あなたは愛をくれました1



 会社帰りに寄ったドラッグストアは、金曜の夜ということもあって混雑していた。
 私はといえば、棚の3段を占める風邪薬の前で、もう5分以上も睨めっこをしている。箱の一つを手にとっては裏返して注意書きを読み、棚に戻しては新たな商品の箱を手に取ることを繰り返す。どの風邪薬も箱の裏側に細かい字で注意書きが記されているが、私の欲しい情報はそこにはないことは分かっている。
 箱を戻しながら、私は思わず溜め息を吐いた。
 (私がのむなら、何だって構わないんだけどな…)
 生憎と風邪薬が必要なのは私ではないから、困っている。


 我が家には、現在、同居人ならぬ同居猫がいる。
 猫とはいっても<リビカ>という種族である彼らはヒトと変わらない姿をしている。動物のネコと同じであるのは耳と尾のみで、こういった身体の部位は彼らの種族が太古の昔に――私たち人類にとっては遥か未来に?――ネコの姿を借りた女神とヒトとの交わりによって生まれたことを示すのだという。
 その同居猫のうちの1匹が風邪を引いた。
 このところ少ししんどそうな様子に見えたのが、一昨日の夜中に発熱したのである。本猫は眠れば治ると笑ってみせたものの、熱は高い状態で安定してしまったようだった。
 こうなると、病院にいくか風邪薬を飲むほうが治りは早いものだが――彼は人間でなく<リビカ>であるだけに、どちらの方法も選び難い。<リビカ>の外見では人目のある場所に外出しようものなら騒動になる。風邪薬を飲むにしても、現代とは全く異なる環境で生まれ育った<リビカ>には、この世界の薬が害にならないとも言い切れないので、慎重にならざるを得ないのだ。

 結局、私は使いもしないだろう風邪薬を念のために買って帰途に着いた。


***


 玄関を開けると、米の炊けるいい匂いがした。
 ただいまを言いながら食堂を兼ねている台所へ入っていくと、その場にいた1匹の同居猫が振り返った。白銀の毛並みと青い瞳をもつ<リビカ>のライ。元々料理の素養があったのか、同居を始めてから私がいくつか現代の料理を教えると、すぐに身に着けて応用するようになった。今や台所はすっかり彼の領分だ。
 「お米の匂いがする」私が言うと、
 「粥だ」彼はコンロの鍋に視線を戻しながら答える。
 「お粥…ということは、やっぱりコノエはまだ…?」
 「あぁ、相変わらず熱が高い。食欲がないというが、このところ少食だった上に昨夜から碌に食べていないからな。そろそろ無理にでも食わせんと、身体がもたん」
 「コノエ、可哀想に。せめて食欲があれば少しは心配も減るんだけどね。…今日、一応風邪薬を買ってきたんだ。コノエの身体にどんな影響が出るか分からないから使えないけど、念のため」
 私は食卓として使っているテーブルの椅子を引いて、そこに通勤用の鞄を置いた。ふとテーブルの上に視線をやると、何故か植物図鑑が置かれている。その植物図鑑は私の8つ上の兄のもので、今はアサトが使っている以前の兄の部屋に放置されていたはずだった。
 どうしてこんなところにあるのだろう?首を傾げながら、私は植物図鑑を開き、ぺらぺらとページを捲ってみた。けれど、特に気になる部分もみつからない。
 「そういえば、アサトは?」更に図鑑のページを捲りながら尋ねる。
 「外だ。祇沙にあった薬草と同じものをこの土地でも見たことがあるからと言って、東の方にある山に探しに行った。ここがニンゲンの土地だということも忘れて昼間から外へ出ようとするのを止めるのに苦労した。あの馬鹿は、コノエのこととなると見境がない」

 ライとコノエとアサトは、どんな偶然からか彼らの世界・祇沙から現代に迷い込んで来た。その第一発見者が私で、そのときには両親と祖父母と兄と暮らしたこの家に残っていたのは私ひとりであったから、人間の間に混じることのできない特徴を持つ彼らに住処を提供して同居を始めた。
 同居を始めるとき私たちは幾つか取り決めをしたが、その第一は夜間以外の外出禁止である。無論それは彼らの外見のためで、騒動を起こさないためには他に方法がない。けれど、私は時々どうしようもないのにひどく申し訳なく思うことがある。私はニンゲンに属しているから外出の不自由はないので、その分彼らに後ろめたいのだ。

 「ごめんね」

 思わず届かないほどの小声で言った。それを、ライは正確に聞きつけたようだった。
 「お前のせいでもないことを謝るな、馬鹿」
 温かではないが決して冷たくもないライの声。その後に、カチリとコンロの火を止める音がしたかと思うと、背後からライの腕が伸びてきて私が無作為に開いた図鑑のページを捲った。それが、あるページを開けたところで停止する。「アサトは、これを探しに行った」とんとんとライは指先で1枚の写真を叩いた。白い花をつけた低木の写真だ。
 「これが薬になるの?こっちでは別に珍しくもない花だけど」
 「だが、この葉が煎じて薬湯として使われるのは事実だ。祇沙でもありふれた植物だが、どこにでもあるからこそ使いやすい」
 「そうなんだ…これ、この近所にもあるのよ。私、場所を知ってる。だけど、環境の違う祇沙とこことで同じ効果が出るかな?」
 「分からん。だが、形状が似ているならば効果も似ている可能性はある。無論、得体も知れないものをいきなりコノエに与えることはしない。俺がまず口にして害がないことを確かめてからだ。それを試すためにも…手に入るなら早い方がいい」
 「それって、ライも危険じゃないの?」
 「ニンゲンも種族として新しかった頃は同じことをしたはずだろう?今更お前が何を怯む」
 そうはいわれても、そんな時代はとうの昔に過ぎ去っている。今は薬局やコンビニで安全かつお手軽に風邪薬も胃薬も手に入る時代なのだ。…とはいえ、今はそんな弁解をしているときではなかった。毒見するリスクはさておき、件の植物の葉があれば状況は前に進むのだとしたら、それに協力しなければならない。

 「分かった」

 鞄の中から携帯電話だけ抜き出すと、私は玄関に逆戻りする。玄関で靴を履いていると、ライが台所から追いかけてきた。
 「待て。お前は雌…女だろう。夜に一人で出歩くな」
 「大丈夫よ、もう大人なんだから自分の身は自分で守るわ。私あの花のある場所を知ってるって言ったでしょう?ライにはコノエを看ていてもらわないといけないから、私一人で行く。近くでアサトに会うかもしれないし」
 そう言うと、私は靴箱の上の懐中電灯を掴んで家を出た。


***


 早足で、暗い夜道をずんずん歩く。
 私の家は田園地帯の中にぽつんとある集落の東端にある。家を出て少し進めば辺りは田圃や畑ばかりで、更に進めば低い山に突き当たる。私は集落から山の方へ、田圃と田圃の間を突っ切るように伸びる道を進む。途中ぽつぽつと雨が落ち始めたが、傘を取りに戻るにしても濡れるのは同じだという気がして、構わずに歩き続けた。
 そして、山の目の前まで来たところで、脇道に入る。そこはこの辺りに多く存在する休耕地と同じであちこちに雑草の茂みがあるものの、かつては畑であった場所だ。よく見れば雑草に混じって以前作っていた野菜などの名残がある。
 なるべく草の生い茂っていない場所を選んで、私は畑の奥へ進んだ。
 奥のほうには、柿や梅、枇杷などの木が数本ある。その中に、ライの教えてくれた花をつける木が混じっている。まだ年端も行かない頃、小さい子ならば叱られないだろうと計算した兄によって何度かこの畑の柿泥棒に加担させられたことのある私は、何となくその木を印象に残していた。
 (でも、まだ枯れないであるかな…)
 不安に思いながら立ち並ぶ木々を懐中電灯でぐるりと照らすと、一瞬明かりの範囲の中に白色のものが見えた。11月ということで盛りの季節も終わり、すっかり萎れているもののあれは確かに写真の花だ。
 (あった…!)
 思わず私は目の前にあった雑草の茂みを踏み越えて、問題の木に近付く。間近で懐中電灯の光を当てて萎んだ花の形状を確認していると、 

 ガサリ

 背後の茂みで物音がした。雨が葉を打つ音とも風が木々を揺らす音ともちがう。何かが茂みを掻き分けるその音に、得体の知れない怪物が背後に迫っているかのような妄想に駆られる。
 私が振り返るのと、背後の茂みから大きな影が飛び出すのとは同時だった。
 「っ…!」驚きと恐怖に身を強張らせた私の手から、するりと懐中電灯が滑り落ちる。落下地点に石でもあったのだろうか、懐中電灯は足下でガチャンと耳障りな音を発した直後にふつりと光を失った。


***


 屋根を打つ雨音で目覚めると、すっかり夜になっていた。
 結局今日も眠ったり起きたりで過ごしてしまったな、とぼんやり思いながらコノエはベッドから起き出した。途端、悪寒に襲われる。まだ熱が高いままであることを実感しながら、コノエは椅子に掛けたカーディガンを羽織ると自室から廊下に出た。
 廊下で辺りを見回すが、誰かがいる気配はなかった。
  の家は広い。
 かつては一家6人で暮らしていたという家は、コノエの感覚からすれば藍閃のちょっとした宿屋ほどの広さがあるので、人気がないとひどくもの寂しく虚ろに感じられもする。だからだろうか、 はあっさりとコノエたちが同居することを許した上に、惜しげもなく1匹に1部屋を与えて自分は子どもの頃以来の屋根裏部屋を使っている。こうして皆で使っていても誰もいなければ虚ろな感じがするのだ。コノエたちが同居する以前、ひとりの間 は一体どんな心境だったろうか。
 ふとそんなことを思いながら、コノエは1階へ降りていく。
 すると、階段の半ばでいい匂いがした。こちらの世界へ来て馴染みになった主食の米を炊くときの匂いだ。まだあまり食欲が湧かないものの、コノエはその匂いに惹かれるように台所へと足を向ける。余所の家の夕飯の匂いは妙な寂しさというか、帰りたい気持ちを感じさせる。けれど、それが自宅のものならば家族がいることの安堵を覚える。――そう知ったのは、多分、この世界へ来てからのことだ。


 台所へ行くと、ライが流しで鍋を洗っているところだった。
 こちらが声を掛けるまでもなく、気付いたライが振り返る。このところ台所に立つ姿がすっかり板に付いたライだが、このような動作の素早さを目にする度に賞金稼ぎであることを再認識させられる。
 「起きたか…お前に粥を作ってある。もう2日ほどきちんと食事をしていないんだ、粥は最後まで食べてしまえ」
 言いながらライは手際よくテーブルの上に粥を入れた器と匙を置いた。「アンタ、何だか最近母猫みたいだ」コノエがテーブルにつきながらふと思いたことを言うと、ライは苦い表情を見せる。自分でも同じことを思ったのかもしえない。
 コノエは素直に粥を口に運びながら、間続きの居間にある時計に視線を投げた。
 ニンゲンは陽の月が昇って沈み、再び昇るまでの時間を1日と呼ぶ。1日は更に24の時間に区切られていて、それを知るために時計がある。時計の見方はもうかなり以前に が教えてくれたことで、コノエはまだ長針と短針で時を示す時計には少し手間取るときもあるものの、今ではきちんと読み取ることができるようになった。
 時計の針は、現在、10時半を示していた。
 「そういえば、アサトや は?」
 「アサトは外へ出ている。 もまだ帰ってない」
 「でも、もう10時半だろ。 、遅くないか?今まで何も言わずにこんなに仕事からの帰りが遅くなることなかったし…大丈夫かな」
 「気にするな。 もあれで成猫――いや、成人だ。自分のことには自分で責任を持つ。お前が気に病むことではない」
 「だけど…」コノエは匙を持つ指先に力を込めて、器の中に視線を落とす。
 そう、彼女は<二つ杖>でいうところの“大人”なのだ。仕事もあれば、同族との付き合いもある。年頃なのだから、つがいの相手ができたっておかしくない。確かに年下の上に異種族の自分が無闇に詮索していいことではないが、それでもなぜか気分が重苦しい。いつもなら気にしない――気にしないように意識して流せる類のことが、今日は上手く流せない。
 重い気分を抱えたまま、それでもコノエはライに言われた通り器の粥を食べ続けた。








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