千耳4





 廃墟で“シキ”と遭遇した日から2ヶ月が過ぎ、7月が来ようとしている。あの一件の後、俺は何事もなかったかのように日常に戻り、今まで通り一介の情報屋として日々を過ごしていた。
 シキに向かって悔し紛れに投げつけた脅しは、結局、実行に移さなかった。あのときの言葉は、ただの売り言葉に買い言葉というより他はない。冷静になって考えてみれば、シキはわざわざ賞金稼ぎたちに接触して情報を与えて殺したいほど、執着する必要のある相手とも思えなかったのだ。
 俺は、廃墟で見聞きした出来事を全て、自分の中でなかったことにしようと決めた。
 あの廃墟で、あの瞬間、俺は明らかな異物だった。あのとき、廃墟のあの一室はシキとアキラの空間で、俺は存在するべきではなかったのだ。これからも、2人に関わろうとすれば、また同じ思いをし続けることになるだろう。
 『俺がシキを殺すんだ』
 そう言ったアキラの頑なな声音で、自分がそういう立場であることは、よく分かった。


 あの後、自分がシキを殺すのだと宣言して再び気を失ったアキラを、それでも俺は放置することができなかった。だから、再び目覚めるのを待って、2人で廃墟を後にした。
 再び目覚めたとき、俺がその場にいることに気付いたアキラは、ひどく驚いた様子を見せた。どうやら、自分が俺に対して告げた言葉を、覚えていなかったらしい。俺は何があったか尋ねられて言葉を濁したが、殴打の痕の残る頬などからアキラは何があったのか悟ったようだった。
 目を伏せて、アキラはひどく言いにくそうに、それでも何かを言おうとする素振りを見せた。きっと、シキと彼自身に関することだったのだろうと思う。けれど、俺はその言葉を素っ気なく遮った。

 『説明はいい。詮索するつもりはないから』

 聞きたくなかったのだ。
 多分、アキラの説明を聞いても、惨めな気分になるだけだろう。まるで恋人に裏切られたかのような醜い嫉妬の感情を――俺たちはそういう関係でもないのに――抱いてしまうだろう。この上、そんな醜い自分を目の当たりにするのは、自分のちっぽけなプライドのためにも、どうしても避けたい。
 だから、殊更に無関心なふりをして見せた。
 素っ気ない返答を聞いて、アキラは一瞬傷ついた表情を見せる。が、すぐにそれを打ち消して『そうか』とだけ頷いたのだった。


 それから、アキラとは何となく疎遠になった。
 今までのように、アキラが仕事で近くを通りがかったついでにと会いに来たり、連絡を寄越すことはふつりとなくなった。これまでは、しばらく顔を合わせなくとも、連絡だけは頻繁に取り合っていたのに。
 こんなに音沙汰がないのは、この2年間で初めてのことだった。
 何かあったのではないだろうか、とアキラの身を案じながらも、俺は自分から連絡を取ろうとはしなかった。どう接するべきか、分からなかったのだ。顔を合わせて話すだけならば、何もなかったかのような態度を保つこともできるだろう。けれど、それ以上のことを考えると、平静に受け入れることができる自信が無い。
 きっと、またあのときの醜い感情を思い出してしまう。ともすれば、態度から、その感情がアキラにまで伝わってしまうかもしれない。

 そうやって、連絡を取ることを躊躇っているうちに、ひと月が過ぎた。
 後になって思えば、妙なわだかまりなど捨てて、素直に連絡を取っておけばよかったのだろう。そうすれば、別の未来もあったのかもしれない。


***


 7月に入って間もなく、俺はアキラに関するひとつの情報を得た。
 日興連の軍が、彼を追っているらしいのだ。
 それにしても、なぜ軍が出てくるのだろう。俺は慌てて更なる情報を集めようとしたが、“アキラを追っている”というただ一事のみしか分からない。噂では、アキラが請けた仕事が軍にとってまずいものだったのだとか、昔犯した殺人が追及されることになったのだとか、様々な理由が付けられていたが、確かに真実と言えるものはなかった。
 軍の真意は、結局、どこをどう探っても出てこない。それでも分かるのは、アキラが軍に拘束されればどんな目に遭わされるかも知れない、ということだ。そう思うと、もう居ても立ってもおれず、俺は今までのことなどかなぐり捨てて彼に連絡を取った。けれど、どれだけ連絡しても、返答はなかった。とはいえ、俺のアキラへの態度を思えば、それも当然かもしれない。
 だが、今はそんなことに構っていられる場合ではない。
 そこで、何とかアキラを捜し出し、直接警告しようとした。幸いにも、情報屋というのは人捜しが依頼に含まれる場合があるので、その種の情報網にはいくらか伝手がある。それを駆使してアキラの居所を見つけ出し、会いに行こうとしても、直前で入れ違いにアキラが移動してしまう。そういうことが、何度か続いた。
 こうなると、もはや偶然とはいえない。

 アキラは、俺を避けているらしかった。


***


 その日、仕事を終えた俺は明け方近くに塒へと戻った。
 街外れにあるそこは、建てられてもう何十年にもなる古い平屋の一軒家で、あまりに古びているものだから、大きな地震や台風が来れば倒壊してしまいそうに見える。元はといえばこの家は死んだ師匠の持ち物で、他に受け継ぐべき人間もいなかったために、弟子であった頃と変わらず俺が使わせてもらっている。
 この家に暮らすのは、今はもう俺ひとりしかいない。鍵を開けて中に入っても、当然ながら、迎えてくれる者はない。今日家を出たときと変わらず――師匠が死んで以来、アキラがいたほんの数日を除き常にそうであったように――家の中はしんと静まり返り、人の気配がない。寂しいと思わないこともないが、一人でいるのがあまり苦にならない性質なので、慣れればこの静けさにはむしろ安堵を感じもする。
 俺はほっと息を吐きながら、真っ暗な自室の明かりを点けた。
 明るくなった部屋は、出掛けたときと特に変わった様子はない。
 さほど広くない畳敷きの室内は殺風景で、家具といえば箪笥と窓の下置かれた背の低いテーブルくらいしかない。テーブルは普段、読書や書き物やパソコンをするのにつかっているものだが、今はその上にファイルが2、3冊放置したままになっている。ファイルは全て新聞や雑誌の切抜きを集めたもので、ふと思いついて切り抜きを一枚引っ張り出したまま時間がなくなり家を出たのだった。その散らかり具合すら、見事に変わっていない。
 俺は窓に歩み寄ってカーテンを閉めたところで、ふと足元に切り抜きが落ちていることに気付いた。屈んで拾い上げると、それは純粋な仕事上の目的というよりは、アキラのことがあってから、軍について調べようと手当たり次第に切り抜いた記事の一枚だった。記事の内容は、第3次大戦の戦勝国の調査機関による、旧ニホン軍の秘密実験についての実態調査のレポートだ。
 記事を拾おうと一度屈んだのが悪かったのだろうか、そこで急に疲れを自覚してしまって、なかなか動く気になれない。しばらくの間、俺はぼんやりと記事の内容を目で追いかけながら、座り込んでいた。
 そのとき。

 「――

 抑え気味の声で呼ばれ、俺はぎくりと身体を強張らせた。とっさに手荷物の中から銃を引き出しながら、声のした方を振り返って、思わず息を呑む。襖を開け放した部屋の入り口の向こう、薄暗い廊下に立っているのは。

 「アキラ……?」

 あれほど捜し続けたくせに、いざ本人を目の前にすると名を呼ぶのがやっとで、あとはもう言葉も出てこない。心のどこかで、もう会えないのではないかと悲観していた部分もあったから、再会できたことへの安堵に胸が詰まってしまったのだ。
 そんなこちらの驚きように、アキラは緊張気味だった表情をふと緩めて、困ったような笑みを浮かべた。
 「今まで出てこなくて、悪かった。あんたが怒るのももっともだけど、とりあえず、その銃を下ろしてもらえないか」
 言われてようやく、自分がアキラに銃口を向けたままであることに気付く。途端、がくりと身体から力が抜けた。急にかってないほどに銃身が重く感じられて、俺はほとんど取り落とすような勢いで銃を下ろす。
 ゆっくり近づいてきたアキラは、こちらの呆然とした様子に少し不安を感じたのかもしれない。すぐ傍に跪くと、まだ俺の手の中にある銃をそっと取り上げ、静かにテーブルの上に置いた。
 「今まで、どこにいたんだよ?軍がお前を追ってるって情報が…警告しようとしたのに、お前は全然つかまらなくて…」
 「――すまない。あんたがそこまで取り乱すとは、思わなかったんだ。あんたは、いつも余裕そうに見えて…だから、俺が黙って消えても顔色ひとつ変えないんじゃないかって、思い込んでた。まさか、そんな泣きそうな表情させることになるなんて…――でも、あんたを試すために連絡を取らなかったわけじゃないんだ」
 アキラは困ったような笑みと共に俺の頬を撫でるが、じきに真顔になって頬に触れていた手を引っ込めた。
 「軍のことはもう知ってる。何度か追っ手とも闘ったから」
 「追っ手…!?なんで…軍は何の目的でお前を追ってる?前に言ってた内戦前の殺人罪は、冤罪が確定したはずだろ?第一、その殺人罪が理由だとしても、追求するのは警察の仕事じゃないか」
 「軍の目的は、多分、それとは別件だ」
 「別件って、見当はついてるのか?」
 それが分かれば、或いは、何か軍の追跡への対策が立てられるかもしれない。そう勢い込んで尋ねるが、アキラはただ首を横に振った。
 「には言えない」
 「…理由は」
 尋ねた声は、低く僅かに殺気さえこもっている。
 というのも、俺は本気で腹立たしかったからだ。アキラは、もともと他人に頼ることをよしとしない性格だ。こちらも十分分かっているが、今のような深刻な状況ではそういうことを言っていられる場合ではないだろう。
 そういう気分が、声に出たのだ。が。
 「言えば、は軍相手に無茶をやらかすだろ…まず間違いなく、考えるまでもなく、絶対に。これは俺の問題だから、あんたを巻き込んで危険な目には遭わせられない。――それに、事情を知ったら、は俺を化け物だと思うかもしれない…それは嫌だ」
 「何だよ、化け物って。事情を知ったら、俺は手の平を返したような態度を取るって?…そこまで俺は信用ならない奴なのか?ふざけるなっ」
 「…悪い。言い方が間違ってた。がそんな奴じゃないっていうのは、よく分かってる。それでも怖いんだ。やっぱり、もしかしたら、あんたは俺を嫌うかもしれないと思ってしまう。――あんたを信じきれないのは、」

 多分、俺の弱さだ。

 俯いて呟くアキラに、俺は何と言っていいのか分からなかった。


***


 「…そろそろ行くから」

 その場に落ちた沈黙を振り切るように、不意にアキラが膝を伸ばして立ち上がる。
 「今日ここへ来たのは、に別れを言うためだ。黙っていればそのうち俺を捜すのを止めるかと思ったけど、あんた、いつまでも諦めないから。――だけど、もう捜すのはやめてくれ。俺ももうあんたとは会わない」
 そう言って、彼はこちらへ背を向けた。
 突然の別れの言葉に俺はただ呆然としてしまって、言葉ひとつ出てこない。それでもとっさに身体が動き、気付けばアキラのコートの裾を掴んでいた。
 何て情けない姿だろう。恋人でもないのに――同性だからはっきりとそうなることが躊躇われて、いつまでも曖昧な関係のままでいた癖に――、去るという相手を未練がましく引き止めるなんて。きっと、アキラも疎ましく思ったに違いない。
 罵倒されるのではないか、嘲笑されるのではないか。そんな恐れを抱きながら、それでも必死に顔を上げる。すると、意外にもこちらを見下ろすアキラの顔にあるのは、驚きだけだった。
 「――
 放してくれと促すような調子で、名を呼ばれる。裾を放さないまま首を横に振ると、アキラは小さなため息を吐いた。

 「俺より年上なのに…あんた、それ、いろいろ反則だ…」

 コートのポケットを探りながら、彼は仕方ないというようにこちらへ向き直った。再び膝を折って屈み、座り込んだ俺と視線の高さを合わせてくる。
 「放してくれ。本当にもう行かなきゃならない。もし軍と俺の問題にあんたを巻き込んでしまったら…それであんたが怪我したり、生命を落としたりしたら…そんなことになったら、俺は耐えられない。自分で自分が許せなくなる。そんな思いは、したくないんだ」
 宥めるように言いながら、アキラは右手で俺の頬を撫で、指先を頬から滑らせて眼鏡を取り上げる。テーブルの上に眼鏡を置いてから、彼は右手の指先で俺の目元をなぞって、そこに僅かに滲んだ雫を拭う。そして、右手を肩に置くと不意に顔を寄せてきた。
 一瞬廃墟での光景が脳裏に蘇り、俺は身を引こうとする。が、すぐ後ろにあったテーブルに背中がぶつかってしまい、逃げ場を失う。
 唇が重なった。
 するりと唇の合間に滑り込んだアキラの舌が、開けろと促すように歯列をなぞる。嫌悪感は、今でも感じない。むしろ快い。あの廃墟での一件を思えば拒むべきなのだろう、けれど。頭ではそう考えながらも、俺は彼を迎え入れるようと口を開いた。

 ずっと守っていたプライドも虚勢も、崩れていく――崩されていく。
 このまま自分を鎧う殻が全て壊れ去ったら、俺という人間の輪郭は、どろどろに溶け落ちてしまうのかもしれない。そのときその後に残るのは、きっと得体の知れない軟体動物みたいな醜い何かだろう。

 目を閉じて、口内に挿し入れられる舌の感触を感じながら、とりとめもないことを思う。
 そうするうちに口腔を浅く侵しただけで舌と唇の感触は去っていき、俺は薄く目を開けようとした。途端、2本の指が唇に押し当てられる。指は、口付けの名残で開いていた唇の合間から有無を言わさず忍び込み、舌の上に何か小さなものを落として去っていった。
 「――っ…!」
 舌の上に落とされたのは、おそらく何かの錠剤だろう。先程ポケットを探っていたのは、このためか。
 吐き出そうとするが、それよりも早くアキラが再び口付けてくる。右手でしっかりと肩を押さえられ、左手で顎を固定されているので、逃げることはおろか口を閉じることすらできない。そうする間にも、アキラは口腔へ挿し入れた舌で、錠剤を奥へと押し込んでしまった。
 錠剤が、咽喉を滑り落ちていく。
 もう吐き出すことはできないだろう。
 諦めに似た心境で、俺は身体の力を抜いた。目を閉じて、アキラが口内を侵すのに任せる。彼は息を奪うほど執拗に口内を貪った後で、ようやく顔を離す。解放されると酸欠で身体が支えきれず、俺はぐらりとアキラの胸に倒れこんだ。
 酸欠?――いや、ちがう。これは。
 「な、に…飲ま、せ、…た…」
 「睡眠薬。最初から使うつもりだったわけじゃないけど、こうなりそうな予感はしてたから、用意してた」
 「クスリ…使う、男は…最低だぞ…まさか…女の子相手に、使ったこと…ないだろうな…」
 「まさかそんなことに使うわけないだろ。、そんな状態になっても説教するのか…本当に、あんたらしいな」
 俺を抱きとめながら、アキラは面白がるような声音で言った。顔を見ることはできないが、密着した部分から彼の身体の微かな振動が伝わり、どうやら笑ったようだと分かる。胸元に下げられた銀色のロザリオが、目の前で揺れていた。
 ぼんやりと俺はそれを見ていたが、やがて目が開けていられなくなる。次第に身体に力が入らなくなり、完全にアキラに身を預ける格好になった。身体を抱く彼の腕の温もりも、次第に遠ざかる。
 意識が、眠りに支配されようとしている。
 「あんたには世話になりっぱなしで、その上シキとのことに巻き込んで傷つけて…悪かった。あんたは多分もう知ってるんだろうけど、俺がシキに抱かれたのは、あのときが初めてじゃない。…もう何度も…快楽を感じるときもあった。あんたには、そんなこと言えなかった…嫌われたくなかったから、傍にいることを許してほしかったから」
 アキラの声音は、聞いている方の胸が痛むような、苦しげな響きをしていた。
 言葉を切った後に、アキラは俺の身体を横たえた。そして、すぐにさわさわと衣擦れの音が聞こえ、彼が立ち上がった気配が伝わってくる。

 行ってしまう。
 俺という人間の輪郭がどうせ溶け落ちるなら――溶け落ちるとしても、伝えるべきことがあるのに。

 けれど、どうしても声を出すことができない。
 必死に眠りに抗っていると、意識の遠くで更に声が聞こえた。
 「俺はシキに執着してた。どうしても、この手で殺したい相手だと思ってた。だけど、あいつに執着するのと同じくらい強く、あんたからも離れたくなかった。あんたはとても大切で…自分でも他の誰でも、あんたを傷つけるものは許せない、そんな風に思ってる」

 多分、愛してる…のこと。

 眠りに引きずり込まれる寸前に聞こえたその言葉は、或いは、俺の妄想だったのかもしれない。


***


 目が覚めたとき、カーテンの隙間から差し込んでいたのは、紛れもない朝の日差しだった。
 気がつけば、俺は自室の畳の上に横たえられていた。身体には、押入れに仕舞ったはずのタオルケットが掛かっている。当然ながら、アキラの気配は影も形もなくなっていた。
 上体を起こしたとき、つと頬を伝うものがあり、俺は頬に手を当ててみた。指先の濡れた感覚で、涙なのだと思い至る。途端、それが呼び水であったかのように、胸の辺りから熱の塊が競りあがってきた。目元まで達した熱は涙となり、目の縁を越えてとめどなく伝い落ちていく。
 もはや、どうやって止めればいいのか分からずに、俺は手で顔を覆って涙が流れるに任せた。



 それからも、俺は諦めずにアキラの居所を捜し続けた。
 しばらくの間は、それまでと変わらぬ追いかけっこを続けていた俺たちだが、7月も半ばになるとふつりと彼の消息は途絶えてしまった――まるで、この世にいないもののように。








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