想い果てるなどあるはずもない 1



 今回の<王>の不在は、比較的長い方だった。
 先日の雨の日の一件以来、特にどうということもなく私の日常は続いている。その穏やかさときたら、断罪されるときが間近に迫っているとはいえ、過ちを犯したのにこれでよいものかと不安になるほどだ。
 変わったことといえば、あれから3週間の間にナルセが異動になった。本人の希望か上の意向か。どちらにせよ少し唐突すぎる気もしたのだが、私のような末端にまでその事情なりそれを推測するような噂なりが届くことはなく、私は本人にとっては良かったにちがいないと納得した。ナルセが有能であることは私もよく知っていたし、護衛以外にも能力を発揮する場所があるだろう。――最早アキラの護衛の中で信頼できるような者がいないというのは、かなりの痛手ではあるが。

 残った護衛の男たちを思い出すと、思わず溜め息が出た。誰も彼も柄が悪いというか、アキラに向ける目に情欲が垣間見えることがある。今まではナルセが彼らを上手く抑え、束ねていてくれたが、これからは。
 (護衛が真っ先に襲ってきそうだなんて…どれだけ性質の悪い冗談)
 何だか頭痛がしてきそうだ。
 ナルセがいなくなって、もうじき私も処分されていなくなるのに、これからどうなるのだろう、と不安になる。護衛の誰かがアキラに手を出すか、或いはアキラのほうから誘うかして、シキに処分される――そんな以前と同じ不毛な繰り返しに戻るのか。否。今だって、以前と何も変わっていないのかもしれない。アキラの“遊び相手”になった私が偶々女というだけで、<王>が長期の不在で処分が延びているというだけで。
 (私がいるからアキラ様が落ち着いてるなんて、思い上がりもいいところだ)
 自分が今までアキラに惑わされた男たちと何ら変わりないという思考が、私をひどく嫌な気分にさせていた。他人から思い上がりを指摘されるよりは自分で自分を傷つける方がずっといい。そう思ったから、私は自分を突き放すように言い聞かせた。
 (どうせ明後日には<王>も戻られる。そうしたら、もう、こんな気分になることもない…)
 再び<王>の愛妾と間違いを起こした私だ。
 今度こそ、<王>は私を許さないだろう。


 「っ…!?」
 何の前触れもなく視界が反転する。
 あれ、と思ったときには既にソファが背中の下にあり、先程まで私にじゃれついていたはずのアキラに組み敷かれる格好になっていた。この体勢で後に続くことなど8割方予想はつく。もうあれから何度かしている行為なので今更躊躇う気もないが、いきなりそうなる理由が見つからなかった。一体何だ、と戸惑っている内に、口付けが落とされる。軽く唇を触れ合わせただけで、すぐに離れていったアキラは至近距離で拗ねたように私を睨んだ。
 「、ずっと余所事ばかり考えてるでしょ。一人で百面相してる」
 「百面相…」本当にそんなに色々顔に出ていたのだろうか。
 「何だか沈んでると思ったら、急に悲しそうなカオしたり…何を考えてる?」
 「大したことでもないのですが…」誤魔化しを試みたが、答えるまで許さないというようにアキラは私を睨んでいる。嘘は苦手だが非常手段に出ることにした。「えぇと、その、好きな芸能人が結婚してしまうので、残念だなと思って」
 「嘘つき」
 アキラは拗ねた口調で言ってから再び唇を重ねてくる。滑り込ませた舌で浅く口内を探り、一度離れてから唇を合わせ直す。何度となくそんな口付けを繰り返しながら、その合間にアキラは囁いた。
 「シキだけが、好きなくせに」
 「ん…っ、…だから、」
 違う。好きだなんて思っていない。
 反論しようとするのに、そんな間もなく唇をふさがれ、舌を絡め取られる。浅いものだった口付けはいつの間にか深くなっていて、口内を蹂躙する舌の動きに身体の奥底でじりりと小さな火種が煽られるのが分かった。まだ明確な快楽ではないものの、それを知る身体が期待している。
 びくりと震えそうになるのを堪えて、反応するまいとつい身体を強張らせてしまう。そんなこちらの様子に気付いたのか、アキラは口付けながら私の衣服の釦を外して手を滑り込ませ、胸のふくらみを撫でて辿る。
 口付けと愛撫で早くも思考が溶け始めていた。反論もできないままにそんな風になるのが悔しくて、私は内心でアキラの言葉に抗った。

 違う。絶対に違う。あの人を好きだなんて思ったことはない。到底手が届かない人だから。違う世界に生きる人だから。
 それに、想う相手がいるのに他の人間に抱かれるなんて、それでは私が惨めになってしまう。自己憐憫なんて趣味じゃないのに。――あぁ、でも、やっぱりとても惨めな気分だ。

 (あれ…惨め…?)唐突に気付く。

 アキラのことは大切だ。アキラとの行為だって、嫌だとは思わない。それでも、何度身体を重ねても抱くのは、温かく穏やかな親愛の情ばかりだ。もっと苛烈な感情も私の内側には存在するけれど、それはアキラに向かわない。
 手が届かなくても想っていたいと焦がれるほどに思うのは、そう――あの人だけだ。


 (どうしてこんなときに気付くかな…もう遅いのに)
 いや、時期など関係なく、自覚してもどうにもならなかったに違いないのだが。
 熱に浮かされた意識から滑り出た本音に、密やかに苦笑する。と、口付けをやめて先程から首筋や胸を舌で辿って時折痕を付けていたいたアキラが、その気配を聞きつけたのか顔を上げた。
 「どうかした?」
 「…いえ、何も」
 やや熱の混じった息を吐きだして答えると、アキラは眉をひそめた。伸び上がったアキラが私の目元に唇を寄せ、舌で目の縁をなぞる。最初に右目、次いで左目。「は嘘をついてばかりだ」少し顔を離して独り言のように呟き、口づけをした。


*** 


 深くなる口づけの最中、カツカツという足音を聞いたような気がした。
 ぼんやりとした意識を叱咤するような硬質で規則正しい音に、私はゆっくりと目を開ける。と、唐突にアキラが私の上で上体を起こした。
 「…おかえり」
 甘さと期待と僅かに安堵を含むアキラの声音は、聞いたことがある。彼がこんな風に話しかけるのは只一人だけ――。アキラの視線の向かう先を追いかけて、私は扉の前に立つ人物を見出した。闇がそこに留まったような黒衣、携えた刀、白皙の美貌――<ヴィスキオ>の<王>。

 「――シキ、さま…」

 掠れた声で呟く。恐怖はないが、代わりにじわりと胸から込み上げた何かが、喉を絞め上げて目元に達する。僅かに滲んだ視界をまばたきで元に戻し、私はソファから起き上がろうとした。<王>の制裁から逃げも隠れもする気はないが、まだ上半身だけとはいえ乱れた衣服で死体になるのは情けない。
 けれど、アキラが未だ下肢の上に跨っているので、起きることもかなわなかった。
 カツカツと足音を響かせて、シキがこちらへ歩いてくる。
 「アキラ様…退いて下さい。こんな格好ではシキ様に失礼になりますから、どうか」
 ただでさえ細身のアキラは、強引に押しのければ怪我でもしそうだ。仕方なく私は小声で言って、控えめな動きで身じろぎをする。けれど、アキラは無視して手前まで来たシキを見上げた。
 「まだ飽きずにこの女で遊んでいるのか」
 冷えた声音が降ってくる。“この女”という部分に侮蔑を通り越して嫌悪が滲んでいるのが分かり、私はすぅっと体温が引いていくような気がした。

 私だって嫌いだ、好きでもない男と寝るような女は。だから絆された自分なんて大嫌いだ。
 さっさと斬り捨ててくれれば、あなたは目障りなものが消えるし、私は自己嫌悪を感じなくてもよくなる。お互いにいいことばかりだ。
 だから、早く――。

 「この子は斬らないで」

 唐突にアキラが言い、ソファに肘を突いて半端に身体を起こした私の頭をふわりと抱く。その目はシキの鋭い視線を真っ向から受け止めていた。
 「とても気に入ってるんだ。この子を俺の玩具にしてもいいって、シキ、約束してくれたでしょ?死んだら遊べなくなる」
 「アキラ様…」抱き締める腕をそっと押しやって、私はアキラの腕から抜け出そうと静かに身を捩る。
 シキはその様子を見ていたが、やがて不機嫌な声を放った。
 「所有物が主に指図する気か」
 「違う。頼んでるだけだ。――どうして俺がに拘るのか、分からないならシキも抱いてみればいい。昔、俺にしたみたいに。前に言ったよね、きっとシキの方がこの子を気に入るって。抱いてみて、それでつまらないと思うなら斬ればいい」
 「…なに、を…」信じられない提案。私は思わず動きを止めてアキラを見る。
 「下らんな。俺にこの女を抱かせて、何になる?」
 「何にならなくても、面白ければいい」
 

 2人は暫く睨み合ったが、やがてシキがふと息を吐いた。手にしていた刀を別の一人掛けのソファに立て掛け、その上に上着と手袋を脱いで投げ出す。まさか、とは思ったがそのまさかで、彼はアキラの思惑に乗るべくこちらへ歩いてきた。
 「お前の暇つぶしに付き合うのは今度だけだ。俺は忙しい」
 「――そんな、…嘘、でしょう…?」
 呆然と呟いて身を硬くすると、ふとアキラが頬に唇を落としてから耳元で囁く。
 『うれしくないの?』
 殆ど吐息のような囁き声は確かにそう聞こえた。たっぷり数秒後、ようやく頭がその言葉の意味を理解して私は居てもたっても居られない気分になる。たとえ好きでも、否、好きなら尚更、こんな形でそうなったって意味がない。意味がないどころか、なお悪い。単に私の浅ましさを、最も隠したい人の前に暴かれるだけだ。
 アキラがソファを降りる隙に、私はその身体の下から抜け出そうとする。が、入れ替わりのようにソファに乗り上げてきたシキに肩をつかまれ、押し戻されてしまう。それでも逃れようともがくと、覆い被さってきたシキが体重を掛けて私の動きを封じた。
 考えもしなかったほど間近に、苛烈な光を湛える紅い瞳が見える。
 束の間、抵抗も忘れてそれに見入ったとき胸にじわりと込み上げたのは、忌々しいことに歓喜だったかもしれない。一瞬理性を絡め取りかけた身を委ねたいという衝動を振り切り、私は目を閉じて顔を背ける。それでも、身体に掛かる重みが、密着した部分から伝わる体温が慣れ親しんだアキラのものとは違うことが感じられ、ぞくりと何かが背筋を走った。
 ――これでは見えなくても同じだ。
 仕方なく、私は目を開け、せめて精一杯の意地だけは保てるようにと願いながらシキの目を見据える。
 「本当に、アキラ様の仰るようになさるおつもりですか?どうかこんなことはお止め下さい。――こんな風に辱めを受けるくらいなら、さっさと斬られた方がましです」
 「命は惜しくない、か。だが…死よりも過酷な辱めだからこそ、与える価値があるとは思わんか?」
 「私は心まで踏みにじられるほどの罪を犯しましたか?そうではないでしょう。弄ぶくらいなら殺して下さい」姦通はそれ程の罪に当たるのかもしれないけれど、と思いつつも顔には出さない。

 「どうして素直にならないの?」

 ふと耳元で柔らかな声がする。視線だけを動かして見ると、アキラがソファの傍に座り込んで首を傾げていた。
 「シキのこと、好きなんでしょ?素直に抱かれればいいのに」
 「ちがいます!」
 思わず跳ね起きようとすると、シキが私の腕を掴んで力を込めた。
 「っ…」
 「怪我をしたくなければ大人しくしていろ。貴様に自分の処遇を選ぶ権利などない」
 低い囁き声と共に、腕を掴む手にぎりりと更に力が込められる。基本的に臆病な私は、口先だけ内心だけ死の覚悟はできても、痛みを示されるとつい怯んでしまう。みっともなく悲鳴を上げることだけは何とか堪えたものの、シキの言葉には頷くしかない。
 痛みで滲んだ視界の端に、微笑むアキラの姿が映る。一瞬彼に助けてと言おうかと思ったが、結局思い止まった。これはアキラが言いだしたのだから、聞き入れてくれるはずがない。それに、心もなく身体だけ重ねた相手に、まるで操を立てるみたいな態度で助けを求めるのは卑怯な気がする。
 私は唇を噛んで、アキラを視界から外した。








次項
目次