・死にネタあり→アキラ(反転でキャラ名)


千耳5





 アキラが消息を絶ってから3ヶ月後のこと。
 10月もそろそろ終わるかというある日、俺のもとに一通の手紙が届いた。差出人は、アキラだった。
 手紙は、正確には、直接俺の家に届いたのではない。仕事用に偽名で作った宛先に送られてきたもので、封筒には差出人の名前も書かれてはいなかった。それでも、中身を読めば、アキラからのものだということは分かる。
 俺は、自宅でその封を切った。
 手紙の文面には、しばらく軍に囚われていたが無事脱出したこと、同封したものを預かって欲しいということが、アキラの性格を反映して簡潔に書かれている。結びには、これまでのことへの改めての感謝と、くれぐれもこれ以上自分に関わらないようにという念押しの言葉が添えられていた。最早彼の生存を半ば絶望しながら、諦めきれずにその消息を求め続けていた俺は、手紙を受け取ってほっと安堵の息を吐く思いだった。
 ともかく、アキラが生きていてよかった。
 けれど、最後に封筒を逆さにして、中から滑り落ちてきたものを目にしたとき、俺の安堵は唐突に不安へと変化した。
 封筒に入っていたのは、アキラがいつからかずっと身に着けているロザリオだったのだ。

 『この手紙に同封するものを、あんたに預かっていて欲しい。あんたがそれを持っていてくれるなら、俺はきっと俺として闘えるから』

 手紙の文面がふっと頭に思い浮かぶ。
 だけど、これはずっとアキラが大切にしていたロザリオじゃないか。そんなものを預けて、誰と、何と闘うつもりなのか。大切な品を手放して、今までのアキラでなくならなければ、勝てないような相手なのか。もう関わるなというからには、その闘いの後にロザリオを取り戻しにくるつもりもないのだろう。
 大切な品を、他人に――それでは、まるで形見分けではないか。
 不吉な予感が込み上げてきて、俺は手にしたロザリオを握り締めた。
 「――冗談じゃない…こんなの、受け取れるか…っ」
 小さく呟いて、封筒を取り上げ、そこに押された消印を確認する。大丈夫、これだけの情報でも、きっとアキラを探し出すことができる――いや、必ず探し出す。

 危険だろうが構わない。俺はアキラに会わなければならない。
 だって、会って言いたいことがあるんだ。
 言えなくなってからでは遅いと、この3ヶ月で思い知ったから。


***


 ここは、どこかトシマに似ている。

 人気のない路地の中ほどに立ち、左右に立ち並ぶ廃ビルを見上げながらアキラはふとそう思った。脳裏にトシマでの出来事――世話になったリンや源泉のこと、憎しみをぶつけてきた猛のこと、自分に血の秘密を明かしたエマのこと、共に帰るという約束を果たせなかったケイスケのことが蘇る。
 そして、自分を闇の世界へと誘ったシキ。
 今のアキラがあるのは、きっとトシマでの出来事があったからなのだろう。ある瞬間にどれか一つでも別の選択をしていれば、別の未来もあったのかもしれない。もっとも、今の自分の在り方を後悔しているわけではない。ただ、不思議なだけだ。イグラ参加以前とは全く違う場所にきて、全く違うものの見方をする自分を省みて、随分“遠く”へ来たものだと感嘆する思いなのだ。
 そういえば、こういう感情も懐かしさと呼ぶのだろうか。
 取り留めのないことを考えているアキラのコートの裾を、風がふわりと揺らしていく。風に混じる香しい夜の匂いを吸い込んで、アキラは淡い笑みを浮かべた。
 春は芽吹く新緑と湿った土の匂い、夏は生を謳歌する草木の青臭い匂い、秋は枯れ草の香しい匂い、そして冬の夜は微かに甘い匂いがする。
 かってそんな風に言ったのは、だ。といって、彼が詩的だというわけではない。行為の前に手間が省けるからと自分で身体を馴らしてしまうくらいだから、ロマンや甘い雰囲気とはかけ離れた人間で、下手に甘い言葉でも囁こうものなら大笑いされたことだろう。ただ、情報屋という情報の分析を主として動く生業のためか、にはものごとをあれこれ考えてみる癖がついていた。そして、分析の結果は言葉で表現される。といっても、ものごとには言葉で言い表せない微妙な部分も多いものだが、それでも言葉で切りとろうとする。そのせいなのだろう、彼の使う表現はときどき詩的だった。
 夜の匂いの話をしたのは、いつかの大晦日の晩のことだ。
 せっかく大晦日に顔を合わせたのだし、面白いから初詣に行こうとが誘った。それまでは、彼の師匠の供をして毎年詣でていたのだという。それで、日付の変わる直前にあの家を出て、近場の小さな神社に向かった。その途中に彼がふと『冬の夜の匂いは甘い』と言ったのだ。面白い言い方だと思って、アキラが他の季節も尋ねると、彼は恥ずかしそうにしながら渋々教えてくれた。
 の言った季節の夜の匂いが正確かといわれれば、アキラとしては言葉を濁すしかない。ただ、がどういう匂いを言葉にしようとしたかは分かるし、それを言葉に収めきれないまま無理に当て嵌めたもどかしさも感じ取れる。そういうものも含めて考えると、の言葉はアキラの感覚からすれば、夜の匂いを割合上手く表現しているように思うのだ。

 は、自分が見向きもしないものを拾い上げ、差し出してみせる。自分とは異質な部分を多く持っていて、その異質さが安らぎであり、好ましかった。大切に大切に、いっそ仕舞い込みたいとさえ思った。
 だが、シキは自分と同類――否、自分がシキの同類だからか、傍に居れば血が騒ぐ。ぶつかり合い、削り合うことにこそ喜びを感じる。もしかしたら、殺しあうのではなく愛せたのかもしれない、と思う瞬間も確かにあったが、そんな感情は血の滾りに掻き消されてしまう。
 結局、それが自分とシキの在り方なのだろう。

 夜の匂いを深く吸い込んで、アキラはカツカツとアスファルトを刻むように聞こえ始めた足音の方へ顔を向ける。路地の入り口に、闇よりもなお黒いと思えるシルエットが立つと、まるでトシマに戻ったかのような錯覚を一瞬だけ覚える。
 あぁ、懐かしい。
 アキラはそう思いながら、足音の主を迎えて唇の端を持ち上げた。


***


 「久しぶりだな」
 「――俺を呼びつけるとは、いい身分になったものだな」
 足音の主――シキは揶揄するように言いながら、身に纏う空気に僅かな威圧を加える。といって、今更それで怯えるアキラではない。双方分かった上のことで、シキの態度はいわば形式的なものだった。
 アキラは肩を竦め、さらりと威圧を受け流した。
 「時間がなかったんだ。軍とが俺を捜してる。いつもみたいにあんたを追い回せば、その動きで俺の居所が知れる。軍よりも性質が悪いのは、だ。裏の世界の情報網が半端じゃないから、動けば軍よりも先に情報が伝わる。逃げ回ってるときは、苦労させられたよ」
 「未熟とはいえ、<千耳>の跡継ぎだからな、あの男は。それくらいのことは、してみせるだろう。――それで、“依頼人”を装って俺を呼び出したか。目的は何だ?」
 「目的?聞くまでもないだろ。俺とあんたが顔を合わせてすることなんて、一つしかない。――俺と闘え」
 不意にすとんと全ての表情を削ぎ落としたアキラは、手にした日本刀の鞘を払った。月光を浴びて青白く輝く刃を、真っ直ぐにシキへと突きつける。
 「勝者敗者なんて子供だましはもうたくさんだ。俺が死ぬか、あんたが死ぬか…今日こそ決着をつけてやる」

 「貴様次第だな。俺が本気になるに値する闘いをしてみせろ」
 「当然だ。あんたこそ、つまらない闘い方はするなよ」

 感情を削ぎ落とした双眸はそのままに、アキラは唇にだけ好戦的な笑みを乗せてアスファルトを蹴った。渾身の力を乗せて、最初の一閃を繰り出す。シキはまだ刀に手も掛けておらず、アキラの放った刃はあっさりとシキを切り裂くかのように見えた、次の瞬間。
 ガキッ。
 金属のぶつかり合う激しい音と共に、アキラの繰り出した一撃が受け止められる。あの短い一瞬でどう反応したものか、シキは自らの刀の鞘をずらし、露にした僅かな刃の部分でアキラの刀を受けたのだ。
 重なり合い拮抗する刃が、カチカチと音を立てる。その向こうでシキの紅い双眸が歓喜を湛えて燃え上がるのを、アキラは間近に見て取った。

 歓喜――そう、シキは喜んでいる。

 殺し合いを喜ぶシキを今更異常だとは、アキラは思わなかった。むしろ、自分がシキを歓喜させるほどの腕であることが、誇らしかった。そして何より、アキラもまた、歓喜しているのだ。
 生命の遣り取りをする瞬間、その場に存在するのは、純粋に自分の強さと相手の強さのみだ。過去も、立場も、しがらみも、余計なものはその一瞬だけ全て意味を持たなくなる。こうしてシキと何の利害もなく生命を遣り取りする瞬間だけ、アキラは非nicolの保菌者でも裏の世界の始末屋でもなくなることができる。

 (――そして、今日は“シキ”のコピーですらない)

 今まで自分の胸元で踊っていた銀色。初めて敗けたときシキに与えられて以来、彼の姿を引き写すように身に着けていた。そうすることで、シキの強さに追いつける気がした。
 そのロザリオは、今、ここにない。アキラが、シキのコピーではなくアキラ自身としてここに立ちたつために、預けてきたのだ。
 今、そのロザリオを手にしているであろうのことを思いながら、アキラは刀に受けている圧力を身を捩って逸らし、力の競り合いをやめて距離を取った。シキが完全に抜刀する勢いで斬りつけて来る、その一瞬を身軽な動きでぎりぎりにかわし、敢えて退かずに懐に踏み込む。そこで、刃を繰り出した。
 シキがそれを身を捩ってかわしつつ、間合いを取る。そうして、やや怪訝そうにアキラを見つめた。
 「――太刀筋が変わったな」
 ぽつりと零された言葉に、アキラは笑って見せた。きっと、悪戯が成功した子どものように嬉しげな顔をしていただろう、と自分でも思うほど愉快だった。

 「俺は、あんたのコピーではなく、俺として闘うことにしたんだ」



***



 鋭い熱が身体を突き抜ける。
 痛みは、その後から来た。

 腹部を貫いた刃に視線を落としながら、アキラはひどく冷静だった。むしろ、安堵すらしていた。といって、別に死にたいわけではない。どちらかというと、肩の荷が下りたような心境に近い。だって、今ここでシキの手に掛かって死ねるのは、最期まで「自分自身」を保つことができた証なのだから。
 軍の研究所を無理矢理脱出した今、アキラがもっとも望むのは最後まで「自分自身」でいることだった。普通に見れば、大した望みではない。けれど、研究所に囚われて、自由を奪われ実験漬けにされ、気も狂いそうになったあの3ヶ月を思えば、アキラにとってそれは切実な望みだった。
 もしも、今度また軍に囚われることがあれば、もう正気を保てないかもしれない。この身に宿る非Nicolを悪用されても、分からなくなるかもしれない。n同様、感情を奪われて戦闘兵器にされるかもしれない。それだけは――ケイスケを初め多くの人間の運命を狂わせたNicolの研究材料とされることだけは、たとえ生命を引き換えにしても免れたいことだった。
 自分が、まだ自分らしくいられる間に生きて死にたい。その望み通りにするには、こういうやり方しかなかったのだ。

 そして、今、シキは望みを叶えてくれた。
 アキラにとって、最良の形で。

 目の前の男に感謝と、いっそ愛おしささえ覚えながら、アキラは顔を上げた。すると、意外というべきか、まるで初めて人を斬ったかのように呆然としているシキの表情が見える。
 ――間抜けなカオ。
 そう思ってアキラは笑い、笑ったところで咽喉を競りあがってきた血にむせて前のめりになった。身体に力が入らず倒れかけるのを、シキの腕が伸びてきて支える。同時に、頭上から「なぜだ」と呆然とした声が降ってきた。
 「なぜ俺の刀に跳び込んだ。貴様、少しは骨のある雑魚になったと思っていたが、自ら死のうとするとは…愚かにもほどがある」
 「だって…そうでもしないと…あんたに、一太刀も浴びせること…できなかった、だろ…」
 わが身を犠牲にして、シキを斬る。無謀な戦術だが、それでも半ば成功して手傷を負わせることができた。もしもあそこでアキラが踏み込まなければ、シキはいまだに無傷のままこの場に立っていただろう。
 鼻につく血臭が、自分のものかシキのものか分からない。
 むせ返るようなその臭いの中で、アキラは満足げに笑った。
 「なぁ…あんた、もっと嬉しそうなカオ、しろよ…あんたの、大っ嫌いな、nicolの片割れを…葬ったんだから…。俺も、あんたの手に掛かって、よかった…次、軍につかまったら…きっと、狂ってたと思うから…」
 欲を言えば、あんたも連れてってやりたかったけど。
 乱れがちな息の合間から、やっとそれだけを言葉にする。その頃には、もう全く足に力が入らなくなっており、アキラはずるずると崩れ落ちていく。シキがそれを支えながら、アキラをアスファルトの上に座らせる。アキラが上体を支えきれず、完全に寄りかかる格好になっても、シキは振り払おうとはしなかった。
 シキの胸の辺りに頭を預けたアキラは、最後の気力で顔を上げ、すぐ傍にある白皙の美貌を見つめる。が、やがて目を開けていることも億劫になって、再びシキの胸に頭を預けて目蓋を下ろした。
 「――さいご、に…見るの…あんたの、顔とか…最悪だ…。どうせ、なら……泣いて…しい…のに…」
 冗談めかして笑ったはずが、零れたのは吐息だけだった。もしかしたら、笑みすら作れていなかったかもしれない。遠ざかる意識の中、アキラは死の闇が自分に迫るのをぼんやりと感じた。


***


 この3ヶ月の間、完全に途絶えていたアキラの消息。届いた手紙を頼りに、俺はやっとの思いで彼へとつながる情報の細い糸を見出し、その居所を捜した。手紙には消印が押されていたが、もちろん、アキラは移動してしまっている。それでも苦心してやっと居所を探し当てたのは、手紙を受け取ってから2日後のことだった。
 居所が分かると、もういても立ってもいられなかった。
 時刻はもう公的な交通機関も停まる深夜で、俺は知人から車を借りてその街へと向かった。街に辿り着くのは、昼過ぎになった。遠方であったし、周辺は区画整備がされていないせいで道路が渋滞しやすく、その上雨が降ったために一層時間がかかったのだ。
 到着すると、俺は車を比較的幅の広い道路の路肩に停め、細い路地へと入っていった。この近辺でアキラと思しき人間が目撃されたことは確かだが、塒の正確な場所までは分かっていない。それに、アキラだとしても、もう移動してしまったかもしれない。
 焦りに駆られて路地を進むうち、不意につんとした臭いが鼻をついて俺は思わず足を止めた。もうかなり薄れてはいるが、これは。

 (――血の臭い…)

 雨に洗われ、風に散らされその血臭の出所はどこなのか。立ち止まり、耳を澄ませてみても、争っているような物音は聞こえてはこない。細い雨が差した傘の表面やアスファルトに降りかかる音ばかりで、辺りはしんと静まり返っている。
 そこで、歩きだろうと踏み出した足の先をふと見ると、水溜りが赤く濁っていた。
 「――っ…!!」
 息を呑んで足元をよく見れば、大分雨に洗われてはいるものの、アスファルトの細かな目の中に赤茶けた色がこびり付いている。この場で多量の血が流れたという証拠だ。一人の人間の流した血だというなら…生存も危ういかもしれない。
 俺は屈み込んでアスファルトの目に残る赤を検分し、次いで顔を上げた。視線を巡らせれば、ビルの軒先の雨に濡れていない乾いた場所に、円い血痕が見える。血痕は、点々ととある廃ビルの中へ続いているようだった。

 これが、アキラの血のはずはない。誰か別人の血だ。
 アキラは無事で、きっともう移動した後だ。或いは、最初からここにいなかった。
 絶対そうにちがいない。

 自分に言い聞かせてみても、不安は胸を去らない。まるで今生の別れみたいなアキラの手紙を受け取った後だからだろう。廃ビルの中にいるのが手負いの別人であれば、相手によっては、こちらの身も危ういかもしれない。それでも、俺は確かめずにはいられなかった。
 不安と緊張に浮かされて、雲を踏むかのように歩いている実感のないまま、歩く。
 ビルの軒先に入ると、俺は手にした傘をたたんで壁に立てかけ、空いた手で隠し持っていた銃を取り出す。そして、ゆっくりと薄暗いビルの内へ踏み込んでいった。


***


 入り口を入ると、途端、血臭が強くなった。手負いの何者かは、やはりこのビルに潜んでいるのだろう。建物の内部に澱む血臭を掻き分けるように奥へ進むと、一番奥のがらんとした部屋の中に蹲るシルエットが見えた。
 窓から差し込む外の明るさに照らされて、その姿が明らかになる。
 蹲っているのは、見忘れることもない、あの“シキ”だった。ただ、その様子は以前遭遇したときとは、あまりにかけ離れてしまっている。近くにいるだけで圧倒されるようなあの威圧感が、すっかり失われてしまっているのだ。
 そして、そんなシキに抱かれているのは。

 「アキラ…っ!?」

 駆け寄ろうとした途端、茫然自失の態であったシキが反応を示した。傍らに置いた抜き身の刀に手を掛け、近づけば斬るという意思を見せる。そのため、俺は立ち止まらざるを得なかった。
 刃の届かない位置から改めて見れば、シキの腕の中でアキラは固く目を閉じ、ぐったりと身体を弛緩させている。薄ぼんやりとした窓からの光でも分かるほど、その頬には血の気がない。
 アスファルトの血痕は、もしかして…そう、シキの態度を見ても…恐ろしい予感が浮かび上がり、やがてある確信に変わりかける。それでも、俺は確信に変わりつつある考えを強く打ち消して、とにかくアキラの安否を確かめるのだと歩を進めた。その途端、シキが刀を振るった。
 「っ…!」
 最初から威嚇目的であったのだろう。刃は俺の衣服の裾を掠めただけで、身体には届かない。けれど、刃の一閃が過ぎた後に叩きつけられた殺気は、紛れもない本物だった。次に繰り出される刃は、必ず俺の身体を斬り裂くだろう。シキの殺気のあまりの苛烈さに、はっきりとそう予感する。とっさに後退りしかけるのを、けれど、俺は踏みとどまった。

 アキラを、このままシキの手に委ねておくわけにはいかない。

 たとえこの身が斬り裂かれても、それだけは譲れないのだと唇を噛み締める。俺は手にしていた銃とポケットの中のナイフをゆっくりと足元に置いてから、再び歩き出した。
 と、シキが刀を持つ手に力を込めたカチャリという微かな音が、耳に届く。同時に、再び強烈な殺気が叩きつけられる。まるで手負いの獣のようだ、と頭の片隅で思いながら、俺は殺気の圧迫感に負けじとシキを見据え、口を開いた。
 「頼むから、傍へ行かせてくれないか。アキラが怪我をしているなら、手当てしてやりたい。……それに、もう生命がないのなら…ちゃんと、眠らせてやらなきゃならない」
 押し出した声は震え、掠れていた。
 途端、びくりとシキの肩が揺れ、俺の言葉が真実なのだと物語る。ゆっくりと2人に向かって歩き出しても、もう、シキは刀を振るおうとはしなかった。俺はゆっくり近づきながら、叫びだしたい衝動を押さえつけていた。
 アスファルトの大量の血痕。シキの腕に抱かれたアキラを見たときから、俺は彼の死を悟っていた。ただ、口には出したくなかった。言葉にしないうちは、まだ、それを白昼夢にしてしまえるのではないか、という気がしていた。
 どうして俺が――アキラを想っていたのは俺だっていうのに、こんな風にアキラの死を宣告しなくちゃならないんだ。悲しみに浸る権利があるのは、アキラと敵対していたシキよりもむしろ、俺の方だろうに。

 お前がアキラを殺した癖に。
 それなのに、どうしてお前がアキラを奪われたような顔をする。
 奪われたのは、お前じゃなくて俺のはずじゃないか。

 あまりの理不尽さにいっそ怒鳴りたかったが、やめた。シキがあまりにも虚ろな表情をしていたからだ。今、精神を抉れば目の前の男は誰の手に掛かるのでもなく、自らの内側から崩壊するだろう。それを狙って精神を抉る言葉を吐くなんて――執着する相手の死で自ら壊れてしまえるシキの純粋さに比べて、なんと姑息で醜いことか。そんな真似をして、これ以上惨めにはなりたくない。
 あぁ、いっそ俺も悲しみで壊れてしまえたらいいのに。
 そう思うのに、頭はこれからのことを考え、足は前へ出る。そうして2人の前に辿り着くと、俺は跪いてアキラの首筋に手を触れた。

 冷たい。脈もない。
 最後に抱き合ったとき、アキラの胸に手を触れた。あのとき感じた温もりが、鼓動が、もうこの身体にないなんて、信じられない。

 怒涛のように込み上げる感情の塊を、俺は抑え込んだ。今ここで俺が取り乱しては、何も先へ進まなくなる。
 「いつ、アキラは…?」死んだのか。
 低く押し殺した声で尋ねると、シキは吐息のような声で昨晩だというようなことを答える。けれど、俺が手を掛けても、シキは頑なにアキラを抱き締めたまま離さない。そこで、俺はシキの腕に手を置き、思いつくままに宥める言葉を掛けた。
 先というのが、進む価値のあるものなのかは分からないけれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。取りあえず時間というのはそういう方向性で進んでいて、生命を喪ったアキラは何かしなくとも、時間の手でその形を奪われることになるだろう。時間にアキラの形を奪われる前に、ちゃんと眠らせてやらなくちゃならない。
 そのようなことを、言った気がする。シキを宥めながら、同時に自分に向かって言い聞かせていたので、内容はあまり覚えていなかった。ただ、言い終わったとき固くアキラを抱いていたシキの腕から、僅かに力が抜けるのが分かった。


***


 辺りが少し暗くなるのを待って、俺はアキラとシキと共に自分の街へ戻ることに決めた。アキラは軍に追われていたので、ちゃんとした葬儀は出来そうにないが、簡単な弔いくらいはしてやりたかったのだ。
 ぼんやりとしていたシキは、それでも俺がそう言うと「無意味なことだ」と嗤った。
 無意味。
 死後に、意識も何も残らないのならば、確かにそうなのかもしれない。
 けれども、死後の状態を知る生者なんていない。死後がどうなっているのかなんて、分かるわけない。何も残らないのかもしれないし、魂か何かが残るのかもしれない。もしも、万が一魂が残るなら、そして、弔うことでそれが安らかになる可能性が1ミリでもあるのなら、アキラを弔ってやりたいと思う。
 無駄なら無駄で構わなかった。念のため、なのだから。
 「…愚かだな」
 俺の言葉に対するシキの返事は、その一言だった。けれど、そこには嘲笑も反駁も込められていなかった…ような気がした。


 廃墟の中で時が過ぎるのを待つ間、シキはぽつりぽつりとアキラのことを語った。トシマでイグラに参加していたこと、彼の血に宿る非nicolのこと、この3ヶ月軍に囚われて非nicolの研究材料にされていたらしいこと…。
 数年前、アキラの中の非nicolに注目したのはCFCの軍だった。けれど、CFCも日興連も元はといえば、ニホンという1つの国に過ぎない。分裂の際に人材も双方へ流れたのだから、日興連側でも非nicolに注目する人間が出てもおかしくはない、というのがシキの見解だった。
 そうやって言葉少なにもアキラを取り巻いていた環境について教えてくれたシキだが、時間になってアキラを抱いて車の後部座席に乗り込むと、何も言わなくなった。言うべきことは言った、ということなのかもしれない。
 俺も敢えて話しかけることはせず、黙ってハンドルを握った。
 静かな車内に、また降り始めた雨が車の屋根を打つ音と、エンジン音だけが響いている。黙っていると、浮かんでくるのはアキラのことばかりだった。ああすればよかった、こう言えばよかったと、今更のことが悔やまれてならない。
 いざというとき支えてやろうと思いながら、俺は結局一番肝心なときに、アキラの傍にいられなかった。傍にいても支えきれなかったかもしれないが、一緒に崩れることはできたはずだ――もっとも、アキラはそれを嫌がったかもしれないけれど。

 何もできないなら、せめて、好きだと言っておけばよかった。
 手遅れになるまえに伝えようとしたのに、結局伝えられなかった。

 いっそのこと大声で泣けば、この苦しさも少しは楽になるだろう。そう分かっているからこそ、泣けなかった。どうせ本人には伝えられなかったのだ、今更泣いて気持ちを晴らすなんてつまらない解消の仕方は、したくない。
 胸を込み上る熱の塊を押さえつけ、僅かに滲む視界を瞬きで戻して、俺は前方を睨み続けた。このまま伝えられなかった気持ちを腹の底に抱えて、墓場まで持っていってやる。雨で濡れたフロントガラス越しに滲んだ前の車のテールランプを見据えながら、自棄のようにそんなことを思っていた。







前項/次項
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