千耳8
カタカタカタと、吹き付ける風に窓が鳴る。何気なく傍へ行くと窓ガラス越しにも外の冷気が伝わってきて、俺は知らず小さく身震いする。それでも懲りずに更に窓へ寄り、桟に手をかけて外を眺めた。 外の広い庭はほとんどの草木が枯れた冬景色で、その中で所々に植えられた山茶花だけが鮮やかな紅い花をつけている。はらりはらりと散り落ちた花弁が樹の根元の地面に広がり、まるで血の池の中から生えているかのようだ。その庭に鈍色の空から、粉雪が冬の風に煽られながら、ふわふわと舞い落ちてくる。 外は、どんなにか寒いだろう。 俺は吐く息で窓ガラスを白く曇らせながら、当たり前のことを考えていた。けれど、そう思っても仕方がないではないか。俺は、もう何日もこの邸の中に閉じ込められ、外へ出ていないのだから。 この邸は、俺が師匠から譲り受けた古い家よりもずっと、快適だ。造りがしっかりしていて壁には断熱効果があるようだし、僅かな隙間から隙間風が吹き込むなんてこともない。室内はずっと空調が効いていて、薄い部屋着でも十分に過ごすことができる。 けれど、ときどき気持ち悪くなる。 それは、換気が不十分だとか、そういったことではない。もっと気分的なものだ。常に適切に保たれた室内の暖かさの中で、自分の身体が甘やかされ、膨張し、肥大化していくような不快な感じ。外へ出て、身を切るような冷たい空気の中に立ちたいと、切実に思うことがある。けれども、今の俺にはそんな自由は――たとえば、窓の外に見える庭に降りることさえも――許されていない。 (もう、ずっとこのままなのか…) 俺は外を見ながら、ぼんやりと考える。 このまま飼い殺されるのだろうか…あの男に。 *** その男の名は、ミヤマという。 ミヤマは学生時代に俺の上級生だった男だ。そして、ただ“上級生だった”と言って終わらせてしまえないほど、因縁のある相手だ。ミヤマには、学生時代、性的な暴力を加えられた――そのときの悔しさは、一生、忘れることはできないだろう。 そんな経緯のある相手が、現在、俺の身柄を個人的に拘束しているのだ。つくづく、俺たちの間には腐れ縁があるのだろうと思わずにはいられない。 ミヤマは学生時代、子どもが親元から離されて軍事教育を受けさせられた当時としては珍しい、両親との繋がりを保たままの生徒だった。というのも、父親がある大企業の重役だったことと無関係ではないだろう。第三次大戦中、“国民は皆平等にニホン国を守るための兵士である”というのが子どもたちを親元から離しての軍事教育の基本となる考え方だったけれども、政府高官や大企業の経営者の子弟は結局最後まで親から引き離されることはなかった。子どもたちも自然とこの特例の子どもたちを特別ししていて、ミヤマも軍の学校の中では密かに恐れられる存在だった。 在学中、俺はどういうわけかミヤマに目を付けられて性的な暴行を受け続けたが、終戦後軍の学校が解体されて全生徒が卒業扱いで放り出されたとき、やっと縁が切れた。だから、その後ミヤマがどうしたのかは知らなかった。 その、俺の知らなかった間に、ミヤマは日興連の軍に入っていたのだという。それも、兵器を開発する研究所に。彼は生物化学兵器の研究開発を担当し、父親の製薬会社と連携して研究を進めた。その成果を買われて、26歳の若さで現在、研究所の中でも要職についている。そういうことを知ったのは、軍に拘束された後だった。 バーからの帰り道で軍に拘束された俺は、ミヤマが要職を務める軍の研究施設に留め置かれた。それから、連日の尋問が始まる。尋ねられるのは、ひたすらアキラの行方についてだ。 高い地位にあるミヤマが直接尋問をすることはなかったが、その場に立ち合うことは度々あった。部下にはその理由をアキラの行方を早く知りたいからだと説明したようだが、尋問に立ち合う目的はただ一つ、過去を思い出させてこちらにプレッシャーを掛けようとしたのだろう。事実、ミヤマが薄笑いを浮かべながら部屋の片隅に佇んでいるだけで、吐き気がするほどの緊張を感じることもあった。 それでも、俺は気力をふり絞って、淡々とした態度を保った。 既にシキから聞かされているアキラの非nicol体質については全く知らないふりをして、尋問に答え続けた。アキラは死んでおり、遺体は彼の生前の希望通りに海に散骨したのだ、と。軍は自白剤を使ってまでは聞き出そうとはせず、薬物で廃人にされなかったことだけは、幸運だったといえるだろう。 そうやってしばらく研究所に留め置かれた後に、ある日突然、俺は移動することになった。それが、拘束されてから十数日後のことだったのか、数十日後のことだったのか。尋問に疲弊した頭では、既に日数など数えられなくなっていた。結局のところ、その移動は解放のためのものでも、別の施設に移るためのものでもなかった。移された先はミヤマの私邸で、俺は国家権力ではなくミヤマ個人の権力によって、自由を奪われることになった。 『逆らえば、お前の知り合いが苦しむことになる。そうだな、お前が行きつけにしていたバーのマスターや、闇医者を、“アキラ”という青年に関わりがある人物として、連行するのもいい。こちらには、その権限がある』 最初にそう言われてしまえば、どんな理不尽だろうと、逆らう気にはなれなかった。だって、恩のあるマスターや先生をそんな目に遭わせるわけにはいかないではないか。 そういう思いから抵抗をしなくなった俺を、ミヤマは犯した――学生時代と同じように。 どうやら、ミヤマは俺をはけ口にしているようだった。といっても、性的な欲求のそれとは違う。もっと感情的な、ストレスの類のはけ口だ。 そのせいだろう、俺の前では、ミヤマは度々ひどく饒舌になった。 『――我が研究所は、旧ニホン軍が開発したnicolというウィルスを研究している。Nicolは人間の身体能力を強化する効果を持っている。もとのウィルスは大戦後失われ、データも散逸してしまったが、これを再現して実用化できれば、日興連はもう2年膠着状態のこの内戦で勝てるだろう』 これは奇妙な話だった。 旧ニホン軍開発のウィルスといえば、倒れた政府のものとはいえ、軍事機密に当たるはずだ。どうして、その存在を、日興連の軍が知り得たのだろう。――初めてnicolウィルスの研究の話がミヤマの口から出たとき、彼は見下したように鼻で笑っていたものだ。 『忘れたのか?今は日興連とCFCに分かれているとはいえ、もとはニホンという一つの国だ。日興連の軍の中にも、旧ニホン軍の出身者はいる…もちろん、当時機密に接する立場にあったものも、な』 ミヤマの饒舌は、ひどく疎ましかった。それでも、ミヤマのおしゃべりのおかげで、俺はシキからいくらか聞かされていた、nicolプロジェクトについての知識を深めることができた。といって、今更役に立つとも思えない知識だったが。 そんな状況下で、俺は日に数度はミヤマへの激しい殺意を抱いた。 けれど、その衝動にも波があって、殺したいと強く思った直後に、ふと“しかし殺したからといってどうなるのか”と無力感に襲われることがある。ミヤマは抵抗すれば俺の知人に害をなすと言っているのだ、確実に息の根を止めることができればいいが、失敗すれば――。先生やマスターに迷惑を掛けてまで掴み取るほど、俺は自分に価値を見出せなかった。 初めのうち、激情と無力感は波のように交互に訪れていた。その高低差はまるで荒れた海のような具合で、俺の気分はその間を漂って、ひどく不安定に揺れていた。けれど、その感情の起伏も監禁生活が長引くにつれて、平坦に均されていくものだ。このところは、長い間無力感が続くときもある。もしかしたら、そのうち、俺もシキと同じで抜け殻のようになってしまうのかもしれない。 いや、シキと同じになるのではない。――同じには、なれないだろう。 ミヤマに組み伏せられて犯されて、抗いもしない。突っぱねるべき腕で背に縋り付いて、罵倒すべき口で喘ぐ。そんな真似をしている俺は、もっと浅ましく醜いものになり果てるだろう。 *** そんなある日、ミヤマはふとした拍子にアキラのことを口に出した。 『お前と“親し”かったアキラという男…あれはnicolと対になる非nicolの持ち主だった。今のところ非nicol単独での効果は確認されていないが、解析すればnicolを再現するための貴重なデータとなる。お前が言うにはアキラという男は死んだそうだが…別に構わん。一時拘束したときに、データは十分に取ってあるからな。――むしろ死んでくれた方が、CFCや外国勢力の手に渡る可能性がなくなって好都合というものだ』 それを聞いたとき込み上げてきたのは、久しぶりの強い怒りだった。 と同時に、ふと、腑に落ちた気がする。 アキラの最期の表情は、闘いの中で生命を落としたにしては、ひどく穏やかだった。まるで眠っているかのようで、唇には微かに笑みさえ浮かんでいた。それが不思議だったけれど、今思えばアキラはずっと追い続けたシキと闘って死ねて、幸せだったのかもしれない。シキによればアキラは自分の非nicol体質を疎ましく思っていたというから、軍に捕まって非nicolの保菌者として利用されることは、避けたいと思っていたに違いないのだから。 きっと必死で抗ったのだろう――非nicolとしてではなく、自分として生きるために。 それに比べて俺は、学生だった頃も今このときも、何と簡単に抗うことを諦めてしまっていたのだろう。なるほど、ミヤマを殺し損ねれば知人に害の及ぶ可能性はある。けれど、それを理由に楽な方向へ流されていなかったか。マスターも先生も俺より長く裏の世界に関わってきた人間であるから、危険が近づけば自身で対処もできるだろう。彼らに迷惑を掛けまいと思うあまり、2人のことを信じられなくなっていたのではないか。 “それでも、お前はアキラが生命をかけた相手か” シキに向かってそう罵りながら、俺はどうだった?今の姿で、たとえばいつか未来に死んでアキラと顔を合わせることがあったとして、きちんと向き合うことができるだろうか。 ――死ぬにしろ、狂うにしろ、せめてアキラに恥じない自分でいたい。 いつものようにミヤマに抱かれながら、俺は醒めた意識の片隅でそんなことを考えていた。 目が覚めたときには既に朝になっていて、部屋の中にミヤマの姿はなかった。そのことに安堵しながら、俺は気だるさを訴える身体を起こしつつ先程見た夢の記憶を辿る。 夢の中で、アキラに会った気がした。 会ったといっても、顔を合わせたわけではない。どこかの部屋の中から、扉越しに外にいるらしいアキラと話をした。何を話したのかは、よく覚えていない。ただ、こう言ったことだけは確かだ。 『抗ってみようと思うんだ、アキラとの記憶を持って生きていきたいから。だって、そうすることくらいでしか、俺はシキの想いの強さに勝てる気がしない』 そのとき、アキラは何と応えたのだったか。もう思い出せないけれど、多分、彼は声を立てて笑っていた。 その後、起きてすぐに俺がしたことは、部屋に飾られたいかにも高価な花瓶を台座から払い落とすことだった。払い落とすと、花瓶はこちらの意図した通りに砕け、大小の破片となって床に散った。花瓶には山茶花が生けられていた――庭ばかり見ている俺に気を使って、この邸の使用人の女性が幾本か枝を切って生けてくれたものだった――ので、その枝も破片と共に散らばっていた。 俺は跪いて、床に散った破片を拾った。拾い集めながら、手頃な大きさの破片だけを取り分けて、別の場所に隠しておく。 そうするうちに物音を聞きて、使用人の女性が駆けつけてきた。彼女は破片の傍から俺を追い払って片付けを始め、結局俺は手伝うことも許されなかった。俺が手を出そうとすると、彼女は首を横に振って言ったものだった。 『――あなたは、主の大切なお方です。このようなことをして、万が一傷を負われでもしたら、大変です』 大切な方?俺が?ただいいように玩具にされてるだけなのに? 彼女の言葉を聞いて、俺はしばらく呆然としていた。彼女が何を言ったのか理解できなかったし、もしできたとしても、死んでも理解したくはなかった。 *** 窓際に立つのは、この邸のこの部屋に押し込められてからの俺の習慣になっていた。窓際に立ち、時々ガラスに額を押し付けて外気の冷たさを感じる。そうすることで、少しだけ、溶け落ちかけている自分の意識が元の輪郭を取り戻すような気がするのだ。 その日の夜になってミヤマが帰ってきたときも、俺は窓ガラスに額を押し付けて、オレンジ色の灯が点された庭を見ていた。このところ、以前のような気力が起こらないことが多いが、この夜ばかりは“計画”を実行するために、以前のはっきりした意識を取り戻したくてそうした。 「悪戯をしたようだな、話は聞いている」 ミヤマは部屋に入ってくると、そう言いながらこちらへ近づいてきた。手を伸ばして、振り返って迎えた俺の頬に触れ、「冷えているな」と顔をしかめながら額にも触れる。この邸に連れてこられてすぐに、俺は眼鏡を取り上げられてコンタクトを使うことを義務付けられていたから、ミヤマの指先はこのとき何にも邪魔されることなく俺の顔の上を動き回った。 暖かい、というよりいっそ熱い指先が触れてくるのは、不快でしかない。けれど、ここで逆らってこの後の計画を無駄にはしたくないから、俺は目を伏せて従順にその指先を受け入れた。 「悪戯には、仕置きをしなければならないな」 腕の中に俺を抱きこんで、ミヤマはいっそ優しげな声を俺の耳元に落とす。この男のやり方はだいたい分かっていたから、俺は驚きもしなかった。ただ、ぴくりとも反応せずにその腕の中に収まっていた。 胸の中には、燃え上がるような殺意を抱いて。 ミヤマは俺をベッドへ引っ張っていき、そこへ押し倒した。そして、衣服のポケットから何かを取り出す。仕置きというから一体何かと思えば、彼が取り出したのはセックスドラッグだった。取り出されたシート状のその形状に、見覚えがある。 そのドラッグは、裏の世界では比較的有名なものだった。経口ではなく、直接体内に入れるタイプで、依存性はほとんどないとされている。俺もここに来るまでは使ったことはなくても名前は知っているという程度のものだったが、この邸に連れて来られてから何度が身を以ってその効果を体験する羽目になった。ドラッグとしては安全な部類である代わりに効果も弱いというが、使われる方としては弱いなんてものではない。体内で溶けたそれはじくじくと疼きを発し、相手構わずに求めずにはいられなくなる。 そういうドラッグを、ミヤマはまだいかなる異物も受け入れる準備の出来ていない俺の体内へ強引に押し込んだ。そして、それ以上は何をするでもなく、ベッドから1歩下がってしまう。そうやって薬が効くのを待ち、疼きでどうしようもなくなった俺が懇願する姿を見るのが、この男のやり方なのだ。 だが、今回はどうしてもそうなるわけにはいかない。 その前に――薬が効いて理性が飛び、自分の意思で動けなくなるより先に――決着をつけなければならない。 「――…ミヤマ…」 俺は初めて、媚薬で意識を飛ばすのではなく自分の意思で、ミヤマに手を差し伸べてみせた。 「早く…早く、抱いてくれないか…――前みたいに辛いことになるのは嫌だ…また、あんなことになったら…狂いそう……」 「…前回は余程薬が効いたらしいな」 言うことを聞いていては仕置きにならないが、と零しつつも、ミヤマは差し伸べた俺の腕を取って覆い被さってくる。口付けられ、自分からも縋り付いてそれに応じながら、俺は枕の下にそっと手を差し入れた。 少し探るだけで、すぐに固い感触が指先に触れる。花瓶を壊したときに取っておいた破片だった。せめてナイフやフォークでも用意できれば良かったのだろうが、俺は監視されているようなので、運ばれる食事のトレーからそれらが消えていれば、すぐにばれてしまうだろうと思ったのだ。 破片ひとつ。こんな頼りない凶器では、格闘になればまず勝ち目はない。機会はただ一度、それも致命傷になる場所を狙わなければならない。 俺はミヤマに強く縋って口付けを続けながら、右手に持った破片に力を込めた。その拍子に縁で掌が切れるのを感じたが、構わない。右手を振り上げ、一気にミヤマの後頭部――延髄を狙って鋭く尖った破片を振り下ろす。 が。 次の瞬間、強い力で右腕を掴まれる。気付かれていたのだと悟ったところで、既に遅い。 ミヤマは掴んだ俺の腕を無理な角度に捻り上げ、破片を取り落とさせた。そうして、シーツの上に落ちた破片をベッドから払い落とすと、俺を殴りつけてから咽喉もとに手を掛けた。 「――くっ…」 「お前の浅はかな考えなど全て分かっていたさ。俺を虚仮にするのもいい加減にしろ。――いいか、お前は弱い。その上浅はかだ。だから、俺がこうして世間から遠ざけて守ってやってるのに、一体何が気に食わない?お前はいつもそうだ。昔も今も、態度だけは従ってみせながら、いつも俺を蔑んでいる……落ち零れの癖に…!!」 片手で咽喉を押さえつけられたまま、もう片手でまた頬を強く殴られる。その衝撃で、ぐらりと眩暈がする。ぐにゃりと一瞬形を失う世界の中で、それでも、俺は衝動的に声を上げて嗤った。 守る?この男が、俺を? そう思うと、可笑しくて可笑しくて、腹の底からふつふつと嗤いが込み上げてくる。 「何が可笑しいっ!?」 「っ…お前に、決まってる…好き勝手ヤったくせに、守ってるつもりだなんて…笑わせるな……――守って欲しいなんて、頼んじゃいない…お前になんか、死んだって頼むもんか」 「このっ…なら、試してみるか?お前は本当に愚かだな…甘い顔をすれば付け上がって。もう一度、昔と同じような目に遭わねば分からないか。一度死にかけれ這いつくばって命乞いするだろう…お前のような臆病者はっ!!」 その言葉と同時に、咽喉ものと手にぐっと力が込められる。途端に、じりじりと身体の奥で発し始めた疼きに代わって、苦痛と息苦しさが意識を占める。俺は堪えきれずにもがくが、ミヤマが身体の上に乗っているので、身動きもままならない。 息苦しさの中で、意識が白く塗り潰されていく。 アキラ、俺は少しだけ怖かったんだ。 お前がいない世界でも平然と生きていける自分が気持ち悪くて、少し嫌いだった。 だけど、お前の記憶を抱いて生きるために抗った自分は、誇ってもいいと思えるんだ――。 今にも意識が消えるかというとき、遠くで呻き声のようなものが聞こえた。そうかと思うと、次の瞬間、一気に咽喉に空気が流れ込んでくる。 「――かはっ…」 流れ込んできた酸素にむせながら目を開ければ、ミヤマは俺の上に跨った首を絞めていたはずの両手をだらりと身体の両脇に垂らしていた。その胸の中央から、白刃が突き出している。ミヤマは目を見開いた驚愕の表情で、何かを言いかけて口を開くが、口から零れたのは言葉ではなく、鮮血だった。 咳き込むようにミヤマが吐き出した血が、俺の頬に、胸に、腹に飛び散る。 と、そのとき白刃がずるりと抜き取られ、支えを失ったミヤマの身体が、俺の上からベッドの下にまで転がり落ちていく。すると、今までミヤマに塞がれていた視界が広がり、俺と対角線上に佇む影のような黒が見えた。 明るい部屋の中で、闇がそこに凝ったかのような格好で、“彼”はそこに佇んでいた。その手の中の抜き身の刀は刃がミヤマの血に染まり、紅い雫が刀身を伝って先端からぽたりぽたりと滴り落ちている。“彼”はいっそ優雅ともいえる仕草で刀を血振りすると、刃を濡らしていた雫と同じ色の双眸をこちらへ向けた。 「――シ、キ…どうして…」 どうしてここにいるのか。いや、それ以前にどうやって回復したのか。様々な疑問が押し寄せるが、動転していて上手く言葉にならない。すると、シキは絶句している俺に「行くぞ」と当たり前のように促した。 「何をぼんやりしている。貴様は永遠にここにいるつもりか」 その言葉に、俺は呆然としたまま首を横に振って、ベッドから起き上がった。 *** 廊下へ出ると、今更のように突然の侵入者に気付いて、邸内は騒然となった。が、侵入の際にシキが警備員を倒していたようで、騒ぎの中でも脱出はスムーズにいった。 外へ出ると粉雪が降っていて、シャツ一枚にジーンズの薄着で跳び出した俺は、寒さで身を裂かれるかのような気がした。けれど、むしろそれが快い。邸に閉じ込められている間ははっきりしなかった自分の輪郭が、戻ってきたような気がする。それに、寒くさで感覚が鈍っている方が、媚薬の効き始めた身体の疼きが紛れるから、好都合だった。 けれど、邸の敷地を出て少し進むとシキがこちらを振り返り、しばらく俺を見てから、驚いたことに自分のコートを脱いで投げて寄越した。 「着ろ」と短く命じられる。 「…いい。寒くない」俺は条件反射でコートを受け止めたものの、首を横に振った。 「震えている癖に、よく平然と嘘が言えるのもだな。貴様はただでさえ動きが遅い。寒さで更に動きが鈍っては、足手まといになる。さっさと着ろ」 素っ気なく言うと、シキはこれ以上議論はしないとでも言うように、こちらへ背を向けてしまう。彼とてコートがなくては寒いだろうに、その後ろ姿はそんな素振りもなく整然としている。 闇の中を迷いのない足取りで進んでいくシキの背を見ていると、アキラが彼に憧れ追いかけた理由が何となく分かるような気がした。 俺は厚意に甘えることにして、渡されたコートを羽織った。途端、ふわりと鼻についた他人の匂いに鼓動が跳ねる。こんな些細な感覚にも敏感になってしまうのは、きっと媚薬のせいなのだろう。俺は自分の身体に舌打ちしたい気分で、先を行くシキの背を追いかけ始める。果たして逃げ切るまで自分が保つかどうか不安ではあるが、今は進むしかなかった。 けれど、込み上げる疼きは、じきに我慢ならないまでに神経を刺激しはじめる。久しぶりに長く歩いたためにしてもひどく呼吸が乱れ、体温が上がり、意識が朦朧とする。ともすれば、先を行くシキの背に手を伸ばして縋りつきたいという浅ましい衝動が込み上げてきて、歩みは次第に滞りがちになった。 シキは歩きながら、遅れがちな俺の歩調に合わせてくれているようだった。それでも、あまりにこちらの歩みが遅くなると、自然と距離が開きがちになる。やがて十数メートルも距離が離れてしまうと、とうとうシキは立ち止まってこちらを振り返った。 俺が追いつくのを、待ってくれているらしい。 開いた距離を埋めようと脚を動かしても、疼きが邪魔をして普段のように走って追いつくこともできない。のろのろとシキの元へ向かいながら、明らかに足手まといになっている自分が申し訳なくなって、俺は彼の傍まで追いついたときとうとう諦めの言葉を口にした。 「――もう…置いていってくれないか…このままじゃ、お前の足手まといだ…」 「――…」 シキはしばらくこちらを厳しい目つきで見ていたが、やがて、唐突に俺の手を取った。 「足手まといになることなど、最初から見越している。貴様、俺にはアキラに顔向けできるのかと問いながら、容易く己を諦めようとする貴様自身はそれでもアキラに恥じないと言えるのか」 「…っ、だけど、もう、」 「引きずってでも、貴様を連れて行く」 そんな言葉と共に、シキは痛いほどの力で俺の手を引いて歩き出す。手首を掴むシキの手は力強く、熱を帯びた皮膚にはっとするほど冷たい。自分とは温度の異なる他人の手の感触にすら、安堵と心地よさを覚えてしまう。もっと触れて欲しいと思ってしまう。 ――違うんだ。諦めるとかじゃなくて、お前の傍にいるとおかしくなりそうなんだ。 そう思ったが、まさかシキ本人にそんなことを言えるはずもなく、俺は唇を噛んでシキに引きずられて歩いた。 目次 |