高嶺の花とは、決して手を触れることができないからそのように言うのだろう。




君に与えうる悲劇の妄想



 時刻は午後6時45分になろうとしている。
 私は今日片付けるべき仕事を終え、定時も過ぎ、いつでも帰ることのできる状態になっている。けれども何となくそうができず、事務机の引き出しを開けて紙袋を取り出した。
 紙袋の中には、小箱が2つ入っている。
 これこそ、私が帰ることを躊躇う原因だった。

 2月14日――今日はバレンタインデーだ。
 今日は世界的には恋人に贈り物をする日とされている。ただし、ニホンでは贈るものはチョコレート、贈り手は女性という限定が付く。その上義理チョコというものも存在し、恋人以外にも日頃お世話になっている男性に贈ることになっている。
 この義理チョコというのが、女性としては非常に悩むところだ。たとえば職場の上司や同僚にチョコレートを贈らないことは、礼儀を欠くことになるのだろうか、とか。

 確かに、職場の人間関係を円滑に保つには贈っておく方がいいのだろう。
 けれど、単純にそう言うには、私の職場環境は特殊すぎた。


***


 私はニホン国総帥府に勤務している。
 総帥府というのは、かつての政治制度で言えば首相官邸にでもあたるだろうか。日興連とCFCによる内戦の頃から軍を掌握していったシキが、クーデターを起こして政権をも取ったために今のようになった。そこで、私は総帥シキの第2秘書官を務めている。
 総帥シキは国政と軍政を共に掌握しているので、その執務は非常に広範囲にわたる。それを補佐するのは、第1秘書官であり軍の精鋭部隊の隊長をも務める私の上司アキラの仕事である。総帥の秘書というが、私はどちらかといえば『総帥を補佐するアキラの補佐』が仕事だ。
 しかし、私やアキラだけでは総帥の広範な執務の補佐には手が足りるはずもない。そのため他に秘書課という所属があり、執務の補佐のために数名の職員が置かれている。秘書課の職員は他部署からの報告などを取りまとめ、アキラに報告するのが主たる仕事だ。その報告を、アキラが総裁に上げるかどうか判断するのだ。

 アキラも私も秘書課の部屋とは別に総帥の執務室に程近い場所に部屋を与えられ、普段はそこに詰めている。けれども、組織図の上では私たちは秘書課所属ということになる。その秘書課の男性陣には、同じ所属ということで既にチョコレートは配ってある。
 これが、思いの外喜ばれた。
 もともと総帥府は軍と一体になった組織であり、女性が少ない。秘書課職員の予想以上の喜び様も、現在唯一の女性である私が着任する以前はバレンタインに縁がなかったためであるらしかった。

 残るは、上司であるアキラと総帥のみ。
 そして、総帥こそが最大の難関である。


***


 「…」
 かなりの時間、私は紙袋に入った小箱を睨んでいる。
 混雑するチョコレート売り場で、つい勢いで買ってしまった1箱分。アキラには初めから渡すつもりであったのだが、総帥の分は最後まで迷った後に予備を兼ねて買ったものだ。このまま持ち帰って自分で食べてしまった方が無難かもしれない。

 だって、総帥はバレンタインなんて気付きもしていないだろう。

 渡したとしても、義理チョコだろうと問答無用で受け取り拒否されるに違いない。もしかすると、渡した瞬間に斬りつけられるかもしれない。ついでに、総帥はアキラと只ならぬ関係にあるから、私がアキラにもチョコを渡したと知れれば委細関係なくそのまま斬殺されそうだ。
 万が一受け取ったとしても、捨てられるだろう。捨てなかったとしても食用に用いられるかは疑問だ。食べずに別の(いかがわしい)用途に用いられる可能性がある。――たかが義理でも、そのように用いられるのだけは絶対に嫌だった。
 だから、このまま素直に持ち帰ればいい。
 そすれば、何も問題は起こらな――、

 「何をしている」
 「!!?」

 不意に聞き覚えのある声がして、私は慌てて顔を上げる。見ればいつの間にか机の前に総帥シキが立っていて、こちらを見下ろしていた。
 「その様子では俺が入ってきたことにも気付いていなかったようだな。ノックもしたし入るぞと断ったはずだが。それでは、いつ寝首を掻かれても文句は言えんな」
 「申し訳ございません」私は椅子から立ち上がりつつ言う。「それで、何か御用があったのでは?」
 「いや…アキラはまだ戻らないか」
 ここに用があって来たというよりは、アキラに用があって来たらしい風情でシキは言う。
 この人は大概こんな風だ。口を開けばかなりの頻度でアキラの名前が出てくる。それも必要があってというよりは、周囲にアキラは自分のものだと宣言して見せ付ける意味合いが強いようだ。
 見せ付けるといえば、普段総帥は執務の際アキラを片時も離さず傍に置いている。けれども、今日アキラは軍の方の仕事で珍しく一人で外へ出ているのだ。
 「アキラ様はまだ戻られていませんが」
 「そうか」
 答えれば、拘る風もなくシキは軽く頷く。そのまま立ち去るのかと思われたのだが、そうはならなかった。どことなく面白がるような揶揄するような笑みを浮かべて、シキは視線をチョコレートの紙袋に落とす。

 あぁ、見つかってしまった――私は一瞬天を仰いだ。

 「それは何だ…先程、お前が面白い顔つきで睨んでいたが?」
 「面白い?そんな顔をしていましたか?」
 「あぁ、新兵なら震え上がりそうな目つきだったな」
 「ご冗談ばかり仰って。――これはチョコレートです。今日はバレンタインなので、」
 「アキラに渡すのか」
 「アキラ様にもお渡しします」言った途端、シキの眉が跳ね上がる。今のシキの眼光こそ、“新兵なら震え上がる”という形容にふさわしいものだが、私は恐れるよりは溜め息をつきたいような疲労感を覚えた。「先程秘書課の方々にも渡してきました。それから、」
 もうどうでもいいや、と自棄になって私は袋の中から黒い包装の小箱を取り出す。そして、それをシキに差し出した。

 「これは総帥に」

 すっと目を細めてシキは小箱を見たが、程なく私の手からそれを受け取った。その際に手袋を嵌めた彼の指先が一瞬だけ手に触れて離れていく。
 さんざん悲観しただけに、今の展開はあっけなさすぎて私は呆然とするしかない。
 「もらっておこう」 
 「あ、はい――つまらない、気持ち程度のものですが」
 「お前は面白いな。秘書に引き抜いた甲斐がある」
 シキは珍しく喉の奥で笑って言い、部屋を出て行った。
 後に残された私は、シキの言葉を思い返してそんなのは嘘だと思う。

 地方の軍で事務をしていた私が引き抜かれたのは、単に無害そうであったからに過ぎない。その当時、第2秘書になった男たちの多くはアキラに恋情を抱いて手出しし、尽く粛清されていった。そんなことが続けば事務処理上滞りが出るので、無害そうな上に女である私が選ばれたのだという話は、内部の人間の殆どが知っていることだ。
 それでも。
 たとえ私個人には総帥の秘書として選ばれる要素がなく、外部の事情で選ばれたのだとしても、いつかは総帥の役に立てるようになりたいと思う。決して総帥の一番の腹心であるアキラに成り代りたいのではない。彼が総帥と共にあった年月は私など及びもしないものだし、彼と総帥の関係に余人が割って入れるとも思えない。また、彼らの間に割って入ろうとすることの醜悪さ位は弁えている。
 だから、私は私のままでいる。
 そうして過ごせばいつかは慣れて、事ある毎に手の届かぬ高嶺の花を見上げて、こんな風に溜め息をつくことなどなくなるだろう。総帥とアキラの周辺に、ささやかに己の居場所を見つけることもできるかもしれない。

 そうしたらきっと、こんな余計な感情に囚われずに職務を遂行できるようになる。


***


 15分後、まるで総帥と入れ替わるようにアキラが出先から戻ってきた。
 「おかえりなさい」
 部屋に入ってきたアキラに声を掛ければ、彼は一瞬目を丸くする。それから、氷が溶けるように表情を和らげて微笑み、ただいまと言った。私はそんな様子を可愛らしいなと思う。けれども表には出さずに報告すべきことを報告し、最後に先程総帥が訪れたことを言い添えた。
 「そうか、分かった。今から総帥のところへ行って来る」
 「分かりました。あの、何かしておくことはありますか?なければ帰っても構いませんか?」
 「あぁ、構わない」
 言うが早いか、アキラはもう扉へ向かいかけている。総帥のこととなると、もとより行動の早いこの人は更に反応が早くなるのだ。私は慌ててその背に声を掛けた。
 「アキラ様、机の上にチョコレートを置いておきます。普段お世話になっているので」
 「??」アキラは扉に手を掛けて振り返ったまま、理解不能という表情をする。
 「今日はバレンタインですから」
 「総帥にも差し上げたのか?」
 返ってきたアキラの問いかけに、私は眩暈を感じる。見ればアキラは表情を曇らせてこちらを見ていた。
 全く、どうしてこの人たちは、二人して同じことを言うのだろうか…。
 「差し上げました。他には秘書課の方々にも。世間で言う義理チョコですから、普段仕事でお世話になっている方々に差し上げようと思いまして」
 「そうか。それで俺にも?」
 ありがとう、と言ってアキラは微笑む。バレンタインを巡る一連の出来事で疲れていたものの、その笑顔を見ればチョコレートを渡しておいて良かったかなという気になった。


***


 それから少しして、翌日の準備なども終えた私は部屋を後にした。

 廊下に出ると、ふとすぐ傍にある総帥の執務室に視線が行く。アキラは結局総帥の執務室に入ったきりで出てくる様子はない。私は頑丈なその扉を視界から追い出すように、踵を返した。
 今頃二人はバレンタインをネタにいちゃついているにちがいない。きっと、いや絶対にそうだ。あの二人の行動なんて、実はすごく読みやすいのだから。――などと、もし二人が真面目に仕事をしていたら非常に失礼になるであろうことを私は思う。


 高嶺の花とは、手に触れることのできないもののことを言うのだ。
 それに目を奪われてしまった私や彼らに憧れる人々にできることは、ただ馬鹿のように口をあけて花を仰ぎ見ることだけだ。

 そして、花は下界の者の心情など顧みることはない。





End.
配布元:『 ivory-syrup 』より
「君に与えうる悲劇の妄想」

付録
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