 高校の課程の半ばで審神者になった僕は、通信教育で高校を卒業して大学に入っていた。現世に戻ってからは、通信教育で受講していた大学に通った。
 その間、薬研は僕の傍にいた。といっても、顕現したままの姿では、彼はせいぜい高校生といったところ。僕も時間の流れの曖昧な本丸にいた影響で、成長は遅めだが、薬研は明らかに大学生には見えない。しかし、刀剣男士はその気になれば顕現した姿を調整することができるらしい。薬研は短刀姿で僕の鞄に仕舞われているより、僕と同じ年頃の姿でついてくることを好んだ。授業もたいてい一緒に受けていたので、大学の友人たちは薬研を同期生だと思い込んだほどだ。
 ただ、僕が意外に思ったのが、女の子たちが薬研に騒ごうとしないことだった。刀剣男士は末席の神であるから、皆、それぞれに美しい姿をしている。薬研もその例にもれない。女の子たちの間で人気が出てもおかしくはないはず。僕がそのことを尋ねると、薬研はニヤリと笑ってみせた。
「へぇ、大将は俺が美しいと思ってくれているわけかい」
「だって、事実だろ」
「いや、まぁ、神ってのはそういうもんだが……事実でも、大将に思ってもらえるのは嬉しいな。――そうそう、容姿に関しては、この姿を変えているのと同じ術で、皆の目を眩ませてるのさ」
「目眩まし……?」
「そう。皆は俺にさほど注意を払わない。たとえ顔を見て話したとしても、俺の容姿は印象に残らない。そういう術だ」
「へぇ……便利だね」
 そんなわけで、薬研が僕の傍にいても何の問題もなかった。あったとしたら、むしろ、何の障害もなく傍にいることができたという点だろう。彼は医学や薬学に興味があるらしく、図書館ではそういう本をよく読んでいた。いっそ、こっそり講義に紛れ込んで聴講してくればいいのに、と勧めたこともある。しかし、薬研は頷かなかった。
 薬研が現世にいるのは、僕の護衛のためである。その役目をないがしろにするのでは、何のための護身刀か、というのだ。
 確かに薬研の言葉は正論だった。歴史修正主義者はいつ襲撃してくるか分からない。襲撃で殺されるだけならまだいいが――よくないけど――拉致されて拷問を受けたら。政府側の機密情報を漏らしてしまったら、多くの審神者と刀剣男士を危険にさらすことになる。
 それでも、薬研は意思と知性のある存在だ。できる限り自由に過ごしてほしいという気持ちもあって――結局、この問題は解決しなかった。妥協点として、僕は医学薬学系の公開講座や講演会に薬研と共に出たり、図書館でそれぞれに勉強する時間を取った。僕が専門の語学系の勉強をする間、薬研は熱心に医療系の本を読んでいたものだ。
 何だかんだで互いに折り合いをつけながら、僕らは三年間を過ごした。もうじき僕は卒業して、社会人になることになる。この三年間の間、僕は審神者時代の知り合いと連絡を取り合っていた。僕のその後のフォローのためだという。面談をするのはたいてい、元担当さんか“六条の君”だった。面談というか、お茶会や飲み会であったりするその会合には、薬研や“六条”さんの鶴丸国永が同席することも多かった。担当さんの預かりだというへし切長谷部だけは、一度も姿を見せはしなかった。
 一年前、担当さんが異動で遠方に行ってしまってからは、“六条”さんが何かと僕を気遣ってくれた。僕の進路の相談に乗ってくれたのも彼だ。僕が卒業後の希望について話すと、“六条”さんは悲しげな目でこちらを見た。が、僕の意思を確認すると、すべてを取り計らってくれた。彼には感謝してもしきれない。
 卒業を間近に控えた年の暮れ、僕は仲間内の忘年会に出た。薬研は表面上は誘いを断り、本体として僕の鞄に入ってついてきた。なぜ、そうしたのかはよく分からない。ちゃんと尋ねてみたことはない。ただ、彼は僕の現世での交遊関係に介入してしまわないように、注意を払っているように思える。
 忘年会は盛り上がり、二次会へと続いた。僕はお酒が飲めないわけではないけれど、酒豪でもない。一部の学生たちがするように、自分の飲酒許容量を試したり、拡大しようとしたりにも興味がなかった。友人が誘ってくると、そのときばかりは薬研が――彼は短刀なのにいわゆる“ワク”だ――杯を全部受けてしまって、僕に飲ませなかった
 その日は薬研が酒の席に不在だったので、僕はいつもより多目にお酒を飲んだ。もうじき卒業ということもあり、仲間たちの酒にはなるべく付き合おうと思ったのだ。
 馴れないことをしたために、二次会の半ばで僕はすっかり酔ってしまった。記憶が曖昧になって――気づけば、見知らぬ部屋のソファにいた。内装からして、女性の部屋だろう。僕は驚いて、それで目が醒めた。
 どうして、薬研は警告も何も発さなかったのだろう。本体のままでは難しいのだと分かっていても、見棄てられた気分になってしまう。
 と、そのときだった。足音がして、ドアが開く。バスルームらしき部屋から出てきたのは、同期生でも仲のいい女の子だった。
「あら、起きた?」ゆったりしたワンピース姿の彼女は、微かに笑って僕の傍に来た。「あなた、すっかり酔ってたから、タクシーで一緒に帰ってきたの。おうちが分からないから、とりあえずあたしの家にしたんだけど」
「迷惑かけてごめん。タクシー代、払ったら帰るから」
「別にいてもいいよ。もう深夜だし、こんな時間に帰ったら、風邪引くよ」
「ダメだよ。悪い噂が立ったら、君に申し訳ないから――」
 と、そのときだった。彼女がソファの隣に腰を下ろし、身体を押し付けてきた。僕は情欲を感じるより、心配になって身を強ばらせる。僕の知る彼女は、こんな風に振る舞う子ではなかったはず。何か嫌なことがあって、投げ遣りになっているのでは――。
 そう思う間にも、彼女は僕の上に身を乗り上げてくる。
「ちょっと、あなた男でしょ。生娘みたいな反応しないで、楽しみましょうよ」
 そう挑発された僕は、彼女へ手を伸ばし――柔らかな頬を摘まんで引き伸ばした。「いひゃい、あにすんの」と舌足らずに彼女が講義する。
「痛いだろうね。痛くしたからね」僕は、一期一振が怒るときそうしていたように、笑顔で言った。それから、摘まんでいた彼女の頬を解放してやる。「で、何でこんなことしたの? 君、そういう子じゃないよね? ついでに、僕への好意だって、ライクの方だよね?」
 彼女はしばらく固まっていたが、やがて僕に抱きついてワッと泣き出した。彼女がひとしきり泣いて、泣き止むのを待って、事情を聞き出す。それによると、彼女は僕の遠い遠い親戚なのだという。彼女も僕と同じようにほとんど一般家庭で育ち、普通に就職する予定だった。幼い頃から憧れていた職種で内定も勝ち取った――その矢先だった。就職するための健康診断で、審神者適性が発見されたという。
 審神者適性があるからといって、必ずしも審神者になる必要はない。政府からの勧誘は何度もあるが、すべて断れば無理強いはされない。担当によっては、脅しまがいのことをして適性者を審神者にしようとしたケースもあるらしいが。
 ただ、彼女の場合は僕と同じ神職の血筋だった。審神者適性があるならば、審神者として国のために、本家の評価のために役目を果たせというのが、本家の意向である。しかし、彼女は審神者になりたくなかった。現世に残りたいと言うと、本家は彼女に命じたらしい。いわく、僕を本家側に取り込むことができれば、審神者就任を免除しよう。したがわねば、内定先に掛け合って、内定を取り消してもらう、と。
「つまり、あたしにあなたと結婚して現世に繋ぎ留める楔になれって。あなた、真面目だからキセイジジツ作っとけば責任取るって言いそうだし」
「いや、確かに責任とらなきゃならないなら、取るけどさ。――ていうか、僕を取り込んで本家に何の得があるの?」
「あら、知らないの? あなた、審神者時代の政府からの評価が高いから、本家の当主候補の第三位なのよ?」
「はぁ? 何で勝手に候補にされてるの。僕、立候補したことないよ」
「そんなもん、現当主の意向よ。分家に自由意思はない!」
「いやいやいや。本家は局地的タイムスリップしてんの? 何時代にいるの?」
「さぁ? 江戸時代くらい? ……しかも、聞いて驚け。候補第二位さまは病弱、第一位さまは性格に難ありとくれば、第三位のあんたは期待の星よね!」
「だが断る!……まぁ、とにかく事情は分かったよ。あとは僕に任せてくれる? 本家にも政府にも、ちょっと伝手があるから、うまくやれると思うんだ」
 僕はソファから立ち上がった。彼女は不安そうに僕を見上げる。
「うまくやるって、何するの? 危ないこと、しないでよ? あたし、あなたが危険な目に遭うくらいなら、いっそ審神者になったって……」
 帰り支度をしながら、僕は笑ってみせた。不安げな彼女を安心させるように。
「大丈夫だよ。僕には四十二柱の神さまの加護があるから。――だから、何だって、できるよ」


 僕は彼女の家を出た。
 聞けば、彼女の部屋は僕のアパートからひと駅分くらいらしい。少し道順を確認したら、二十分ほどで歩いて帰れそうだった。変な意味でなく朝まで待てばという彼女の勧めを断って、僕は真っ暗な通りを歩いている。十二月、しかも夜明け前のもっとも気温が下がる時間のこと。頬や手など露出した肌に触れる空気は、刃のように冷たい。死んだように静まりかえった通りのどこかから新聞配達らしいバイクの音が聞こえてきて、僕の他にも人間がいるのだと思い出させてくれた。
 ちょうど公園のそばにさしかかって、空が開けた。月と星のまったたく夜空を見上げて、ほぅと意味もなく白い息を吐き出す。僕は立ち止まって、口を開いた。
「薬研、薬研、薬研」
 すると、すぐに背後から返事があった。
「どうした、大将?」
「なんで僕があの子の家に行くのを黙って見てた?」
 結果的には、それでよかった。彼女を苦しめるものについて聞き出し、たぶん救うことができるだろうから。だが、もし彼女――いや、他の女の子であっても――が本当に既成事実を作ろうとしていたら。僕がその誘惑に負けていたら。
 心から愛しあっていないのに枕を交わすことが穢れとなるのかどうか、僕には分からない。でも、薬研の主としてふさわしくはない気がする。ただ、当の薬研が止めなかったということは、構わないのだろうか。女遊びくらい男の甲斐性だと言うつもりか――うん、言いそう。となると、なぜ警告してくれなかったのかと薬研を責めるのはお門違いというものだ。どうしてこうも、僕は彼に甘えてしまうのか。僕は気持ちを切り替えるように頭を振ってから、振り返った。
「ごめん、薬研。今のは僕のわがままだった。自分の理性の手綱くらい、自分で管理すべきだな」
「え? あぁ――いや……」薬研は曖昧な表情で、頷くとも首を横に振るとも言えない微妙な動作をした。「大将が構わないなら、俺は……あんたに下心を持って近づいてくる女を追い払ってもいいんだが……」
「いいんだが――?」
「あんたはもう、審神者じゃない。もっと深く、俗世と関わっていかなきゃならん。いずれはあんたにふさわしい嫁を娶って、子を成して――血を残さなくては」
「僕の遺伝子は、残すほどご大層なものじゃないよ」
「そういうことを言ってるんじゃない。大層とか大層じゃないとかじゃなくて――だって、人はあまりにも早くこの世から去ってしまう。去って、後に何も残らないなんて、そんなのは辛いだろ」
 そう言う薬研は淡々とした顔をしていた。けれど、僕には彼が泣き出しそうに見えた。
 粟田口の名を知らしめた短刀“薬研藤四郎”は、本能寺にて焼失したという。現存組の刀剣とは違って、すでに本体の失われた彼は『消える』ということの辛さも無念さも、他の付喪神よりもよく知っているのだろう。現世との縁をさほど重視できない僕は、きっと薬研の辛さを理解していない。おそらくは、幼子が無邪気にも死を理解しないのと同じで。
 しかし、それは仕方のないことだった。同じ人間同士でさえ理解しあえないことがあるのだ。まして、神である薬研と人にすぎない僕となら、なおのこと。互いの間にある不透明で不安定な何かをなぞるように、僕は彼を呼んだ。
「薬研、キスしていいかい?」
「あ、あぁ……」
 なんでいきなりそうなる、と不思議そうな顔をしながらも、薬研は傍に来て僕を抱き締めた。キスしていいかと訊いたのは僕なのだが、流れで薬研が顔を寄せてくる。顕現したままの姿だと、もはや薬研はほんの少しだけ僕より背が低い。最後は僕の方から少し頭を傾けて、互いの間の残りの距離を埋めた。互いの間にある理解不可能な何かを、そうやって押しつぶすみたいに。
 相変わらず情欲をはらまないまま、緩やかに互いの唇を重ねる。どちからからともなく、戯れるように唇を柔らかく食む。そうしていると、心が穏やかになっていくのが分かった。
 やがて唇を離すと、薬研はスルリと僕から身を引いた。泣きそうな雰囲気はもはや消えていて、からかうような表情で「俺の大将はいつまで経っても甘えただな」なんて笑う。
「薬研にだけだよ、甘えるのは。だって、僕は強くなるんだから」
「そりゃあ心強いが。……さっきの子の件はどうするつもりだい? 任せとけなんて言ってたが、あてはあるのかい?」
「もちろん。――僕は大学を卒業したら、審神者に復帰する」
「――え?」
「お前は反対するだろと思って、内緒で事を進めたんだ。すまない。でも、僕はやっぱり審神者以外に自分のやりたいことが見つからなかったんだよ」
 僕は薬研に頭を下げた。就活準備講座で教わった、九十度に頭を下げるやり方である。薬研は慌てて、頭を上げてくれと頼んできた。
「審神者に戻るって……いいのか? せっかく現世に帰ってこられたのに」
「もう決めたことだよ。次は、もう、逃げない。主義者との戦いが終わるまで……それか、僕が年老いて審神者として働けなくなるまで、梃子でも辞めないつもりだ。――ついてきて、くれるかい?」
「そりゃあ、行くぜ」薬研は即答した。「俺は大将の守り刀だ。最後まで供をするのが、俺の役目。――だが、言わせてもらえば、それだけでさっきの子を救えるとは思えん。何か手は考えてあるのか?」
「あぁ。審神者に復帰するからって、政府にこちらから条件を出す。その条件というのは――」



3.薬研藤四郎






 翌年の春、大将は審神者として復帰した。一度、審神者を経験しているため、研修は一週間ですぐ本丸に配属されることになる。今度は初期刀も与えられなかった。護身刀である俺を、大将は初期刀として登録したからだ。
 大将が配属されるのは、前任の審神者が非道を働いて殺され、刀剣男士たちが闇落ちしかかった曰く付きの本丸――いわゆる『元ブラック本丸』だった。これは大将の方から提案したことである。大将が復帰して政府の頭を悩ませる曰く付き物件を引き継ぐ、と。そして本家の方には、自分が元ブラック本丸引継で政府の本家に対する評価を高めたことを主張して、許嫁にされかかっていた彼女の自由を勝ち取ったのだった。
 ちなみに、大将は審神者に復帰したことで当主候補から外れ、第三位には候補第二位さまの妻――つまり大将の姉上が浮上してきた。『こうなったら、私が夫を支えて本家で天下を取ってやるわ』とは、勇ましい大将の姉上のお言葉である。もしかして、大将の一家は案外、たくましいのかもしれないなどと認識を改めされられた一件だった。本家との交渉の際に大将は父上や母上とも仲直りしたことを言い添えておく。そのまま大将が今生の別れになるかもしれない、と挨拶をしたので、ご両親は泣いていたが。
 こうして、現世の暦が四月に入ったその日、大将は政府のゲートを通って指定された本丸へと着任した。大将のために政府との交渉ごとにあたってくれた“六条の君”と鶴丸国永に見送られての出発である。付き従うのは俺のみ。
 本丸の敷地に入ると、すぐにそこがどんな場所か分かった。空がどんよりと曇り、庭はいまだに雪景色。空気が冷たいにもかかわらず、どこかねっとりとして澱んだような感じがする。傍らに立つ大将から清浄な霊気が流れ出していて、それでようやく呼吸ができる気がする有様だ。
 しかし、大将は真っ直ぐに母屋を見て言った。
「行こうか、薬研」
 ――将が戦うというならば、その傍に在るのが守り刀の役目である。俺は大将を引き留めたいのを我慢して、頷いた。
「いずこなりとも供をするぜ、大将」
「あぁ、頼む」
 短く言って、大将は歩きだした。まるで濁流の中を流れるたった一筋のわき水のように、彼の歩いた後だけ浄化された空気の筋ができていく。これほどの瘴気の中では大将だって苦しいだろうに、弱音ひとつ吐かない。
 母屋に入ると、この本丸のこんのすけが出迎えてくれた。毛並みの汚れたそいつをひと撫でして、大将が案内を頼む。こんのすけは恭しく頭を下げて、俺たちを大広間へと導いた。大広間の襖は閉ざされており、中から殺気と嘆きが伝わってくる。そこに傷ついた刀剣がいることは、明らかだった。
 失礼します、と声を掛けて、大将は襖を開いた。大広間はあちこちに血が飛び散り、ひどい様子だった。しかも、がらんとしている。その場にいる刀剣は、ひどく少ない。蜂須賀、三日月、鶴丸、同田貫、いち兄、江雪、石切丸、青江――それだけだ。事前情報では明石国行、浦島虎徹以外の刀剣がそろっているということだったはず。他の者はどこか別の部屋にいるということか――。大将がそのことを口にすると、三日月は疲れきった表情で首を横に振った。
「この本丸には、もう、俺たちだけだ。多くの刀剣は刀解されるか、折れるかした。また、幾振かはあまりに疲れきっており、前任が死んで後任が決まるまでのこのふた月の間に存在を保てなくなった」
「皆さま方! もうご心配ありません! こうして審神者さまが着任なさったからには、皆さまを手入れして――」
「待ってくれ、こんのすけ」
 こんのすけの言葉を遮って、三日月は俺たちを見つめた。嘆きも尽きた虚ろな眼差し。俺はこんな目をよく知っている。本丸を去る直前まで、大将がしていた目だ。いち兄も、他の皆も同じような有様だった。
「……刀解されて、或いは、折れていった者たちは、皆、残る者にどうか生きのびてくれと願った。それゆえ、彼らのために、俺たちは存在を続けている。新たな審神者を迎え入れようとも」
「同じ審神者が非道を働いたにもかかわらず、こうして僕の着任を許してくださっことに感謝しております」
「あぁ。だが……俺たちはまだ、そなたを主と認めるわけにはいかぬ。知っているだろうが、刀剣男士は主従の契りをしてしまえば、審神者を害することはできぬのだ。契りの前に、そなたが前任とは違うのだということを見せてくれ。見せられぬ、死にたくない、と言うのであれば立ち去れ」
 三日月の言葉に、大将はしばらく考えていた。が、やがて顔を上げて言った。
「ならば、主従契約は不要です。それでも本丸の運営をしていく分には問題ないでしょうから」
「何? 正気か?」鶴丸が思わず、という風に目を丸くして言った。
「僕は希望して、この本丸に着任しました。なぜなら、刀剣男士の方々に恩返しがしたかったからです」
「恩返し?」
「僕は十代の頃にも一度、審神者だったことがあります。そのとき、ここにいる薬研の前の薬研藤四郎が折れたことがきっかけで、心を壊しました。刀剣たちは弱っていく僕を支えてくれて現世に戻す段取りを終わらせ――皆、望んで刀解されていきました。今の僕があるのは、刀剣男士の方々のおかげなのです」
「しかし、主従契約をせずにいて、我々がそなたを殺そうとしたらどうする?」
「その心配はしておりません」大将は振り返って俺を見た。ふわりと優しく微笑してみせてから、再び前を向く。三日月をひたと見据えて言った。「薬研が守ってくれます。それに、僕には薬研の他に四十一振の加護がある――きっとあなた方と上手くやっていけると信じています」
「彼の言葉は真実のようだね。我々の同位体の加護が、彼を取り巻いている。……――刀剣たちに愛されていたのだろうね」石切丸が言った。
 結局、三日月たちはしばらく契約なしで、大将を主として過ごすことになった。主と認められなければ解雇してもいいという条件までつけて。
 しかし、ただ一振のみ、刀解を望んだ者があった。蜂須賀だ。聞けば彼は前任の初期刀であったらしい。初期刀は審神者が鍛刀したわけでもなければ、戦場で審神者の霊力に惹かれて現れたわけでもないため、実は審神者を害することができる。ただ、審神者とのいちばん絆が深いのも初期刀であり、そう簡単に審神者を害することはできないようになっている。
 前任は横暴を極めつくし、やがて刀剣たちの呪いで精神的におかしくなっていった。以前は刀剣を収集していて、決して刀解や破壊はしなかったのが、日常的に刀解や破壊をするようになったのもそのせいだろう。蜂須賀は初期刀として主を殺さなければと思ったが、主に対する情も捨てられない。迷いに迷った末に、ようやく心を決めたその日、蜂須賀が審神者の元を訪れたそのとき。襖を開けた彼が見たのは、審神者を斬った血溜まりにたたずむ兄――長曽根だった。ちょっとは兄貴らしいことがしたかった、と笑って長曽根は自壊したという。万が一、契約に反して審神者そうものなら、その刀剣は本神の元に還ることもできず、穢れのひどさで自壊してしまうのだ。
 蜂須賀は、審神者の死と兄の自壊を目の当たりにして、魂が疲弊してしまったのだ。もう刀として戦う気力が湧かないから、刀解の慈悲がほしい、ということだった。
 大将は静かに蜂須賀の話を聞いていた。それから、すべて聞き終えてしまうと、彼は蜂須賀と一緒に鍛刀部屋へ行った。もちろん、俺や三日月たちもついていった。
 刀解は鍛刀部屋の祭壇の前で行われる。祭壇の前に立った大将から、清流のような霊力が流れ出した。涼やかなそれは細波のように部屋の中に広がっていく。大将の前に立った蜂須賀は、ひどく安らいだ顔をしていた。
「すまない、三日月。すまない、他の皆も。僕が不甲斐ないばかりに、余計に皆を苦しめてしまった。僕がしっかりしていなかったから、長曽根も折れてしまった」
「あなたのせいではありません。我々とて無力だったのは同じです」いち兄が言う。
「新しい審神者の元で、皆が笑って過ごせることを祈っている」蜂須賀は晴れやかに笑って、大将に向き直った。「――皆を頼むよ、審神者どの」
「承りました」
 大将の返事に蜂須賀が満足そうに頷く。それが合図だった。大将は唄うように祝詞を唱え始めた。彼の身体からいっそう激しく流れ出した奔流のような霊力が、蜂須賀を包む。大将の霊力の中で、蜂須賀は穏やかな表情をして光に変わり――泡と溶けるように消えた。
 すべてを終えた大将は、ゆっくり歩いて俺の傍へ戻ってきた。三日月たちは彼を見て、目を丸くした。大将が静かに涙を流していたからだろう。俺は何も言わず、大将を抱きしめてその背中を撫でた。
 その日はほとんど掃除もできず、三日月たちは自室で、俺たちは比較的マシとされる部屋で休むことになった。マシだという部屋は埃っぽい布団部屋だったが、大将は疲れていたようですぐに寝入ってしまった(布団だけはこんのすけが人数分の新品を手配してくれていた)。
 俺は念のため、大将の横で不寝番をしていた。そうして、夜更けになる頃。かすかな気配がして、俺は本体を手に取った。いちおう、布団部屋には大将の結界が張ってあるが、戦というのは後手に回れば不利になるもの。抜き身の刃を手に戸の脇で待ちかまえる。と、そのとき、戸の外から声がした。
「すこし、よいか」三日月のようだ。
 声を掛けるということは、夜襲ではないらしい。俺は戸を開けて、素早く外へ出てから閉めた。
「何か用かい?」
「あの審神者のことだ。同じ刀剣として、教えてほしい。そなたから見てあの審神者は、刀剣男士の主にふさわしい者か?」
「ふさわしいも何も。大将は前の本丸で、そりゃあ、愛されてたんだぜ? 大将についてる加護を見れば分かるだろ」
「そのような素晴らしい審神者が、なぜこのような荒れた本丸を引き継ぐ? 優秀ならばなおのこと、新しい本丸か、ここのように曰く付きでない本丸に行けばよかったはずだ」
 俺は呆れてため息を吐いた。
「俺だって、そうしてほしかったよ。でも、現世の事情もいろいろあるし、何よりこういう本丸があるって知った大将自らが行きたがった。言ってただろ? 恩返しがしたいって。――あんた、何を心配してる? こうして密かに俺に接触したってことは、何か懸念があるんだろ」
 すると、三日月は目を細めて俺を見た。彼の瞳の中で、金色の月がゆらゆらと揺れる。
「俺の知る薬研藤四郎は、ふさわしい主の元に在れば、忠誠心の強い刀だ。いくら主の意思とはいえ、みすみす主を死地に赴かせるとは思えない。忠誠心があるならばこそ、主を諫めるのではないか? ――主に背いてまで、主の腹を切らなかったという逸話を持つそなたならば」
 あぁ、そうか。俺は気づいた。太刀である三日月には――少なくとも、この三日月には分からないのだ。俺たち短刀がどういう存在であるか。
 俺は笑って、三日月の眼差しを真っ向から受け止めた。
「俺は短刀だ。短刀の忠義は、太刀とは違う。俺たちはあんた方より間合いが狭いし、威力も低い。ゆえに常に主の懐に在り、使われるときを待つ。主が常に身に帯び、最後に頼りにするのは、俺たち短刀だ」
「それが――?」三日月は冷たい調子で促した。
「俺はな、大将の意思にはよほどのことがない限り従う。たとえば大将が自害しようとしたりしない限りは。たとえ死地だろうが地獄だろうが、大将が行くというなら俺は従うまで。あの人を最後まで守るのは、この俺だ」
 すると、三日月は不意に表情を緩めて笑った。「一期一振の言った通りであったな」と呟く。
「え?」
「やはり、そなたは並の短刀ではないな、薬研藤四郎。そなたのその言葉から、そなたの主の度量も知れようというものよ」
「え? もしかして、試したのか?」
「すまんな」三日月は悪びれた風もなく、あっさりと謝罪の言葉を口にした。「だが、よく分かった。これでそなたの審神者を、この本丸の主として頂くことができる」










目次