宿命めいて落ちて来る 1 ガキン。金属同士がぶつかり合い立てる耳障りな音と共に、剣を持つ手に衝撃を感じる。 この鍔迫り合いは“不正解”だった――そう悟る瞬間にも、合わせた刃に掛かる重みが増していく。 剣ごと押される重さに耐え切れず、こちらの体勢が崩れ始めた。 その間合いを測っていたかのように、相手は私の手の中から剣を弾き飛ばす。夕空に高く舞い上がる剣とは裏腹に、私は完全に体勢を崩して地に背中から転倒した。直後、弾かれた剣が地面に突き立つ音が聞こえた。 強かに背を地面に打ちつけて息を詰めながらも、素早く起き上がろうとする。と、すぅっと鼻先に刃が突きつけられた。私は視線で刃を辿り、それを手にする男を見上げる。血の気もないような白皙の美貌、その中で一際鮮やかな赤い瞳が正面から私の視線を受け止めた。 「…そのまま呼吸を整えろ」 言われて初めて、私は自分の呼吸がひどく乱れていることに気付く。そこで、男に頷いて見せてから、意識的に肩の辺りでしていた呼吸を腹へと持っていった。 しばらくして私の息が落ち着く頃を見計らい、男は刃を引く。私が今度こそ起き上がると、男は私の動作について幾つか指摘をした。 「お前の動きは頭が先行している。理屈を考えて俺の動きを先読みしても無駄だ。先読みよりも自分と相手の状況を把握することを優先しろ。――だが、以前よりは良くなった」 私は男の指摘の一つ一つに頷いたが、最後の評価にだけは首を横に振った。初めて剣を握ったときよりは余裕が持てるようになったものの、上達からは程遠いという気がするのだ。 『そうは思えない…教われば教わる程、自分の粗ばかり見えるから』声に出さずに心の中で呟いたが、 「学ぶこととは、そういうものなのだろう」男は私の内心の声に応じる。 『そうかもしれないけど…』 再び私は心の中で呟いた。声は出さないのではなく、出せないのだ。 以前交わした竜との<契約>の代価として声を失い、代わりに私は竜の力の一部を得ることになった。また、声を失くしても<契約>によって魂が融合した(らしい)竜とは、思考だけで意思を通じさせることができるようにもなっている。男が私の声なき声を聞くのは、彼が竜の化身した姿であるからなのだ。 私が弾き飛ばされた自分の剣を拾い、構えようとしたところで男が制止した。 「今日はこのくらいでいい。日が暮れる前に夜営地に戻るぞ」 『シキ、もう一度だけ。次は教えられたところを改善するから、』 「終わりだ。――俺との<契約>で常人より強い身体になったはずだというのに、お前はすぐに疲労する。今日はもう限界だ。まったく、ヒトとは厄介なものだな…」 竜の化身である男――シキはさも煩わしげに溜め息をつく。その言葉に、私は肩を竦めた。 <契約>で竜の力の一部を与えられれば、睡眠も休息も極端に身体が欲しなくなる。だが、私は身体が求めなくとも騎士団の遠征の合間に暇を見つけては、睡眠や休息を摂っていた。別に竜のように強い身体など、欲しくなかったのだ。睡眠も休息も必要はなくとも習慣であるため、私の身体は時が来れば勝手にそれらを要求するようになっていた。シキが呆れたのは、そのことについてである。 「不満か?だが、いくら魔物討伐の帰りとはいえ、ここで<竜騎士>のお前が倒れては不味いのだろう」 確かにそれは宜しくない気がするので、私はシキの言葉に頷いた。 別に剣術で上達することを望むわけではなかった。剣も剣術も、自分の身や他の何かを守るための手段でしかなく、必要以上に力を求める気はない。それでも抗ったのは、<契約>してもなお常人という概念にしがみ付く一方で、シキに気遣われることがただ悔しかっただけのことだ。 そう、強さは――私が生きて大切なものを守り切れる程度でよかったのだ。 剣を鞘に戻しながら、私は<契約>のときのことを思い出していた。 *** それは1年程前のことである。 そのとき、私はまだ小さな村に住み、薬師をしていた。両親は既に亡くなり、弟妹は王都へと出て行き、私だけが生まれた村から出ないまま家業を継いだ形だった。 あるとき、国境を侵して遠征してきた隣の敵国の兵によって、村が襲撃された。兵士たちは田畑を踏み荒らし、家を焼いて村人を殺していく。若い娘だけが捕らえられ、兵士の一団に同行していた人買いに引き渡された。そのとき、私も村の他の娘と共に、荷台に鉄の檻を取り付けた馬車に押し込められた。 敵兵たちの遠征は、私の村で終わりではないようだった。兵士たちは更に幾つかの村や街を襲撃し、その度に略奪品と若い娘が馬車に積み込まれていった。 けれど、囚われの身ではあっても、このときまだ私には余裕があった。人買いたちは、娘に手を出して“商品価値”を下げるような真似はしなかったし、同行の兵士たちにもさせなかったのである。いずれは売られる立場でも隣国に着くまでは猶予があると高を括って、私は娘たちとお喋りをしたり、薬の新しい調合方法について考えたりして気を紛らわそうとした。 けれど、私はすぐに自分が甘かったことを思い知らされることになる。 切欠は、そう、ひどく下らないことだった。 *** 私が囚われてから3日後、隣国の兵士たちは国境間近の街を襲撃した。今回の遠征の目玉となるらしい比較的大きな街を襲撃し、そこにある神殿を打ち壊したことで兵士たちの高揚は頂点に達する。そこで、兵士たちと人買いの間に諍いが起きたのだ。 高揚した気分のままに、一部の兵士たちは捕らえた娘を自分たちにも与えるように要求し、人買いたちはそれに抗った。人買いたちも武装はしていたものの、多勢に無勢である。結局、脅しに屈する形で、人買いは捕らえた娘の一部を兵士たちに与えることを約束した。 幾台かあるうち、私の乗せられた馬車の檻が開かれる。そのときの金属の軋む音を、私は絶望しながら聞いた。 「さっさと来い」 待ちかねた兵士たちが檻の中まで腕を伸ばし、娘たちを引き出していく。娘たちの中には、抵抗する者もいれば諦めや怯えから従う者もいたが、どちらにしろ兵士たちの暴力や辱めの言葉が待っていた。 やがて順番が来て、私も檻から引き出された。外へ出た直後に歩くのが遅いと言って腕を引く兵士に殴られたところで、私の気力は失われていった。逃げ出しても逃げ切れないことは目に見えているのなら、無駄な痛みは避けたいと思ったのだ。 せめて全てが過ぎ去るまで、意識を現実から切り離して別のことを考えられたらと願ったが、そんな器用な真似はできるはずもない。忘れようとする度意識は辛い現実に立ち戻り、悲しさと虚しさばかり込み上げてくる。 (このままここで慰み者になる?そして殺される?きっと生命が助かったとしても、以前の暮らしには戻れない) いったい、何の咎でこんな理不尽な目に遭うというのだろう。 何の咎でもない。私も他の娘たち殺された村人たちも、ただ兵士たちと敵対する国の民であるというだけで、殺され、奪われ、犯される。 ――それに甘んずるか…それを許すのか。 (そんなことを、ただ受け入れるしかないの?) 絶望に萎える心の片隅に、ちろりと小さな怒りの種火が宿る。怒ったところで状況は変わらず、むしろ絶望が深くなるだけとは知りながらも、私はその種火を消すことを躊躇った。 ――許せるはずもない。 (殺されたくないし、奪われたくないし、犯されたくない…) ――甘んじられるはずもない。 (ただ今までのように普通に暮らしていたいだけなのに) まるで私の中に他者がいて怒りを煽っているかのように、どんどん怒りが引き出されている。 ――“お前は”許せるのか。 ふと頭の中に問いが浮かび上がる。 それは自分が発したもののようにも、他者が投げかけたものようにも感じられた。 (いいえ。こんな奴らに、) ――このような“下賤な輩”の好きにはさせない。 言葉が声として私の頭の中に響く。最早私の意識ではなく、私の中に滑り込んできた他者の思考だということが明白だった。けれども、他者の思考ではあってもそれはこのときの私の気分とぴったり一致しているのだった。 唐突に、私は自分の置かれた状況を思い出した。 罵声や怒声、悲鳴などが一気に耳に流れ込んでくる。まるで篝火のように丘のふもとの家々を焼く炎が夜闇を照らす中、群れ集まる兵士たちが何ごとかを囃し立てる様が見える。腕を引かれて、私は兵士たちの集団の中に連れて行かれようとしていた。 緊張と恐怖と絶望がいつの間にか胸の内で嵩を増しており、それらが堰を切れば恐慌を起こしてしまいそうだ。泣き喚きたいのを堪えて、私は深く息を吸う。このまま諦めるものかと反発心が頭をもたげているが、だからといって他に出来ることはなかった。 だが、深く息を吸い終わる瞬間、声が聞こえた気がした。――今だ、と。 (行かなければ…!) 不意に込み上げた衝動のままに、私は腕を拘束する兵士の手を振り払う。上手く隙を衝くことが出来たようで、あっさりと兵士の手が外れる。中途半端に伸ばされたその腕の下を掻い潜って、私は走った。 その時点で、私には2つの選択肢があった。今いる神殿の立つ丘を離れ、炎上する街の方へ逃れるか、背後の森へ逃れるか。たとえその方向に救援を警戒する兵士たちが多くいるにしても、森へと逃げ込むべきだった。 だが、走りながら周囲を見回したとき、不意に見えない糸に引かれるような感覚があって、私は思わず足を止めそうになる。次の瞬間、背中を上から下へと熱と痛みが走った。躊躇ったところを、追いついた兵士に斬りつけられたのだ。 「っ…」 痛みと衝撃とで、その場に崩れ落ちそうなのを何とか堪える。自分の死を目の前に理解したとき、また強く見えない糸で引かれるような感覚を覚えた。 どうせ死ぬのならば、この感覚の正体を知りたい。強くそう思って、私は見えない糸のような感覚を辿って、追ってきた兵士たちの脇をふらつきながらも走り抜ける。糸の先は森でも街でもなく、神殿に繋がっているのだ。 兵士たちは、逃げるどころか兵士たちの占拠している神殿へと走る私を見て、錯乱したと判断したようだった。誰も本気で私を捕らえようとはせず、戯れに腕を伸ばし、斬りつけ、矢を射掛けてくる。まるで肉食獣が獲物を弄ぶかのように、彼らは逃げた私を追いつめることを楽しんでいるのだ。 身体を掠めていく剣や矢に傷つけられながら、私は殆ど弄ばれることに対する怒りだけを糧に走り続けた。 *** 兵士たちが打ち壊した壁から、私は神殿へと入った。 外で無作為に略奪の限りを尽くしている集団と、神殿の中にいる兵士たちは目に見えて質が違っていた。前者がただ徴兵されてきただけの烏合の衆ならば、後者は訓練された正規の兵といったところだろうか。神殿の中の兵士たちは未だ警戒を解いておらず、入り込んできた私の姿を見ると獲物ではなく敵と認識して、容赦の無い攻撃を仕掛けてきた。 だが、明らかに命中するはずの攻撃は、奇妙なことにギリギリのところで私の身体を掠め去っていく。まるで私を引き寄せる見えない糸のような磁力が、刃を僅かながらも逸らしているかのようだ。 兵士たちから隠れ、出くわせば逃げながら、私はふらふらと神殿の奥へ進んだ。身体に負った無数の傷から血が失われ、次第に体力が奪われていく。行かなければという義務感だけで先に進んで神殿の最奥に達したとき、ふっと私を引き寄せる力が消えた。 「――どう…し…て…?」 朦朧とする意識の中でも、ここまで来た根拠を失ったことで不安を覚え、私は迷子の子どものように周囲を見回す。そのとき、 『――ここだ』 はっきりと頭の中に低い声が響く。 唐突に、私は自分が神殿の神体を祀る祭壇の間に立っていたことに気付いた。 祭壇の間では兵士たちが集まり、そこにある神体の像に鎖を掛け、鋲を穿ち、木槌などの道具で打ち壊そうとしているところだった。兵士たちは初め私に気付かなかったが、一人が私の姿を認めて声を上げると、一斉に神像の破壊を中断して武器を構える。 逃げなければ殺されるとは知りながら、私はその場を動かなかった。動くほどの気力も体力も最早残っていないし、敵の真ん中にいる私にこの上逃げ場などないと分かっていた。 と、兵士たちが私に向かってこようとした瞬間、辺りに咆哮が響く。そこで兵士たちはギクリとして動きを止め、慌てて周囲を見回した。だが、私は咆哮を放った存在を探すことはしなかった。なぜなら見た気がしたからだ――神体である竜の像が、頭を擡げて咆哮する様を。 だが、じっと見つめても竜はやはり像でしかない。その体躯の壮大さはそのままに、鱗の一つ一つまで緻密に黒曜石に刻まれた竜は、最初と同じで目を閉じ伏した姿勢のまま祭壇の上に存在している。 奇妙な沈黙が落ちる中、私は身体を引きずりながら竜の像へ向かって歩いた。世界を生んだ女神の御使いとされる竜の姿を写し取ったにすぎないのに、どこか崇高さを感じさせる様に惹かれたのだ。 祭壇の周囲の兵士たちは、私の行動に戸惑うかのようにこちらを見守っている。 『虚空に放った我が声なき声を聞く者は、これだけ多くの人間がいてこんな小娘一人きりとはな』 不意にあの低い声がどこからともなく祭壇の間に響き、兵士たちは俄かに騒然となる。けれど、私は驚く気力も残っておらず、ぼんやりと前を見ていた。すると、ぴしりと音を立てて竜の像の表面に罅が入っていくのが分かった。 ぱりん。小さな音と共に像の表面の黒曜石が剥がれる。 そして、単なる石像であるはずの竜が瞼を上げ、その下から血のように赤い瞳がのぞいた。 『娘、お前は死ぬ』 竜は例のどこから発したとも分からない声で告げる。それはまるで太陽は東から昇るというような普遍の真理を口にするような調子であったので、私も普遍の真理に同意するようにはっきりと頷いた。 『自らの死を悟っているようだな。だが、抗いもせずこのまま死を受け入れる気か?それ程諦めが良くないから、我が声と同調したのだろう?』 「でも、他に…どうしようも、ない…から…」 最早乱れた呼吸を整えることが出来なかったし、大きな声も上げられなかった。私の言葉はひどく掠れて小さく、まだ幾らか距離のある竜に届いたかどうかも分からない。 それでも、竜は応じた。 『お前が望むなら、抗う手段を与えてやろう。――<契約>か、死か、選ぶが良い』 <契約>――ヒトが人外の存在に代償を支払い、人を超えた様々な力を得るための行為である。が、現実にそれをした人間は周囲にいなかったし、噂で耳にしたとしても法螺話が精々だった。そんな現実感のない行為を持ちかけられて、私は戸惑った。御伽噺で、或いは法螺話で、妖精や魔物と<契約>した人間はどうなったか。たしか、自分の一部を代償にして力を得て、結局、その力のために身を滅ぼしたのではなかったか…。 懸命に思い出そうとしていると、竜が再び頭を上げて咆哮する。思わず身を竦ませた私だが、すぐに竜が動こうとした兵士を牽制したのだと思い至った。 竜が身動きした拍子に体表を覆う黒曜石が、バラバラと剥がれ落ちていた。その下にある竜の本物の身体も黒曜石のような黒で、鱗が祭壇の間に焚かれた篝火を反射して光っている。本物の竜だ、と私は今更真っ白になった頭の片隅で思った。 『時間はないぞ。お前はもうじき死に至る』 黒竜は言うが、私は何とも返事ができなかった。私は<契約>して人外の力が欲しいわけではないのだ。それに、死を前にして変な話だが、御伽噺のように自分の一部を代償として奪われるのが怖かった。 だが、黙っているわけにもいかず、私は自分が確実に望んでいることを口にした。 「まだ…死にたく、ない…怖い…」 『生かしてやろう――<契約>を選ぶなら』 竜の言葉を聞きながら、私は自分の血が小さく血溜まりになった床の上に崩れるように座り込んだ。最早身体を支えることは出来なかった。目を開けていることも難しく、必死で瞼を上げていても視界が霞んでいるような気がする。 このまま目を閉じ、眠るように緩やかに死に身を任せたかった。 『死に逃げるのか?』 逃げるという言葉に、不意に反発を覚えて私は首を横に振った。こんな場所での失血死が、逃げた――つまり、私が選んだこととされるのは心外だ。だから。 「――けい、や…く…を、」 『いいだろう』 告げた瞬間、祭壇の上の黒竜が動いた。 翼を大きく広げて身体を縛る鎖を払い除けたかと思うと、ゆっくりと歩き始める。壁に固定された鎖の先端にある鋲がその動きで抜け落ち、痕から血が噴き出した。 兵士たちは石像が動き出したことで恐慌を来たし、その半数が逃げ出していった。残った者もまた、黒竜を恐れて距離を置いている。 そんな中、黒竜は悠然と私の前まで歩いてきて、頭を近づけた。 『娘、お前の名は』 「…」 『。お前が我が名を呼べば、<契約>は成立する。我が名は…』 竜の頭に顔を寄せて、私は殆ど吐息のような声で教えられた名を囁く。 「シキ」 それが、私が声に出した最後の言葉になった。 目次 |