千耳9
いったいどこまで引きずられていくのか。 少し不安だったものの、シキは意外にもそれから然程経たないうちに、足を止めた。そこは街の郊外で、すぐ目の前には小さな建物がある。どうやら廃墟ではないらしく、掲げられている看板を見ると営業中のホテルのようだった。逃亡中の身で、と俺はためらいを覚えたのだが、シキは堂々と中へ入っていき、フロントで部屋を取る手続きをした。ホテルは中を見てもいかにも場末といった雰囲気で、そういう場所には事情のある人間が集まりやすいのだろうか、フロントの従業員は慣れた様子で(多分)普通ではない様子の俺たちに何も言わなかった。 そうして取った部屋に入ると、シキは腰に下げていたホルダーを外して、ホルダーごと拳銃を押し付けて寄越した。どうも見覚えがあると思ったら、俺がマスターに預けたはずの、師匠の形見の銃だった。 「休んでいろ。俺は少し出てくる。警戒を怠るな」 「――だけど、いいのか?本当は…もっと遠くへ、逃げないといけないんじゃ…」 「構わん。どうせすぐには追っ手も来ないだろう。それに、あの邸にいたのは、皆、雑魚だった。追っ手が来るとしても、程度は知れている。見つかったところで十分に追い払える。――第一、貴様がもう限界のようだからな」 「っ…そんなことは…」 否定しかけるそばから、大丈夫だと言いたい俺を嘲笑うように、疼きが身体を駆け巡る。呼吸がみっともなく乱れる。荒い息を吐く俺を一瞥する、シキは背を向けて外へ行こうとする。 「大人しく休んでいろ。ただし、俺が戻るまで自分の身は自分で守れ」 「待ってくれ――外は寒いから…これ…」俺は羽織っていたコートを脱ぎ、シキへと差し出した。「俺は、もういいから…ありがとう…暖かかった…」 「あぁ」 そういえばそうだった、と今思い出したような様子で、シキはコートを受け取り、部屋を出て行く。そして、扉が閉まる音がした途端、俺はその場に崩れ落ちた。 媚薬が体内で吸収され、全身に回り始めたらしく、少し身動きするだけでも疼きが込み上げてくる。身に着けている衣服が肌に触れる些細な刺激にさえ、快感を覚えてしまう。俺はシキから渡された銃をホルダーから取り出して縋るように握り締めながら、身体に渦巻く疼きを必死で堪えた。 ともすれば、手が下肢へと伸びそうになるが、シキがいつ戻るかも分からないこの状況で自分で慰めることはできない。それに、この媚薬の効果は強い刺激で解消しないかぎり一定時間持続するから、一旦自慰を始めたら一度では済まないだろう。――第一、最も刺激を欲しているのは、前ではなく自分では触れられないような身体の最奥だった。 「はぁ……っぁ…最悪、だ…っ…」 吐息の合間から舌打ちして、俺は床の上でダンゴムシのように身体を縮めた。下手に動けば不用意に身体を刺激することになるので、そういう姿勢しか取りようがなかったのだ。 このまま眠ってしまえば、そのうち時間が来て媚薬の効果も切れるだろうか。そんな期待を抱いて目を閉じて疼きを堪えていると、どれほど経っただろうか、部屋の扉が開く音がした。 「まるで亀だな…」 響きのいい声が呆れたような調子で降ってくる。 シキが部屋に戻って傍まで来ていることは感じられたが、顔を上げる気力もない。そのまま蹲っていると、ふいに肩に手を掛けられた。気がついたときには、身体が宙に浮いている。抱き上げられているのだと気がついて、一瞬驚きで身体の疼きも忘れてしまう。 そうしてシキは俺をベッドに下ろすと、ベッドの端に腰を下ろした。 「――随分と、効き目のあるクスリを使われたようだな。媚薬の類か?」 シキはそう言いながら、縋りつくように銃を握り締めている俺の指を1本1本外していく。そして銃を取り上げると、ベッドサイドの小さなテーブルの上に静かに置いた。 「お前…分かってたのか…」 「当然だろう。貴様は先程から自分がどんな顔をしているか分かるまい?もの欲しげで、自分に触れてくれと言わんばかりの顔をしている」 「っ…仮にそうだとしても…好きでしてるわけじゃない…」 ただでさえ熱を帯びている頬に血が上り、俺はシキから顔を隠すように俯く。それ以上シキが揶揄めいた言葉を吐くことはなかったが、代わりに少しして冷たい指先が頬に触れた。そこから感じるのは快楽というよりは安堵で、思わずシキの手に擦り寄りたくなる。もちろんそんなことは出来ないから、俺は身動ぎして逃げようとした。が、「じっとしていろ」と低くたしなめられてしまい、仕方なくその指先を受け入れる。 シキは指の腹で少し強く、俺の頬を擦った。その仕草で、頬に跳んだ血を拭ってくれているのだろうと気付く。「――んっ……」冷たい指先がもたらす感覚に、思わず吐息が零れそうになるのを堪えながら、俺はふと違和感を覚えた。そういえば、以前、シキは革の手袋を嵌めていたことがあったはずだ。けれど、今は素手のままだ。 「手袋」俺は思わずシキを仰ぎ見て、そう言った。「…嵌めてない、のか…?――嵌めた方が、刀…使いやすいのかと思ってた…」 「まぁな。この刀はどうも勝手が違うので、反応を見ながら使っている。そのためには、素手の方が都合がいい」 そう言って、シキは壁に立てかけた刀を目で示す。 どうも見覚えがあると思えば、それはアキラの刀だった。アキラに刀匠を紹介したのは俺で、出来上がったときにも見せてもらったし、その後も度々目にしているからよく覚えている。それに、シキが入院している間はシキの刀もアキラのものと一緒に俺が自宅で預かっていたから、2振りの違いは見分けがつく。 「どうして、またそれを…?」 「貴様の自宅から探し出したとき、俺の刀はどういうわけか刀身が折れていた」 「――俺は、折ってないぞ…」 「分かっている。ただの棒でもあるまいし、少しどうこうしただけで刃が真っ二つに折れるわけがない。あれは寿命だったのだろう。――ともかく、打ち直している間もないからな、傍にあったこちらを使うことにした」 「そうか…」 頷いたまま、俺は言葉が出てこなかった。 アキラの刀を、シキが使ってる。その巡り合わせの不思議を思う。シキが刀を使うならアキラは喜ぶ気がしたし、刀もまた使われて喜んでいるだろうという気がした。が、それは俺の想像でしかないから、シキには告げないことにする。それでも、もはや2度と振るわれることはないと思いながら自宅に隠した刀が、きっとアキラも許すであろう人物の手で振るわれるのは、何だか嬉しかった。 「大事に…使えよ…」 「当たり前だ」 シキは頷き、俺の頬から手を離す。それで終わるかと思いきや、彼の手は滑り降りて、俺のシャツの釦に掛かった。「――なっ…やめっ…!」押し留めようと伸ばした俺の腕を片手だけでまとめて頭上で拘束してシキは俺の身体に乗り上げ、2つ3つと釦を外していく。 全ての釦が外されて肌蹴られた胸に冷たい手が当てられると、その刺激だけで身体が勝手に跳ねた。 「っぁ……やめろって…言ってる、だろ…っ」 「大人しくしろ。耐えるより解消する方が早い。明日になっても媚薬が残っていれば、また貴様は足手まといになるからな」 「だからっ…!…だから、置いていけって言ったのに…」 「断る。貴様はアキラが闘うに相応しい相手であれと言って、勝手に俺を生かそうとした。同じ理屈で、俺は貴様に俺を生かした者として相応しい人間であれ、と要求できるはずだ。弱音を吐くことは許さん」 「それは…何か違う…――と、思う…」 「煩い」不意にシキの顔が間近に迫る。鮮やかさを取り戻した紅い双眸が、真摯な光を湛えて俺を見下ろしてくる。「弱音を吐くな。諦めるな。俺を生かした者として、俺が恥ずかしくない人間であれ。そして――」 アキラが執着した価値のある人間であれ。 「っ…」 シキが低く落とした囁きに、じりりと神経が焦がれていくような気がする。シキの言葉で焦がされて発火したのは、多分情欲とは違う何かだった。クスリで理性を失って縋りつく前に、何も分からなくなって愛撫に溺れる前に、俺は自分の意思で選ばなければならない。強くそう思う。 そこで、俺は弱々しい形ばかりの抵抗をやめ、真っ直ぐにシキを見上げた。 「――シキ」 息を弾ませながらも名前を呼べば、シキはジーンズを脱がせようと下肢に伸ばしていた手を止めてこちらを見る。俺は彼の頬に手を伸ばし、指先でそっと触れて撫でてみた。意外に柔らかく、滑らかな感触が伝わってくる。 シキの頬を撫で、紅い双眸を見つめながら、俺は今更のように実感した。今、自分に触れているのは、アキラでもなければ、ミヤマでもない。今、俺を抱こうとしているのは、他の誰でもなくシキなのだ、と。そして、俺もシキを求めている。媚薬の効果で血迷っているにせよ、俺自身の意思で、心から。 「熱くて苦しい、から…触れて欲しい…――俺を、抱いてくれないか…」 後であれは自分の意思ではないのだと、シキが勝手にしたのだと、自分が言い逃れする余地を潰すように俺ははっきりとそう告げる。すると、シキは一瞬驚いた表情を見せたものの、すぐにすっと目を細めた。 物言いたげに細められた紅い瞳の奥で、微かに情欲の炎が揺らめいた気がした。 *** 「――んっ……っく……っ…」 シキの指先が、舌が、皮膚の上を滑っていく。 肌を撫でられるだけなど、さほど強い性感があるとも思えないのに、媚薬の回った身体はその些細な刺激さえ拾い上げて快楽として受け取ってしまう。そのためだろうか、まだジーンズと下着を剥ぎ取られただけで触れられていないというのに、シキに触れられる以前から少し反応していた前は、今や完全に勃ち上がって先走りを溢れさせている。 と、そのとき不意に鎖骨の辺りに舌を這わせていたシキが、胸の突起まで辿りつき、既に指先で弄られて芯を持っているそれを片方口に含んだ。片方を舌先で転がしながら、もう片方を指先で執拗に捏ね回される。媚薬に火照った身体には、そんな刺激でさえ思いがけない甘さが感じられた。 いつもなら抑えられるはずの声が、上手く抑えきれないで零れてしまう。 そうやって胸を弄られるうちに、唐突に腰の奥から覚えのある切羽詰った感覚が込み上げて、俺はしきりに身動ぎした。そうすることで行為を中断させようとするが、シキはびくともしない。中断どころか、俺の抵抗を咎めるように突起を甘噛みされ、次の瞬間、腰に溜まった感覚が弾けた。 「――シキっ……も…やめっ………くっ…あああぁっ……!」 身体が自分の意思とは関係なく強張り、張り詰めた熱の先端から溢れた雫が腹をに落ちてくる。肩で息をしながら、強い快楽に固く閉じていた目を開けると、シキは顔を上げてこちらを見ていた。 「まさかこの程度で達するとは」面白そうに言われて、 「――いつもは…こんなことは、ない…っ」精一杯の反論を返す。 「随分といい具合にクスリが効いているようだな」 シキはこちらの反論を流して、俺の腹に触れた。そこに零れ落ちた白濁を塗り広げるように弄び、濡れた指先で後孔にあてがう。指先の滑りを表面に塗りつけた後、指を一本内側へ挿し入れてきた。 満たされることを待ち望んだ身体に、その刺激は途方もない快楽だった。挿入の痛みはほとんどなく、指を抜き差しされるだけで、前にも触れられないのにまた達してしまいそうになる。 そうするうちに指が増やさていくが、これではまだ足りない。 本当に疼きを発する箇所は、まだ奥にある。 「――んっ…はぁ……シ、キ……」 「どうした。もう欲しいか」 抜き差しする指の動きを止めて、シキが顔を覗き込んでくる。その目に見入りながら、俺は大きく頷こうとした。が、ふと気になって、動きを止める。 「シキが欲しい……けど――お前は、それでも、いいのか……?」 自分はアキラではないが、それでも平気なのか。 もちろん、人間は生涯に相手が一人と決められているわけではない。ずっと昔のことならいざ知らず、今どき幾人かとセックスの経験を持つ者も珍しくない。シキだって、アキラ以外にも女なり男なりを抱いたことはあるだろう。それでも、アキラはシキにとって、喪えば生きる意味さえなくなるほどの存在だったことを、俺は知っている。だから、そのアキラ以外の人間を抱くことができるのか、と尋ねずにはいられなかった。 そんな俺の疑問を、シキは鼻で笑い飛ばした。 「愚問だな。そのつもりがなければ、最初からこんなことを始めはしない。…貴様こそ、後で後悔をするな」 その言葉と同時に、後孔に張り詰めたシキの熱が押し当てられる。入り口に感じるその感触だけで、ぞくぞくとした感覚が背筋を駆け上がってくる。ある程度の刺激や視覚があれば興奮して反応できるのが男の性というものだが、それでも、自分に触れながらシキも昂ぶっていたのかと思うと――それだけで、腰の奥にじんと新たな疼きが広がっていく。まるで、自分が求められているかのように、錯覚しそうになる。 不意にシキがぐぃと腰を進めて、熱が体内に押し入ってくる。指とは比べ物にならない質量が、体内を満たしていく。最初だけ僅かな痛みがあったが、求めるものを得た身体の歓喜の方がそれを上回って、少しも気にならなかった。 もっとこの熱が欲しい。もっと奥深いところまで。 熱で満たされても、身体は更に貪欲に先を求めている。俺ははしたなく、これ以上ないくらいに脚を開いてシキを迎え入れ、律動が始まればそれに合わせて恥ずかしげもなく腰を揺らした。 「貪欲だな…こっちが、喰われそうだ」 腰を揺らしながら、シキが嗤う。こちらを揶揄するような言葉とは裏腹に、その瞳の奥にははっきりと情欲の炎が踊っている。それを見つけ出して、俺は喘ぎながらも唇の端を引き上げた。 「――はぁっ……いっそ…骨まで、しゃぶってやろうか…?……んぁっ…」 もっと熱を寄越せというように、シキの腰に脚を絡め、縋るように背に腕を回して引き寄せる。と、引き寄せたシキの顔が更に近づいてきて、唇と唇が触れ合った。「っ…」一瞬こちらが怯んだ隙に滑り込んだシキの舌に舌を絡め取られ、強く吸われる。不用意な口付けに息が苦しいのに、俺はシキに縋りついてなおも溺れるような口付けを続けた。 *** 行為の後、ほとんど気を失うように眠ってどれくらい経っただろうか。俺がシキに叩き起こされたとき、窓の外は明るくなり始めていた。備え付けの時計を見れば、午前6時半過ぎとなっているから、ようやく冬の長い夜が明けたところだろう。 シキは俺を起こして、すぐに身支度をしろと言った。昨夜調子に乗ったせいで下肢は重だるく動きたくはなかったが、俺も逃亡中の身であることは弁えている。重い身体に鞭打って部屋にあるシャワースペースで行為の後始末をして出てくると、一度外へ出て戻ってきたばかりのシキが真新しい衣服を投げて寄越した。 「さっさと着ろ」 「――どうしたんだ、これ。まだ店は開く時間じゃないだろ」 「貴様は裏の世界に何年いる」 小馬鹿にした口調で言いながら、シキは眉を上げてみせる。その態度に、俺は新しい衣服がどこから出たものか何となく理解した。 裏の世界には、便利屋という仕事がある。便利屋の名のとおりその仕事は様々だが、その中の一種に、指定された時間に指定されたものを指定された場所へ運ぶというものがある。勿論、客が望むものによってはかなり余裕を持って依頼しておかなければならない場合もあるが、基本的に便利屋はものだろうと人間だろうと――死体でさえも――、何でも揃えてくる。シキは、そのサービスを利用したのだろう。 俺は用意された衣服を身に付けながら、どうしてここまでしてくれるのか、と疑問に思った。尋ねようとしたが言い出しにくく、結局何も尋ねないままに、俺はシキと共にホテルをチェックアウトした。 そのままホテルを離れるのかと思いきや、シキはチェックアウトの手続きを済ませると、ホテルの駐車場へと歩いていく。そして、駐車場に停まっていた車に当たり前のようにして乗り込んだ。鍵は持っていたようだから、盗んだのではなく、車も便利屋に用意させたのだろう。 しかし、一体どこへいくのか。 事の展開に戸惑って突っ立っている俺に、シキは運転席から「早く乗れ」と促す。そこで、俺はわけも分からないままに助手席に乗り込んだ。 「――それで、この車はどこへ向かってるんだ…?」 慣れた手つきで運転しているシキに、俺はおずおずと尋ねた。車は既にホテルを離れ、高速に乗っている。ということは、ある程度距離のある場所へ向かうつもりなのだろう。 「空港だ」あっさりとシキは答えた。 「空港?何をしに」 「この国を出る」 「外国へ行くのか…お前を狙ってる奴らは、がっかりするだろうな」 「何を他人事のように。貴様も俺とこの国を出るんだ」 「なっ…!?」聞いてないぞ、そんな話は。 あまりの返答に驚き、俺は運転するシキの横顔をまじまじと見た。冗談だと思いたいが、シキの顔にふざけた様子はない。「冗談だと思うなら確かめてみろ」と言われ、俺は後部座席に置かれていた鞄の中を漁ってみる。 すると、中から出てきたのは、シキと俺の偽造パスポートだった。おまけに、今日ニホンを発つ飛行機のチケットまで入っている。これなら、冗談でも何でもなく、今すぐにでもニホンを出てしまえるだろう。 「何で俺まで…?」 「<千耳>が行きつけにしていたバーのマスターからの依頼された。貴様を助けてくれ、とな」 「それなら、もう助けてくれた。ミヤマの邸から俺を連れ出してくれた時点で、お前は依頼を完了してるよ」 すると、シキは馬鹿を言うなと鼻で笑った。 今自由の身になったとはいえ、俺はミヤマの死の現場に立ち会った事件関係者だ。現場から逃げるところも、邸の人間に目撃されている。このままでいくと、容疑者として警察に追われることは確実だ。それに、“シキ”が裏の世界で活動を再開したため、偽の情報を流していた俺は報復を受ける可能性が高い。つまり、俺の身はまだ危険に晒されている――と、シキは説明した。 確かにシキの言うことは一理ある。だが、そこまで広範囲をマスターの依頼の“助ける”の対象にしてしまうとなると… 「お前、マスターからいくら取る気だ?」 「あの男からは取らん。既にその分の報酬は受け取っている」 「誰が出したんだ、それ…?」 尋ねても、シキは答えずに唇の端を僅かに持ち上げた。そうして、まるで微笑しているかのような表情になる。この男にしては珍しいと驚き、次いで急に恥ずかしくなって、俺は視線を前に向けた。 粉雪の舞っていた昨日とは打って変わって、からりと晴れた空の下、灰色の高速道路が真っ直ぐに伸びている。右手には波の穏やかな海が広がり、高いクレーンや様々な港湾施設が見えている。まだ実際に行ったことはないが、俺の記憶が確かなら、空港はもうじき見えてくるはずだ。 久しぶりに見る海に何となく目を奪われて口を噤んでいると、フロントミラーの中でシキの唇が微かに動いたように見えた。 「報酬は受け取ってある…貴様が繋いだ俺の生命を、な」 *** 2ヶ月後。俺とシキは、大陸にある国の南部に位置する大都市に滞在していた。 あの後、国外に出たシキはニホンの隣にある大陸の国へ入り、都市を転々としながら土地のマフィアや有力者からの依頼を請けている。かって旧ニホン軍で諜報に従事していたという彼は潜入のために数ヶ国語を学んだらしく、この国で言葉に不自由することはないようだった。 残念ながらニホン語しか理解できない上、外国など旅行でも行ったことのない俺は、望むと望まざるとシキについて行かざるをえない。 「―――、――」 外から耳慣れない異国の言葉が聞こえてくる。 シキは今、この都市で最大勢力を誇るマフィアから依頼を請けていて、俺たちは依頼主であるマフィアの邸の離れを宿代わりに使わせてもらっている。 いや、宿というには設備が立派すぎるし、マフィアの一家の人々も親切にしてくれる。何をどう気に入られたのか分からないが、マフィアのボスのシキに対する態度には、賓客に対するような恭しさがある。部外者の俺としては、マフィアの丁寧な態度というのはそれはそれで恐ろしく、日々シキがボスの機嫌を損なわないようにと祈るばかりだ。 思えば、遠くまで来てしまったものだ。 はぁとため息を吐いてベッドに寝転がったまま手を伸ばし、俺はベッドサイドのテーブルの上にある眼鏡を取った。ミヤマの邸でコンタクトを使わされていたが、、今はまた眼鏡に戻っている。というのも、俺には目を擦る癖があってすぐにコンタクトがずれてしまうからだ。それに、なぜかシキも眼鏡に戻ることに強く賛成したものだから、この国へ来て最初の買い物が眼鏡になった。 前と大差ないフレームのそれを掛けて部屋の中を見れば、開け放した窓の傍の椅子に座り、差し込む淡い外光を頼りに本を読んでいるシキの姿が見える。気配に敏い男だからこちらの視線には気付いているのだろうに、顔を上げようとはしない。けれど、俺も邪魔をしたいわけではないから、読書を続けてくれる方が良かった。 時刻はそろそろ夕方に差しかかり、シキの頬を照らす陽は黄味を帯びている。時折外で弾ける高い声は、この邸のすぐ傍の通りで子ども達が遊んでいるのだろう。遊びに関係のある言葉なのか、同じ響きの言葉が繰り返し叫ばれる。ふわりと素肌にはまだ冷たく感じる春風に乗って漂ってくるのは、この国でよく使われる香辛料の匂いだ。 俺はぼんやりとシキを眺めていた。シキはまるで風景画の中に切り取られた一つの情景のように動かず、時折繰られるページだけが時の経過を教えてくれる。 この男と出遭ったときは、まさか一緒にいることでこんなの落ち着くようになるとは思わなかった。しかし、それを言うなら国外に飛び出すなんて思わなかったし、何よりも自分の傍からアキラがいなくなるとは想像もしていなかった。 失うはずはないと信じていたものを失って、それでも、思いがけないものを得て。 それでバランスが取れて、俺は今ここにいることができる。 もしかしたら、シキもそうなのかもしれない。 「――随分と熱心にこちらを見ているな」 面白がるような声で言って、シキが顔を上げる。最早虚ろの影もない鮮やかな紅い瞳は、今は背後から差し込む西日の影になって、黒に見える。 「いや…いいよな、シキはこの国の言葉が読めて」 「だから早く覚えろと言っている」 「頑張ってるさ。少しは分かるようになったんだ。けど、ニホン語で読めてたレベルの本が読めないのは、ちょっとストレスが溜まる。――ちなみに、何読んでるんだ?」 「気になるなら見てみろ。内容は無理でも、タイトルくらいは読めるだろう。少しは読む練習になる」 そう言って、シキは椅子に座ったまま本の表紙をこちらへ向けてみせる。といっても、タイトルは小さすぎて、眼鏡を掛けたところで俺のいるベッドからでは読み取ることができない。それでもやはり興味を引かれて、俺は身体を起こした。 抱かれた後の身体は腰が重だるく、残る余韻が甘さを呼びもどして、思わず息が零れそうになる。それを抑えてベッドの下に落ちていたシャツをまとい、適当に釦を嵌めると、俺は裸足のまま窓際へ歩いて行った。 シキの差し出す本を手に取り、赤い頭巾を被った女の子が描かれた表紙の題字と睨めっこする。表紙絵からして、本は思ったよりも子ども向けの内容のようだった。 「夢…遊…仙境…??分からないな…赤ずきんか?」 「『不思議の国のアリス』だ。ここの頭領の娘が、貴様に貸すと言ったのを預かってきた」 「あぁ…あの子か」 先日、少しだけ遊んだ幼い少女の顔を思い出す。彼女の好意に応えるためにも、頑張って読んでみよう。そう思っていると、シキの手がすっと脚の内側の際どい部分を撫でて、俺はぎくりと身を強張らせた。 「こらっ、何やってんだよ」意地の悪い手を叩き落とすが、 「誘うような格好をしている方が悪い」とシキは平然とした顔で言う。 「さっきヤッたばかりの癖によくそんな気分になるな。大体、男は男が裸だろうが下着1枚だろうが、いやらしいことをしようとは思わないだろ普通っ」 「ベッドの上では強請っておいて、よくそんなことが言えたものだ」 「――っ……それはまた別の話だ。大体、お前、何で当たり前のように俺を抱くんだ。ニホンを出る前のあれはクスリの効果を解消するためで仕方なかったけど、今は…そんな理由もないのに…」 思わず日頃疑問に思っても問えなかったことを口に出してしまい、気まずさに声のトーンが落ちていく。俺はこちらを見つめ返してくるシキの目を見ながら、言葉も終わらないうちから言わなければ良かったと後悔し始めていた。 今、シキには俺を抱く理由はない。けれど、理由もないからと触れられなくなるのは、嫌だ。敢えて言わなければ、今のままシキは当たり前のように俺に触れ続けただろうに。 あぁ、そうか。触れて欲しいと思うのは、きっと俺が――。 「…そう言うなら、同じ問いを返してやろうか」黙って立っている俺を見上げて、シキは不意にそう言った。「なぜ貴様は、当たり前のように俺に抱かれる?触れられて、俺が欲しいと強請るのはなぜだ?」 シキは、きっと答えられないと思ったのだろう。その上で、先程の俺の問いの意趣返しに尋ねてみせたのだろう。薄い唇に浮かぶ意地悪げな笑みが、そのことを物語っている。 けれど、俺はもう答えを見つけていた。 決して、ある一言で単純に切り取れる感情ではないことは、分かっている。それでも、俺は言わなければならないと思った。この感情の名前を曖昧にして逃げ続けて、そのまま俺はアキラを喪ってしまった。 だから、今度は逃げてはいけない。たとえそれでシキが俺を拒むかもしれなくとも。 「理由が欲しいなら…そうだな、よくある愛の言葉でも囁いてやろうか?」 「そういうのは要らない。もしそれがお前の心からの言葉だっていうのなら、聞いてみたい気もするけど……俺は、もう一生分聞いてしまったから、いいんだ」 揶揄する調子で言ったシキに、俺は首を横に振った。 『多分、愛してる…のこと』 最早肉声としては聞くことのない声。その柔らかな響きが蘇る。 あのとき聞いた言葉が、俺の一生分。それでいい。 「――だけど、言う方はまだ一生分は言ってないから」 俺は肘掛に手を掛けて、屈みこむようにしてシキに顔を寄せた。 その拍子に、胸元から銀色のロザリオが零れ落ちて揺れる。かって病院で返したそれを、シキはこの国に渡った直後に俺につき返してきたのだ。『アキラが自分でこれを預けたのだから、貴様が持っていろ』と言って。 アキラのことを話せる。その存在を喪った心情を、何となく理解してくれる。そういう相手は、きっとシキ以外にはいない。だから、俺は――。 更に顔を寄せ、軽く唇を触れ合わせてから、俺は咽喉もとまで込み上げていた言葉をそっと声に載せた。 「シキのことが好きだ。…一番はアキラで、二番は豆腐だから、その次くらいに」 鼻で笑われるか、冗談ではないと拒絶されるか。そのいずれかと思ったのに、シキはただ目を丸くしてこちらを見ている。その頬にやがて僅かに赤みが差した。 照れている?あのシキが?意外な反応につられて呆然としていると、やがて、シキは照れたことを隠すように渋面を作った。 「俺は豆腐より劣るのか」 渋い表情で生真面目にそう言う彼は何だか滑稽で、俺は思わず笑ってしまった。 End. 目次 |