・男主人公につき注意
・キツめの性描写や暴力表現あり
・主人公名は名前変換のカナ名使用



千耳1





 その日、俺は顧客との約束があって、とある街の場末のバーのカウンターに座っていた。カウンターの一番奥の一角、そこがいつもその客との待ち合わせに使う席だった。
 俺は、様々な情報を売ることを生業としている。
 情報屋というのは、どちらかといえば裏の世界に属する仕事だ。それなりに面白みのある仕事で、それに対する矜持のようなものも持ってはいるものの、子どもの頃からの憧れの職業だったというわけではない。成り行きに流されて辿り着いたのがそこだったというだけで、時々ふと自分が情報屋などをしていることを不思議に思うときがあるくらいだった。
 俺たちの年代といえば、the 3rd division――第3次世界大戦の前に生まれ、ニホンが軍国化していく中で育ち、義務教育や高等教育として軍事教育を受けた、まさにその世代である。軍事教育は当初、普通の学校制度の中で授業の一環として行われていたので、俺も義務教育の途中までは親元から学校に通い、授業の一科目としてそれを受けていた。やがて、制度が本格化して子どもは親元を離されて教育されることになり、それに伴って俺も家を出て軍の学校に入った(高校にあたる教育機関が、それしかなかったのだ)。
 結局、軍の学校を卒業する前に、戦争は終わった。
 ニホンは敗けて軍国思想を捨て、年少の子どもたちは(親元に戻されるのではなく)親を“割り当て”られて家庭で保護されることになった。のちに“シャッフル家族”だと悪評が盛んになるこの措置だが、戦後の混乱した状況の中でその弊害まで予見して反対意見を言える者は、当時まだ多くなかった。
 “シャッフル家族”制度で親を割り当てられた子どもたちよりもう少し年長の、一応社会に出られる年齢に達している子どもたちは、そのまま社会に放り出された。子どもを養う余裕のある家族が、子どもの数よりも少なかったためだろう。そして、俺はこちらの、軍の学校から突然外に放り出されたクチだった。
 政府は子どもたちが社会に馴染めるように、様々な措置を試みた。住居の斡旋、就職先の斡旋、職業訓練…。それでも、戦争の後で世間そのものが混乱し、不景気に陥っているものだから、政府の措置も十分にいきわたらないところが出てくる。結果、社会に馴染めぬままに、或いは、機会を掴み損ねて、まっとうな道から外れてしまう者も幾らかいた。

 それが時代のせいだなんて言い方は、好きじゃない。

 けれど、俺たちの年代は、軍国主義が高まっていく中で生まれ育ち、人を殺し、他国を攻め、戦争に勝つことばかりを教えられてきたのだ。多少なりとも平時を生きたことのある大人たちが織り成す“平穏な日常”の呼吸にすぐに合わせることは、難しい。平和になった今、テレビなどで“今時の若者は争いを好む”などと批評されているが、これは完全な真実ではないと思う。軍事教育しか受けてこなかった年代は、ただ少しばかり平穏な日常を過ごす経験値が低いだけなのではないだろうか。


 ともかく、俺は第3次大戦の後社会に出たものの、色々とタイミングが合わなくて仕事に就くことができなかった。戦後の不景気で、ただでさえ仕事を見つけるのが難しい状況であったから、これは仕方ないといえば仕方のないことではある。
 仕事もなく、ふらふらしていた俺は、そのうち一人の老人に知り合った。きっかけは、酔っ払って道で寝ているその人(当時で80手前くらいの老人だった)を放っておけずに介抱したことだ。ただの酔っ払いの爺さんだと思っていたその人は実は名の通った情報屋で、それが縁で情報屋の仕事を教えてもらえることになったのだ。
 まさに偶然というしかない。
 5年ほどの間、俺はその老人――師匠の元で情報屋としての仕事のやり方を始め、裏の世界での作法や常識までを仕込まれた。その後、思いがけなく跡目として情報筋や顧客を譲られて、俺は一人で情報屋として動くようになったのだった。

 そして、師匠が死に、跡目を継いで程なくして、俺は“彼”と出会った。


 『――ある男を探してる。情報を売ってほしい』

 2年前のある日、前触れもなく俺の前に現れた彼は、開口一番にそう言った。
 情報屋というのは、信用第一の商売だ。こちらの売る情報に信頼性がなければ誰も買わないし、情報屋の方も情報によっては売った後に口封じされないよう信頼できる相手でなければ売ることはできない。一見の客というのは少なく、大抵は知り合いからの紹介や、古馴染みの客を相手に商売をする。少しばかり裏の世界にいればそういう情報屋の慣例は自然と分かってくることで、彼のこの場合の申し出は、裏の世界での作法が出来ていないということになる。
 声を掛けられた俺は、何と言ったものかとしばらく彼をぼんやり見つめた。
 彼は、その頃は、一見ごく普通の若者にしか見えなかった。多少腕に覚えがあるようで物腰に隙はないが、裏の世界に長くいた者が持つようになる薄暗い雰囲気はない。俺より5つ6つ年下らしく、整った顔立ちにはあどけなさが残っている。
 その癖、碧色の双眸は、鮮烈な光を湛えていた。全てを賭して追うものがあるからこその、鮮烈さだろう。一瞥するだけで周囲を圧するような視線の持ち主は裏の世界にも幾らかいるが、それとはまた種類の異なる眼差しの強さだと思った。
 彼の申し出を断ることは、簡単だった。
 そもそも、一見の彼が申し出たこと自体が、既に情報屋の慣例に反するものなのである。それは、断るには十分正当な理由となる。けれど、俺が断ったとしても彼はその男を追うことを止めないだろう。きっと他の情報屋を当たるにちがいない。彼のような裏の世界を知らない人間がそんなことをしていれば、いずれは性質の悪い輩に喰いものにされることは、目に見えている。
 正直、面倒なことになったと思った。
 その情報屋としての信頼性の高さから、<千耳>――千の耳を持つと2つ名された男の跡目を継いだものの、結局俺はまだ駆け出しにすぎない。今は<千耳>の跡目という看板で客もいるが、いずれは看板に伴う実力を身につけたいと思っているし、そうしなくてはやっていけなくなるだろう。自分のことだけで精一杯で、とても裏社会のいろはも知らないガキに関わりあう余裕など、こちらにはない。
 けれども、彼はそんなときですら、捨て置けない気にさせる何かを持っていた。

 “いいか、坊主。情報屋っぇてのは、金をもらって情報を売るのが本来の仕事よ。だがな、仕事ってのは、金と労力だけ考えてやってたって、意味がない。情や義理で無理をして請けた仕事が、思いがけない情報源を生んだりもする。テメェの分を越えるような仕事をすることで、器が大きくなることもある。要は、金勘定だけじゃいけねぇってことだ” 

 オメェはまだそこまで分かっちゃいないがな、と言っていた師匠のことを思い出す。そのような考え方をする師匠は、当然ながら義侠心が強く、裏の世界の人間としてはかなり世話好きな部類だった。俺の前にも、以前裏の世界で駆け出しの若者を世話したことがあるらしかった。
 そして、俺も師匠が――世話してくれる人がいたから、闇の世界に呑まれずにここにいる。決してひとりでここまで来たわけではない。だとしたら、彼を放っておけないと思うのなら、俺が引き受けるべきではないのか――順番として。
 とうとう俺は心を決め、彼に名前を尋ねた。彼はそれに対し、意外にも素直に答えた。
 『俺はアキラだ』
 『アキラ…。君は、まず俺の話を聞く気はあるか。聞いてくれるなら、後で君の欲しい情報を売る』
 『分かった…話を聞く』
 不審そうに、それでも情報欲しさに頷いた彼も、まさかそこから始まるのが口煩い小言であるとは予想だにしなかっただろう。たっぷり1時間、俺はその場で裏の世界の流儀について説明し、更には自分の塒に彼を止めた。

 それが俺と“彼”――アキラの出会った頃の経緯である。


***


 ふと傍に人の立つ気配がして、俺は飲みかけのグラスから顔を上げた。いつの間にか、傍らに若い男が立っている。男は、唐突な出現にびっくりした俺の顔を見て、にやりと楽しそうに笑った。
 アキラだ。
 出会ってから2年経ち、当初整った顔立ちに残っていたあどけなさも、だいぶ薄れている。いつからか、あどけなさの代わりに裏の世界の住人特有の薄暗い雰囲気をまとい始め、それが何か艶めいたものをその容貌に添えるようになっていた。
 変わったな、と毎度のことながら思う。
 「すまない、遅くなった」
 「いや、それほどでもない」
 謝るアキラに首を横に振って見せると、彼は「それなら良かった」と言いながら隣の席に座った。初めに依頼されていた情報の話をして――といっても、これは情報の価値は高いが長くなるほど複雑な話でもなかった――、それから飲みながらの他愛のない会話に移る。しばらくぶりに会ったので会話が弾み、閉店が近づく頃にはアキラはかなり酔ったようだった。
 もともと、アキラは酒には弱いのだ。
 弱いというなら俺も強い方じゃないが、それでも自分の飲める量は把握している。けれど、アキラは自分の限界を分かっておらず、飲み始めると強がって限度を越えて飲もうとするところがあるため、一緒に飲むとよく後で世話をすることになった。
 それ自体は、別に構わない。ただ、もし俺の目の届かないところで前後不覚に陥って、それにつけ込まれたら…と思うと気が気ではない。何度か注意したことはあるが、アキラは「安心して酒を飲める相手くらいは見極められる」というばかりだった。信頼されるのは有り難いことだが、あまり無防備に信頼されても困るというのも、正直なところではある。
 今日もアキラは酔ってしまい、俺はふらふらになったアキラの手を引いて店を後にした。顔なじみのマスターが「頑張りな、“お兄ちゃん”」と笑いながら励ましてくれたが、あまり嬉しくもない。
 もう遅いので自分の塒へアキラを連れて行こうと思ったが、聞けばアキラはこの近辺に宿を取っているという。そこで、俺はアキラの手を引いてそこへ向かった。


***


 アキラが宿にしているのは、いかにも場末といった風情のボロボロのホテルだった。中に入ると部屋は狭く、壁は薄汚れている。それでもシャワーの湯はきちんと出るということなので、場末とはいってもいい方なのだろう。
 明かりをつけ、俺は歩かせるというより、ほとんど支えるようにして連れてきたアキラをベッドに下ろした。急に重みの加わったベッドは、ギギッと断末魔のような声を上げて抗議をする。もうかなりスプリングが傷んでいるに違いない。
 可哀想なスプリングのことは気付かなかったことにして、俺は身を投げ出したアキラの傍に腰を下ろした。手を伸ばして、白い滑らかな頬を軽く叩く。
 「おい、アキラ…着いたぞ」
 「んっ…んん…」
 「眠るのか?別にいいけど、取りあえず起きて上着だけは脱げよ。あと、ベルトも外せ。窮屈な格好で寝たら、またうなされるぞ」
 2年前、初めて塒に泊めた数日間、アキラは夜毎ひどくうなされたものだった。あまりのうなされように放っては置けず、明け方アキラが穏やかな眠りに入るまで、傍についていたこともある。今は、時々一緒に寝ることはあるが、あの頃ほどうなされることはないようだ。それでも、俺は昔うなされていた頃のアキラが今も頭を離れないでいるのだ。
 何度か声をかけると、アキラはうっすらと目を開けて起き上がった。そして、まだぼんやりした表情のまま「シャワー、浴びてくる」と呟いた。こういうところは、妙に几帳面で面白い。
 ふらふらしているのでちょっと危ないな、とは思ったものの、俺はアキラの好きにさせることにした。少しくらい危なっかしくたって、俺がこの部屋で待っていれば何かあったときに応対することもできる。
 危なっかしい足取りでトイレと一体になったシャワールームへ入っていくアキラを見送って、俺は窓際の1人掛けの椅子に腰を下ろす。カーテンの隙間から窓の外の街灯の数を数えていると、じきにさぁさぁと雨音にも似たシャワーの水音が聞こえ始めた。何となくその音に耳を澄ませていると、

 どんっ!

 不意に、何かにぶつかったような物音がする。
 おそらくアキラがよろめきでもしたのだろう。壁の薄そうな安ホテルだから、隣の客が文句を言いに来ないだろうか、などと心配しながら、俺は椅子から腰を上げてシャワールームへ急いだ。
 礼儀として、念のためドアをノックしてみたが返事はない。アキラはシャワーを浴びながら眠ってしまったのかもしれない。「仕方ないなぁ…」俺はため息をつき、開けるからと断ってドアを開けた。
 途端、シャワーの湿気が立ちこめて、眼鏡のガラスが曇る。これだから眼鏡は不便なのだが、今時コンタクトは高級品で手が出せないので仕方がない。どうせ拭ってもまた湿気で曇ることは分かっているので、俺は視界の曇りをそのままにしてシャワールームに入った。
 シャワールームは、ホテルでよくある構造をしていた。手前に洗面台とトイレがあり、その奥が仕切られてシャワーのスペースになっている。視界が悪いものだから、俺はうっかりトイレを蹴飛ばしそうになりながら奥まで行き、シャワーのスペースに掛かっている防水カーテンを引き開けた。すると、シャワースペースの床に座り込んでいたアキラが、ぼんやりとした瞳で俺を見上げた。
 「アキラ、大丈夫か?」
 尋ねても、返答はない。
 そうする間にもさぁさぁとシャワーヘッドから湯が降り注ぎ、アキラの身体の表面を伝い落ちている。俺は手を伸ばし、アキラの頭越しに蛇口を捻ってシャワーを止めた。それから、膝を曲げて屈み、アキラと視線を合わせて子どもにするように言い聞かせる。
 「身体を拭いてもう寝よう。な?いつまでもここにいたら、風邪を引くぞ」
 「………――…っ…」
 最初はぼんやりと、次にはっきりとした声で俺の名前を呼んで、アキラは腕を伸ばした。まるで子どもが親を求めるように、あどけないけれど、必死の仕草だった。無碍にするのも後味が悪く、俺は内心ため息を吐きながらも、アキラの両腕の間に身体を滑り込ませる。
 途端、アキラがしがみつくように抱きついてきて、俺は体勢を崩した。シャワースペースの縁を乗り越えて内部のタイルの上に膝を突き、アキラに覆い被さるような格好になる。膝を突いているタイルも、密着しているアキラの身体も濡れそぼっているので、見る間に衣服が水を吸って湿り気を帯びた。
 けれど、アキラの様子を見に来たときから、この程度は覚悟の上だ。俺は身体を離すことはせず、アキラ背に腕を回してあやすように背中を撫でた。しっとりとして滑らかな肌、けれど、時折引きつれたようなざらりとした感触が手に伝わってくる。アキラが闇の世界で仕事を請け負い、その最中に負った傷の痕だ。
 それは背中だけではない。体中に幾つかあって、元々滑らかな肌をしているだけに余計痛々しい。いつもアキラの身体の傷痕に触れるたびにそう思うのだが、本人に言ったことはなかった。傷痕は、彼が闇の世界で生き延びてきた証で、肌が傷ついたと惜しむことは、敢えて危険な闇の世界を歩き続けるアキラを否定することになると思うからだ。
 抱き締めたままゆっくりと背中を撫でていると、不意にアキラが俺を抱く腕に力を込めた。左腕で俺を掻き抱きながら、右手が性急な動きで俺のシャツをたくし上げようとする。同時に首筋に顔を埋め、アキラはそこにきりりと歯を立てた。
 ピリッとした痛みが首筋に走り、俺は思わず顔をしかめる。首筋には、きっと噛み痕が残るだろう。しばらくは首元を隠すような衣服を着なければ、仕事に出られなくなる。
 「こら、噛むんじゃない」
 宥めるような声音で叱ったとき、アキラがぱっと顔を上げた。何かに追われているかのような性急さで、そのまま口付けようと顔を寄せてくる。「うわっ…ちょっと待てって」
 俺はアキラを押し留めて眼鏡を外し、自分からアキラの唇に唇を重ねた。途端、アキラは舌を伸ばして歯の隙間から差し入れてくる。
 それに緩く舌を絡めれば、微かに自分が飲んでいたのとは違う、苦く強い酒の味がした。こういう酒は、アルコールに弱い人間には向いていないのではないだろうか。とりわけアキラは少し子どもっぽい味覚をしているから、あまり好む酒の種類とは思えない。実際に飲んでいるときも、美味そうには見えなかった。

 あどけなさを削ぎ落としていく顔。
 口に合わない強いであろう酒。
 好んで身に着けるようになった黒ずくめの衣装…。

 アキラの変化の端々には、具体的な誰かのかたちが見えるような気がする。子どもが漠然と大人の真似をしてみせるのとは、ちがう。多分、アキラは誰かに憧れ、その背を追っているのだ。
 無我夢中で口内を貪るアキラに答えながら、俺はひどくやり切れない気分になる。
 頭の中では、アキラの前を歩く何者かへの問いかけが、ふつふつと泡のように浮かんでいた。


 お前は、彼のことを知っているのか。
 彼の憧憬を、希求を感じているのか。
 お前を追い求める余り、彼が無理な背伸びをしているのを分かっているのか。
 そのために、彼はひどく不安定で子どものように途方に暮れているのが、見えないのか。

 ――一度でも、振り返って自分を追いかける者の姿を、見たことがあるか。








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