千耳3





 次に目が覚めたとき、外はすっかり明るくなっているようだった。
 それでも、行為を終えて眠ってから、多分まださほどの時間は経過していないのではないだろうか。疲労と気だるさが全身に残っており、目が開いたとはいえ、とても起き上がる気にはなれない。眠る前に最後の気力を振り絞って行為の後始末を済ませた自分を自分で賞賛しながら、俺はもう一度眠ってしまおうとした。
 が、そこでふと隣に人の気配がないことに気付く。アキラが眠っていたはずのそこはもぬけの殻になっていた。頭だけ持ち上げて部屋の中を見回せば、窓際のソファにぼんやりと人の姿があるように見える。全体的な雰囲気から、それはアキラだろうと思ったが、眼鏡がなくては定かではない。俺はベッド脇の小さなテーブルに置いた眼鏡を取って掛け、改めて、それがアキラであることを確認しなければならなかった。
 アキラは、窓際の椅子の上に、座るというよりは片膝を抱えて蹲るような姿勢で、カーテンの合間から外を見ていた。今はいつもの黒ずくめの格好ではなく、Tシャツにジーンズという普通の若者らしい年相応の格好をしている。けれど、窓の外を見ながら考え込む表情は、同じ年代の若者よりはずっと厳しいものだった。

 裏社会で生きている――それも、生命のやりとりを生業としている者特有の厳しさだ。

 出会った頃には色濃く残っていたアキラのあどけなさが、急速に削ぎ落とされていくことが、ひどく痛ましい。本当なら、日の当たる道を歩めたはずなのに――そう惜しんでしまうのは、俺がアキラの変化を傍で見続けたせいかもしれない。あどけなさを削ぎ落として、代わりに厳しさで鎧うことなしには、彼は今の場所では生きていけないのだ。
 決して、安楽な生き方ではない。
 その歪みは常にアキラを圧迫し続けているものの、普段それを押し隠しながら彼は生きている。けれど、ふとした瞬間に、その歪みが姿をみせることがある。
 初めて俺がアキラの歪みを目の当たりにした日こそ、初めてアキラと抱き合ったその日だった。

 アキラは、自分の歪みを正したくて俺を抱くのかもしれない。
 俺は、多分、自分の歪みを受け入れるために、アキラに抱かれるのだろう。


***


 俺たちが初めてセックスをしたのは、出会ってたばかりの頃でもなく、最近でもなく、ちょうどその中間地点だった。その1年前のある日、久しぶりに俺の塒へふらりと現れたアキラは、ひどい顔をしていた。
 何があったのかは分からない。聞きもしなかった。話したければ話すだろうし、話したくないなら黙っているだろうと思ったからだ。アキラは他人と一定の距離を置きたがる性質のようで、だから俺がアキラに接するときは常にそんな姿勢だった。
 俺は何も聞かないまま、アキラを普段どおり塒に泊め、食事を出した。
 そのとき、アキラはいろいろなものに対して、疑心暗鬼になっていたのだろう。これまでにも何度か繰り返したそんなことでさえ、不審に思ったらしく俺に問い質した。
 『あんたは、一体何のために俺に関わってるんだ?何が目的で』
 『目的も何も、俺は一応友達だと思ってるんだけど、お前のこと。友達なんだから、泊まりに来るくらい普通だろ』
 そう言ったら、アキラはもっと不審そうな顔をした。
 とはいえ、それも無理はないかもしれない。昔、師匠に拾われたばかりの頃の俺も、師匠に対して同じ疑心暗鬼に囚われたことがある。見ず知らずの人間が、どうして縁もゆかりもない子どもを拾って世話し、跡継ぎに仕立てようとするのか、とその親切が分からず随分理解に苦しんだものだ。
 俺の場合、それは時が経つにつれて薄まり、意識して距離を作らなくとも師匠に接することができるようになった。けれど、アキラにはじっとそれを待つ余裕もなさそうだった。
 その晩、うなされているからと声を掛けた俺をアキラは押し倒し、行為に及んだ。そのときの態度は、挑発のようでもあり、俺に嫌われようとするようでもあり、また俺がどこまで許すのか試すようでもあった。
 抵抗することもできたが、俺はそうはせず、自ら進んで足を開いた。
 そのとき、アキラがおそらく俺の何かに挑み試す気でいたのと同様に、俺もまたアキラの何かに挑むような気持ちでいたからだ。たとえこちらが傷を負うとしても、意地でも退くわけにはいかない――退いたら敗けるという気がしていた。


***


 あのとき、アキラは何に挑んだのだろう。
 俺は何と戦おうとしたのだろう。

 ふとそんなことを思いながら、俺は眼鏡を外してテーブルの上に戻した。ぱたりと寝返りを打ってうつぶせになり、目を閉じる。そのまま眠ろうとした。
 と、アキラが椅子から立ち上がり、こちらへ歩いてくる気配があった。また眠るつもりだろうか。俺は寝返りを打って場所を空けながら、目を開けてベッドの手前に立った彼を見上げた。彼は腰を下ろしたものの、いつまでも隣に入ってくる様子がない。
 「アキラ…寝ないのか…?」
 「もう昼前だ」
 「悪いけど…俺、もうちょっと寝たい…」
 「あんたは寝たらいい。昨日…っていうか、今朝は無理を言って悪かった」
 そう言って、アキラは労わるように俺の髪を撫でた。見上げても、ぼんやりとぼやけた視界では彼の表情までは分からない。けれど、きっと申し訳なさそうな、殊勝な面持ちをしているのだろう。そう確信しながら、俺は眠りに負けて目蓋を下ろした。

 「――どうして俺は、あいつを追わずにはいられないんだろう。あんたがいれば他には何もいらないって思えたら、それが一番なのに…」

 薄い眠りの膜1枚を隔てて、遠くで呟きが聞こえる。
 何を馬鹿なことを、と俺は夢の中で嗤った。
 俺のことだけ考えて、俺のためだけに生きて――そんな奴は、男だろうが女だろうが、こちらから願い下げだ。俺は、俺だけを求める人間が欲しくて、惹かれたわけじゃない。俺が及びもつかないような、目指すべき何かを持っているからこそ、惹かれたんじゃないか。
 決して俺のことだけ考えてほしいわけじゃない。俺だって、そこまで一途には想わない。
 互いに自分の目的を見据えて、そのことを考えて。それでも、躓きよろめいたときにちょっと支えあえたら、それで十分じゃないか。
 眠りに沈みながら、取りとめもなくそう思う。すると再び眠りの薄い膜の向こうから、声が聞こえた。

 ありがとう、すなまい。
 そう聞こえた気がした。

***


 それから数週間後。
 俺は、深夜ひとりで、複雑に入り組んだ裏通りを走っていた。

 “シキ”が現れたからだ。

 “シキ”というのは、裏の世界ではかなり名の通った男だった。依頼を請けて始末した者、潰した組織は数知れず、数多の呪詛と多額の懸賞金を掛けられている。嘘か真実か、内戦開始の頃に消滅した<ヴィスキオ>の、不敗の<王>であったという情報もあった。
 そんな曰くつきの男がこの街に現れたと聞いて、俺はすぐに仕事場にしているバーを跳び出した。といって、別にシキの首に掛かる懸賞金を狙えると思ったわけではない。俺の戦闘能力といえば、スリッパ片手にゴキブリと交戦しても3回に1回は取り逃がす程度でしかなく、荒事で稼ごうなんて考えたことは一度たりともない。
 問題は、“シキ”こそ、アキラが追いかけ挑もうとしている相手だということだった。俺がバーを跳び出したのは、“シキ”の現れたその場にアキラもいたという話を聞いたからだ。


 外は一雨去った後で、アスファルトのあちこちに小さな水溜りができている。暗くてよく見えないものだから時折気付かず踏んでしまい、その度に足元でぱしゃりと小さな音が上がった。
 目撃情報のあった場所は、街の繁華街から外れたところにある。細い路地が入り組んだところで、土地勘がなければ昼間でも迷うほど複雑な構造になっている。だからこそ、この近辺には裏の世界に関わる商売をしている店も多いのだが、そんな場所では夜はなおのこと容易に目的地に辿り着けないだろう。
 この辺りの街は、古い。
 内戦よりも第3次大戦よりも以前、数十年も昔には大層活気がある街だったという。けれど、時が経つにつれて活気がなくなり、人が減り、寂れていった。歯が抜けるようにテナントが抜け落ちたビルが後に入る店もないままに放置され、そのまま廃墟になっているものも結構ある。そうかと思えば、いかがわしい店がひっそりと営業しているビルもあり、裏通りは一種混沌とした空気が漂っていた。
 入り組んで、時折思いがけないところで出現する行き止まりに舌打ちしながら、俺はなおも走り続ける。焦燥に逸る心を抑える一方で、一体自分は何を焦っているのだろうと訝しく思う。

 なぜ、俺は“シキ”とアキラが遭遇したという場所に、駆けつけようとしているのか。

 遭遇した2人は、十中八九交戦したに違いない。アキラが強くなったとはいえ、“シキ”との間にはいまだに厳然たる実力の差が横たわっている。双方の請ける依頼の情報だけでも、それは火を見るより明らかなことだ。
 戦闘になれば、“シキ”はアキラの生命まで奪うだろう。それは最初から目に見えている。全て承知の上でアキラは“シキ”を追っているのだし、俺もアキラにその足取りの情報を与え続けてきたのだ。
 やめておけ、とアキラに忠告することもできた。
 けれど、俺は結局それをしなかった。
 どんな理由があるかは知らないが、“シキ”を倒すというのは、アキラの望みなのだ。危険な目に遭わせたくない、死んで欲しくないとは思うものの、俺は止めようとは思わなかった。身内のようであろうと、抱き合おうと、俺たちは結局自分の場所で個々に立つしかない。
 その事実を忘れるほど、情に流されるつもりはなかった――はずだった。

 それなのに、俺は今、何をしようとしているんだろう。
 聞き分けのない女のように、割り切るべきところを追いすがって。


***


 走るうちに息が乱れ、呼吸が苦しくなって足を止めた。
 肩で荒い息を繰り返しながら、俺は立ち止まったその場で天を仰ぐ。空はすっかり雨雲が晴れ、円い月が煌々と輝いている。その月の光を浴びて佇むビルの1つの特徴が、目撃情報のあった地点の目印と一致していた。
 ここが“シキ”が現れたという場所だろう。
 もっとも、辺りはしんと静まり返り、人の気配がない。情報はガセであったのか、俺の早とちりで戦闘は行われなかったのか、或いは――全て終わった後なのか。いずれとも判断のつかないまま、俺はゆっくりと歩きながら周囲の様子を窺う。
 と、幾らも進まないうちに、物音が聞こえた。
 微かに届く人の声――それも、悲鳴だ。
 俺はぎくりとして、足を止めた。いかがわしい店の多いこの近辺では、喧嘩や私刑はさほど珍しいことではない。それでもやけに気になって、俺は声のしたと思われる方向に足を向けた。
 声がしたのは、通りに面した廃墟の中からのようだった。ちょうど俺の立っている路地に面した玄関があり、扉の失われた入り口はぽっかりと口を開けた虚ろな穴のように見える。その光景に、何か嫌な予感が掻きたてられる。それでも、じわじわ込み上げる恐怖心を抑えて、俺は次の瞬間にはその虚ろな穴に向かって歩き始めていた。
 まるで、何かに引き寄せられるかのように。


 玄関を入っていくと、キシキシと何かスプリングの軋むような音が聞こえた。それから、途切れがちに啜り泣くような声と息遣いも。そこでようやく、何が行われているかに気付き、俺は後戻りしようかと思った。
 そのとき、快楽が極みに達したのだろう、一際高い声が上がる。はっきりと快楽に染まり、艶を帯びたそれは――今まで聞いたこともなかったけれど――紛れもなくアキラの声だった。
 そうと気付いた瞬間、俺は金縛りに遭ったかのように動けなくなってしまう。
 これは一体どういう状況なのか。アキラに俺の外にセックスをする関係の相手がいようが、俺には関係ない。さっさとここを立ち去ってしまえばいい。或いは強姦されたという可能性を信じるなら、今すぐ助けに駆けつけるべきだ。
 頭ではそう思うのに、いずれか決めることができない。
 俺は深く息を吸った後にようやく、様子を見るために先に進むことに決めた。様子を見て、アキラの身に危険がなさそうなら、黙って立ち去ろうと思いながら。そうして慎重に気配を探りながら進み、ある部屋の前まで来たときだった。不意にカツカツと刻むような足音がして、誰かが部屋から出て来ようとする気配が伝わってくる。
 まずい。鉢合わせになる――。

 「そこにいることは分かっている。武器を捨てて出て来い。さもなくば、こちらから行く」

 不意に部屋の中から、アキラのものとは異なる低く通りのいい声が投げかけられる。
 この場合、「こちらから行く」というのは、攻撃を仕掛けるという意味まで含まれていそうな口ぶりだ。俺は仕方なく「分かった」と返事して、ゆっくりと部屋の入り口の前に歩み出た。ここもドアはなくなってしまっていて、廊下から遮るものもなく室内が見える。ガラスが割れてなくなった窓から差し込む月光を浴びながら、部屋の中央に佇んでいるのは、全身黒ずくめの男だった。手にした日本刀、血のように赤い双眸、そして向き合うだけでも圧倒されるこの威圧感――それらがある一つの事実を示している。

 「――お前が、“シキ”なのか…」

 思わず零れた呟きに、けれど男は答えることはせず、尊大な笑みを浮かべる。そして、俺に武器を出して床に置くように、さもなくば斬り捨てると宣言した。逆らえば殺されることは明白で、俺は男――シキの言葉に従って、ゆっくりと隠し持っていたごく小型の銃を取り出し、床の上に置いてまた立ち上がる。
 「それで全てか」
 「あぁ…お前相手に逆らうほど、俺は馬鹿じゃない」
 シキは刀の柄に手を掛けたまま、床の銃に視線を落とした。そして、僅かに目を細める。
 「かなり旧い型だな。もう骨董品に近い。これは譲られた銃だろう」
 その言葉は、的確だった。俺の持っている銃は、師匠が若い頃に手に入れた(その当時でも旧型の部類であったらしいが)もので、それが形見分けとして俺に回ってきたのだ。
 だが、なぜシキはそう思った?
 「…どうして、そんなことが分かる」
 「これはもう普通には手に入らない型だ。この型の銃を、好んで使っていた男を知っている。…そうか――<千耳>の跡目というのは、貴様のことか。なるほど、情に流されやすそうなところは、師弟揃ってそっくりだな」
 師匠をよく知るかのようなシキの口振りに、俺は俄かに混乱する。
 情報屋というのは人脈が生命の仕事で、師匠にはたくさんの知り合いがいた。だけど、その知り合いなら俺も大部分は知っているし、顧客ならば引き継いでいるはずだ。けれど、師匠はシキと知り合いだなんて、一言も俺に言ったことはない。
 それだけではない。
 多少面識があるなら、噂にシキの名を聞いたときにでも関心を示すだろうに、師匠は全く興味がなさそうだった。というより、今思えば頑なにその話題を無視していたような節すらある。師匠がそこまで依怙地になる相手といえば、俺が思いつくのは一人だけだ。

 「まさか…俺の前に、師匠が世話して裏の作法を教えた相手っていうのは…お前なのか…?」

 「あの男の言い方ではそうなるな。余計な世話だったが。裏の世界で生きていながら、ふやけた真似をすると思っていたが、まさかその弟子まで同じことをするとはな。それも、よりによってコレを拾うとは」
 そう言って、シキは後ろを顧みる。俺は嫌な予感を覚えながら、それでもシキにつられてその背後に視線を投げ――そして、息を呑んだ。先程まではシキの陰になって見えなかったのだが、そこには3人掛けの長いソファがあり、その上にはぐったりとしたアキラが身を投げ出していたのだ。
 「っ…アキラ…!?」
 俺は慌てて駆け寄ろうとした。が、数歩進んだところでシキが鞘に収めたままの日本刀を鼻先に突きつけ、進路を阻む。俺は憎しみを込めた目でシキを見据えた。
 「アキラに何をした?」
 「案じるな。生命までは奪っていない。よく見てみろ」
 視線で促されて、俺はアキラの様子をうかがう。シキの言う通り、アキラは気を失ってぐったりしてはいても生命に別状はないらしい。その胸は呼吸に上下している。ただし衣服がひどく乱されていて、上衣は胸までたくし上げられ、下半身はむき出しにされている。そして、外気に晒された腹部と太腿は濡れて、月明かりに光っていた。
 その光景に、不意につんと精液特有のにおいが鼻をつく。
 「アキラに、何をしたんだ…」
 俺は呆然としながら、なおも同じ言葉を繰り返した。
 何があったかは明白でも、頭がそれを理解することを拒否している。
 「見れば分かるだろう。コレは俺に挑んで敗けた。敗者が勝者の意のままに扱われるのは、当然のこと。だから俺はコレに相応しい扱いをしただけだ」
 「だからって、犯すなんて…お前は狂ってる」
 「狂っているというなら、敗けて犯されることを知りながら、挑み続けるコレも同じだろう。過去に何度も、コレは俺に敗けているのだからな」
 シキは密やかな嘲笑を漏らす。
 その言葉を聞きながら、指先が冷えていくのを感じた。アキラがもう何度もシキに犯されていたなんて、俺は知らなかった――。

 『力もないくせに、抵抗するなんて馬鹿じゃないのか』
 『実技も学科も成績が悪いなんて、お前何のために軍の学校なんか入ったんだよ?何も出来ないお前は抵抗なんかせずに、足開いて腰振ってればいいんだよ…それしか、お前の存在意義なんてないんだから』
 嗤いながら、俺を犯した上級生の侮蔑に満ちた顔。いつまでともなく繰り返される暴行。
 唐突に昔の記憶がフラッシュバックする。
 自分より劣るならどう扱ってもいいだなんて、一体誰が決めたルールだ、馬鹿野郎。

 腹の底から怒りが込み上げて、俺は次の瞬間、ポケットに手を滑らせていた。先程武器を出すよう命じられたとき、その小振りのナイフだけは隠しておいたのだ。
 しかし、ポケットから取り出したナイフを構えるよりも先に、シキの刀の鞘が俺の頬を殴打した。その衝撃で眼鏡が跳び、あまりの痛みに立っていられなくなる。更にシキは倒れかける俺の右手を打ったものだから、俺はあっけなくナイフを取り落としてしまった。
 反撃を試みたのも束の間、今や俺は床に倒れ、呻くことしかできない。
 カツカツと靴を鳴らして俺の前に立ったシキは、靴底で俺の頭を踏みにじった。割れるような痛みが頭に押し寄せる。このまま踏み潰されるのではないかというほどの痛みに、気がつけば俺は悲鳴を上げる代わりに食いしばった歯の隙間から言葉を押し出していた。

 「――殺してやる…」

 それは、多分単純にシキに向けた呪詛ではなかった。シキに向かって言いながら、俺はどちらかといえば、かって自分に暴行を加えた男の方をより強く呪っていたような気がする。
 と、不意に頭の上から圧迫感が消える。床に倒れたまま見上げれば、どういうわけかシキは俺の頭を踏みつけることをやめ、じっとこちらを見下ろしていた。
 「殺してやる、か」
 「――…?」
 「面白い。貴様もコレと同じように、俺を殺しに来るか?」
 「――いいや…よく考えたら、それは俺の領分じゃないからな…。俺は、俺のやり方でお前を追い詰めてやる。賞金稼ぎ共に…お前の居所の情報を、流してやる。寝るときも…食事のときも…女を抱いているときも…お前が安らぐときを、奪ってやる」
 俺が言い終えると、黙っていたシキは突然声を上げて嗤いだした。
 「なるほど、それが情報屋の流儀というわけか。面白い。生かしておいてやるから、出来るものならやってみろ」そう言うと、踵を返して部屋の出入り口へと歩いていく。そのまま立ち去るのかと思いきや、シキは足を止めて振り返った。「だが、俺から安らぎを奪うというのは、無理だな。もう長い間、俺はそんなふやけた時間を持ったことはない」
 去り際に投げかけられたその言葉には、どんな感情も込められていなかった。


 シキの足音が聞こえなくなる頃、俺は痛みに顔をしかめながら身体を起こした。
 踏みつけられた頭部、それに殴打された頬と右手が痛みを訴えている。それにしても、跳ばされた眼鏡はどこに落ちたのだろう。ぼんやりした視界のまま、手探りで付近の床を探してみるが、見つからない。
 俺は眼鏡を諦め、アキラの様子を見ようとソファを振り返る。
 すると、いつ気がついたのか、アキラは既にソファの上に座っている状態だった。
 「アキラ…大丈夫か…?」
 「
 応じるアキラの声はいつになく冷たい。一体どうしたのだろう。せめて顔が見えればまだ良かったのだが、生憎眼鏡は見つからず、俺は俄かに不安になる。
 「…シキを殺すのは、俺だ…。たとえでも…それだけは、譲らない…。俺が、あいつを殺すんだ…」
 暗い艶と陶然とした響きを帯びたアキラの声音は、この場にいないシキに向かって睦言を囁くかのようだ。その様子に、すとんと俺の中で胸に落ちてきた考えがあった。

 多分、アキラはシキを憎んで追っているのではない。
 アキラが殺そうと追う相手と、憧憬を抱く相手は、同じだったのだ。

 「あぁ、そうだな。お前がシキを殺せばいい…」
 俺は諦めにも似た気持ちでそう思い、アキラの言葉に頷いた。ともすれば大声で笑うか泣くかしてしまいそうで、努めて無表情を保とうとした。
 すると、アキラは満足したのだろうか、不意にふらりと身体を揺らしてソファに倒れこんでしまう。慌てて近づいた俺が覗き込むと、アキラは穏やかな表情で眠っていた。






End.


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