手荒れ萌え
ことん、と目の前のローテーブルにマグカップが置かれる。ふわりとコーヒーの匂いが鼻を衝いて、ユキヒトは読んでいた雑誌から顔を上げた。いつの間にかテーブルの向かいに来ていたアキラと、目が合った。 「淹れてくれたのか。ありがとう」 「ついでだから」 言葉少なにアキラはそう言った。 見れば確かに、アキラの前にもマグカップがある。ユキヒトの方はブラックだが、アキラの方の中身は薄茶色をしている。彼はいつもコーヒーにはクリープを入れるから、今日もそうなのだろう。 一緒に暮らし始めた頃、アキラはコーヒーが飲めなかった。ユキヒトが飲むので次第に飲むようになったが、最初は砂糖とクリープを入れていた。が、あるときを境に、アキラは砂糖を卒業した。最初は砂糖を入れるのは子どもっぽいと意地を張っているような節があったが、今では砂糖抜きが習慣になっているらしく、気負って砂糖を抜いている様子もない。 それにしても、最初は家事――というより生活していくこと自体だという気もするが――に不慣れだったアキラが、こうしてコーヒーを淹れてくれるようになるとは。少し感動しながら、ユキヒトは目の前にカップを置いて、引っ込められていくアキラの左手を目で追った。 と、ちょうど人差し指の指の腹にできた傷口が目に入ってくる。傷自体はごく小さいが、結構深く裂けているようだ。 「アキラ、指先、怪我したのか?」 「怪我?――あぁ、いや、これはあかぎれだ」 ほら、というように、アキラは引っ込めようとした手をユキヒトの目の前にかざしてみせる。言われてみれば、その手は水分を失ってかさついているのが分かる。更に手のひらに残る傷痕とは別に、 人差し指の腹だけでなく、他にも2つ3つあかぎれができていた。 「バイトで結構水を使うから、最近はよくできる」 「痛そうだな」 「痛いけど、我慢できない痛さじゃない。水が沁みるのがちょっと困るけど」 「へぇ」 頷いて、ユキヒトは目の前にあるアキラの左手を取った。「ユキヒト」とアキラが困惑した声を出して緩く手を引こうとするが、構わずに自分の方へ引き寄せる。そうして、いつかトシマでしたように、アキラの指先のあかぎれに舌を這わせた。 「っ…ユキヒト…何、やって…」 「舐めときゃ治るだろ」かって告げたのと同じ言葉を口にすると、 「馬鹿…あかぎれは、怪我じゃない」アキラは呆れたようにため息を吐いた。 「似たようなもんだ」 澄まして言い、ユキヒトは更に舌で指の表面をなぞる。荒れているだろう、舌先に妙にざらざらした感触がある。指をたどって手のひらに残る傷痕にも舌を這わせながら、ユキヒトは改めて感嘆するような気分だった。 トシマで傷口を舐めたとき、アキラの手は荒れていなかった。もちろん、元Bl@sterチャンプでイグラにも参加していたのだから、決して女のように綺麗で細い手だったわけではない。全体的にほっそりした感じはするが、女よりは余程無骨で、人を殴ることを知っている手だった。それでも、皮膚は滑らかだった。 けれど、今のこの手は、人を殴るための手じゃない。平穏な日常の中で、それでも平穏さに飽きず生きている者の手だ。アキラが自分と共に日常を生きてくれていることに、ユキヒトは不意に胸に何かが込み上げてくるような気がした。 かさついた手を敬うような、慈しむような気持ちで、ユキヒトは指を辿って手のひらの傷痕を舌でなぞった。アキラは少しの間為すがままになっていたが、やがて手を引きながら呆れたように言った。 「…本当に、そうするのが好きだな」 「そうするのって?」 離れていくアキラの手を引き留めることはせず、敢えて聞き返す。 「だから、他人の傷を舐めるの」 「あぁ…それは」ユキヒトはわざとにやりと笑った。アキラの手に感動したなどとは、柄でもないから正直には言えない。だから、誤魔化してしまおうと思った。「俺が舐めるのが好きというより、アキラが舐められるの好きそうだから」 「なっ…そんなわけあるかっ」 「そうか?だけど、今のアキラの顔、キスした後みたいに目が潤んでる」 「っ…!」 アキラが一瞬にして真っ赤になり、絶句する。 次の瞬間、容赦なく左ストレートがユキヒトに向けて繰り出された。 2008/12/27 |